第三章 祈り

サンダー・シング

金井為一郎 訳

一節

弟子――しばしばこのような質問を受けます、「神は私たちの必要を十分にご存じであり、善人だけでなく悪人に対しても、最善の方法で満たす方法をご存じです。では、どうして私たちはそれらについて神に祈らなければならないのでしょう?私たちの必要が物質的なものであれ霊的なものであれ、私たちは祈りによって神の御心を変えることができるのでしょうか?」と。

主―― 一、そのような質問をする人は、祈りとは何かを理解していないことを明らかに示している。彼らは祈りに満ちた生活を送ったことがないのである。そうでなければ、祈りは神に乞い求める形式のみのものではないことを知っていたであろう。祈りとは、この世での生活に必要なものを神から得るための取り組みではない。祈りとは、命の創造主である神ご自身を握るための取り組みである。そして、命の源である神を見いだし、神との交わりの中に入るとき、命全体が私たちのものとなり、神によって命の構成要素がすべて完成される。悪を行う者たちに対して、神は彼らへの愛のゆえに、この世での生活に必要なものをお与えになるが、霊的必要を神は彼らに示すことすらされない、彼らには霊の命がないからである。

神がそのような霊的祝福を彼らに与えたとしても、彼らにはそれを理解することができないであろう。しかし、信じる人々には両方の賜物、特に霊的祝福が与えられる。その結果、彼らはすぐに物質的な祝福をほとんど気にかけなくなり、目に見えない霊的なものに愛を注ぐようになる。私たちは神の御心を変えることはできないが、祈る者は、自分に関する神の御心を見いだすことができる。なぜなら、このような人々に対して、神は心の隠れた部屋の中でご自身を現し、彼らと交わりを持たれるからである。そして、その恵み深い御旨は彼らの益のためであることが示されるとき、彼らが不平を鳴らしていたところの疑いや困難は永遠に消え去るのである。

二、祈りとは、いわば聖霊を吸い込むことであり、神は祈る者の命に聖霊を注ぎ込まれるので、彼らは「生ける魂」となる(創世記二・七、ヨハネ二〇・二二)。彼らは決して死ぬことはない。というのも、聖霊が祈りを通して彼らの霊的な肺にご自身を注ぎ込み、彼らの霊を健康と活力と永遠の命で満たすからである。

愛である神は、すべての人に霊的命と物質的命の両方に必要なものを無代価で与えておられる。しかし、神は救いと聖霊をすべての人に無代価で与えておられるがゆえに、それらは軽んじられている。しかし、祈りはそれらを大切にするよう私たちに教えてくれる。なぜなら、それらは空気や水、熱や光と同じように、命に不可欠なものだからである。それらがなければ命は成り立たない。霊の命のために必要なものを神は無代価で備えてくださっているが、人々はそれをあまりにも軽んじており、創造主に感謝を捧げることもない。しかし一方で、金、銀、宝石といった、稀少で手に入れるのが困難な神の賜物は高く評価する。だが、そのようなものでは、肉体の飢えや渇きは癒されず、心の渇望も満たされない。このように、世の人々は霊的な事柄に関して愚かに振る舞うが、祈る人には真の知恵と永遠の命が与えられる。

三、この世は広大な海のようなもので、人はその中に沈んで溺れてしまうが、海の生き物は深海で生きている。なぜなら、彼らは時おり水面に浮かび上がって口を開き、ある程度の空気を取り込み、それによって深海の中でも生きることができるからである。同じように、この人生という大海の水面に、ひそかな祈りによって浮かび上がる者は、命を与える神の霊を吸い込み、この世にあっても命と安全を見いだすのである。

四、魚は一生を海の塩水の中で過ごすが、塩辛くなることはない。なぜなら、彼らの中に命があるからである。同じように、祈る人は、罪に汚れたこの世に生きなければならないが、祈りによってその命が保たれているので、罪の汚れから自由でいられるのである。

五、海の塩水が太陽の熱い光によって引き上げられ、次第に雲の形を取り、甘く爽やかな水となって、地上に雨として降り注ぐように(というのも、海水は上昇する際に塩分と苦味を後に残していくからである)、祈る人の思いや願いが魂から発せられた霧のように上昇するとき、義の太陽の光がそれらをいっさいの罪の汚れから清め、その祈りは大きな雲となって天から祝福の雨として降り注ぎ、地上の多くの人々を潤すのである。

六、水鳥が水の中で一生を泳いで過ごしていても、飛ぶときはその羽が完全に乾いているように、祈る人々もこの世に住まいがあるが、いざ天に飛び立つ時が来ると、罪に汚れたこの世を離れ、しみも汚れもなく永遠の安息のホームに至るのである。

七、船のあるべき場所は当然ながら水中である。だが、水が船の中に流れ込むことは不適切であり危険である。同じように、人がこの世に住まいを持つことは、自分自身にとっても他者にとっても正しく良いことである。なぜなら、自らを浮かばせておくことで、他の人々が自分と共に命の港に辿り着けるよう助けることができるからである。しかし、この世がその人の心の中に侵入することは死と滅びを意味する。それゆえ、祈る人は常にその心を神のために保つ――神が心を造られたのはそれをご自身の宮とするためである。そしてこの世においても、来たるべき世においても、祈る人は平安と安全のうちに安息するのである。

八、水なしには生きられないことは、だれでも知っている。だが、水の下に沈めば、窒息して死んでしまう。水を利用し、飲むことは必要だが、その中に落ちて沈んではならない。それゆえ、この世とこの世のものは慎重に用いなければならない。なぜなら、それらなしには生きることが困難であるばかりか、不可能だからである。まさにこの目的のために神はこの世を創造し、人がそれを利用できるようにされたのである。しかし、人はそれに溺れてはならない。溺れるなら、祈りの息は止まり、人は滅びるからである。

九、祈りの生活をやめることによって霊の命が衰え始めると、本来有益であるはずのこの世のものは、かえって有害で破壊的なものとなる。太陽はその光と熱によって、あらゆる植物を生かし、繁らせるが、それらを枯らし、死に至らせもする。空気もまた、すべての生き物に命と活力を与えるが、それ自体が腐敗の原因ともなる。ゆえに、「目を覚まして祈れ」。

十、私たちはこの世にあっても、この世のものではない者として生きるべきである。そうすれば、この世のものは有害なものではなく、むしろ有益なものとなり、霊の命の成長を助けるものとなる。ただし、それは霊が常に義の太陽に顔を向けているという条件のもとにおいてである。このようにして、ときに汚れた不潔な土地でも、花が芽を出し、咲き誇り、その花の甘い香りがその場所の悪臭を打ち消すことがある。植物は太陽に向かって、そこから光と熱を受け取る。そして汚物は植物に害を与えるどころか、むしろ肥やしとなって成長と繁茂を助ける。同じように、祈る人は祈りつつその心をわたしに向け、わたしから光と温もりを受け取る。そしてこの悪しき世の悪臭のただ中にあっても、その新鮮で聖なる命の甘い香りはわたしの栄光を表す。そして、その人の中には甘い香りだけでなく、永遠に残る実も生み出されるのである。

二節

一、祈るということは、祈らなければ神は何も与えてくださらないとか、私たちの必要をご存じないということを意味するものではない。祈りには大きな利点がある。それは、祈りの姿勢においてこそ、魂は祝福の与え主と、この御方が授けたいと願っておられる祝福とを最もよく受け取れるようになるということである。そのため、使徒たちの上に聖霊の満ち溢れが注がれたのは、最初の日ではなく、十日間の特別な準備の後のことだったのである。

もしある人が特別な備えなく祝福を受けたなら、その人はその祝福を十分に尊重することも、長く保つこともないだろう。たとえば、サウルは聖霊と王位を求めずに得たため、すぐに両方とも失ってしまった。というのも、彼が家を出たのは聖霊を求めるためではなく、失くした雌ろばを探すためだったからである(サムエル上九・三、十・十一、五・十三~十四、三一・四)。

二、祈る人だけが、霊と真理の中で神を礼拝することができる。その他の者は、まるでおじぎ草のようである。礼拝中は、聖霊の教えと臨在に感化されて、まるで縮こまるように頭を垂れ、真剣な面持ちになる。しかし教会を出るやいなや、たちまち元気を取り戻し、以前と同じように振る舞い続ける。

三、良い実や花をつける木や低木でも、手入れしなければ、やがて衰え、野生の状態に戻ってしまう。同じように、信者も、祈りと霊の命を無視し、わたしのうちにとどまることをやめるなら、その不注意さのゆえに祝福された状態から落ち、再び昔の罪深い生き方に沈んで失われることになる。

四、池や湖のほとりにじっと佇んでいる鶴を見ると、その姿から神の栄光や水質の素晴らしさについて思いを馳せているのだろうと想像するかもしれない。しかし、決してそうではない。何時間も動かずにそこに佇んでいるが、カエルや小魚を見つけると、たちまち飛びかかり、飲み込んでしまう。祈りや宗教的瞑想に対する多くの人々の姿勢ややり方も、まさにこれと同じである。神という無限の大海の岸辺に座しながら、彼らはその威光や愛、罪を清め飢えた魂を満たす神の神聖な御性質について考えない。むしろ、自分が特に望んでいるものを手に入れようと夢中になっている、それによってこの儚い世の喜びにもっと耽るためである。こうして彼らは真の平安の泉に背を向け、この世の過ぎゆく喜びに浸りつつ、それらと共に死んで消え去っていくのである。

五、水と石油はどちらも地から出るものであり、似ていて同じもののようにすら思われるかもしれないが、その性質と目的においては正反対である。というのも、一方は火を消し、他方は火を燃え上がらせるからである。同じように、この世とその宝、そして心とその神への渇望も、神の創造されたものである。しかし、心をこの世の富、驕り、誉れによって満たそうとする試みは、石油で火を消そうとするのと同じ結果になる。心は神のうちにしか安らぎと満足を見いだせない。神が心とその内にある渇望とを創造されたのである(詩篇四二・一、二)。それゆえ、今わたしのもとに来る者に、わたしは生ける水を与える。その人はもはや決して渇くことがなく、その水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出るのである(ヨハネ四・十四)。

六、人はこの世とこの世のものの中に平安を見いだそうとするが、それはむなしい。というのは、経験がはっきりと示しているように、真の平安と満足はそこにはないからである。それはある少年のようである。その少年は玉ねぎを見つけて、中に何かがあるのではないかと期待して皮を一枚ずつむいていった。箱のふたを開けると中に何かが入っているのが見つかるのと同じだ、と期待したのである。しかし、その期待は全く無駄だった。というのは、皮しか見つからなかったからである。玉ねぎは皮の集まりにすぎないからである。この世とそれに属するすべてのものもまた「空の空である」(伝道の書十二・八)ことが証明されている。人が真の平安の泉を見いだすまで(イザヤ五五・一、エレミヤ二・十三、黙示録二二・十七)、それは変わらないのである。

七、この世は蜃気楼のようなものであり、真理を求める者は渇いた魂を満たす何かを見つけようと探し始めるが、出会うのは失望と絶望だけである。命の水は人工の水槽やひび割れた水がめの中には見つからない。しかし、純粋な心で祈りのうちにわたしに近づく者は、生ける水の源であるわたしから満足と活力と永遠の命を得ることができる(イザヤ五五・一、エレミヤ二・十三、黙示録二二・十七)。

八、ある女が山道を旅しており、腕に子供を抱いていた。ところが、その子供は美しい花を見つけると、母親の腕から飛び出してしまい、山の斜面をまっさかさまに落ち、岩に頭を打ちつけてその場で死んでしまった。今や次のことは明白である、すなわち、その子供の安全と養いは母親の胸の中にこそあったのであり、死の原因となったあの魅力的な花々の中にはなかったのである。祈りの生活を送らない信者も同じ轍を踏む。この世の儚くも魅力的な快楽を目にすると、母親の愛と顧みよりもはるかに大きいわたしの愛と顧みを忘れ、わたしが与える霊の乳を無視し、わたしの腕から飛び出して、失われてしまうのである。

九、母親が与える栄養は、幼子がある程度の努力をしなければ得られない仕組みになっている。同じように、わたしのふところに抱かれているわたしの子供たちも、求めなければ、魂を救うことのできる霊の乳を得られない。そして、子供が教えられなくても本能的に自分の食物はどこでどのように得られるのかを知っているように、御霊から生まれた者たちもまた、この世の哲学や知恵によってではなく、霊的な本能によって、どのように祈り、霊の母であるわたしから永遠の命の乳を受け取るのかを知っているのである。

十、わたしは人の性質の中に、飢えと渇きを吹き込んだ。それは、人が軽率にも自分を神と見なすことなく、日々自分の必要を思い起こし、自らの命が自分を創造した何者かの命と存在に結びついていることを思い出すためである。こうして自分の欠点と必要を自覚させられることで、人はわたしのうちにとどまり、わたしもまたその人のうちにとどまる。そのとき、人はわたしのうちに永遠に幸いと喜びを見いだすのである。

三節

一、祈ることは、いわばわたしと言葉を交わすことであり、それゆえ、わたしと交わり、わたしのうちにとどまることによって、わたしに似た者になることである。ある種の昆虫は草や緑の葉を食べ、それらの中で生きることで、それらと似た色になる。また、白い雪の中に住む北極グマも、同じ雪のような白さを持ち、ベンガル虎も、その住まいである葦の模様を皮膚に帯びている。これと同じように、祈りによってわたしと交わる者たちは、聖徒や天使たちと共にわたしの性質にあずかり、わたしのかたちに形造られて、わたしに似た者となる。

二、わたしがしばしの間だけペテロ、ヤコブ、ヨハネを山の上でわたしとの交わりに入れたとき、わたしは彼らにわたしの栄光の一端を示した。そしてすべての聖徒の中から、モーセとエリヤの二人だけが彼らの前に現れた。彼らは垣間見た天の栄光に魅了されて、そこに三つの幕屋を建てて住みたいと願った(マタイ十七・一~五)。それならば、わたしのうちにとどまり、無数の聖徒や天使と共に、かねてより望んでいた天に入り、失われることも変わることもないわたしの完全な栄光をわたしと共に分かち合う者たちの幸いは、なんと素晴らしいことだろう(ヨハネ十七・二四、ヤコブ一・十七)。祈る人は決して独りではなく、永遠にわたしとわたしの聖なる者たちと共にとどまるのである(マタイ二八・二〇、ゼカリヤ三・七~八)。

三、野の獣、稲妻、風、光、その他の自然の力を制御し利用することは大したことではない。しかし、この世とサタンと自己、そしてあらゆる情欲を制御することは、真にきわめて重大かつ必要なことである。祈りの生活を送る者たちにのみ、わたしは敵のあらゆる力に打ち勝つ力を与える(ルカ十・十七、二〇)。そのため、彼らはこの世に生きていながらも、わたしと共に天上にとどまる(エペソ二・六)。そして、サタンは下にいて、彼らは上にいるので、サタンは決して彼らに近づけない。彼らは永遠にわたしと共に安全にとどまり、恐れに震えることもない。

人は今や自然の力を制御できるようになったが、大気圏を越えて旅することはできない。一方、祈る人は、サタンと自己とを克服して、永遠の天を思うままに巡ることができる。

四、蜂が花の甘い蜜を集め、それを蜂蜜に変えるとき、その色や香りを損なわないように、祈る人もまた、神のすべての被造物から幸福と益を集めるとき、それになんの害も加えない。蜂がまた、さまざまな所にある花から蜜を集め、それを巣に蓄えるように、神の人もまた、被造物のあらゆる部分から甘美な思想や感情を集め、創造主との交わりの中で自分の心に真理の蜜を蓄え、いつでもどこでも神との永続的な平和のうちに、神のその甘い蜜を喜びをもって味わう。

五、今は五人の賢い処女のように、心の器に聖霊の油を得て蓄えるべき時である(マタイ二五・一~十三)。さもなければ、五人の愚かな処女のように悲しみと絶望しか残らないだろう。今はまた、真の安息日のためにマナを集めなければならない。さもなければ、悲しみと禍しか残らないであろう(出エジプト十六・十五、二七)。「だから、あなたたちの逃げるのが冬や安息日にならないよう祈れ」。「冬」とは大いなる悩みの日、あるいは終の日(復数)のことであり、「安息日」とは永遠の安息の千年の統治である。なぜなら、その様な機会は二度と来ないからである(マタイ二四・二〇)。

気候が植物や花の形、色、成長の傾向に変化をもたらすように、わたしとの交わりを保つ者もまた、その霊的本質において傾向、外見、性質の変化を経験する。そして、古い人を脱ぎ捨て、わたしの栄光に満ちた朽ちることのない姿へと変えられる。

わたしは指で地面に、姦淫の罪で捕らえられた女性を連れてきた者たちの罪深い状態を書いた。彼らは自身の内なる悪を顧みずに彼女を断罪しようとしたが、恥じ入り、うろたえて、一人また一人と立ち去った。また、わたしの指でわたしは密かに僕たちに罪の傷を指し示し、彼らが悔い改めるならば、同じ指で触れて彼らを癒す。そして、子供が父の指を握り、その助けによって共に歩むように、わたしはわたしの指で子供たちをこの世から安息と永遠の平安の家へと導く(ヨハネ十四・二、三)。

七、人はしばしばわたしの名によって父に祈るが、わたしの中に住まない。つまり、彼らはわたしの名を口にし、唇に乗せても、心と生活には取り入れない。そのため、彼らの祈りは叶えられないのだ。しかし、わたしが彼らの中に住み、彼らが私の中に住んでいるならば、彼らが父に願うことは何でも受ける。なぜなら、その状態のとき彼らは聖霊の導きの下で祈るからである。聖霊は、何が父の栄光を表し、何が彼ら自身と他者にとって最善であるかを示される。そうでなければ、彼らは、悪い息子が、勇気と名誉をもって仕えた父の名を使ってある総督に願い出た際に受けたのと同じ答えを得ることになるだろう。その息子が父の名を掲げて職や恩典を求めたとき、総督は彼の悪い生き方と習慣を指摘し、こう言った。「父の名を使って私に願い出るのではなく、まず父の模範に倣って行動せよ。その偉大な功績をただ口にするだけでなく、生活の中で実践するのだ。そうすれば、お前の願いは受け入れられるだろう」。

八、わたしを口先だけで礼拝し讃美する者の祈りと、心から礼拝し讃美する者の祈りには、大きな違いがある。例えば、ある真の礼拝者は、他者の目が開かれ、真理を受け入れるようにと絶えず祈っていた。一方、名ばかりの礼拝者は、真の礼拝者に対する敵意から、その者が盲目となるようにと祈っていた。最終的に、愛に満ちた神の御心によって真の礼拝者の祈りが聞き入れられ、かつて偽善者であった者は霊的な視力を得た。そして、喜びに満たされた彼は真の信者となり、わたしの真の僕の誠実で永続的な兄弟となった。

九、祈りは、人が他の方法では不可能と考えることを可能にする。そして人は、世の知恵の法則や意見に反するだけでなく、完全に不可能とされるような素晴らしいことを人生で経験する。科学者たちは、万物を秩序づけ、それに法則を定めた方は、自らの法則の檻の中に閉じ込められてはいないということを認識していない。偉大なる立法者の道は計り知れず、その永遠のみこころと御旨は全被造物の祝福と繁栄である。しかし、天然の人がこの事実を理解できないのは、霊的な事柄は霊的に識別されるものだからである(一コリント二・十四)。

あらゆる奇蹟の中で最も偉大なものは人の新生である。そして、この奇蹟を経験した人には他のすべてのことも可能となる。非常に寒い国々では、氷の橋がよく見られる。なぜなら、川の表面が硬く凍結していても、下の水は自由に流れ続けているからだ。そして、人々はその氷の橋を容易かつ安全に渡ることができる。しかし、もし熱帯の暑さの中で常に汗をかいている人々に、流れる川にかかる氷の橋の話をするなら、彼らはすぐにそれを不可能であり、自然の法則に反すると言うだろう。同じように、新しく生まれて、祈りによって霊の命を維持している者と、この世的な生き方をし、物質的なものだけを価値あるものと考え、魂の命について全く無知な者との間には、大きな違いがある。

十、祈りによって神から霊の命の祝福を得たいと願う者は、疑うことなく信じ、従わなければならない。片手の萎えている男がわたしのもとに来たとき、わたしは彼に手を伸ばすよう命じた。彼は即座に従い、その手はもう一方の手と同じように健やかになった(マタイ十二・十~十三)。しかし、もし彼が即座に従う代わりに議論を始め、「どうやって手を伸ばせというのか? もしそれができるなら、そもそもあなたのもとへ来る必要などなかったではないか。まず私の手を癒してくれ、そうすれば手を伸ばせるようになるだろう」と言ったとしたらどうだろう。こうした言葉は大いに理にかなっているように思われるかもしれないが、彼の手は決して癒されなかっただろう。

祈る人は信じ、従順でなければならない、そして弱く萎えた手を祈りの中でわたしへと伸ばさなければならない。そうすれば、わたしは彼に霊の命を与える者となり、そして彼の必要に応じてそれが与えられるのである(マタイ二一・二二)。