一節
弟子――主よ、奉仕の真の意味とは何でしょうか?まず創造主に仕え、その後創造主のために被造物に仕えることでしょうか。結局のところただの虫けらにすぎない人間の助けは、神にとってご自身の大いなる家族を顧みるうえで何か価値があるのでしょうか?それとも、神はご自身の被造物を守り保つために、人間の助けを必要とされるのでしょうか?
主―― 一、奉仕とは霊の命の活動であり、愛によって促される自然なささげものである。愛である神は常にご自身の被造物を顧みる働きをしておられる。そして、神の願いは、被造物、特にご自身のかたちと似姿に造られた人が、決して怠惰にならないことである。神は被造物を顧み、保つにあたって、だれの助けも必要とされない。なぜなら、神はそれらをご自身の助けなしには存続できないように創造されたからであり、また、神は彼らの欲求を満たすために必要なものをすべて供給されるからである。他者への真の奉仕には、奉仕者を助けるという大きな利点がある――ちょうどチベットであなたに起きたように。あなたが厳しい寒さのために死の恐怖の中にあった時、あなたは雪に埋もれて死にかけている者を見つけ、彼のもとに行き、彼を肩に担いで運んだ。すると、あなたのこの行動はあなたの体に熱を生じさせ、その熱が彼にも伝わって、彼もあなたも救われた。つまり、彼を救うことで、あなたは自分自身の命も救ったのである。これこそが奉仕の真の目的である。だれも独りでは生きられず、他者の助けなしには生きられない。もしだれかが他者から助けを受けても、自分にできる助けを返すことを望まないなら、そのような恩知らずな者は、だれからも助けを受ける資格はないのである。
二、人が、神から授かった才能や力を神と人への奉仕に用いるようになるまでは、神だけが与えることのできる助けを神から受けることはない。人が自らの役割を果たすとすぐに、神はそれを完成してくださる。たとえば、ラザロの墓から石を取り除くことは人のなすべきことであり、それを行うために神が御力を振るう必要はなかった。しかし、人々がその石を取り除いたとき、神、すなわちわたし自身が、人の力と技量を超えたことを行った。すなわち、死者に命を与えたのである。その後も、人にはなすべき働きが残されていた。ラザロを墓布から解き放ち、完全に自由にすることである(ヨハネ十一・三九、四一、四四)。
罪の中で死んでいる者たちについても同様である。妨げや困難という墓石を取り除くのは、わたしの弟子たちの働きであるが、命を与えることはわたしの働きである。また、霊のいのちを受けた者の中にも、なお古い悪しき習慣や悪い交わりに縛られたままでいる者がいる。そして彼らを完全な自由へと導くことは、わたしの子供たちの義務である。この大いなる奉仕を果たすために、彼らの心と魂は常に警戒していなければならない。
三、ある王が死の床にあって、忠実な家臣に次のように語った。「私が旅に出る時は、いつもおまえを先に遣わして、私の到着を告げさせ、迎えの準備をさせてきた。今、私は死者の国へ行こうとしている。ゆえに、おまえも先に行って、私がまもなくそこに加わることを知らせよ」。最初、その誠実な家臣は主君の言葉の意味を理解できなかったが、それが「自ら命を絶って、主君に先立って死者の国へ赴け」という意味であると悟ると直ちに、一瞬のためらいも疑いもなく、剣を胸に突き刺し、こうして死者の国へと入り、そこで主君を待つこととなった。このように、命の主であり王の王であるわたし(使徒三・十五、黙示録十九・十六)に仕える者たちの義務は、罪の中で死んでいる者たちのもとへ救いの福音を携えて行くことであり、また、彼らの救いのために地上に来て、なおも再び来るわたしのために(黙示録二・十)、命をも捧げる覚悟を持つことである。
四、かつて、ある反抗的な息子が父の家を離れ、盗賊の一団に加わり、やがてその仲間たちと同じように大胆で冷酷な者となった。父は僕たちを呼び、息子のもとへ行ってこう伝えるよう命じた――「もし悔い改めて家に戻るなら、すべてを赦し、家に迎え入れよう」と。しかし、僕たちは荒野と凶暴な盗賊たちを恐れて行くことを拒んだ。そこで、父と同じようにその若者を愛していた兄が、赦しの言葉を携えて出発した。しかし、彼がジャングルに入るとすぐに、盗賊の一団が彼を襲って、致命傷を負わせた。弟はその盗賊団の一員で、兄だと分かると悲しみと自責の念に満たされた。兄はなんとか赦しの言葉を伝えることができたが、「自分の生涯の目的は果たされ、愛の務めは終わった」と言い残して息を引き取った。この兄の犠牲は、反抗的な若者に深い感銘を与え、彼は悔い改めて父のもとに帰り、その日から新しい人生を歩むようになった。それゆえ、わたしの子らが、迷って行って罪の中で滅びゆく兄弟たちに憐れみの言葉を届けるために、自らの命を犠牲にする覚悟を持つのは当然ではないか。わたしもまた、すべての者の救いのために、いのちを捧げたのだから。
五、わたしの子供たちは、世にあって塩のようなものである(マタイ五・十三)。塩の結晶は溶けなければ、その味を伝えることはできない。わたしの子供たちも同じである。愛と聖霊の火によって溶かされ、生けるいけにえとされなければ、一人の魂にさえ、救いに至らせる霊的で天的な命をもたらすことはできない。彼らは塩の柱となったロトの妻(創世記十九・二六)と何ら変わるところがない。しかし、あなたたちのためにわたしはゲッセマネで溶かされ(ルカ二二・四四)、人々の命を救うために十字架上で命を捨てた。命は命によって贖われねばならないからである。同じように、あなたたちもまた、自らのいのちを捨てるよう召されている。そうして他の人々に霊の命の香りをもたらし、死から救うのである。
六、ある殺人者が、絞首刑に処される代わりに戦場へ送られた。そして彼は、王と祖国のために恐れを知らぬ勇気をもって戦い、重傷を負いながらも勝利者として帰還した。勝利の後、彼は再び法廷に連れ戻され、判決を受けることになった。王は彼の体にある傷跡を見て、死刑宣告を取り消し、彼の罪を赦しただけでなく、彼に多大な報酬を与え、名誉ある地位に引き上げた。このように、わたしの側に立ってサタンに対する聖なる戦いを勇敢に戦い、兄弟姉妹を救うために尽くす者たちは、わたしから罪の赦しを受けるだけでなく、神の王国において冠と王国を受けるであろう(ヤコブ五・二〇、黙示録三・二一)。
七、清い水を運ぶのに使われる管が、その中を通る水によって自らも清められるように、聖霊を通して命の水を他者に運ぶ者たちもまた、自ら清められ、神の王国の相続人となる。
八、信者が聖霊を受けて奉仕に備えるための最良の方法は、天の声に従順に従い、能力の及ぶかぎり直ちに奉仕を始めることである。泳ぎが上手になるには、ただ指導を受けるだけでは無益であり、自ら水に入って泳ぎ始めなければならない。また、最初は浅い所で次に深い所で絶えず練習を重ねることによってのみ、その技に熟練することができる。同様に、罪という暗い水に沈みゆく魂を救う術を学ぶ最善の道は、唯一の真実かつ実践的な神学校――すなわち、わたしとの合一――に入ることである(使徒四・十三)。
九、自分の能力不足を思って奉仕から遠ざかっている者たちがいるが、彼らは「わたしの力は弱さの中で完全に現れる」(二コリント十二・九)ことを忘れている。彼らは、病気から回復し、栄養のある食物を摂っているにもかかわらず、仕事や適切な運動をしないため、依然として弱い状態にある病人のようである。このような信者たちに必要なのは、わたしに信頼を置いて、罪人たちを滅びから救うために立ち上がることである。
二節
一、愛は真理の現実性を見分けるための試金石であり、それによってすべての人は、あなたたちがわたしの弟子であることを知る(ヨハネ十三・三五)。わたしはまた正義の剣を用いるので、ある人々はそれを見て、初めのうちは、「ソロモンのように神はあわれみなく業を成し遂げようとしておられる」(列王記上三・十六~二八)と考えがちである。しかし、わたしの目的もまた彼と同じく、愛という試金石を適用して真理を明らかにし、あなたたちが愛の神――愛の神はあなたたちを救うために自らの命をささげたのである――の子供たちであることを示すことである。それゆえ、あなたたちはその愛の中にとどまり、互いに仕え合い、わたしがあなたたちのためにいのちを捧げたように他者に仕えるために自らのいのちを捧げるべきである。そうすれば、わたしが生きているように、あなたたちもまた生きるであろう(ヨハネ十四・十九)。
二、あなたたちがまことにわたしの弟子であるならば、あなたたちの愛の奉仕は多くの実を結ぶであろう(ヨハネ十五・八)。そして、もし人々があなたたちのことを悪く言い、非難を浴びせるならば、彼らのために祈りなさい。そして、非難する代わりに、あなたたちの愛の甘い実を味わわせなさい。
いたずら好きな少年たちは、木に甘い実を見つけると、それに石を投げつける。すると木は、何の文句も言わず、石の代わりにその麗しい実を彼らの上に落とす。木には投げ返す石がなく、神が与えられたものを、文句も言わずに与えるからである。ひどい扱いによって落胆してはならない。人々があなたに悪口を浴びせるという事実こそ、あなたの人生が実を結んでいることの確かな証拠なのである。たとえ彼らがねたみや悪意からそのようにあなたを扱ったとしても、それによってあなたの天の父の栄光が現れるのである。神は栄光を渇望しておられるとか、神の栄光に欠けているものを人は補える、などと考えてはならない。決してそうではない!神の愛の目的は、堕落した罪の状態にある卑しい被造物である人を引き上げ、栄光の天へと運ぶことである。このように、神はご自身に栄光を帰すのではなく、人を清めて純粋にすることによって人に栄光を与えられるのである。そして、このことにおいて、神の愛の驚異と威光が明らかにされるのである。
三、多くの人が罪から離れてわたしの中に義を見いだせるように労した者たちには、わたしは大いなる栄光を与える。彼らはまず星々のように輝き、次に完全にされて、彼らの父の王国で太陽のように輝く。星々は義の太陽が昇ると消え去るが、わたしの父の望みは、その子らがご自身のように完全にされ、永遠の栄光のうちに共に輝き、限りない永遠の愛を永遠に喜び続けることである。
四、人よりはるかに劣る小さな生き物たち――たとえば、揺らめく光を放つホタルや、ヒマラヤの植生群の中のある種の小さな植物――は、自らが生きる暗いジャングルの中で、そのかすかな燐光の輝きで遠くまで照らす。また、深海を泳ぐ小魚たちも、きらめく光を発して他の魚たちを導き、敵から逃れる助けとなっている。それならば、なおさらのこと、わたしの子供たちは世の光となるべきである(マタイ五・十四)。また、暗闇のゆえにサタンの餌食になりかねない人々を、神から与えられたその光によって真理の道へと導くために、自らを犠牲にして熱心に努めるべきである。
五、天から授かったこれらの力を神とその被造物への奉仕に用いなければ、それらの天の賜物を永遠に失うおそれがある。これが、暗い洞窟の深い水中に住むある種の魚や、チベットの隠者たちに起きたことである。両者ともあまりにも長く暗闇の中で生きてきたため、完全に視力を失ってしまったのである。同様に、ダチョウも翼を使わなかったために、飛ぶ力を全く失ってしまった。それゆえ、あなたに託された賜物や才能を軽視せず、むしろそれらを活用して、あなたの主の喜びと栄光にあずかれるようにしなさい(マタイ二五・十四~三〇)。
六、時として、何か大いなる奉仕の業を行う必要がある時、わたしは世人の目にはあまり評価されていない者たちをわたしの目的のために選ぶ。なぜなら、彼らは自分の力や知恵を誇らず、わたしに全面的に信頼を置き、わずかな能力しかないことをものともせず、人々のためのわたしの働きに自分の持てるすべてと存在全体を捧げるからである(一コリント一・二六~三〇)。たとえば、わたしが荒野で五千人の男を五つのパンと二匹の魚で養った時のことを思い出すがよい。あの奇跡を、わたしは弟子たちを通して行ったのではなかった。彼らは疑いと困惑に満ち、群衆を空腹のまま帰らせようとしていたからである(ヨハネ六・九)。その際にわたしの僕となったのは、かつてわたしが麻痺から癒した小さな少年であった。彼はわたしの言葉を聞きたい一心で、わたしに従う決心をした。その貧しい母親は、息子の服に大麦のパンと干した魚を包んでいた。それは二、三日の旅に十分な量だった。それで、群衆のための食物が求められたとき、この忠実な少年はすぐに持ち物をすべて持ってきて、弟子たちの足もとに置いた。そこにはもっと良い食物――たとえば小麦のパン――を持っていた裕福な者たちもいたが、彼らにはそれを与える用意がなかった。そこで、この少年の大麦のパンから、わたしの名のゆえに、すなわち、わたしの祝福によって、群衆は最上の食物で養われたのである。
七、感謝に欠けている者は多く、たとえ自分の益のために奇跡が行われるほどの祝福を受けたとしても、なお不満を抱き、感謝を示さない。このような人々は、他者への奉仕や祝福のために用いられることは決してできない。彼らは、不治の病で三十八年間苦しんだ後に、わたしによって癒された人のようである。彼は感謝してわたしを信じるどころか、わたしの名すら覚えようとしなかったのである(ヨハネ五・十二~十三)。このような人々から、世は祝福を期待することはできない。祝福は、貧しいやもめのように、自分の持てるすべて――全生活費までも――をささげる覚悟のある者たちからのみもたらされるのである(ルカ二一・二~四)。
八、まことの奉仕と義務の遂行のため、わたしの僕たちは命さえも捧げる覚悟でなければならない――あの忠実な兵士のように。彼は厳しい寒さと降りしきる雪の中、持ち場を離れずに、ついには凍死したが、他の番兵たちが火にあたるために去った後も、彫像のように自分の場所を守り抜いた。王が来て、彼が死んでもなお忠実に立っているのを見ると、王は自らの冠を外してしばし彼の頭に載せて言った、「このような忠実な兵士にして僕こそ、わが王冠の栄誉にふさわしい。彼が生きていれば、私は彼をわが王国の長としたであろうに!」と。わたしの忠実な僕たちもまた、わたしが任じた奉仕において、このようでなければならない。そして、同様の信仰と勇気をもってその務めを全うする者には、わたしは永遠の王権という色あせない冠を授けよう(二テモテ四・四、五~八)。
九、わたしに仕えるために与えられた貴重な時間を無駄にしてきた者は大勢いるが、今なお彼らには奮い立って、残された時間を最大限に活用する機会がある。彼らはジャングルをさまよっていた猟師のようである。その猟師は小川の岸辺でいくつかの美しい石を拾い、それらの価値を知らぬまま、木にとまっていた鳥を撃つために投石器で一つずつ使ったので、石は次々と川に落ちて失われていった。猟師は石を一つ手に持ったまま町に戻った。市場を通りかかったとき、宝石商がその石に目を留め、その愚かな猟師に、それが高価なダイヤモンドであり、何千ルピーにもなると教えた。猟師はこれを聞いて嘆き始め、こう言った、「ああ、なんということだ! その価値を知らずに、川辺で鳥を撃つために多くのダイヤモンドを使ったので、それらは川に沈んで失われてしまった。そうでなければ、自分は百万長者になっていたのに……。だが、この一つは残った。それだけでも得をした」と。毎日が貴重なダイヤモンドのようなものである。たとえ多くの貴重な日々が束の間の快楽の追及の中で無駄にされ、永遠に過去の深みの中に沈んでしまったとしても、あなたは残された日々の価値に目覚め、それを最大限に活用して自分のために霊的な富を蓄えるべきである。それをわたしへの奉仕に用いなさい。わたしがあなたに命とその貴重な祝福をすべて与えたのだから。そして、それらを用いて他の人々を罪と死から救うならば、あなたは永続する天の報いを得るだろう。