一節
弟子――十字架の意味と目的は何でしょうか、また、なぜこの世に苦しみと痛みが存在するのでしょうか?
主―― 一、十字架は天への鍵である。わたしがバプテスマを受けて、罪人たちのために十字架を肩に負った瞬間、天は開かれた。そして、わたしが三十三年間十字架を負い、十字架上で死ぬことによって、罪のために信者たちに対して閉ざされていた天は、永遠に彼らに対して開かれたのである。
今や、信じる者たちが自分の十字架を取ってわたしに従うとき、直ちに彼らはわたしを通して天に入る(ヨハネ十・九)。そして、限りない祝福を享受し始めるが、世はそれを理解できない。なぜなら、天は不信者には閉ざされているからである。期待と経験は、苦しみの後に喜びが来ること、その喜びは長続きしないことを、不信者に教えてくれるだろう。しかし、わたしはわたしの子供たちに、苦しみの中にあっても安らぎを与え、完全な幸いと平安を与える。わたしの十字架を喜んで担う者は、自らも十字架によって支えられ、その十字架に常に支えられつつ遂には天に入るのである。
二、痛みは人のひねくれた反逆的な性質から生じる。それはちょうど、熱帯の暑さが寒冷地に住む人々にとっては不快で苦痛であり、また厳しい寒さが熱帯に住む者にとってそうであるのと同じである。寒暑は地球と太陽の関係によって決まる。同じように、人は自らの自由意志を行使することによって、神との調和または不調和の状態に入る。そして、神の律法は人の霊的な健康と幸福のために定められたものであるため、それに逆らうことは霊的な痛みと苦しみをもたらす。今や神は、みこころに対するこれらの反対や反逆の状態を完全に取り除く代わりに、それらを用いて次のことを人に明らかにされる――すなわち、この世は人の住まいとして創造されたのではなく、人にとって異邦の地なのである(二コリント五・一、二、六)。
この世は、人を完全で永遠なる住まいに備えるための場にすぎない。そして、たび重なる不幸の打撃は、彼の霊を目覚めさせておくためのものである。それは、彼が不注意になって、真理から逸脱し、この不安定な世の滅びに巻き込まれることがないためである。人は本来、創造主との交わりの中に入るべきであり、そして、この過ぎゆく人生の苦しみと悲惨から解放された後、永遠の幸福と平安の天に入るべきなのである。
三、痛みと苦しみは毒のように苦いが、毒に対する解毒剤がしばしば同じく毒であることも知られている。それゆえわたしは、信者たちの霊的な健康と活力を増進するために、時として痛みと苦しみを苦い薬として用いることがある。彼らの完全な健康が確保されるとき、すべての苦しみは直ちに終わる。彼らの痛みはわたしにとって喜びではない。わたしの唯一の目的は彼らの永遠の幸福だからである(哀歌三・三一、三三)。
四、ちょうど地震の衝撃の後に砂漠地帯に甘い水の泉が湧き出したり、乾いた荒野が潤されて実り豊かになったりすることがあるように、ある場合には、苦しみという衝撃が人の心の内に隠されていた生ける水の泉を開き、つぶやきや不平の代わりに、感謝と喜びの流れがその人から流れ出るようになる(詩篇一一九・六七、七一)。
五、子どもがこの世に生まれたら、すぐに泣き叫ぶことが極めて大切である。それは呼吸が自由になされ、肺が十分に機能するようになるためである。もし何らかの理由で泣き叫ばない場合は、泣き叫ぶまで叩かれなければならない。完全な愛もまた同じである。わたしは時に、痛みや苦しみの打撃や刺し傷によってわたしの子供たちを泣かせる。それは、祈りの息が彼らの霊の肺を通して自由に流れるためであり、彼らが新たな活力を得て、永遠の命にとどまるようにするためである。
六、十字架は、外皮は苦いがその中身は心地よく元気づけてくれる胡桃のようなものである。それゆえ、十字架は外見上何の魅力もないが、十字架を担う者にはその真の性質が明らかにされる。そしてその人は、十字架のうちに霊の平安という最高の甘美を見いだすのである。
七、受肉したとき、わたしは人の救いのために残酷な十字架を担った。それは、ただわたしの磔刑の六時間の間だけではなく、わたしの務めの三年半の間だけでもなく、わたしの生涯の三十三年半全体にわたってであり、人が死の苦しみから解放されるためであった。清潔な人にとって、汚れた不潔な場所に数分でもとどまることが苦痛であるように、わたしの中にとどまる者たちは、邪悪な人々の中で生きなければならないことを極めて不快に感じる。こういうわけで、祈りの人のある者たちは罪の汚れに心を痛め、この世を捨てて砂漠や洞窟で隠者として生きるようになった。考えてみよ。罪人であった人々が、罪の存在を耐えがたく感じ、同胞と共に過ごすことに耐えられなくなって、彼らを離れて二度と戻りたいとは思わないほどであるならば、聖潔の泉であるわたしが、罪に汚れた人々の間に三十三年以上もとどまり続けなければならなかったことは、いかに痛ましく辛い十字架だったことか。これを理解し、正しく認識することは、人の知力を超えており、天使たちでさえこれを見たいと願っているほどである(一ペテロ一・十二)。天使たちは創造の前から神は愛であると知っていたが、それでも神の愛がかくも深く、神がその被造物を救って永遠の命にもたらすために受肉し、残酷な十字架を担うほどのものであったことは、彼らにとって極めて素晴らしく、驚異的なことだったのである。
八、この地上の生においても、わたしはわたしの中にとどまる者たちの十字架を共に担い、彼らの苦しみにあずかる(使徒九・四)。彼らは被造物であり、わたしは彼らの創造主であるが、それでも体と霊が別個の存在でありながら密接に結びついていて、体のごく小さな部分であっても痛みを感じるなら霊が直ちにそれを意識するのと同じように、わたしはわたしの子供たちの命であり霊であり、彼らはいわばわたしの体でありその肢体なのである。わたしは彼らのあらゆる痛みと悲しみを分かち合い、適切な時に彼らに慰めを与える。
九、わたし自身十字架を担ったので、わたしは十字架を担う者たちを、迫害の炎のただ中を歩んでいるときでも、救い出して全く安全に守ることができる。わたしはネブカデネザルの炉の中で三人の若者と共にいたが、その激しい炎に彼らを害する力はなかった(ダニエル三・二三~二五、一ペテロ四・十二~十三)。このように、聖霊のバプテスマによって新しい命を受けた者たちは、もはや迫害の火もいかなる苦痛も感じることはない。彼らは永遠の平安と安全のうちに、常にわたしの中にとどまるからである。
二節
一、厳しい冬の寒さの中、木々は葉を落とし、その命も永遠に去ったかのようである。しかし春になると新しい葉を出して美しい花を咲かせ、やがて実をつけ始める。わたしの十字架と復活においてもそうであったし、わたしに忠実な十字架の担い手たちも同様である(二コリント四・八~十一、六・四~十)。彼らは自分の十字架の下で打ちひしがれ、死んでいるように見えるが、それでも永遠に続く命の麗しい花を咲かせ、輝かしい実を結ぶのである。
二、甘い木を苦い木に接ぎ木する時、苦い木が甘い実を結ぶには、双方とも刃を受けて苦しまなければならない。同様に、人の邪悪な性質の中に善をもたらすには、まず何よりもわたし自身が、そして次に信者たちが、十字架の苦しみを受ける必要があった。それは、彼らが将来永遠に良い実を結び、こうして神の栄光に満ちた愛が現されるためである。
三、この世で人々があなたを迫害し中傷しても、驚いたり心を痛めたりしてはならない。ここはあなたにとって安息の場所ではなく、戦場だからである。世の人々があなたを誉めるとき、あなたは災いである(ルカ六・二六)。それはあなたが彼らの邪悪な道や習慣を受け入れた証拠だからである。彼らがわたしの子供たちを称賛することは、彼らの本性と気質に反する。なぜなら、光と闇は共存できないからである。表面上の体裁のために悪人たちが自分の本性に反してあなたを迫害することをやめるなら、あなたはより大きな損害を被ることになる。なぜなら、彼らの影響があなたの霊の命の中に入り込み、あなたの霊的成長が妨げられるからである。
さらに、世や世の人々に信頼を置くことは、砂の上に家を建てるようなものである。今日彼らはあなたを高く持ち上げても、明日はあなたを跡形もなく打ち倒すからである。彼らはあらゆる点で不安定だからである。わたしが過越の祭りでエルサレムに上ったとき、彼らは皆口をそろえて「ホサナ!ホサナ!」と叫んだ(マタイ二一・九)。しかしそのわずか三日後、わたしの言葉が彼らの罪深い利己的な生活に反するものであることに気づくと、彼らはたちまち態度を変えて、「十字架につけよ!十字架につけよ!」と叫び始めたのである(ルカ二三・二一)。
四、何らかの誤解により、信者の一部または全員があなたに敵対し、あなたに苦痛を与えたとしても、それを不幸と見なしてはならない。もしあなたが誠実かつ忠実に、聖霊の導きの下、自らの義務を果たし続けるなら、神ご自身と天の万軍があなたの味方であることを忘れてはならないからである。
落胆してはならない。時が近づいているからである。その時、あなたのすべての良い計画と目的、そしてあなたのすべての無私の愛が全世界に知られるようになる。そして万人の前で、あなたの労苦と忠実な奉仕に対して、あなたに誉れが与えられるのである。
わたしもまた、人々の救いのためにすべてを捨てねばならず、そして自らもすべての人から捨てられた。しかし、最後にはすべてを取り戻した。世があなたを見捨てても驚いてはならない。世は神ご自身を見捨てたからである。こうして、あなたは父なる神の真の子であることが示されるのである。
五、贅沢な暮らしをし、世の事柄で常に成功しているように見える人々が、みな神の真の礼拝者であると思ってはならない。むしろその逆であることがしばしばある。羊が囲いや羊飼いから離れ、ジャングルの中で良い牧草地を見つけられたとしても、その羊は常に、野獣に引き裂かれる危険にさらされており、最終的には必ずそうなる運命にある。しかし、羊飼いと共に囲いの中にとどまる者たちは、たとえ病気で弱っているように見えたとしても、確かに危険から解放されており、羊飼いの保護の下にある。これが信者と不信者の違いである。
六、信者の生涯と不信者の生涯は、始まりは大いに似通っているが、終わりは蛇と蚕ほどに異なる。蛇は何度脱皮しても蛇のままであり、それ以外の何物でもない。しかし、蚕はその醜い繭を脱ぎ捨てると、新たな存在となり、可憐な美しい蛾として空を飛び回る。同じように、信者はこの体を脱ぎ捨てて、霊的な栄光の状態に入り、永遠に天において飛び回る。一方、罪人は死後も依然として罪人のままである。
繭の中に閉じ込められている蚕は、まるで十字架につけられているかのような鬱屈と苦闘の状態にある。しかし、まさにこの葛藤と困難の状態こそが、その羽に力を与え、来るべき生活にふさわしくする。同様に、わたしの子供たちも肉体の中にある間は、霊的な闘いと葛藤の状態にあり、ため息と切望をもって解放を待ち望んでいる。しかし、彼らが十字架を担うとき、わたしは彼らに力を与え、彼らは限りない命の状態に向けて完全に備えられ、整えられるのである(ローマ八・二三)。
七、この霊の戦いの最中、そして彼らが十字架を担っている間でさえ、わたしは彼らの勇気が挫けぬよう、真に驚くべき心の平安を彼らに与える。例えば、わたしの忠実な殉教者が、言葉と行いによってわたしを証しした後、その敵たちは彼を捕らえ、木に逆さ吊りにした。このような状態にあっても、彼の心の平安は自分が受けている痛みや辱めに全く気づかないほどだった。彼は迫害者たちに向かって言った、「あなたたちの扱い方は、私を苦しめることも、狼狽させることもありません。なぜなら、すべてが逆さまで正立して見えるものが何もない世界では、これ以外の扱いは期待できないからです。あなたたちは自分の本性に従って私を逆さまにしたつもりなのでしょうが、実際のところ私は正立しているのです。ちょうど、幻灯機にスライドを逆さまに入れると、正しく絵が映し出されるように、今はこの世の目には私は逆さまに見えても、神と天の世界の前では私は永遠に正立しているのです。私はこの栄光の十字架のゆえに神を賛美します」と。
八、信者にとって、わたしの名のゆえに殉教者となることは時として容易である。しかし、わたしはまた、日々他者の救いのために自らを生きたいけにえとして捧げる生ける証し人たちを必要としている(一コリント十五・三一節)。死ぬことは容易だが、生きることは困難である。なぜなら、信者の生涯は日々死ぬことだからである。しかし、わたしのためにこのように命を捧げる覚悟のある者たちは、わたしの栄光にあずかり、喜びに満ちて永遠にわたしと共に生きるのである。
九、痛みや苦しみ、悲しみや嘆きが雲のように湧き上がり、しばらくの間、義の太陽を覆って、あなたの目からその姿を隠したとしても、落胆してはならない。なぜなら、最後にはこの悲しみの雲は祝福の雨となってあなたの頭上に降り注ぎ、義の太陽はあなたの上に昇り、もはや永遠に沈むことはないからである(ヨハネ十六・二〇~二二)。