一節
弟子――主よ、天と地獄とは何であり、またそれらはどこにあるのですか?
主―― 一、天と地獄は、霊の領域における二つの正反対の状態である。それらの起源は人の心にあり、その基盤はこの世において築かれる。人は自分の霊を見ることができないように、魂のこれら二つの状態も見ることができない。しかし、人はそれらを自分の内側で経験する。打撃を受けて痛みを感じ、菓子を食べて甘さを知覚するように。打撃による傷は増大して最大の痛みを引き起こし、ついには死と腐敗をもたらしかねないが、一方で菓子は消化によって力を増強することができる。それと同じように、罪深い行為による痛みや善行による幸福は、ある程度すぐに明らかになるかもしれないが、それらに対する完全なる罰や報いは、霊の領域に入ったときはじめてわかるのである。
二、この世において、人は決して一つの事に長く満足することはなく、常に状況や環境の変化を求めている。しかし、この世の移ろいゆく事物では決して人を満足させられないことは明らかである。なぜなら人は、安定していて変わることなく常に自分の好みや願望に合致するものを求めているからである。そしてその探求の中で、人がわたしの中にこの実体を見いだすとき、それ以上の変化を求める欲求は終わりを迎える。完全な交わりと満ち足りた幸福に人は飽きることがないからである。なぜなら、これこそが体と霊の両方が求める唯一のものだからである。まことに、真の平安を得ることこそが、人の魂の唯一の目的である。時折、人の心に、自らの思いや願いとは関係なく、突然の喜びや苦しみの感覚が訪れることがある。それは、天や地獄といった霊界から発せられるものである。こうした感覚は繰り返し人に訪れ、やがてその人の霊的傾向に応じて、いずれかが優勢となる。そしてそのうちのどちらかを受け入れ続けることによって、人は最終的な選択をする。かくして、天または地獄の基盤がまだこの世にいる間に人の心の中に築かれ、死後、その人は、現世で自らの願望や愛着によって備えられたその状態の中に入るのである。
三、ある者は言う、「願望こそがすべての苦しみと悲しみの根源である。それゆえ、天や神との交わりの中に幸福を望むことは正しくない。なぜなら、救いとはすべての願望を滅することにあるからである」と。しかしこのように言うことは、渇いている人に飲む水を与える代わりに「その渇きを滅せよ」と言うのと同じくらい愚かなことである。なぜなら、渇きや願望は命そのものの一部だからである。願望や渇きを満たさずに取り去ることは命を滅ぼすことであり、それは救いではなく死である。渇きが水の存在を意味し、水が渇きを癒すように、魂の中に願望が存在することは、真の幸福と平安の存在を意味する。そして、魂がその願望を内に植え付けた方を見いだすとき、渇いた人が水から得る満足よりも遥かに大きな満足を受ける。この魂の願望の満足がいわゆる天である。
四、この世には、海の果てしない水のただ中にいながらも渇きで死んだ人のような者が多くいる。海水はその渇きを癒すことも、命を救うこともできなかったからである。同じように、愛の果てしない海の中に生きながらも、神の恵みの真水が不従順と罪のせいで苦く感じられるため、渇きで死んでしまう人々がいる。しかし、罪を悔い改めてわたしに立ち返る者には、愛の海から生ける水の泉が湧き出す。そして、彼らは自らを愛する方の中に満足と永遠の平安を見いだす。これもまた、いわゆる天である。
五、世に愛着や執着を抱く者は多い。彼らの心は、わたしの子供たちの模範と教えによってしばしば天に向かって引き上げられるものの、投げ上げられた石が重力によって引き下ろされるように、再び世に落ち、ついには地獄へと滑り落ちてしまう。しかし人が真実の悔い改めをもって心をわたしに向けるとき、わたしは愛の鞭をもってその心の宮を清め、それを王の王の天の住まいとする。この地上の人生は、王たちの栄光や華やかさのようなものである。今日は見えるが、明日は塵と混ざり合ってしまう。しかし神の王国の子らとなった者たちは、栄光と誉れ、王座と冠を持ち、その王国――すなわち天――には終わりがない。
六、罪人たちは自分の快楽を増すために他人の良いものを盗む。ゆえに、善人も悪人も、外出時には家に鍵をかける。そして、人の心がその主また造り主に対して閉ざされているかぎり、この財産の施錠は続くことになる。しかし、心の鍵が、戸口に立って叩いている者(黙示録三・二〇)に向かって開かれる時、心の願望や憧れは満たされる。そうなると、もはや家に鍵をかける必要はなくなる。互いのものを盗んだり、互いに害し合う代わりに、皆が愛をもって互いに仕え合うようになるからである。人々が神に捧げるべきものを捧げる時、彼らはただ善いことのみを求めるようになるからである。こうして彼らは神の驚くべき喜びと平安の中に入る。これが天である。
七、わたしが、罪人たちを地獄から救って天へと導くために、十字架の上で人の子らのために命を捧げた時、両脇にいた二人の盗人も同時に死を迎えた。見かけ上、われわれ三人とも同じ運命をたどったように見えたかもしれないが、霊的な観点から見ると、そこには大きな違いがあった。一人は心をわたしに閉ざしたまま悔い改めることなく死に、もう一人は真実な悔い改めをもって心をわたしに開き、わたしとの交わりの中で命を見いだし、その日のうちにわたしとともにパラダイスに入った(ルカ二三・三九~四三)。このパラダイスは墓の向こうに存在するだけでなく、世の目からは隠されているが、今、人々の心の中で始まっている(ルカ十七・二一)。わたしの忠実な殉教者の一人は、迫害者たちの手により言語を絶する苦しみを受け、死の間際にあったが、天の喜びに満たされていたため、彼らの方を向いてこう言った、「ああ、あなたたちに私の心を開いて、この世が与えることも奪うこともできない、私の持っている素晴らしい平安を見せられれば!そうすれば、あなたたちはそれが真実であることを確信するでしょう。しかし、それは隠されたマナであり、見ることも理解することもできないのです」と。彼の死後、この愚かな者たちは何か貴重なものが見つかるのではと期待して、彼の心臓を引き裂いたが、何も見つけられなかった。なぜなら、この天の現実を知るのは、それを受け入れてそのうちに喜びを見いだす者だけだからである。
八、わたしが肉のかたちをもって数か月間宿ったマリヤの胎は、わたしが永遠に宿って、それを天とする、信者の心ほど祝福された場所ではなかった(ヨハネ十四・二〇、二三)。
九、天を切望しながらも、自らの愚かさによってそれを逃してしまう者は多い。ある貧しい乞食は、隠された宝物庫の上に二十一年間座り続けていた。彼は金持ちになりたいという欲望に駆られて、施された銅貨をすべて貯め込んでいた。だが、彼は宝の上に何年も座っていたことに全く気づかず、悲惨な貧困のうちに亡くなった。あまりにも長く同じ場所に座っていたため、周囲に「何か貴重なものが埋まっているのではないか」との疑念が生じた。そこで総督がその場所を掘らせたところ、大量の貴重品が発見され、それは後に王室の宝物庫へと収められた。「わたしの言葉は、あなたの口にあり、あなたの心にある」(申命記三〇・十四)。
十、霊的生活を全く知らない者は、この悲しみに満ちた世で真の平安と天の喜びを経験することは不可能だと断言する。しかし、霊的生活を経験している人は知っている、極地の氷原の此処彼処に熱水の流れが見られるように、この冷たく悲しみに満ちた世の中にも、信者の心のうちに天の平安という安らぎの流れが流れていることを。それは聖霊の秘められた火が彼らの内に燃えているからである。
十一、神はすべての人を一つの血より造り、ご自身のかたちと似姿に創造されたが、その性格、気質、能力においてはそれぞれ異なるように造られた。もし世界中の花がすべて同じ色と香りであったならば、地上はその魅力を失っていただろう。太陽光線は、色ガラスを透過するとき、色を変えるのではなく、その多様な美しさと魅力を引き出す。同じように、義の太陽もまた、この世においても天においても、信者と聖徒たちに神から与えられた美徳を通して、その限りない栄光と愛を現し続ける。こうして、わたしは彼らの中に住み、彼らもわたしの中に住んで、彼らは永遠に喜びを持つのである。
二節
弟子――主よ、信者が経験する慰めや喜びは、単にその人自身の思いや考えの産物にすぎないと主張する者もいます。それは本当でしょうか?
主―― 一、信者が内に持つ慰めと絶えざる平安は、わたしが彼らの心の中に臨在していることと、聖霊の満ちあふれる命の力とによるものである。この霊的な喜びは思念の結果にすぎないと言う者たちは、或る盲目に生まれついた愚かな人に似ている。その人は冬によく日向に座って体を温めていたが、太陽の熱についてどう思うかと尋ねられたとき、太陽なるものの存在を頑なに否定して言った、「いま感じているこの外の暖かさは、自分自身の体から来たものであり、自分自身の思念の強力な働きにすぎません。空に大きな火の球のようなものが浮かんでいるなんて話は、全く馬鹿げていますよ」と。それゆえ、「人の伝統やこの世の教えに基づく哲学や空しい欺きによって」捕らえられないように気をつけよ(コロサイ二・八)。
二、もし真の幸福が人の思念に依存するものであったなら、すべての哲学者や深い思索家たちは幸福で満ち溢れていたはずである。しかし、わたしを信じる者たちを除いて、この世の哲学に通じている者たちは幸福を全く持ち合わせていない。自らの規則に従うことで得られる一時的な喜びしか持っていないのである。
しかし、わたしは人を聖霊を受け入れる自然な適性を持つように創造した。聖霊を受けることによってのみ、人はこの天の命と喜びを受けることができる。ちょうど、炭には火を受け入れる自然な適性があるが、酸素がなければ火はその中に入り込めないように、聖霊という酸素が人の魂の中に入り込まなければ、人は闇の中にとどまり、この真の絶えざる平安を享受することはできないのである(ヨハネ三・八)。
三、人の心と思いの調和は、ギターやヴァイオリンの弦のそれに似ている。これらの弦が張られて調和する時、ピックや弓のタッチで極めて魅力的な音楽が奏でられる。しかし、そうでない場合、弓のタッチは不協和音しか生み出さない。また、弦が全く調和して美しい音を生み出すには、やはり空気が必要であり、その力と動きによって音が耳に伝わるのである。同様に、人の思いや想像を調和させるには、聖霊の刺激的な息吹の臨在が不可欠である。それがあるとき、この世においても天においても、人の心の中に天の空気と喜びに満ちた調和とが生み出されるのである。
弟子――主よ、時々、私は平安と幸福が去ってしまったように感じます。それは、私の隠れた罪のためでしょうか。それとも、私にはわからないなにか別の理由があるのでしょうか。
主―― 一、そう、これは時として不従順によるものだが、時折、わたしがわたしの子供たちをしばし離れたように見えることがある。すると、彼らは孤独と不安に包まれる。彼らがそのような状態にあるとき、わたしは彼らの実際の姿と徹底的な弱さとを彼らに示すことができ、そして、わたしから離れては彼らがただの干からびた骨にすぎないことを教えることができる(エゼキエル三七・一~十四)。それは、彼らが絶えざる安息と平安の中にあっても、自分の本質的な状態を忘れ、自分を神と見なし、傲慢さゆえに地獄の罰に陥ることのないようにするためである(一テモテ三・六、ユダ六、イザヤ十四・十二~十七)。このようにして、彼らは訓練され、教育される。そして、彼らが彼らを創造したわたしの中に謙虚かつ柔和にとどまるならば、彼らは天で永遠の幸福を享受するであろう。
二、わたしがわたしの子供たちの中に入り、彼らを聖霊の充満で満たすとき、彼らは神聖な幸福と喜びに溢れ、その栄光と祝福に耐えきれず、気を失ったり意識を失うことすらある。なぜなら、肉と血は神の国を継ぐことができず、一時的なものは永遠のものを継ぐことができないからである(一コリント十五・五〇、五三、ローマ八・十九~二二)。しかし、それは人々が空しい死すべき定めの力から解放されて栄光の中へとよみがえらされるまでのことである。そのとき、痛みと苦しみ、悲しみと嘆き、災いと死は永遠に取り去られ、わたしの子供たちは皆、わたしの父の御国――それは聖霊の中の喜びである――に入り、永遠に支配するだろう(ローマ十四・十七、黙示録二一・四、二二・五)。