二 受肉

サンダー・シング

金井為一郎 訳

オリーブ園 編集版

一、子供は「神」という言葉を単なる言葉として読み、その背後にある真理については何も考えないかもしれない。しかし、心が成熟するにつれて、少なくともその言葉の意味の一部について考え、理解し始める。同じように、霊的生活の初心者もまた、いかに博学でも、受肉した言であるキリストを偉大な人物あるいは預言者と考えるかもしれないが、それ以上の評価には至らない。しかし、霊的経験が深まって、その臨在を享受するにつれて、彼は次の事実を次第に悟り始める。すなわち、キリストは受肉した神であり、その中には「神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいる」(コロサイ二・九)という事実である。「彼の中に命があった。この命は人の光であった」(ヨハネ一・四)。

二、人は自分の人格を言葉を通して十分に表現することはできない。時には、自分の思想を表現するために新しい言葉を作ることさえあるが、それでもなお不十分であり、象徴や比喩でも不十分である。体もまた、人格を構成する魂のすべての資質や力を完全に現すことはできない。言い換えると、人間の人格の多くは、この世にいる間は隠されており、その一部しか現れていないのである。霊的存在が完全に現されるのは、霊の世界においてのみであり、その時、外的・内的すべての条件がその必要を満たし、成長を助けるのである。

もしこれが人間の霊に当てはまるのだとすると、永遠の言がその神性を体を通して十分に現すことはいかに不可能なことか!彼は可能な限り、また人の救いのために必要な限り、ご自身を現された。しかし、彼の真の栄光が完全に現わされるのは、ただ天においてだけなのである。

三、次のような疑問が湧くかもしれない、「十分に見ているわけでも知っているわけでもない実在を、どうすれば信じられるのか?」。ここで指摘したいのだが、実在を信じるために、そのすべてを知る必要はないのである。たとえば、私たちの命に不可欠な体の器官の一部は、私たちの目から隠されている。自分の脳や心臓を見たことのある人はだれもいないが、それらがあることを否定する人はいない。このように、私たちの命に必要不可欠な脳や心臓すら見ることができないのだから、ましてや脳や心臓の創造主――この御方に私たちの命は全くかかっている――を見ることはいかに困難なことか!