一、植物の中には、太陽が沈むと葉や花を閉じ、翌朝、太陽の光にやさしく触れられると再び開くものがある。このようにして、植物は成長と存在に不可欠な太陽の温もりと命を吸収する。それと同じように、祈りの中で私たちの心は義の太陽に向かって開かれ、暗闇の危険や困難から守られつつ、キリストの満ち満ちた身の丈へと成長していくのである。
二、祈りによって神のご計画を変えることはできない。できると考えている人もいるようだが、それは誤解である。むしろ、祈る人自身が変えられるのである。魂の諸々の能力――それらはこの不完全な生においては不完全である――は日々完成へと向かいつつある。
鳥は卵を抱いて座る。最初、卵の中には形も姿もない液体のようなものしかない。しかし、母鳥が抱き続けることで、その無形の物質は次第に母鳥の形へと変えられていく。変化するのは母鳥ではなく、卵である。それと同じように、私たちが祈る時、神が変わるのではなく、私たちが神の栄光のかたちと似姿へと変えられていくのである。
三、蒸気は太陽の熱によって生じて地から上る。それは、言わば重力の法則に逆らって空へと昇り、やがて雨となって地に降り注ぎ、大地を豊かにする。それと同じように、私たちの真の祈りも、聖霊の火によって燃え上がり、神のもとへと昇り、罪と悪を打ち破って、神の祝福に満ちて再び地上に戻って来るのである。
四、クシクラゲ(海のグーズベリー)は非常に繊細であり、波のしぶきひとつで粉々になるほどである。嵐が近づく気配が少しでもすると、それらは嵐が届かず波からも遠く離れた海の中へと深く沈んでいく。それと同じように、祈りの人は、サタンの攻撃、罪の嵐、世の苦難を予知すると、すぐさま神の愛の大海の中に飛び込んで、永遠の平安と静けさを味わうのである。
五、ある哲学者が、ある神秘家を訪ねた。二人はしばらく沈黙のうちに座っていた。やがて哲学者が帰ろうとしたとき、神秘家は言った、「私はあなたの考えをすべて察知しています」。哲学者は答えた、「私にはあなたの察知していることがさっぱりわかりません」。このことから明らかなのは、地的な知恵では実在を察知することも理解することもできないということである。祈りの中で神と交わる人々だけが、真に実在を知ることができるのである。
六、祈りの人が祈るときに感じる素晴らしい平安は、彼自身の想像や思考の結果ではなく、魂における神の臨在の結果である。池から立ち上る蒸気は、大きな雲となって雨を降らせることはできない。乾いた地を潤して肥沃にする雨に満ちた大きな雲を立ち上らせることは、壮大な海にしかできない。この平安は、潜在意識からではなく、神の愛の無限の大海から来るのであり、それに私たちは祈りの中で触れるのである。
七、太陽は絶えず燃え輝いている。昼と夜の移り変わりや季節の巡りは、太陽によるものではなく、地球の回転によるものである。それと同じように、義の太陽は「昨日も今日も、いつまでも同じ」(ヘブル十三・八)である。私たちが喜びに浮いたり憂いに沈んだりするのは、義の太陽に対する私たちの位置による。瞑想と祈りの中で彼に心を開く時、義の太陽の光線は私たちの罪の傷を癒し、完全な健康を与えてくれるのである(マラキ四・二)。
八、自然の法則は、神が人や他の被造物の進歩と益のために働くために定められた手段である。奇跡は自然の法則に反するものではない。私たちが普段知らない、より高次の自然法則が存在する。奇跡はそうした高次の法則に従って起こるものである。祈りの中で、私たちはこれらの高次の法則を徐々に知るようになるのである。
最高の奇跡は、私たちの魂が平安と喜びで満たされることである。罪と苦しみの世界ではそのような平安は不可能だと思うかもしれない。しかし、不可能が可能になる。リンゴは暑い国では育たず、マンゴーは雪国では育たない。もし育つなら、そのような出来事は奇跡と言えよう。しかし、熱帯植物は条件が整えば寒い国でも育つのである。
九、もし、すべての人に素直な霊と澄んだ耳があって、神の御声を聞くことができていたなら、伝道者たちや預言者たちが神のみこころを告げて回る必要はなかっただろう。しかし、すべての人がそのように素直ではない。だから、御言葉を宣べ伝える者が必要なのである。しかし、時には、宣べ伝えるよりも祈ることによって、より多くの益がもたらされることがある。洞窟の中で熱心に祈る一人の人は、その祈りによって人々を大いに助けることができる。彼から発せられる感化は、静かに、しかし効果的に周囲に広がっていく。それは、無線通信が目に見えない手段によって伝わるように、また、私たちの話す言葉が神秘的な振動によって他の人々に伝わるように、である。
十、あまり雨が降らない乾いた土地に、青々と茂って実を結んでいる木々が立っているのを見かけることがある。注意深く調べてみると、それらの木々がみずみずしく青々と実を結んでいるのは、その隠れた根が、地中を流れる隠れた水脈に触れているからであることがわかる。この世の悲惨と罪のただ中で、祈りの人が平安に満ち、喜びに輝き、実りある生活を送っているのを見るとき、私たちは驚くかもしれない。それは、祈りによって彼らの信仰の隠れた根が生ける水の源にまで達し、そこから力と命を引き出し、永遠の命に至る実を結ぶからである(詩篇一・二~三)。
十一、木の根の先端は非常に敏感で、ほとんど本能のように、養分のない場所を避け、活力と命を集めることのできる場所へと広がっていく。祈りの人々にも、この識別力がある。誤ることなき直観によって、 彼らは欺瞞や幻想を退け、すべての命が依拠する実在を見いだすのである。
十二、祈りの中で神と交わりを持たない者は人間と呼ばれるに値しない。彼らは特定の時に特定の方法で特定のことを行うように訓練された動物のようである。時には、動物よりもさらに劣っていることさえある。なぜなら、彼らは自分自身の無価値さに気づいておらず、神との関係や、神と人に対する義務を理解していないからである。しかし、祈りの人々は神の子となる権利を得、神によって、神のかたちと似姿にしたがって造り変えられていくのである。