一、脳は非常に繊細で敏感な器官であり、多くの精妙な感覚を備えている。それらの感覚は、瞑想中、目に見えない世界からのメッセージを受け取り、通常の人間の思考をはるかに超える考えを生じさせる。脳はこれらの考えを生み出すのではなく、霊的な目に見えない高次の世界からそれらを受け取り、人間に馴染みのある状況や条件に即して解釈する。ある人々は夢の中で、ある人々は幻の中で、またある人々は目覚めている時に瞑想の中で、こうしたメッセージを受け取る。祈りによって、私たちはそのように受け取ったメッセージの中から、有益なものと無益なものとを識別することができる。なぜなら、真の祈りにおいては、光が神から流れ出て、魂の最も奥深くにある敏感な部分――すなわち良心あるいは道徳的感覚――を照らすからである。目に見えない世界からの豊かな色彩、精妙な音楽、その他の素晴らしい光景や音響は、脳の内なる部分に反映される。詩人や画家は、しばしばその源を理解することなく、自分に作用しているそれらの目に見えない実在を詩や絵画によって解釈しようとする。しかし、瞑想の人は、そうした実在の言わば核心に触れ、それらの至福を享受する。なぜなら、瞑想の人の魂はそれらが来る霊の世界と密接な関係にあるからである。
二、新しい場所を訪れたとき、まるで以前そこに来たことがあるかのように、あるいは何か未知のつながりがあるかのように感じることがある。これには、三つの説明が考えられる。第一に、以前その場所を訪れただれかが、その場所について思いを巡らし、私たちの知らぬ間に、神秘的な方法でその思念を私たちに伝えた可能性。第二に、私たちが似たような場所を見たことがあり、その似通った記憶が新たな形で心に浮かんだ可能性。第三に、目に見えない世界の反映が私たちの心に映り込んだ可能性。というのは、私たちの魂はその世界とつながっており、知らぬ間に、その世界からの印象の影響を受けているからである。この世界は、目に見えない世界の写しである――言い換えると、霊の世界が物質的な形で現れたものである。私たちの思考は、この似通った二つの世界のによって常に影響を受けている。十分な時間を瞑想に費やすとき、この二つの世界のつながりはますます明確かつ明瞭になる。
三、瞑想の中で、魂の真の状態が明らかにされる。このように瞑想することで、私たちはある意味で、私たちに語りかけて最も豊かな祝福を注ぐ機会を、神に与えるのである。
私たちの考えがどうであれ、いかなる思い、言葉、行いも、決して消え去ることはない。それらは魂に刻み込まれる――言い換えると、「命の書」に記録されるのである。瞑想によって、私たちはすべてを神への畏れと愛のうちに行えるようになり、「命の書」の記録を清く保つことができるようになる。その記録に、私たちの将来の至福あるいは苦しみがかかっているのである。
四、神は無限であり、私たちは有限である。確かに、私たちは無限なる神を完全に理解することはできない。しかし神は、私たちのうちに神を享受する感覚を創造してくださった。海は広大であり、その計り知れない広がりをすべて見渡すことも、その莫大な宝をすべて知ることもできない。けれども、ほんの舌先だけで、海は塩水であることをすぐに感じ取ることができる。これで海のすべてを知ったわけではないが、味覚を通して、海の性質に関する最も重要な事実を見いだしたのである。
五、恐れ、怒り、あるいは狂気の中で、人は驚くべきことを行う。鉄の鎖さえも断ち切るのである。この力は人のうちに本来備わっているものだが、その全エネルギーが一つの目的に向けられた時にのみ、その力が現れるのである。同様に、瞑想において、人の力は神の力によって強められ、罪の束縛を打ち破り、偉大で有益な働きを成し遂げることができる。しかし同時に、神から与えられたこの力も、誤った方法で用いられるならば、危険なものとなりえる。爆弾、機関銃、大砲――それらはなんと強力でありながら、なんと破壊的で危険であることか!
六、考えに没頭している時、私たちはたとえ完全に意識があっても、花の香り、音楽の魅力、自然の美しさに気づかない。それらはまるで存在しないかのように思われる。同じように、世の事柄に没頭している人々にとっては、霊的な現実は存在しないかのように思われる。見ても見ず、聞いても聞かないのである(マタイ十三・十三)。
七、ある日、私は一輪の花を見て、その香りと美しさについて考え始めた。深く考えていくうちに、私は、目には見えないけれども、被造物の背後におられる創造主を見た。このことは私の心を喜びで満たした。しかし、私の魂のうちにその方が働いておられるのを知ったとき、私の喜びはさらに大きくなった。私は叫んだ、「おお!あなたはなんと素晴らしいのでしょう!被造物からは離れておられるが、それでもご自身の栄光の臨在で常にそれを満たしておられるとは」。
八、キリストは何も書かれなかった。また、ご自身の教えを書き記すよう弟子たちに命じもされなかった。それは第一に、彼の御言葉は霊であり命だからである。彼は、命を注ぎ込めるのはただ命の中にのみであり、書物のページの中にではないことをご存じなのである。第二に、他の教師たちが書物を残したのは、彼らが弟子たちのもとを去ろうとしていたからである。それで、弟子たちの助けとなるよう、自分たちの肉声の代わりとなる書物を残したのである。一方、私たちの主は決してご自身に従う者たちから去られたことはない。彼は常に私たちと共におられ、その生ける御声と臨在によって、常に私たちに助言を与えてくださる。彼の昇天の後、同じ内住する御霊が、福音書を書くよう弟子たちを促されたのである。
九、同じ考え、言葉、行いを何度も繰り返すと、それは習慣となり、習慣は人格を形成する。それゆえ、何を考え、何を言い、何をするにしても、その結果がどうなるか、善か悪か、注意深く考えなければならない。善を行うことに無関心であってはならない。さもないと、善を行う能力を失うおそれがある。物事をうまく行うのは難しい。誤ったことを元に戻して正すのは、さらに難しい。しかし、物事を損なうのは全く容易である。一本の木を育てるには多くの時間と労力がかかるが、切り倒すのはとても容易である。その木が枯れて死んでしまうなら、再び生き返らせることは不可能である。