一、思想は、外界の事物が私たちの感覚に与える印象であるだけでなく、感覚を通して私たちに伝わる印象に対する私たちの心の応答でもある。したがって、心が完成に向かって成長・発達するには、内的条件だけでなく外的条件も必要である。木の中には命があるかもしれないが、葉が開き、花が咲き、実が熟すためには、空気、光、そして温もりが必要である。つまり、木の成長と成熟は内的条件だけでなく外的条件にもかかっているのである。
二、私たちは外的な感覚を通して外なる世界を、そして内的な感覚を通して内なる霊的世界を知るようになる。何かについての思想が心に生じるのは、思考する心があるだけでなく、その対象が存在することの証拠でもある。言い換えると、思想とはその対象が私たちの心に反映されたものであると言えよう。時には、そうするつもりはないのに考えさせられることもある。それは、外界の何かが私たちの心に反映されていることを意味する。香りがあるなら、そこには花がある。その花の形や色は目に見えないかもしれないが、香りは花の存在を告げる。同じように、思想は対象の存在を暗示する。心は鏡のようなものである。鏡に映る像は、鏡の前に対象があることを示す。鏡がそれを望むかどうかに関係なく、それらは鏡に映し出される。一方、鏡には命がないが、心には命がある。鏡は像を創り出すことはできず、ただ映し出すのみである。しかし、心には先天的な観念もある。その他の点では、心は鏡のようなものであり、外界の事物の観念がその中に映し出される。時には、その映し出しに心が関与していないこともある。抽象的な観念は実在という火から発せられる火花なのである。
三、私たちの心に映る像は常に現実と一致するとは限らない。それらは、人によって、それぞれの能力に応じて、異なって見えることがある。
神についての私たちの今の観念は不完全である。しかし、常に神の臨在のうちに生きることによって、私たちは神を真に理解するに至るであろう。