九 哲学と直観

サンダー・シング

金井為一郎 訳

オリーブ園 編集版

一、哲学が何世紀にもわたって進歩していないことは、広く認められている。同じ古い問題と同じ古い解決策が新しい形式や新しい言葉で繰り返されているにすぎない。インドでは、目隠しされた牛が一日中油しぼり機の周りをぐるぐる回る。夕方になって目隠しが外されると、牛は自分がただ円を描いていただけで、遠くまで進んでいないことに気づく。ただ、少しの油を生産しただけである。哲学者たちも、何世紀にもわたって旅をしてきたが、まだ目的地には到達していない。あちこちで集めた材料から、彼らはいくらかの油を生産し、それを書物の中に残してきた。しかし、その油は人の欲求という渇きを取り除くには十分ではない。さらに進むことは哲学の役割ではなく、信仰と直観の役割である。私たちの知識がどれほど広大でも、結局のところ、それには限界がある。

二、ある哲学者たちは、知識への渇きが満たされなかったとき、自ら命を絶った。エンペドクレスは、自然死を迎えることなく神々との交わりを得ようとして、エトナ火山の火口に身を投げた。ある天文学者は、潮の奇妙な動きが理解できず、絶望のうちに波間に身を投じて水中に墓を求めた。このような人々は、被造物の中に創造主を見いだしてその方に満足する代わりに、被造物の中で創造主も自分自身も見失ってしまったのである。これは、哲学が実在を理解しようとしても失敗することを示している。知性によって実在を把握できる者はだれもいない。もしだれかが、知識によって実在を見極められると思うなら、それは誤りである。なぜなら、ある一つの事を完全に知ることは、宇宙全体を知ることだからである。というのは、どの事物も他のすべての事物と関係しており、それを完全に知るにはそのすべての関係を知らなければならないからである。ここで私たちは実在(神)の前に頭を垂れて、信仰によって歩まなければならないのである。

三、直観は、指先のように繊細で、触れた瞬間に実在(神)の臨在を感じ取る。論理的な証明は示せないかもしれないが、直観はこう論じる、「私は完全に満足しています。このような平安は、実在(神)からのみ来ます。ゆえに、私は実在(神)を見いだしたのです」と。心にはそう感じる理由があるが、その理由は頭では全くわからない。花について多くを知るには時間がかかる。しかし、その香りを楽しむには一瞬で十分である。直観もまた、このように働くのである。