一、私たちには、善と悪を識別し、そのどちらかを選ぶ能力がある。つまり、私たちは自らの存在の限度内で自由に行動できるのである。そうでなければ、善と悪を識別する力は意味をなさないことになる。味覚は、何が苦く、何が甘いかを教えてくれる。しかし、もし私たちに何を食べるのかを選ぶ自由がなかったなら、この味覚には何の意味もなかっただろう。私たちが自由であるのは、「別の行動も取り得たから」ではなく、行動する存在だからなのである。
たとえば、私に百ポンドの重さを運ぶ力があるなら、その全てを運ぶことも、一部だけを運ぶことも自由である。そして、もしその重さが百ポンドを超えるなら、それは私の力を超えており、私の責任の範囲も超えている。その場合、私はその重荷を負う必要から解放されている。なぜなら、その重荷を置いた人は、私にできる以上のことを求めることはないからである。したがって、どちらにせよ自由がある。しかし、もし私が自分の力の及ぶことをしないなら、私はその怠慢と無関心のゆえに苦しむことになる。それは、自分に与えられた力を誤用したことになるからである。
二、悪や犯罪は、犯罪者を罰することによって消し去ることはできない。もしそれが可能なら、すべての牢獄は閉鎖されているはずである。しかし、悪を行う者に厳しい罰が与えられても、何の変化も見られない。そして、地上から悪を取り除くことは、各人が自らの自由意志によって、その力のかぎりを尽くして悪を消し去ろうと決意しないかぎり、不可能である。他者からの強制は何の効果ももたらさない。神は、殺人者の手を捕らえたり、嘘つきの口を閉じたりはされない。それは、神が人の自由意志に干渉されないからである。もし神が干渉されるなら、人は機械のようになり、真理を理解することも、それに従って行動することに喜びを見いだすこともなくなるだろう。なぜなら、喜びは自由意志による行為からのみ生じるからである。
三、この世は、ある意味で神に反抗しているため、キリストに従う者を奴隷にする。しかし、神の恵みによって彼らがこの世の力による束縛と支配から解放されて天上に入るとき、この世そのものが彼らの奴隷となる。それは、この世が、彼らが自らを創造された生ける力と関係を結んだことを認めるからである。そのとき、この世は打ち勝つどころか、打ち負かされる。神は、自らの自由意志によって愛をもってご自身に仕える者に、永遠の完全な自由を与えてくださるのである。