一、神やなんらかの力を礼拝しない人を見つけるのは、ほとんど不可能である。唯物的な考え方に満ちた無神論者や科学者は神を礼拝しない代わりに、偉人や英雄、あるいは自ら高めた理想を礼拝する傾向がある。仏陀は神についてなにも教えなかった。その結果、彼の弟子たちは仏陀を礼拝するようになった。中国では、神を礼拝することを教えられなかったため、人々は祖先を礼拝し始めた。読み書きのできない人々でさえ、なんらかの力や霊を礼拝しているのが見られる。要するに、人は礼拝せずにはいられないのである。この礼拝への欲求は、人がそれから逃れることができないものであり、創造主によって人の中に造られたものである。それは、人がこの欲求に導かれて、創造主との交わりを持ち、永遠の交わりを楽しむためである。
二、頑なさのゆえに神を信じない人々は、たとえ秩序や設計に基づく神の存在の論証が示されても、神を信じようとしないだろう。たとえ神を見たとしても、やはり信じないだろう。これには二つの理由がある。第一に、神がご自身を啓示し、神性を証明するための神的論理に基づく理由を示されたとしても、それらは人間の理性や哲学の範囲をはるかに超えているため、彼らには神を理解できないだろうこと。第二に、神が人間の知識の枠組みに沿った理由を示されたとしても、彼らはまたもや神を蔑んで、こう言うだろうこと。「もちろん、そんなことは知っている。神は我々よりそれほど優れているわけではない、神の考え方は我々の考え方と似ているからである。神は人間より少しだけ高い存在かもしれないが、それ以上ではない」。
三、人は宇宙の一部であり、それを映し出す鏡である。したがって、被造物は、見えるものも見えないものも、人の中に映し出される。この世界において、人は被造物を解釈できる唯一の存在である。言わば、人は自然の言語である。自然は語るが、それは沈黙のうちにである。人は、こうした自然の沈黙の語りかけを言葉にする者である。
四、人は限られた存在である。したがって、内的・外的な感覚もまた限られている。それゆえ、人は創造主の創造のすべての側面を知覚することはできない。それらをすべて知るには、無数の感覚が必要である。私たちのわずかな感覚では、創造とその本質のわずかな側面しか知覚できず、しかもそれらを完全に理解することはできない。こうした限界にもかかわらず、心は実在についての観念を有している。その観念は知性とは独立しており、その適切さは知性では理解できない。人の目は小さいが、広大な距離を見渡し、人が行けない場所にまで到達する。それは、何百万マイルも離れた星々を見つめ、その動きを観察し、その輝きを楽しむ。同じように、心の目は神の深い事柄を見つめる。そしてこの洞察は人を神への礼拝へと促す。この方においてのみ、心の渇きは完全に満たされるのである。