一、東方の博士たちは、遠い国から来て、星に導かれて義の太陽のもとへと至った。この人々ははるか遠くから来て、義の王を見て礼拝することによって、心の願いをかなえた。一方、ある意味でご自身の民であるユダヤ人たちは、彼を拒み、十字架につけ、祝福を失ってしまった。東より西より実在を求めて彼のもとに来た人々は、彼を見いだすと、心と魂を込めて礼拝し、自らを犠牲として彼の足元に捧げた。この犠牲によって、彼らは御国における永遠の命を受け継いだ。一方、ある意味でご自身の民であるキリスト者たちは、言葉と行いによって彼を拒み、計り知れない損失を被っている。東方の博士たちは長く留まらなかったため、キリストの教えを聞くことも、その奇跡、十字架刑、復活、昇天を見ることもなく、それゆえ、世界へのメッセージを持たなかった。同じように、実在を求める者たちの中にも、主との喜びに満ちた交わりの中に生きず、彼の命を与える救いの力を経験しない者たちがいる。そのため、彼らもまた世界へのメッセージを持たないのである。
二、「持っている人はさらに与えられて豊かになり、持たない人は持っているものまでも取り上げられる」(マタイ二五・二九)。なにも持っていない人から、どうやってなにかを取り上げることができよう?その人には、怠慢のゆえに取り上げられるような才能も責任ある働きもないかもしれない。しかし少なくとも、真実と虚偽を見分ける能力は残されている。 この識別力さえも、使わないでいるなら取り上げられてしまう。そうなると、その良心は麻痺して死んでしまい、彼にはなにも残らないのである。
三、中には、識別力がすっかり死に絶えてしまった人々もいる。彼らは、精密な科学機器を用いても、この世界における生命の起源を突き止めることができないと、すべての生命の源である神を信じる代わりに、生命の胚芽が隕石から降ってきたと考え始める――そんなことは確かにありえない。もしこの世界の死んだ物質が生命を生み出せないなら、この世界と同じ種類の物質でできた隕石がどうして生命を生み出せるのか?もし隕石の中の物質が地球のものと異なるなら、隕石からの胚芽が環境がこれほど異なるこの世界でどうして育つことができるのか?真相はこうである――神の臨在があるところには生命があるのである。水の中には、熱くても凍っていても、虫がいる。温泉の中にも、生き物が見つかる。これは、神の創造的な臨在が至る所にある結果である。神はどんな状況下でも生命を創造されるのである。
四、真理すなわち実在は、その実によって知られる。実在に従って行動する者は、その行動中にその実を享受するだけでなく、将来的には習慣としての究極的な善も享受する。実在だけが魂の渇望を満たすことができる。
人は、たとえ罪に堕ち、堕落していたとしても、真理を好み、重んじる。たとえば、嘘つきは自分では嘘をつくかもしれないが、他人が嘘をつくことを好まない。また、不義な人であっても、他人が不義だと苛立ちを覚える。これは、真理と正義とを求め尊ぶ性質が彼らの中に無意識に存在していることを意味する。それは、真理なる方が彼らを創造し、彼らが真理のために、また真理の中に生きることによって至福を得るようにされたからである。もし彼らが真理に逆らって行動するなら、彼らは苦しむことになる。それは、彼ら自身の本性に逆らうことであり、また、彼らを創造された真理なる方の本性に逆らうことでもあるからである。
五、真理には多くの側面がある。人はそれぞれ、神から与えられた能力に応じて、異なる側面の真理を明らかにし、表現する。たとえば、一本の木は、ある人をその実によって魅了し、別の人をその美しい花によって魅了するかもしれない。人は自分を魅了する木の側面を重んじ、明らかにする。哲学者、科学者、詩人、画家、神秘家も、それぞれが自分の能力と気質に応じて、自分が感化を受けた実在の異なる側面を定義し、描写する。一人の人が、実在に関する包括的見解を持ち、その様々な側面をすべて描写することは不可能である。
六、ある物事が真実かどうかを見極めるには、様々な側面から見なければならない。そうしなければ、誤解や間違いが生じる。たとえば、一本のまっすぐな棒を片目でその端から見ても、その棒の長さはわからない。その棒について正しい理解を得るには、異なる角度から見る必要がある。
心と魂を尽くして実在を探し求め、それに到達する人は、こう気づく―― 自分が実在を探し始める前から、実在は至福に満ちた交わりと臨在の中に導くために自分を探していたのであると。ちょうど、母親を探す迷子の子供のようである。母親の膝の上に飛び込んだ後になって、自分が母親のことを思う前から、母親は深い母性愛をもって自分を探し始めていたことに気づくのである。