一、悔い改めは救いに必要だが、その罪が神の恵みによって赦されないかぎり、悔い改めだけでは罪人を救うことはできない。たとえば、私が人に石を投げて、その人が死に、私が悔い改めたとする。そのような悔い改めは、将来同じ愚行を繰り返さないようにする助けにはなるかもしれないが、すでになされた害を取り消すことはできず、その人の命を取り戻すこともできない。神だけが私を赦すことができるし、その死んだ人にも、突然の死によって被った損失を来世で補う機会を与えることができる。このようにして、殺した者も殺された者も救われるのである。
二、神だけが正しく罰したり赦したりすることができる。なぜなら、神だけが人の内なる必要と状態を理解しておられ、赦しや罰がどのような結果をもたらすかをご存じだからである。人が罰しても、その罰の目的は達成されないことがよくある。それは、罪を犯した者の内なる必要や状態を知らないからである。場合によっては、罰が益ではなく害をもたらすこともある。一方、赦しには彼らを変えるほとんど魔法のような力がある。しかし、別の人々にとっては、赦しがさらなる罪の機会となることもあり、そのような人々を矯正するには罰が必要である。神だけが人々の真の性質を知っておられ、彼らの必要に応じて、罪の原因と結果の両方から彼らを救われるのである。
三、真の永続する喜びを得ることが魂の目的である。しかし、罪などの誤った手段によってこの目的を達成しようとすることは、魂が幸福を享受するための能力自体を損なう。また、その能力を無視したり使わなかったりすることも、それを損なう結果になる。神は、愛によって私たちの中に、享受のための力、能力、感覚を創造された。神は、私たちがご自身との交わりの中で、永遠の幸福を享受することを望んでおられる。これが救いである。
四、高慢は罪である。なぜなら、高慢な人は自分を実際以上の者と思い込むからである。そうすることで、彼は神の恵みを失い、罪に陥って魂を滅ぼす。偽りは罪である。なぜなら、それは真理に逆らって語られるからである。絶え間ない偽りの影響により、嘘つきは徐々に自分自身に対して嘘をつくようになる。内的・外的な感覚を信頼するのをやめて、常にそれらの真実性を疑うようになる。ついには、神の愛と恵みさえも疑うようになり、霊の命と神の豊かな祝福を失う。貪欲は罪である。なぜなら、貪欲な人は創造主を捨てて、被造物に満足を求めるからである。姦淫は罪である。なぜなら、姦淫する人は家族の絆を壊し、純潔と命を破壊するからである。盗みは罪である。なぜなら、盗む人は他人の稼ぎを奪い、他人の損失を喜びとするからである。したがって、これらの罪や他のすべての罪を悔い改めて救いを得ることが必要である。それは、神のみこころが天で聖徒や御使いたちの間で行われているように、地上の私たちの生活でも行われるためである。
五、進化を信じる科学者や哲学者たちは、自然選択による適者生存について語る。しかし、それよりもさらに偉大な事実がある。それは何百万もの人々の変えられた人生によって証明されている。すなわち、神の選択においては、不適者(すなわち罪人)が生き残るという事実である。酔っ払い、姦淫者、殺人者、盗人――彼らは罪と悲惨の深みから引き上げられ、平安と喜びに満ちた新しい命を受けた。これこそが、イエス・キリストによって得られる救いである。キリストは罪人を救うためにこの世に来られたのである(一テモテ一・十五)。