緒論

サンダー・シング

金井為一郎 訳

オリーブ園 編集版

「インドの聖者サンダー・シングの生涯と思想」を出してから自分は不思議な事を学んだ。それはこの単純な物語が西洋思想よりも如何ばかりよく我が国の心情に触れるかという事である。自分は彼の書を出してより二三ケ月にして多くの読者から非常な喜びの反響を受けた。ある人は長い間信仰生活に居ったが、どうもわからなかった朧な点が明らかになったと言い、ある逆境の婦人は、この場合この書を手にした事は神の摂理であったと信ずると言い、不治の病で死の床にあった人は非常な光明を与えられたと告げ、ある伝道者は日に一回の食を断って祈祷の生活に入るようになり、ある人からはぜひこの書を天皇陛下と摂政の宮殿下に献上せよと勧めてくれた。旅行をして見ると行く先々で読者からの喜ばしい便りを聞く。私は意外に思った。始め彼の書を出す時に私の友が、今のような享楽的の時代に全く反対な方向を示すこのような書が果たして受け容れられるであろうかと言った。しかし私は少数の共鳴者を目標として書いた所が、結果はかくも意外であった。我が日本は精神的に決して失望すべきでない。西洋各国が物質的文明の余弊を受けて精神的に涸渇している時に神が東洋に保存して置き給う生命の新しい力は来るべき時代を待って顕われるのであると思う。サンダー・シングの心は、全く東洋的な一面を代表している。仏教を始めとして深く直観の世界を潜って来てこれを表わすのに事物の一点一画を把えて悟らせようとする仕方は全く東洋的である。我が国の心が、この聖者の生活と思想とに相応じて新しい響を起こすのもこれがためであると思われる。

日本は文学上においては和歌、俳句を創り出し、特色ある日本画をもって一木一草を描き天地の大なる心を顕わそうとする。このような国民性に向って帰納的な西洋哲学よりも、サンダー・シングや、タゴールの如き思想が触れるのは当然である。東洋人が西洋思想を十分に解し得ぬ如く、東洋に顕われた宗教を西洋人の解し得ぬ処も多いに相違ない。かつて植村正久氏が「キリスト教は西洋人よりも日本人によくわかる、そして解し易い性質がある」と言われたが、キリスト教を始め仏教もヒンドゥー教も、皆東洋の地に生まれたものである。勿論宗教は世界的な共通性を持っているが、各自異った使命と特長を持っているとすれば、東洋の心は更に宗教的であると言う事ができよう。我らは徒らに他を模倣のみせず自らの独特な使命を自覚しなければならぬと思う。

今比較的我らに近い生活と思想との中にある一人のインド人が前代に比類の少ない体験をもって世界の人の注意を呼び集めつつある時、我らは自分の兄弟の一人が立って世界人類の前に一大光明を掲げてくれたように思って大なる喜を得ると共に、彼の残る生涯が今迄にも増して光栄あるものたらん事を祈らざるを得ない。

「その後彼は何をしているか」、とは多くの人々から受ける質問である。彼が第一回欧州を訪問したのは一九二〇年の春であった。英国より米国に招かれ、更にオーストラリアの招聘に応じて彼の地に行き不思議な深い印象を残して同年九月インドに帰った。その時はコロンボ及びボンベーに在る人々が彼の到着を聞いて「西方征服者」の名をもって盛んな歓迎会を催したのである。しかし彼はこの世の英雄の如くに取扱われる事を甚だ好まず、人々との会合を避けて直ぐに北方指して帰ってしまった。かくて次の夏は更にチベット伝道のために一人山路を分けて自分の使命とする道を進んだ。その間に幾多の出来事のあった事を伝えられる。

その中の一事件を掲げるならば、ある日彼は山地を進んでいた時、一群の山賊に襲われた。彼らはサドゥーを急に襲って、その衣物を剥ぎ取り、急ぎ彼を殺そうとした。しかし彼の沈着な態度が彼らをして殺す事を躊躇させた。彼は機会を見て短い宗教的な言を彼らに与えると、彼らは深い印象に打たれて、彼に衣物を返し、更に話を聞こうとして洞窟に導いた。そこで粗末な食物を出して彼に食う事を奨め、又器物を手に渡して、それに乳を注ごうとした。しかしその器具が甚だ穢いので、乳を注ぐ前に指で塵を取ろうとすると、その有様を注意して見ていたその群れの親方が彼の手からその器をとって自分の舌でその塵を取り去り丁寧にこれをサドゥーに渡した。これは非常な敬意を表わしたものだ。彼はこの好意を喜んで受け、彼らと共に食し、福音を伝えて彼らを悔い改めさせる事ができた。

一九二二年スイス及びスェーデンから繰り返して依頼して来た招聘に応じて欧州へ向った。その途上彼が年来願っていた聖地パレスチナを訪れる事ができた。その地ではウィリアム・ウィルコック卿の客として迎えられた。彼はスイスで非常な熱誠をもって迎えられ、多くの証を立てて後、ドイツで二週間を費し、種々なる方面の人々に接して語り又質問に応じ、スウェーデンではウプサラの大監督ゼーデルブロームが彼のために特に催した集会で幾多の尊い使命を果たした。また人々が四方から彼に聞き本人を見ようとして集って来た。彼は又ドイツ、フランス、デンマーク、ノルウェー、更にポーランドをも訪れ、それから英国に渡った。しかし、できるだけ人々の要求に応じようとする彼は夜を日に継いで新しい人と様々な集会や場所で会ったので、非常に疲労して休息を必要としていた。しかし、名高いケズィック修養会からの懇望に応じてその講師となり、ウェールズの集会に出席して後インドへ帰った。実にこの旅行は彼にとって異った方面の十字架であった。行く処非常な深い印象と新しい力とを与えた事は近来ヨーロッパの宗教界において特筆すべきものであると言われている。しかしこの業は犠牲なくしては行われなかった。

インドで伝道しているパーカー夫人からの先日の便りによると、パーカー夫婦がインド伝道に献身して四十年たつが、悲しいことに、今夫の病気のためにこの地を永久に去らなければならない、と述べた後、こう記してあった、「私たちと別れる前にサドゥーが南インドに来るはずでしたが、悲しいことに、今は病気のため来ることができません」「二回目の欧州伝道の後、彼は前のようには激しく働けなくなりました。彼は肺を傷めて、今は静養しながら北インドにいます」と。しかし、その健康状態は病人という程ではないのではないかと思う。訳者に送られてきた手紙は確かに彼の自署である事は明らかだからである。

ここに紹介する「実在と宗教」は、彼がインドで伝道しているアパサミー博士と共に英訳したものである。アパサミー氏が英国のストリーター博士に送った手紙の一節は、この書ができた経緯の良い説明である。

サドゥーは私に手紙を書いて、サバツーに来て彼の新著のために共に働くよう招いた。サバトゥーはシムラから鉄道で約二、三時間のところにある。そこは軍の駐屯地であり、海抜三千から四千フィートである。彼の父は、息子が休息と瞑想、学びのために隠棲できるよう、この地に家を購入することを強く望んだ。父の提案どおりにバンガローを買う代わりに、サドゥーは古びてはいるが広々としている伝道所を五百ルピーで購入した。この家にたどり着くには、町で最も汚くて賑やかな区域を通らなければならない。彼の隣人たちは「スイーパー」(つまりゴミ拾い)階級に属しており、夜の静けさの中で奇妙な音楽を奏でたり、騒々しい口論をしたりすることがよくある。しかし、この家は町外れにあるため、反対側に出ると、何マイルも続く見事な丘陵の景色が眺められる。この家はサドゥーが常に接しようとしている二つの世界の象徴であると私は思う――すなわち、時には汚くみすぼらしい、せわしない人間の世界と、とても美しくて静かな自然の世界である。

この家には、彼の友人である医師が住んでいる。彼はサバツーの癩病院で働いている人物である。サドゥーは、静かに働き、学び、休息する必要を感じるたびに、ここにやって来る。彼には一室が与えられており、そこには旅の途中で出会った友人や人々の写真が大切に飾られている。また、数冊の本も置かれている。その中に、J.A.トムソン教授が最近編纂した「科学概論」の二巻があることに私は気づいた、サドゥーはこの二巻を注意深く読んでいた。サドゥー来訪の際に共に滞在するこの医師は既婚者で、四人の子供がいる。私はしばしば、サドゥーが子供たちと語らい、遊ぶ様子を興味深く観察した。「サドゥーは何らかの修道院を創設して、他のサドゥーたちを訓練すべきだ」と言われることもある。しかし、私はそのような環境では彼はきっと不幸になるだろうと思う。彼は「苦行者」であるとはいえ、実際には家庭生活を愛する者であり、家庭で最も幸福を感じるのである。

サドゥーは「実在と宗教」の原稿をウルドゥー語で完成させていた。彼は十二日間、毎日十二時間かけてそれに取り組んだと言っていた。彼は原稿を手に持ちながら、各段落の要旨を英語で伝えてくれた。私は、彼の言葉を逐語的に書き取ることもあれば、段落の要旨を彼自身の言葉をできる限り用いて記録することもあった。

彼自身が言っているように、これは神学者でも、哲学者の意見でもない、ただ彼が瞑想によって心に見たものを単純に普遍的に言い現わそうとしたのであって、丁度雲間を洩れて落ち来る光が山河海洋等にふれて異彩を放つように、平凡なものも霊界の光を受けて輝くのである。しかし放つ異彩はその源に大なる光の存在する事を示すように、彼は自然界を歌う詩人ではなく、見えるものを通して永遠界に輝く実在の光を求めて行く真理の追求者である事を覚えて、彼が人生に貢献しようとするものを評したいと思う。

金井生

一九二五年十一月、東京牛込にて