十字架の神は愛の神である
一九二一年ヒマラヤ山中のジャングルで火事が起きた。周囲の人々の多くが鎮火作業に追われている中、数人の人々が立って一本の木を見上げているのに私は気がついた。「何を見ているのですか」と私は尋ねた。彼らは、既に火が回っている木の枝に雛鳥の一ぱい入っている巣を指して答えた。その上空では一羽の鳥がとても苦しそうに、荒々しく飛び回っていた。彼らは「私たちはあの巣を救いたいのだが、燃え盛る火のため近づけないのです」と言った。数分後、その巣に火が移った。私は思った「もう母鳥は飛び去るだろう」と。ところが非常に驚いたことに、母鳥は翔け下ってその翼を雛鳥の上に広げ、数瞬の後にはこの可愛そうな鳥はその雛らと共に焼かれて灰になってしまった。私はいまだかつてこのようなことを見たことがなかった、そして近くに立っていた人々に言った、「この素晴らしい愛には驚くではありませんか。考えてみてください、ご自身の被造物の中にこのような無私の愛を造られた方の愛は何と素晴らしいことか。この無限にして無私の愛により、イエス・キリストは天よりこの世に降って人となり、罪の中で死んでいた私たちを救うためにその命を与えてくださったのです」と。
神は罪人たちを地獄に送りたまわない
ある時、北インドで私は非常に霊的な精神を持つ人と話していた。その家には、私の友人の息子と一週間費そうとして来ていた一人の青年がいた。私たちの会話を耳にするやいなや彼が困惑しだしたことに私たちは気づいた。その青年は一週間逗留するつもりで来たのに、数分後には汽車の時刻表を見始めた。「どうしたのですか、あなたは一週間の予定で来たのではありませんか。あなたの部屋も用意してあるんですよ」と私の友人は言った。この青年は、数分間の霊的な会話にさえ耐えられない、一週間もいたら地獄だ、と説明するのを気まずく思ったのだった。十五分後、彼は逃げ去ってしまった。神は愛である。どうしてその子らが地獄で苦しむのを見ることができよう。罪人を地獄に送るのは神ではなく、罪である。神は全ての人が天に行くことを許される。しかし、罪人はその家へ行くことを好まない。あの青年は天使と共に住むことはできないであろう。彼は私たちと共に十五分間も留まれなかった。天では十五秒も留まれないだろう。
私は彼を知っている
一人の仏教の僧侶が十三歳のある少女について私に語った。彼女は「私はキリスト信者です」と彼に語った。「あなたはキリストについて何を知っていますか」と問うと、「私は彼についてあまり多くは知りません。ただ一つのことを知っています、それは私が彼を知っているということです」と答えた。「愚かな少女よ、あなたは無学な少女ではないか」。しかし彼女は言った、「私は、私の両親を知るよりも、もっとよくキリストを知っています、私は両親を愛し、彼らは私を愛しています、しかし彼は私の中に活きておられます。イエス・キリストは世界が与えることも取り去ることもできない命を私に与えてくださいました」。そこで彼女は食物抜きで一室に閉じ込められた。二十四時間後、「どんな感じか」と僧侶は尋ねた。彼女は歌っていて、心は喜び、疲れてもいなかった。彼女は二日、また三日と閉じこめられたが、三日たって戸を開いて見ると、この無教育の少女がなおも驚くべき平安と喜びとに満たされて歌っているのを見いだした。そこでラマは告白して言った「あなたは私の先生だ、私は年寄りであり、あなたは僅か十三歳の子供にすぎない、しかし私はあなたの弟子だ。あなたは私が持っていないものを持っている」。イエス・キリストを見いだすことは年齢にも学問にもよらない。この少女は説教することはできなかったが、僧侶が見いだしていなかったものを見いだしていたのである。
見よ、わたしは常にあなたと共にいる
ある時、私は三日間チベットで説教していた。人々は皆私に反対した。仏教徒はキリストについて聞くことを好まないからである。私は村の外へ追い出された。それは私が食物抜きで過ごした三日目のことだった。その夜はとても寒く、その場所は一万三千フィートの高さであって、私は一晩中震え、飢え、渇いていたが、助けてくれる者はだれもいなかった。サタンは私を試みて「おまえは家にいれば贄沢に暮らしておれるのに、今キリストはおまえを助けることができないのだ」と言った。私が祈り始めると、「目を覚まして祈れ」との御言葉が聞こえた。そして私はこの世が与えることも奪うこともできない驚くべき平安を得た。私は洞窟から出て一本の木から二三の葉を取った。その葉はとても堅くて美味しくなかったが、キリストの臨在が全てを新たにしたことを覚えている。私はその葉を享受した。家でこんなに美味しいものは食べたことがなかった。そこで私はサタンに向かって言うことができた。「キリストはここにおられる」と。彼は「わたしは常にあなたと共にいる」と約束してくださった。私はそれを経験した。多くの人は言う、「キリストは偉大な人物、預言者にすぎない、彼はあなたを助けられない」と。彼は常に私たちと共におられる。偉人でも「私は常にあなたと共にいる」と言うことはできない。ただキリストだけが「わたしは世の終わりまで常にあなたと共にいる」と言うことができるのである。
キリストを知るには、祈らなければならない
ある時私の父が一つの質問をした「私はこの数年間あなたの生活を注意して見てきた。そして家庭にいた時と比較して、その時は決して幸福ではなかったが、今は苦難の中にいながら常に幸福であるのを見ている。その理由は何なのか」と。私は答えて言った「それは私の中に何か善いものがあるからではありません、ただ私が先には憎んでいたその同じキリストを知り、彼の中に平安を見いだしたからです」と。これは父に深い感銘を与え、彼はキリスト教について考え始めた。そして「どうすればキリストを知ることができるのか」と尋ねた。私は答えて言った「彼について知りたければ聖書を読まなければなりません。しかし、彼を知りたければ祈らなければなりません、読むだけでは不十分ですから。多くの不信心者や異教徒も聖書を読みますが、彼を知りません。祈りはあなたに対して真理を開く唯一の鍵であり、真の鍵なのです」。父はそのようにし始めた。そしてしばらくして、「私はおまえの救い主を見いだした、彼は今や私の救い主だ」と父が言うのを聞いて私はうれしかった。
私たちは単なるパンでなく、命のパンを必要とする
私はインドにいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。
ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間自分と共に座って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、この乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった。神の臨在を覚え、喜びに満たされた。「これほど長い間、私は一片のパンのためにあなたのところへ来ていましたが、さらに与えるものをあなたがお持ちとは思ってもいませんでした」。祈りの人は言った「それはあなたの誤りであって私の誤りではない。あなたはパンだけを求めてやって来て、パンを得るとすぐに走り去っていた。しかし今、あなたは私と共に費やす時間を取ったので、私はあなたに話せるようになったのです」。これは私たちの救い主についても同じである。多くの者が天の父のもとへ行って、あれこれ求める。私たちの主は「あなたのみこころがなされますように」と祈るよう教えてくださった。しかし、私たちは「私の意志がなされますように」と反対の言葉で祈る。私たちは自分の舌で言葉に出してそうは言わないけれども、私たちの行動はこのことを証明している。受け取るやいなや、神から走り去ってしまうのである。これが、神が私たちの欲するものを全てはお与えにならないことがよくある理由である。
貧しくても彼の両眼は星のように輝いていた
一九二○年に英国にいた時、私は死の床にある一人の男を尋ねるよう求められた。私にはあまり時間がなかったので初めは断っていたが、神の人が私に言った「ぜひ行って彼にお会いなさい、それはあなたの益になるでしょう」と。それで私は行った。彼は非常に貧乏な人で、助けてくれる者は一人娘だけだった。彼の全身が痛み、長年苦しんでいた。彼の身体は非常に弱く、骨だけの骸骨のようだった。私が彼の両目を見つめた時、それは星のように輝いていた。彼は言った「あなたは私に話をしようとしておられますが、私からの話があるのです。人々は苦しみのさ中でも真の幸福を得られることを理解できません。神に感謝すべきことに、長年苦難のさ中でも、私には素晴らしい喜びがあったのです。宮殿にいる王様でも持っていないほどの喜びです」。彼はとても弱々しく見えたが、その顔は天使のように輝き、その両目には天が在った。「おそらく数分もすれば、人々は私が死んだことを知るでしょう。どうか彼らに言ってください、私は死ぬのではなく生きるのであると」。私は行って彼の喜びの話を伝えた。その話を伝え終った時、私は彼が死んだことを聞いた。彼は死ぬ前に驚くべき喜びをもって人々に語り始めて言った、「私は御使いたちと共に私の救い主に会うために行きます、私の救い主と共に生きるために行きます」と。人々はこれを理解できなかった。また多くの世の人々は、この貧しい人のような喜びを持つことはできない。
平安――キリストの賜物であって、想像ではない
神の御言葉を読んだ後、私は祈りに時を費やす。すると、私は驚くべき雰囲気を感じる――私はそれを地上における天と呼んでいる。心理学者たちはその経験について私に尋ねた。一人の人は「あなたがある種の平安を感じるのは、感情の問題であるか、想像と瞑想の結果である」と。私は答えて言った「よろしい、私は答える前に一つの質問をしましょう、ここに一人の人がいて生まれながらの盲人であった。彼は寒い冬の日に陽射しの中に座らせられた。人々はその人に『今どう感じていますか』と尋ねた。『あたたかく感じます』。『そうです、太陽が輝いていますからね』。『いやいや、このあたたかさは私の想像の結果ですよ、外には何もなく、火の玉が空に懸っているなんてことはありません。太陽が支柱もなしに宙に浮いているなんて信じられません。熱は私の体の中に、そして血の循環の中に宿っているのです』。その盲人は太陽の存在を信じられませんでした」。私がその心理学者にこう述べたところ、心理学者は「彼は愚か者です」と言った。私は答えた「あなたは学識ある愚か者です。私が経験した瞑想や数時間の想像を以てしても、その経験は得られませんでした。キリストは私が少しも予期していなかった時に、それを私に与えてくださったのです。それなのにあなたは「それは想像の結果である」と言う。神と共に静まっている時、私たちは義の太陽から熱と光とを受けます。それは私たちの想像や瞑想の結果ではなく一つの実在です」。毎日祈りに時を費やす人はそれが真実であることを見いだすと私は確信している。
霊的な癩病が癒された
ある時私は一人の牧師と共に一人の癩病人に会いに行った。私の友人は彼に言った、「何とお気の毒なことか!私はあなたの苦しみを見て残念に思います」と。ところが、私は癩病人の答えを聞いて驚いた、「君よ、あなたは残念に感じておられますが、私は自分の心の中の驚くべき平安のゆえに神に感謝しています。また私が癩病であることも神に感謝しています」。私は彼が自分の癩病のゆえに神に感謝していると聞いて驚いたが、彼は更に附け加えて言った、「もしも私が健康な人だったなら、私は人殺しや盗人になっていたでしょう。しかし私はこの癩病を通して罪の癩病を知りました。今はこの肉体の癩病から癒されることを願っていません。私の霊の癩病は癒されて、今やイエス・キリストにある喜びを見いだしています」。この貧しい人は言い表わせない喜びを持っていた。私は彼の目に涙を見た。彼に言葉はなかった、あるのは涙という言葉だけだった。これは、キリストが来られたのは貧しい者――自分が貧しいことを理解する者――に福音を宣べ伝えるためだったことを示す一つの証拠である。これによって私は考えさせられた、その牧師はその貧しい癩病人ほど幸いではなかったのだと、また多くの他の裕福で健康な人々もこの貧しい人ほど幸いではないのだと。経験が実証しているように、書物の中にではなく生けるキリストの中にこそ、貧しい者に対する使信があるのだ。