キリストは私の命
キリストは私の救い主。彼は私の命。天においても地においても彼は私のすべて。ある時砂地を旅していた時、私は疲れ、渇いていた。私は丘の上に立って水を探した。遠くに湖が見えたので、私は喜んだ。今こそ渇きを鎮められると思ったからである。私は長い時間それに向かって歩いたが、それに到達できなかった。後になってそれは蜃気楼だと知った。太陽光の屈折によって水のように見えたのだ。実際にはそこには何もなかったのである。同じように私は命の水を尋ねて世界をさまよった。湖のように見えるこの世のもの――富、地位、名誉、贅沢――を飲むことによって、私の霊の渇きを鎮めることを期待したのである。しかし、私の心の渇きを鎮める一滴の水すら見つけられなかったのである。私は渇きで死にかけていた。私の霊眼が開かれた時、生ける水の川々が彼の刺された脇から流れ出ているのを見た。私はそれから飲んで満ち足りた。渇きはもはやなくなった。それ以来私は常に命の水を飲み、この世の砂漠を行く時も決して渇かなくなった。私の心は讃美で満ちている。
彼の臨在はあらゆる理解を超えた平安を私に与えてくれる、どんな環境に置かれてもである。迫害のさ中でも、私は平安と喜びと幸福とを見いだしてきた……彼に従い彼の十字架を負うことはとても甘美で尊いので、もし天で負うべき十字架が何も見つからなければ、私は自分を宣教士として――必要なら地獄へでも――遣わしてくださるよう彼の御前に嘆願するだろう。それは、そこで少なくとも彼の十字架を負う機会を得るためである。彼の臨在は地獄さえも天に変える。唖は砂糖菓子の甘さを表現できないように、救われた罪人は心の中の彼の臨在の甘さを表現できない……海は塩辛いが、魚はその中で一生すごす。しかし、魚は塩辛くならない、命があるからである。それと同じように、私たちが彼から命を受ける時、私たちはこの世にあってもこの世のものではなくなる。地上でも天でも自分が彼の中にあることを見いだすのである
今や、私は富・地位・栄誉を願わない。天さえも願わない。しかし、私の心を天としてくださる彼を必要とする。彼の無限の愛が他のすべてに対する愛を追い出した。多くのクリスチャンはこの尊い、命を与える臨在を理解できない、彼らにとってキリストが生きているのは自分の頭脳や自分の聖書の中であって、心の中ではないからである。心は王の王のための王座である。天の首都はこの王が統治しておられる心である。
人が十字架を負うなら、十字架がその人を負ってくれる
私は神に感謝する、彼が取るに足りない僕である私を、若い時にご自身へと召し、私の最上の力を奉仕に用いるよう導いてくださったことを。クリスチャンになる前から、私は神に祈っていたのである、真理の道を自分に啓示してくださいますように、自らその中を歩んで他の人々にその道を宣べ伝えられますようにと。それゆえ、道であり真理であり命である方が私に啓示されて、サドゥーとして福音を宣べ伝えよ――そうすることでたとえ餓え、投獄、熱、あらゆる種類の困難を被るようになっても――というこの導きを受けたのである。それゆえ、それが起きたのだった。それにもかかわらず、彼に賛美と栄光あれ、その後の十年間の経験からこう言える、喜んで十字架を負う者を十字架は引き上げて負い、望むところの目標に至らせてくれるのであると。それゆえ、この祝された十字架から逃げないようにしようではないか、むしろ日毎に自分の十字架を取って私たちの主に従おうではないか。
驚くべき出来事
カイラシ(注、ヒマラヤ山脈中の一つの高山)を去って、ある居住地に着いた時、私はそこの人々に最も近い村への道を尋ねた。彼らは私がクリスチャンであるのを見て、敵意から、危険な森の道を教えた。私は全く無知だったので、彼らの指示に従ってその道を行った。旅をしているうちに夕方になったが、村は現れず、ある川の岸辺に着いた時には日は沈みかけていた。四方から野獣の物音が聞こえた。私はその川を渡ろうとしたが無理だった。遂に私は失望してそこに座りこんだ。その日は不吉な予感がして、自分の命の終わりが近づいているように感じた。私の目には涙が溢れた。
ちょうどその時、目をあげて川の向こうを見ると、一人の人が火をたいて温まっているのが見えた。彼は言った「心配しなさるな、私があなたを助けに行きます」。私は彼が立ち上がって自分の方へ来るのを見て大いに喜んだ。また、彼が何のためらいも恐れもなくこの急流の中に入って出て来たのを見て驚いた。彼は私に言った「私の肩にまたがりなさい、恐れなさるな」と。そして私を支えて、とても優しく渡らせてくれた。驚いたことに、自分一人でも私には渡れなかったのに、彼は私という重荷を負って何の苦もなく渡ったのである。私はこう考えた、「彼はこの場所の住人なので、この川を渡ることに慣れているのだ。では彼と共に座って彼に福音を伝え、かつ私の感謝の意を表わそう」と。しかし私が振り返って見ると、もはやその人も焚火も消えていた。そこで私は、これはどうしたことかと戸惑いかつ畏れた……確かに、主は昨日も今日も、永遠に変わらない。主は変わらないが、私たちの信仰が変わるのである。
救いは赦しと、罪からの自由である
救いは罪の赦しのみではなく、罪から自由にされることである。罪が赦された後でも、自分の罪の中で死ぬことも十分にありえる。多くの罪人はその罪が赦された後でも彼らの罪の中で死んでいく。キリストは私たちを罪から救ってくださる。私たちの罪を赦すのみではない。ヒマラヤ地方に一人の人がいたが、彼は長らく病気だったので気が狂ってしまった。ある日、親戚の一人が彼の見舞いに行ってその傍に座った。すると突然、その狂人は鋭利なナイフを取ってその人の咽喉を切ってしまった。彼は捕えられて絞首刑を言い渡された。その近親者が弁護に立って、できれば彼を赦してやってほしい、彼は長い病気のせいで正気を失ってしまったのだから、と求めた。王様は優しい人だったから、その求めは理に適っていると考えて、彼を自由にするよう命じた。その狂人が親戚を殺したのは二十日で、宣告された絞首刑の執行日は二十二日だった。そして二十一日に彼は赦されたが、二十二日に死んでしまった。彼の罪は赦されたが、それが何になろう?彼は死んだ。その人の救いは彼の病の癒されることであった。彼は殺人を犯したが、それは彼の病気の結果にすぎなかった。彼はその病気を癒されず、その病気のせいで死んだ。そのように、罪は赦されたが依然として罪の中で死ぬ人が大勢いる。キリストは私たちを罪から救うために来られた。もし罪から癒されているなら、私たちは救われているのである。しかしなおも罪を犯し続けているなら、私たちは自分の罪のために死ぬであろう。多くの人は思い違いをしている。彼らは自分の罪が赦されるなら救われると思っているが、自分の罪深い性質が癒されていないなら救わていないのである。
苦痛と苦難の秘義
世にある苦痛と苦難の秘義は大きな問題である。それは罪のせいであるとしても、常にそうとは限らない。というのは、神はしばしばそれを通して、平安を与える彼の臨在へと私たちを召されるからである。十字架は私たちの霊的生活と進歩のために必要不可欠である。苦痛と苦難が彼の被造物の益のためでなかったなら、全能の神は直ちにこの地の面からそれらを一掃しておられただろう。しかし、彼はそうされなかったし、また今もそうしておられないのは、それが私たちにとって有益であり、また祝福の手段だからである。土地に蒔かれた一粒の麦を見よ。それは大気の中で成長して、太陽の光と熱によって美しくされる前に、地中という暗い胎内の中に横たわらなければならない。その後定められた時に芽を出して実を結ぶのである。私たちもまさにそうなのである。
悔い改めが最も必要である
悔い改めは神の国に入ろうとする者にとって最も必要である(マタイ三・二)。神の国は未来の国であるだけでなく、この地上から始まる。ごく小さな一つの罪、悪い思考の一つでさえ、私たちの希望を滅ぼし、私たちを神の国の外に留め置くのに十分である。いわゆる小さな罪が最も危険である。それは病気を引き起こす細菌のようである。肉眼で細菌を見ることはできないが、数千の人がその害に苦しんでいる。見えない罪も同じである。
私たちが罪の力から解放されて神の国に入ったことの証拠は平安の経験である。或る教授が私に尋ねた、「自分は救われているとどうすれば言い切れるのですか?」と。私は答えて言った「味わったものが甘いことがわかるのと同じです。私は平安を経験しているので、自分が救われていることがわかるのです」。
氷でやけどすることを信じたがらない人がいた。それに警戒する代わりに、彼は氷上を裸足で歩いたので、とうとう皮膚が損傷してしまった。ある人々は、罪がやけどを起こして苦しみを生じさせることを理解できない。
罪は神と私たちとの間の関係を破壊する。ある人は自分の折れた骨を接いでもらうよりも先に、痛みから解放されることを願った。何と愚かなことか。罪によって引き起こされた痛みが取り去られる前に、先ず神に対する私たちの関係が再確立されなければならないのである。