真の喜び
私は時々友人たちに向かってこう語る、「他の人々に説明するために、私は牢獄、苦しみ、迫害等の言葉を用いるが、そうした苦しみは全く苦しみではないのである」と。もし本当に苦しんでいたなら、私は決して村々に出かけて行って福音を宣べ伝えなかったであろう。実を言うと、私の愛する救い主のために苦しまねばならない時はいつでも、私は常に地上で天を見いだしたのである。それはどこにも見いだせないほどの喜びを私に与えた。そのような時、私は常に何の疑いの余地もないほど明確に彼の臨在を実感した。私がクリスチャンになる前は、苦しみは苦しみだった。当時、私に平安はなかったからであ……それは文字どおりの苦しみだった。私は自分が地獄にいるかのように感じた。しかし回心後、私には全く苦しみがなくなった。牢獄にいる時でも、それは私にとって牢獄ではなく、むしろ地上における天だった。迫害のさ中でも、迫害を受けていない時以上の喜びがあった。食物がない時でも、最高の御馳走がある時以上の喜びがあった。彼の臨在が私にこの喜び、地上におけるこの天を与えたのだった。だれもこの喜びを奪うことはできない。
神の膝元
ネパールのイロムヘの道で私は多くの村々を通った。そこの人々は心から神の御言葉を聞いた。この地域の道はひどかった。道の上り下りや川を渡るので私は疲れていた。一九一四年六月七日をいつも私は思い起す――旅の疲れ、極度の飢えと渇き、大雨の中、七マイルの坂を上らなければならなかったのである。恐ろしい一陣の突風が私を吹き飛ばして或る洞窟に投げ込んだ。おお主はほむべきかな、私はかなり高い所から落ちたけれども何の怪我もしなかった。しかり!その洞窟は神の膝元――そこでは傷つくことはありえない――へと変わり、その上り道はパラダイスへの道に変わった。突風は愛の波に、にわか雨は恵みの雨に、飢えと渇きは満足に、疲労は清新に、十字架は平安に変わった。イエスの十字架の様々な段階が幻の中で私の前に現れた。第一に、ゲッセマネの園で夜通し目を覚ましておられた様。第二に、飢えまた渇かれた様。第三に、鞭打ちと茨の冠により血を流された様。第四に、これらの困難の他に、自ら十字架を負わなければならなかった様である。これらの理由の故に、彼はゴルゴダヘの坂を上る時に倒れられた。私の十字架などは、あなたの十字架の前では何ものでもありません。おお愛し奉る主よ、あなたの十字架の比類ない愛と恵みによって、私は祝福を受けましたし今後も受けるでありましょう。
私はこの言い表せぬ私の魂の平安を、それに全く欠けていて無知である私の兄弟たちに示したいと願うが、どうすればできるだろう?これは隠れたマナであって、それを受けた者しか理解できない(黙示録二・十七)。私は自分の個人的経験からこう言うことができる、十字架はそれを負うものを負ってくれるのであると。それは彼らを(苦痛に満ちている)この世にあって平安の流れへと運び、十字架を負ってキリストに従う者たちを天に連れて行くのである。
サンダーシングと政府の役人との会話
私:神はキリストを通して永遠の命を得させようと万民を招かれた。そしてあなたにこの福音を与えよと私に命令された。もしもあなたが彼を信じないならば、今私があなたの前に立っているようにあなたは神の御前に立って、永遠の刑罰の宣告を受けねばならないだろう。
役人:その時が来たらそうかどうかわかるだろう。しかし今あなたは投獄されなければならない。私は如何にキリストが来てあなたを救うかを見ることにしよう。
私:私は投獄を恐れない。それを恐れるくらいなら、宣べ伝えに来なかっただろう。このように取り扱われるだろうことはわかっていた。私のキリストは私をこの拘留から解放されなかったが、罪とサタンから解放してくださった。今や私は何時でも自由である。たとえあなたが私の足を木の枷に縛りつけても、私はなおも自由である。それが起きる時、私は自分の足が木の上ではなく不動の岩の上に在ることを知るだろう。
役人:黙れ、それ以上話すな。
私:私に命がある限り、また舌が口にある限り、私のキリストについて話すのをやめない。拘留はもとより、自分の命を与える覚悟もできている。
役人(検査官に向って):これ以上議論する必要はない、彼を連れて行って拘留せよ。
検査官:この異教徒を拘留するなら、そこを汚すことになります。
ここのこの牢獄ですら聖なるものと思われていることが、私には大いに不思議だった。この場所が神聖に思われるのなら、何故その中にいる敬虔な人々は解放されないのか。ともあれ、この後検査官は言った、人を投獄するのはその者をそこで苦しませるためだが、このクリスチャンはそれを喜びと慰めとして受け取る、だからこの者には何か他の刑罰を考えた方がよかろうと。
役人:彼を我々の地域の外に追い出す方がよいだろう。彼を監房に入れたら、彼の教えによって六ヵ月間で他の囚人たちがクリスチャンになってしまうおそれがあるし、独房の設備もない。
そこで全員がこの点で一致し、直ぐに番人を呼んで私を境界の外に追い出したのだった。
棘を結ぶ者か実を結ぶ者か
私たちは彼(キリスト)の中へと接木されなければならない。そうすると実を結ぶことができる。多くの者はその生活が棘で満ちていたが、主イエス・キリストを信じることによって、実を結ぶようになった。かつて私は棘で満ちた一本の木を山で見た。その管理人が「自分はこの木を実のなる木に変えることができる」と言った。どうやってか?数年後、私はそれを見に行った。園丁がそれを接木したので、棘の代わりに良い実を結んだのだった。そのように恵み深い主は私たちを御手にとって、実を結ぶようにしてくださる。主は万人のために来られたのであり、私が今述べた木のように罪人を聖徒に変えることができる。
バルチスタンに一人の匪賊又は追い剥ぎがいて、多くの人を殺した。あなたがもし彼を見たなら、このような人が変わることは到底不可能だと言っただろう。彼はイエス・キリストのことを聞き、驚くべき変化があった。人々はこの大変化を見て、「これはどうしたことか?」と言った。匪賊は言った、「この変化を起こしたのは私ではない、イエス・キリストである。彼が私の命の中に入って来てこの変化を起こしてくださったのである。彼が生じさせられたこの変化によって、彼は今も私のために天を来たらせてくださることを知って私は驚いている。私はあのような殺人者だったが、今では伝道者になった」と。
或る猟師が狩りのために森の中に入って行った。彼は蜂の巣のある一本の木を見た。そこで自分の銃を地面に置き、その木に上ってその蜂の巣を取り、食べ始めた。彼は自分が陥った危険に気づいていなかった。虎がその木の根元にやって来た。「やれやれ、自分は今、危険な場所にいるぞ」と彼は心に思った。「しかし自分は木の上にいるから逃げおおせられるかもしれない」。そこで、彼は虎のことを気にせずに蜜を食べ続けた。その木は川の岸辺にあり、「虎が襲って来ても、川の中に飛び込めばよい」と彼は考えた。しかし彼が川を見ると、口を開けた一匹のワニが見えた。彼は心に思った、「ああ、自分は窮地にある、私の死期が近づいた。自分のいる所にとどまっているしかない。そうすれば、虎もワニもいなくなるかもしれない」と。しかしすぐに別の危険に彼は気づいた――虫がその木の根を喰っていたのである。間もなく、木は倒れて、彼はワニの口の中に落ちてしまった。
私たちの場合もこれに似ている。私たちは森の中で生きている。一方には悪魔がいて食い尽くそうとしている。私たちの霊は木の上で、つまり自分の体の中に生きており、危険の中にあることを忘れて罪という蜜に耽っている。主の中に在るなら、私たちはサタンから安全であり、何物も彼の御手から私たちを奪い去れない。
主が見たいと願っておられる実は何か?それは私たちが与えることのできるものである――私たちの行為は私たちの命の実である。ヒンドゥー教では善い業を行うことによって善くなれると言われている。しかしキリスト教は言う、「先ず善くなりなさい。そうすれば善い業ができる」と。主イエス・キリストと聖霊を通してあなたは善くなることができ、そのとき善を行えるようになるのである。
強盗の回心
ベーレラと呼ばれる高原の森を通っていた時、私は四人の男が路傍に座っているのを見た。彼らの中の一人が大きなナイフを手に持って私に飛びかかった。逃げ道がどこにもないのを見て、私は首を差し出した。すると彼は私を打つのをやめて、私の肩から毛布を取って立ち去った。私がその道を一ファーロングほど進んだ時、彼は私を呼び戻した。今度はもう命はないものと思ったが、私の想像とは正反対であった。彼が「あなたは何者か」と尋ねたので、私は彼に自分のことと、これらの場所を旅して歩く目的について語り、彼に富める人とラザロとの話を読んで聞かせた。この内容は彼の心を打った、この富める人が何の盗みをもしたことがないのに地獄にいたとするならば、数百回盗みをした自分の運命はどうなるのか?と。彼はその場ですぐに悔い改め、私に赦しを求め、毛布を私に返した……。彼は私のために塩味の茶をいれて、食べるために干し果物をくれた。それはまるで、「食べる者から食べ物が出て、強い者から甘いものが出た」(士師記十四・十四)かのようであり、主が「私の前に私の敵の前で宴を設け」(詩二三・五)てくださったかのようであった。私は彼と共に祈ったが、彼はとても悩んでいた。その後、彼は自分の上衣を脱いでそれを私の下に広げ、一方へ向かって自分の状態について泣き始めた。朝私が起きると、彼は自分の悪い生涯について私にすべて告げ、一つの洞穴の中にある沢山の骨を見せて「これが私の罪です」と言った。その時、私は彼をとても憐んだが、また自分のために神に感謝した。主がもしおられなければ、私の骨もまたその中に積まれていたであろう。その後私は彼に一人の盗賊の話をし、主が「今日あなたはわたしと共にパラダイスにいるだろう」と告げられたことを語って、再度祈った。彼は心の中で「主は自分をも救ってくださるであろう」と考えて慰められた。彼は私からバプテスマを受けることを願ったが、牧師の手からバプテスマを受けるようにとの私の奨めに従って平原の方へ出かけて行った。
現在の喜びと平安
私は一人のヒンドゥー教のサドゥーに会った。彼は自分の魂を救うために長い間ヨガを実践していた。どのくらい実行しているのかと尋ねると、十三年間という答えがあった。彼は真理を求める真の探求者だったが、心に喜びはなかった。私は彼に言った、「こんなことをして何になるのです。あなたには喜びがないではありませんか」と。彼は答えた、「救われようとしている間、今生で喜びを見いだすことはできない。しかし、私は来世における喜びを期待している」と。ヒンドゥー教徒だった時、私も同じように考えたものだった、この世では平安は見いだせず、ただ罪と悲しみと悩みのみであると。しかし私は今、主はこの世で喜びと平安とを与えてくださることを示す驚くべき証拠を見ている。
平安か愛か
時々人々は私に言う、「あなたは平安についてばかり話すが、愛について話さない」と。平安は私たちの魂の目的である。私たちは金を稼ぐために多くの苦労をし、平安を得るために肉体の快楽を求める。しかし真の平安はただ主の中にのみ、愛なる神の中にのみ見いだされる。この平安を得る時、それは神の愛から切り離せない。あなたはその愛を感じ、また他者への愛を感じるであろう。その平安は彼の愛を他者に告げるようあなたに強いる。しかし自分自身が満足していなければ、満足していない者たちのためにどうして心配できよう?人知を遥かに超える平安を見いだしてはじめて、私たちは神の素晴らしい愛に対して自分の証をし、実証することができるのである。
キリストに在る驚くべき平安
スウェーデンで私は一人の人に会った。その人は広く旅行をしてきたという。何を求めて旅行したのか私は尋ねた。その答えは「私は快適に楽しく住める国、病気と悲しみのない国、暑さと寒さのない国を探しました。しかし見つかりませんでした」であった。そこで私は、私が国の中にではなくキリストの中に見いだした平安について彼に語った。そして私は言った、「私はこの平安を証しするために旅行するのです」と。
主は百倍を与えてくださる
私は回心後誘惑を受けた。先ず、バプテマスを受けなくてもクリスチャンとして生きていけるのではないかという疑問が生じた。近親者らからの迫害に直面して、遠い処で密かにバプテマスを受けることも考えた。しかし、公に主を告白して主に従わないかぎり――たとえそれが自分の両親やすべてを捨てることを意味したとしても――平安を受けられなかった。主は私の必要をすべて満たされただけでなく、百倍以上与えてくださったのである。
舌足らずでも生活が事実を語る
或る日、瞑想と祈りの間、私はキリストの臨在を強く感じた。私の心は天的な喜びで満ちあふれた。私は、悲しみと苦しみのこの世の中に大きな喜びの隠れた無尽蔵の鉱脈があることを知った。それについてこの世は何も知らない。これを経験した人でもそれについて適切に説得力をもって話すことはできないからである。私は隣村に下って行って、この喜びを他の人々と分かち合うことを切望した。しかし病身のため、私の魂と体との間に葛藤が生じた。魂は行くことを願い、体はぐずぐずしていた。しかし最終的に、私は打ち勝って病身を引きずって前に進み、その村の人々に、キリストの臨在が私のためにしてくれたことと彼らのためにしてくれるであろうこととを告げた。彼らは私が病気であること、そして私が何らかの内なる促しによって自分たちに話していることを知った。このように、私はキリストの臨在が自分にとって持つ意味を十分には説明できなかったが、この深遠な経験は行動に翻訳されて、人々の助けとなったのだった。舌足らずでも生活が事実を語るのである。