昔一人の聖徒がいて、日毎の職務を終えた後、祈りと瞑想のためにジャングルの中の洞穴に行き、数時間とりなしの務めをすることを習わしとしていた。ある日、たまたま、一人の哲学者がそこを通りかかり、その聖徒がひざまずいているのを見て驚き、そこに暫く立っていた。その後、哲学者は洞穴の入口に行ってノックしたが、聖徒は瞑想に没入していたので応答しなかった。哲学者は少なくとも半時間待っていたが、立ち去ろうとするその時、聖徒は立って彼を招き入れた。両者とも少しの間沈黙していたが、やがて哲学者が沈黙を破って聖徒に言った、「あなたはこの洞穴が『盗賊の巣』として悪名高いことをご存じですか」と。
聖徒:はい、そのことならすでによく存じています。この洞穴は盗賊の集合場所ですが私には避難所です。なぜなら、私が通常の仕事を終えて祈りと瞑想をしたい時、とても多くの人々に囲まれたせわしい都会生活では、多くの妨害や邪魔が私の礼拝を妨げ、時として私の精神を大いに乱すため、私も他の人々も私の霊的実践から何の真の益も得られないからです。それで私は騒がしい都会生活の邪魔や妨害からこの静かな場所に退いて、私の神の甘い臨在の中で安息し、その聖なる美しさの中で神を礼拝するのです。ここで私は自分の時を祈りに費やし、他の人々のためにとりなします……
強盗や盗人が時々ここに来ますが、彼らは決して私を悩ませません。彼らの中の一人がかつて私に言いました、「いいですか、尊い聖徒よ、我々は盲目でも馬鹿でもありません。我々は詐欺師である人々から奪うのです。彼らは強盗でも盗人でもありませんが、様々な形で他者から奪うという点では決して我々に引けを取らないからです」と。彼らの名を明かしたり彼らを政府に通報するつもりはありません。なぜなら私は知っているからです、この世の現世の政府は肉体的な罰を彼らに与えられるだけで、彼らを変えることはできず、彼らの心をますます頑なにすることを。しかし私は彼らのために私の神の御前でとりなします。私の神は彼らの心を変え、彼らに新しい命を与えることができます。その結果、彼らの中のある者は実際に新創造、良い市民となり、他の人々を霊的に助けてきました。こうして神の恵みにより、私の霊的な働きは、群衆の間でなされるのと同じようにこの孤独の中でなされているのです。
この沈黙しておられる神の御声を聞くには、沈黙の中で彼を待ち望むことが不可欠です。神は沈黙の内に働かれます。同じように人もまた――人は神のかたちに神に似せて創造されました――沈黙の内に考え、感じ、記憶し、決意して、多くの方法で働きます。たとえば、様々な発明や発見が沈黙の内になされてきました。つまり、すべての偉業は沈黙の内に始まったのであり、また今も始まりつつあるのです。人は、周囲の人々の助けが必要な時や他人を助けたい時、自分の考えや計画を言葉によって他人に示します。神は物を創造するとき人の助けや支援を必要とされないので、沈黙の内に全く独力で万物を造り、全被造物を維持しておられます。しかし、さ迷って行った者たちを連れ戻したい時、神はその預言者らや使徒らを通して彼らに語られます。そして、時満ちたこの終わりの時代、彼は肉において現れ、人類に語り、彼らのために救いの御業を成就してくださったのです。
ある人々は誤解していますが、目を覚まして静かに祈ることは怠惰や不注意を意味するものではありません。むしろ実は、それは神聖な真理という真珠――これは自分だけでなく他人をも豊かにします――のために実在の大洋の中に潜ることなのです。潜水夫は潜っている間息を止めなければなりませんが、同じように祈りと瞑想の人もこの騒がしい世のあらゆる妨げから去って沈黙という部屋に閉じこもらなければなりません。しかしこの世の大洋のせわしない生活の中で潜るには、祈りが必要です。この手段により、天からの聖霊の中で絶えず祈りの呼吸ができるようになります。それなくして霊の命を維持するのは不可能です。
哲学者:私もまた自分の個人的経験からこの事実を証しできます―― 一つの主題に自分の思いと注意を沈黙の内に集中しないかぎり、それについて論理的に考えられませんし、適切に推論しなければ妥当な結論に到達できません。しかしこの推論のかぎりを尽くしても、私はあなたの言う沈黙しておられる神――この神をあなたは実在の大洋とも呼んでおられます――とやらの存在についてはよくわからなくて途方に暮れています。あなたは神の存在を証明する説得力のある議論を展開できますでしょうか?
聖徒:私自身の内にも外にも神の存在の証拠を感じられますし、見いだすこともできます。それは自分が存在する証拠と同じくらい明確です。いや、それ以上です。しかし神を知ろうとする前に、私たちは先ず自分自身を知る必要があります。そのとき、私たちは神――神はご自身のかたちにそしてご自身に似せて人を創造されました――を知り、理解できるようになります。しかし、覚えておかなければなりません、神は人間のあらゆる知識と理解を超えておられます。なぜなら、もし人間の理性で神を理解できるなら、それはもはや神ではなく人間にすぎないからです。今日、自分の個人的経験から、神が心――幼子のような信仰を持っていて神聖な愛で満ちている心――の中に住んでおられることをいつでも証しできる無数の人々がいます。炎の中に自分の手を突っ込んで火の熱さを経験することで火の存在が証明されるのと同じように、神の甘美にして命を与える交流と交わりとの霊的経験こそが神の存在の強力かつ確かな証拠なのです。
私たちはまたこの世の外的な知識がなくても神を感じまた知ることができます。たとえば、私は一人の唖で聾で盲の人を知っています。十五歳の時、触覚を通して、彼は神を知っているかどうかを尋ねられました。彼は仕草で答えて言いました、「私はこの世の外的な状態については何も知りませんが、自分の理解力と要求とによって、自分自身の創造者・主君をよく知っています。私は常に彼を自分の内なる目で見ており、彼の甘い臨在を喜んでいます」(ローマ一・十九)。かの有名人のボストンのヘレン・ケラーも同様の経験をしています。彼女が十二歳の時、ブルックス博士が彼女の人生で初めて神とその愛とについて教えたところ、彼女は言いました、「はい、私は以前からそれを熟知していましたが、彼の御名は存じませんでした」と。
哲学者:まあ、私はこの問題についてあなたと議論したくはありませんが、世を捨てるとはどういうことか教えていただけないでしょうか?この世を憎むとか、他人よりも優れていることを自認する、ということでしょうか?何故あなたはこの世を捨てたのですか?
聖徒:私も議論を好みません。これはたんなる話し合いです。さて、あなたがお尋ねになった質問についてです。断言しますが、私はこの世を憎んだり自分を他人よりも優れているとは思っていません――そう思うことを神は禁じておられます。他の人々のように私も弱く罪深い人間ですが、神の贖いの恵みが私を救いまた支えてくれるのです。私が世を捨てたと考えるのは不正確です。私は決してそうしたことはありませんし、そうしたいとも思いません。この世に在るいかなる悪も、私は憎んで捨てようと努めています。私はまた自分の霊的生活を邪魔する障害やつまずきの石を捨てようと努めています。さもなければ、この世にいるかぎり、世を捨て去ることはできません。なぜなら、たとえ都会や村落から離れ、ジャングルに行って住んだとしても、そのジャングルもまた世の一部だからです。この地上の幕屋の中にいるかぎり、世を捨てようと考えるのは馬鹿げています。なぜなら、私たちの体は、どこへ行こうとどこに住もうと、生来世と結びついているからです。肉体的に死んでこの生来の結合が断たれないかぎり、だれも世を捨てることはできません。事実、私たちの神は、「世との一切の関係を断つべきである」という考えを好まれません。なぜなら、神ご自身が世の中に私たちを置いて、生活・行動・存在するようにされたからです。そうでなければ、神は決して私たちをそこに置かれなかったでしょう。むしろ神の聖旨は、私たちがこの世の物を正しく用い、地上に滞在している間に準備を整えることなのです。なぜならそれは、神の聖なる御目的によると、私たちの天のホームに向けた修練期間だからです。
哲学者:まあ、あなたのおっしゃるように、他人よりも優れているとは思っておらず、反対に他のすべての罪人のように弱く罪深いことを認めておられるというのなら、あなたとこの世の他の人々との違いが私にはわかりません。どうして人々はあなたを聖者と呼ぶのでしょう?
聖徒:あなたはおそらくソクラテスのことを覚えておられるでしょう……ある時彼は率直に告白して言いました、「自分はその全生涯で一つの教訓、ただ一つの教訓を学びました――それは自分は何も知らないということです」と。そこで人々は彼に尋ねました、「もし何も知らない一個の哲学者であるなら、あなたと他の人々との違いは何なのですか?」と。彼は答えて言いました、「私と他の人々との違いはただ一点だけです。すなわち、私は何も知らないということを自覚していますが、他の人々は自分が何も知らないということすら知らないのです」と。
私の場合もこれとよく似ています。私は自分が弱く罪深いことを知っていますが、他の人々は自分が罪人であることすら知りません。それで罪の治療法について少しも知らないため、彼らは自分自身の罪の中で死ぬのです。
人々が私を聖者と呼んでいるなら、それは彼らの過ちであり誤解です。事実、私は聖なる私の神との親密な交わりの生活によって聖者になろうと努めていますが、「自分は聖者になった」などとは決して言えません。もちろん私はいつでも次のような証しを公に強調して与える用意があります。すなわち、私の愛する聖なる救い主との交わりによって私はあの人知を遥かに超えた平安を享受しているという証しです。この天的な喜びは世のどんな言語も表現できないものなので、世の人々はそれについて何も知らないのです。
哲学者:私はあえてもう一つの質問をあなたに致します、もしこの喜びと霊的経験はどんな人間の言語を以てしても表現できないとするならば、人と獣の違いは何でしょう?もちろん、獣は自分の衝動を表現したり描写したりできません。しかし、神から与えられた会話力を持つ人が同じようにしか行動できないとするなら、獣と人の間に何らかの違いがあるとは思えません。したがって、こうした霊的経験は単なる妄想にすぎない、というのが私の意見です。
聖徒:どうか物事を混同しないでください、霊的生活の経験は決して妄想ではないことを心に留めてください。それらは現実なのです。霊的な人々全員の実際生活がこの事実を証明しているのではないでしょうか?霊の事柄は霊的な方法で認識・描写されます(一コリント二・十三~十五)。さて、人と獣との違いについては、様々な点で明らかです。 霊的な言語の用語でしか話せない深い霊的な思想や経験を除けば、人は自分の能力に応じて他のあらゆる衝動や感情を人間の語法や語句によって表現できます。他方、獣は舌がある事実にもかかわらず少しもそうできません。まあ考えてみてください、舌があっても獣は唖です。それは、獣には会話力や話すことがないという事実によります。
これに加えて、人を獣から区別するもう一つの大きな違いがあります。獣には本能がありますが、人は理性を与えられています。たとえばハタオリドリは巣を数世紀前と全く同じに造ります。その設計や構造には何の進歩も改造も見られません。その形や構成は型どおりです。さて人は、それとは反対に、生来進歩的です。しかし学んで努力しなければ、人は知識を得ることも進歩することもありません。他方、獣は何の指導も受けることなく、努力することなく、その働きをします。例えば、蜜蜂がどうやって巣を造ったり花から蜜を集めたりするのかを考えてみてください。これらの活動はすべて本能にすぎません、つまり、その過程は不変的に固定されていて融通がききません。したがって、いかなる改良や進歩も不可能です。しかし、人は何年にも及ぶ努力と苦闘の末にあらゆるものを獲得します。神の明確な御旨は、人がこの長きにわたる厳しい緊張や苦闘を通って、永遠の命の中へと成長し込むことです。それは、人が自分を創造した方との甘い交流と親密な交わりとを享受し、絶えず成長し続けて彼――この方は人をご自身のかたちに、ご自身に似せて造られました――のようになり、その祝福された御国で永遠に楽しく住んで、こうして終わりなき天の生活の喜びにあずかるためです。
この話し合いの後、哲学者と聖徒は非常に愛情をこめて抱きあった。哲学者は友人に別れを告げ、「あなたにお会いするためにまた伺います」と言って去った。聖徒はひざまずいてしばらく時を費やした後、定刻にその洞窟を去り、日々の仕事に取り組んだ。