昔々一人の富豪がいた。彼はこの世の安楽と快適さのあらゆる手段を持っており、豊かで贅沢な生活を楽しんでいた。しかし不幸なことに、彼には息子がいなかった……彼は友人たちや妻に向って「どうか私の家督を継いで家の名声と名誉を維持してくれる息子をあわれみ深く私に与えてくださるよう、絶えず神に祈ってください」と言うのが常であった。暫くして神はそのとりなしに答えて、美しくて有望な男の子を与えられた。
両親はこの生まれたての子供のために多くの計画や案を立てた。その期待と希望とは際限のないほどだった。彼が六歳になった時、父親は彼の教育のために特別な案配をして、それが十五歳まで続いた。さらに、彼は家政学の指導を受け、十八歳の時に結婚した。今やこの若い夫婦は平和で豊かな生活を始めたので、近隣の人々は非常に大きな感銘を受け、彼らを模範的な夫婦と見なすほどだった。
これまでのところ、彼らはこの世のあらゆる楽しみを享受し、人間生活の悩みや苦しみを全く経験しなかった。しかし結婚して数ヶ月後、夫は一つの大きな災難に見舞われた。彼の愛する両親――彼は両親を大いに愛していた――がコレラで死に、その結果、彼の仕事は大混乱に陥った。不幸は決して単独では来ない。一方において、彼はこの悲しい死別のせいで大きな悲嘆と苦悩に陥り、他方において、盗賊たちが彼の家に侵入して、金銭や高価な物をすべて持ち去ってしまった。繁栄は友を作り、逆境は友を試す。この時、彼の自己中心的な友人たちや利己的な支持者らは一人また一人と彼を見捨てていった。
彼は失望の中で叫ばざるを得なかった。「おお私はどうしたらいいのか。また何処へ行くべきか。間もなく家族の中に子供が生まれようとしているのだ。ああ、その誕生に際して私は、私の両親が私の誕生に際して感じたほどの大きな喜びと幸福とを感じない。また私の両親が私にしてくれたように、生まれてくる子供のためにすることもできない。おお、これは一体全体何ということか。何と自分たちは不幸なことか!」夫の哀れで悲痛な言葉を聞いた時、妻は夫を慰めて、優しい愛のこもった手で夫の涙を拭い、夫を励まして言った、「愛する旦那様、泣いたり心配したりしないでください。ただ神に信頼してください。神が今何をなさったとしても、それは私たちの益のためなのです。また将来どのように私たちを取り扱われたとしても、それはきっと私たちを向上させるためなのです。ですから気落ちせずに、男らしくしてください」と。
数日後、この逆境の中、子供が生まれた。彼はできるだけ妻と子供を看護して世話したが、不幸にもその子供は翌日死んでしまった。彼はその小さな体を葬りに行き、家に戻ると、自分の妻が全く意識不明になっているのを見いだした。彼は冷たい水を妻の口に含ませ、妻の頭を自分の膝にのせて、妻の寝床の上に座った。暫くすると彼の妻は意識を恢復して目を開いた。夫は悲しみと別離とのために疲れ果てており、妻は極度に弱っていて具合が悪かった。そのため、二人ともただ愛と思慕のこもったまなざしで互いに見つめ合うだけで、言葉を交わすことはできなかった。暫くの後、彼女の目は永遠に閉じてしまった。
哀れな夫はこの衝撃に堪えられなかった。彼は卒倒して地面に倒れた。その状態で彼がどれだけそこにいたかは神のみぞ知る。隣人の一人がたまたまその道を通りかかり、友人が堅い地面の上に哀れにも意識なく横たわっているのを見て、行って近隣の友人たちや知人たちにこの話を告げた。彼らはすぐにその場に到着して、彼の愛する亡くなった妻を葬る手はずを整えた。彼らが棺を近くの墓場に運んだ時、夫も彼らについて行き、墓の傍に立って激しく泣きながら叫んだ。「自分自身か又は自分のすべての悲しみと苦しみを妻の代わりに墓に埋められればいいのに!私の真の友、私の理解者、私の愛する者は、私を寒空の下に置き去りにして逝ってしまった。ああ!自分は何と不幸で哀れな人間か!今、自分は独りこの世に取り残された」。こう言って彼は再び卒倒して地面に倒れた。この哀れで心を引き裂くような光景は墓の周囲に集まった人々の涙を誘った。彼らは優しく彼を起こして、その住家に運んで行った。彼が幾ばくかの休みを取った後、人々は彼に同情して慰めて言った、「もう済んだことは済んだことです。これ以上悲しんでも無益です。遅かれ早かれ、私たちは皆この世を永遠に去らなければならないのです、自分の番が来たら皆がです」。
今や、実際に、この世の無常はこの人の中に驚くべき変化を生じさせた。暫くの後、彼は宗教指導者のところに行き、彼から宗教的真理を学ぶことに強い関心を抱いた。しかし、これは彼の悩める心に何の満足も平和ももたらさなかった。そこで彼はジャングルの中に入って行って、一人で洞穴に住み始めた。彼は全心を傾けて熱心に神に祈った。「おお私の造主また主よ、私をこの世から取り去るか、あるいはこの哀れな罪人である私をあわれんで、あなたの神聖な真理すなわち実在の栄光を垣間見させ、新しい命を持たせてください」。数日間彼は神を待ち望み、執拗にまた熱心に祈った。そして遂に「探せよ、さらば見いださん」(マタイ七・八)という神の約束どおりに、彼の祈りはかなえられた。
ある日の早朝のこと、彼が洞穴の入口に座って自分自身の状態について考えていると、一人の人が洞穴の方に向かって来ることに気づいた。この新来者を見た時、彼の心に様々な思いが去来した。「おそらく、私のように、この人は大きな苦しみを受けて、今やこの世に疲れ、避け所と平安を求めてこのジャングルの中をさまよっているのかもしれない。あるいは、もしかすると、神への真の献身者であって、瞑想と勤行にいそしんでいるのかもしれない。おそらく、今自分が滞在しているこの洞窟は彼のものなのかもしれない。あるいは、彼は道に迷った旅人かもしれないし、失った羊や山羊を捜してこちらにやって来た羊飼いかもしれない。疑いなく、この人はどこか謎めいている」。間もなくこの人は洞穴に着き、失意の隠者に対して大きな愛情と同情をこめて挨拶した。隠者は直ちに礼儀を尽くして立ち上り、その人のために地面に毛布を広げ、その上に座るよう乞うた。
探求者:どうか私にあなたの御名前を教えていただけないでしょうか。また、なぜここにいらしたのか、どこからいらしたのかを伺ってもよろしいでしょうか?
永遠のキリスト:あなたはわたしの名の意味や意義を理解できません。わたしは真の牧者であって、わたしの失った羊を探して救うために「天より下って来た」のです。(ヨハネ三・十三)。
真理の探求者は彼の御言葉を十分には理解しなかったけれども、永遠のキリストの人格と御言葉は彼の心に深い驚くべき印象を与えた。まるで、彼の暗い心がこの旅人の栄えある輝かしい臨在によって照らされたかのようだった。彼は悟った、自分自身も失われた羊であって、真の羊飼いを切実に必要としていることを。その同在と臨在に深く印象づけられて、真理の探究者は礼儀正しく永遠のキリストに以下のように問うた。
探求者:何時からあなたはこの業をしておられるのですか?
永遠のキリスト:世の初めからです。
探求者:本当に?ではあなたは預言者だと思います。どうか私にあなたについて洗いざらいお話しください。私を祝福してあなたの弟子にしてください。
永遠のキリスト:わたしが人を救うために肉体において現れてから、まだ二千年もたっていませんが、その前からわたしは存在していました。わたしは永遠なる者、「永遠の父」(イザヤ九・六、ヨハネ十四・九)であり、「義と平和の王」また「祭司」です。だれもわたしのように王と祭司の両方にはなれません。この世の観点から見ると、わたしに系図はありません(へブル七・二、三、ルカ一・三〇~三六)。受肉の前でも、わたしはわたしを愛するすべての人々に現れました。わたしは彼らを助けて祝福しました(創世記十四・十八、十九、ヨハネ八・五六~五九、ダニエル三・二五)。そして今、わたしはあなたの祈りに応えて平安と安息と永遠の命とを与えるためにあなたに現れたのです。
(この現実を十分に実感して悟り、真理の探求者は直ちに永遠のキリストの足下にひれ伏して叫ばずにはいられなかった。)
探求者:おお、私の神また父よ、今日私はあなたが私の命の作者また主であることがわかりました。今や、私は地上の損失を気にしません、私はすべてを得たからです。今日より後、私はあなたの子供であり僕であります。なぜあなたはかくも長い間ご自身をあなたの取るに足りない衰れな僕である私から隠しておられたのですか。
永遠のキリスト:たしかにわたしは今まで自分自身をあなたに啓示しませんでした。なぜなら、今までこの種の啓示を受ける用意があなたに整っていなかったからです。しかし実際には、わたしは常にあなたと共にいたのです。これに加えて、わたしが人間の心と魂に与える内的啓示はわたしの外的な顕現よりもさらに本質的なものなのです。あなたが多くの不幸にさらされてきた事実ですら、あなたを特別な方法で整えるためのものだったのです。なぜなら、悲しみと苦難という手段を通して、真理の探究者らはわたしに近づけられるからです。このような方法で人間の魂の容量は拡張され、わたしの臨在によって覚醒させられて、驚くべき仕方で、神聖な祝福に気づいて享受するようになるのです。苦痛と苦難はしばしば人に自らの欠点を自覚させ、自分の必要を気づかせるので、人は満足を求め始め、遂にはすべての必要を満たすのはわたしであることを見いだすのです。
探求者:おお、何と私は幸いな人でしょう!私の体の毛穴がすべて口になったとしても、あなた――おお私の救い主よ――に対する私の感謝をしかるべく表明することはできません。今や私にはわかります、あなたは口先だけの讃美を望んでおられず、内なる讃美を望んでおられることを。その中にあなたが住んでおられる心は讃美せずにはいられません、なぜなら常に喜びで溢れ流れているからです。今、私の造り主また神よ、あなたに一つの質問を敢てする無礼と偏屈さをお許し下さい。この私の生涯の尊い経験はこの世の合理主義者らがしばしば考えるように単なる主観的なものにすぎないのでしょうか。私としてはこの啓示は客観的かつ真実であることを確信しております。
永遠のキリスト:わたしの子よ、この世の博学な人々が言うことで心を悩ませてはなりません、彼らの大部分は不敬虔で利己的だからです。そのせいで彼らは誤解しており、また盲人を導く盲人の指導者なのです。創造者が全世界を創造し、全世界は彼の中でまた彼を通して存在しているとはいえ、この被造物自体は神ではなくその存在の一部でもありません。しかし、それにもかかわらず、被造物は彼の存在から離れて又それとは別に存在しているわけではありません。それでは、これは被造物には客観的な形体はなく主観的なものにすぎないことを意味するのでしょうか?決してそんなことはありません。実際、わたしの民が持つあらゆる顕現と霊的経験は主観的なものや想像上のものではなく、客観的で真実なものであり、まぎれもなくわたしとの親しい交わりの所産なのです。
探求者:おお神よ、今日私が得た祝福を私の弱さや無関心のせいで失うことがないように祝福してください。また、私が最後まで忠実でいられるよう私に恵みを与えてください。私が常にあなたの真の僕であり続け、あなたの中にまたあなたのために生きるようにさせてください。
永遠のキリスト:常に目を覚まして祈ることが必要です。地上の財産を失っても決して気にしてはなりません。遅かれ早かれそうなるのですから。しかし今や、あなたはあの真の富を持っているのであり、その富は、あなたが自分を失わないかぎり、だれもあなたから奪い去れません。今、あなたは洪水で荒れ狂う川の水面に浮かぶボートに乗って進んだあの人のようです。激しい嵐と波がボートに打ちつけて、ボートは沈んでしまいました。その人は懸命に泳いで安全に岸につきましたが、ポケットに入っていた幾ばくかの金を除く持ち物はみな川の激流で流されてしまいました。岸につくと彼は盗賊らに出会い、盗賊らは彼の持ち物をすべて奪い去りました。要するに彼はすべてを失ったのです。しかし、彼は決して心配しませんでした。なぜなら、彼はその心の中に人間の手が決して奪い去れない真の富と平安とを持っていたからです(ヨハネ十四・二七)。それゆえ、彼は主を賛美して、その素晴らしいいつくしみの歌を歌いつつ去って行き、自分に任された仕事をし始めたのです。
今、あなたも感謝すべきです、地上の富や誉れを失ったことで心が空っぽにされて真の永続する富を受けられるようになったことを。「見よ、わたしは常にあなたと共にいる」、それゆえ行って「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ二一・十五)。
真理の探求者は尊敬と感謝をこめておじぎをして、永遠のキリストの足下にひれ伏した。キリストは彼を祝福すると、姿を消した。彼はそれから起き上って、心を尽くし魂を尽くして主の奉仕に邁進した。