七、神を知り、己を知る

サンダー・シング

金井為一郎 訳

(オリーブ園編集版)

人が自分自身を――自分が誰でありまた何であるかを――知っていたならば、人は自分がその「姿に似せて」造られた神を知ることができていただろう。「なぜなら神について知りえることは、彼らに対して明らかだからである」(ローマ一・十九)。しかし、神を知り己を知ることは「この世の知恵」によるものではないことを記憶しなくてはならない。なぜなら様々な「主義」や「論」がしばしば人を真理に導くよりも反って遠ざけるからである。単なるこの世の学問と知識とは内なる声と感覚とを抑圧する原因となり、人工的な類の声―――それらは誤導してばかりである――を生み出す。しかし、真の知識は祈りと瞑想という手段で獲得される。なぜならその時、「一人で唯一なる御方のもとへと飛んで行く」ことができ、神は心という密室の中で語られるからである。言い換えると、この世の知識は教育(tuition)で得られるが、霊的な知識は神の光に照らされた直感(intuition)によって得られるのである。

霊的な知識を得るには、魂の力と内的な感覚――それは罪のせいで感覚を失って死んでしまった――は覚醒されなければならない。昔、一人の盲人がいた。彼は点字の聖書を読もうとしたが、厳しい寒さのために手指が無感覚になって一宇も読めなかった。そこで彼は火の傍に座って手を暖め始めた。数分後、彼の指は熱で暖まって容易に読めるようになった。まさにそのように、祈りと瞑想によって「義の太陽」(マラキ四・二)の光線と聖霊の火とが心の中に働いて、私たちを生かしまた目覚めさせるのである。このようにして自分自身と神とを知ることによって、私たちは彼の幸いな、命を与える臨在を永遠に享受できるのである。

私たちが「再生」によって神の子になる時、聖霊は、言葉や地上の言語を語ることなく、直接私たちに語って霊的生活の秘訣を教え、また啓示してくださる。私たちが御霊によって生まれる時、霊の言語が私たちの母国語となり、子供が母の言語を自然に学ぶように、私たちは彼が教えてくださることを難なく学ぶことができる。地上の言語や言葉は意味を伝える外的な手段にすぎない。しかし霊の人は――子供のように――言葉抜きでも神が伝えたい意味を理解する。たとえば、母国語が英語の子供にサンスクリット語の「イスワール(ISWAR)」の意味を教えたい場合、その子に「イスワール(ISWAR)」は「ゴッド(GOD)」を意味することを教える。しかし、「ゴッド(GOD)」は神であることを、その子はどんな言語で前もって知るようになったのか?それは言葉によらずに直接彼の心の中に伝達されたのである。

日はそれ自体の光によってのみ見られる。丁度そのように「義の太陽」又は「世の光」も彼ご自身の光によってのみ見ることができる。人はこの光によってのみ自らを知り且つ見ることができる。しかし、それには霊的な視覚を要する。それは、盲人や「見ても見ない」人々はこの事実を理解できないからである(マタイ十三・十三)。

キリストの神性を知るには、私たちは人――この言葉が真に意味するところの人――でなければならない。なぜなら、獣の命は、如何に完全であっても、このためには不十分だからである。罪深い堕落した人は彼を知ることができない。しかし、「新しい人」また「新しい被造物」(コロサイ三・十)となることが、「見えない神のかたちである」(コロサイ一・十五)彼を知り、またそのかたちに似せて造られた人自身を知るのに必要である。罪のために人のかたちは損われ傷ついてしまったから、それは再び造られなければならず、そうして初めて人は自分の主また救い主を認めることができるのである。

罪のために人は真の尊厳と人間らしさを失っているだけでなく、死んでいるのである。そのため、空気のように偏在しておられる神の臨在を感じることができない。また、死人のように、周囲を空気が取り囲んでいるにもかかわらず、それを感じることも呼吸することもない。同様に、罪の中で死んでいる人は神を知らず、祈りの呼吸を享受せず、霊と真理の中で彼を礼拝することもしない。神はアダムの中に「命の息」を息吹かれ(創二・七)、そして彼は「生ける魂」となった。しかし、罪を通してこの「生ける魂」は死んだ。それゆえ、主は人々に新しい命――それは永遠である――を再び息吹かなければならなかった(ヨハネ二○・二二)。人は真に悔い改めて神に立ち返り、神の御前における自分の真の自己を知る必要がある。さもなければ二重の危険がある――神の甘い臨在という祝福を奪われるか、あるいは、この同じ臨在と神の平安とに満たされて「自分は神である!」と夢想しだすかである。

真に神と己を知り、真の命を得るには、人は自己を否まなければならない(ルカ九・二三、二四)。なぜなら、神のみこころを成就するために自分自身の願望や意志を否む者は全き満足を得、その魂の渇望は己を創造したあのみこころによって満たされるからである。それに対して、自分を満足させるために自分自身の意志にしたがって歩むことにより、人はそれとそれを満たす能力とを両方とも損なってしまう。言い換えると、自分自身を否む者はだれでも神と己と自分に必要なものとをすべて見いだすが、自己を否まない者は実際に霊的自殺を犯すのである!

神のかたちと似姿に創造された人が不従順と愚さによってそのかたちを傷つけるなら、その人は放蕩息子がしたように自分自身を傷つけるのである。人が自分自身を傷つけるあまり、その心と感覚が死ぬほどになる時、人は他人をも傷つけるようになる。自分が死んでいるので、自分が他人を傷つけている自覚がないしわからないのである(一コリント十二・十二と二六を見よ)。もし生きていて目覚めていたなら、自分自身や他人を傷つけ害する代わりに、自分自身や他の人々の霊的生活を改善するために最善を尽くしていただろう。こうして、その生活の中で神のみこころと御旨を成就していただろう。

この世ではだれも何らかの苦難や十字架から逃れられない。長期間にせよ短期間にせよ、死の陰の谷を通過する必要がある(詩二三・四)。しかし、自分の十字架を負う真のキリスト者は「死」んでも「生」きる。迫害のただ中でも、木の葉のようである。冬に落ちても、春には新たな活力を帯びて現れて、自分が真に生きていることを証明するのである(二コリント四・八~十、六の四~十)。悲しみと苦しみにもかかわらず、彼らの命は神の中に隠されている。メキシコ湾流――太洋を横切る暖かな海流によって北方の国々を厳しい寒さから守っている――のように、神の愛の隠れた流れと聖霊の潮は神の民を守り、その喜びと満足とを保つのである。

神の人がありのままの自分を知る時、すべては神の恵みによることを認めて、たとえ自分が他の人々より遙かに優れていたとしても、決して傲慢になったり自惚れたりすることはない。

人の魂――それは単なる肉体よりも遙かに優れている――は、思考や行動のための繊細な装置である頭脳を通してのみ働いて自らを表すことができる。それと同じように聖霊は、再生され聖別された命を通して働いて自らを現わし、他の人々の救いのために御旨を遂行されるのである。

義の太陽もまた、そのような人を通してご自身を啓示して働かれる。しかし悲しいことに、時としてその僕らは月のようになって、太陽から借りた光を反射して暗夜を照らすものの、それすら常ではないのである。さらにまた、月は時々地球と太陽との間に割り込んで日蝕を引き起こす。そのように私たちもまた義の太陽とこの世の人々との間に割り込んで、そうして彼らを暗闇の中に残し、また御名を辱めるのである。それゆえ、私たちは勤勉で祈り深くなければならない。なぜなら、主は仰せられたからである、「もしあなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう!」(マタイ六・二三)。私たちの目は私たちの体のともし火であって、非常に小さいが、大きなものも、小さなものも、遠くのものも近くのものも、多くのものを見ることができる。目の中の小さな瞳孔が白内障で見えなくなるなら、暗さがひどくなるだけでなく、周り全体が暗くなって、全く何も見えなくなる。それゆえ、私たちは神の光が自分の中で暗くならないように注意しなければならない(マタイ五・十六)。むしろ、「人々の前で光を輝かせなさい。それは、彼らがあなたたちの良い行いを見て、天におられるあなたたちの父に栄光を帰すためである」。

また、私たちは真珠採りのようでなければならない。海に潜る真珠採りは息を止めるか、水面上の清い空気とつながっている通気管を通して呼吸する。同じように、私たちはこの世の中にいても、「世のもの」であってはならない。この世の空気を「呼吸」してはならない。つまり、パウロが述べているように、私たちは「世に対して死に」「神に対して生きる」ものでなければならない。私たちは祈りの「管」を通して聖霊を「吸い」込み、そうして永遠に生きるのである。

それゆえ、私たちは自らを知るべきである。そして、自らを知る時、私たちは自身に必要なものも知り、心を尽くして神を知ろうと最善を尽くすようになる。神によって私たちの必要はみな十分かつ完全に永遠に満たされる。「世は神を知らなかった」し、知ることもない。しかし、「彼ら」は神を知り、彼ら全員に対して愛の受肉者であるキリストはご自身を啓示されるのである(ヨハネ十七・二五、マタイ十一・二七)。