自然は神への讃美で満ちている、しかし人はそうではない
哲学者や博学な人々の書き物や話を理解するには、まず彼らの専門用語を知る必要がある。しかし、神の書なる自然を理解するには視力だけで十分である。「おお賢い人よ、木々の葉――それらは目には緑に見える――は、実は神の啓示の書の紙葉なのである」。川、小川、泉、山々、果物、花の力強い語りかけは頑固な心をも――耳が開かれているならば――溶かす。被造物はこぞって声高らかに神を讃美しているように思われる。これを聞くとき、私は不幸な人類の状態を嘆かざるをえない、「物言わぬ被造物は笑いつつ感謝をもって神を称賛している。しかし、人は半フィートの長さの舌を与えられていながら、舌を縛られたまま沈黙し続けている」と。おお人よ、鋭い舌を持つ人よ、あなたは無駄話に雄弁であるが、あなたの造主また主を讃美する言を持たない。禍だ、幾重にも禍だ!
神の御言葉は霊であり命である
この尊い書物が私をその著者に導いてから約四半世紀になるが、この間ずっと私の救い主は全くこの書物に記録されているとおりの方であった。彼は私にとって全くそこに読むとおりの方だった。言語の難しさや本文批評は少しもその真理を隠すことも、私の心に命を与える効果を妨げることもなかった。それは「それらは霊であり命である」からである。
聖書を読んでいくうちに、私は言い表せない永遠の豊かな富――かつて考えたことも夢見たこともない富――を見いだした。そして今や、その使信を人々に伝えて分かち合うとき、その祝福は自分にとっても彼らにとっても常に増し加わっていくのである。
命の水
一九二二年に一人の友人とパレスチナを旅行していた時、私は或る有名な井戸(ヤコブの井戸)で甘美な心地よい水を飲んで大いに爽快にされた。しかし、一、二時間すると、私は再び渇き始めた。その時、主の御言葉が私の心に押し迫って来た、「この水を飲む者はだれでも、また渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことはない。わたしが与える水は、その人の内で泉となって、永遠の命へと湧き出るのである」(ヨハネ四・十三、十四)。私は人々が掘った井戸から飲んで、再び渇いた。私は謙遜と感謝のかぎりを尽くしてこう言うことができる、自分の心をキリストに捧げて彼の賜ったその水を飲んで以来二十年の間、自分は決して渇くことがなかった、と。なぜなら、彼は真に命の泉であられるからである。
聖ヨハネの福音書は命のパンである
中部地方を旅行していた時、私は幾人かの未信者に向かって私たちの生ける救い主について話した。話が終った時、私はその人々に向かって、イエス・キリストについてさらに知るために聖書を読みたい人が誰かいるかをたずねた。そこには、一人のキリスト教の敵がいた。彼はヨハネによる福音書の写しを取り、二、三節読むと、直ちに破って投げ捨ててしまった。それは汽車の一室でのことだった。二年後、私は驚くべき話を聞いた。その人が聖ヨハネの福音書を破って窓の外に捨てたその同じ日に、或る真理の探求者が線路に沿って歩いていた。彼は福音書の裂かれた一片を見つけ、拾って読み始めた。すると「永遠の命」という言葉が見えた。ヒンドゥー教によると、人は死ぬことはなく、転生によって生まれ変わって、この世に戻って来るという。しかし、「永遠の命」とは!次に、その福音書の他の一片には、「命のパン」という言葉が見えた。彼はそれについて知ることを切望した。この命のパンとは何だろうか?彼はその断片を別の人に見せて、「この本が何かご存じありませんか?残念なことに、だれかがそれを破ってしまったのです」と言うと、その人は「それはクリスチャンの本です。それを読んではいけません。汚されてしまいます。そんな本を読んではなりません」と言った。最後に彼は言った、「私はもっと知らねばなりません。これらのことをさらに知っても何の危険もありません」。彼は行って新約聖書の写しを一冊買い、読み始めた――そして救い主を見いだしたのである。聖ヨハネの福音書の裂かれた断片は生けるパン――命のパン――の一片であったことが実際に証明されたのである。
私たちは見ずとも信じなければならない
かつてインドの高丘地方を旅していた時、私は岩の上に腰をおろして休んだ。その岩の下には薮があり、その中には巣があって、そこから雛鳥らの鳴き声が聞こえてきた。母鳥が餌を持って来て、その羽ばたきの音を聞くやいなや、雛鳥らは鳴き始めた。母鳥が餌を与えて飛び去ると、雛鳥らは再び静まった。私が巣を調べると、驚いたことに、雛鳥らはまだ幼くて目が開いていないことに気づいた。それでも、母鳥が見えなくても、母鳥が近づくと口を開けたのである。雛鳥らは、「自分の母か餌を見るまでは口を開くまい。それが母なのか敵なのかわからないし、母が持ってきたのが餌か毒かわからないから」とは言わなかった。雛鳥らがこのような方針に基づいて行動していたなら、きっと食べる機会も見る機会も得なかったであろう。なぜなら、目が開く前に飢え死にしていただろうからである。雛鳥らは母鳥の愛を疑わず、母鳥が持ってきたものを信じた。数日後、その目が開いた時、雛鳥らは愛する母鳥を見て幸いだった。そして、ますます強くなって母鳥の似姿に成長し、間もなく飛び去れるようになったのである。神の最高の被造物である人は、これらの取るに足りない小鳥よりも劣っているのではないだろうか?なぜなら時として私たちは、私たちの天の父の存在と愛とを疑うからである。イエスは仰せられた、「見ずに信じる者は幸いである」(ヨハネ二○・二九)と。
命と豊かな命
重い病気で動けず床についている人がいた。その手も足も麻凍していた。すると毒蛇がやって来て、その人は逃げられなかったので、蛇に噛まれて死んでしまった。あるクリスチャンは命を持っているが、自らを救うのには十分ではない。キリストが来て私たちに豊かな命を与えてくださった。私たちが罪から逃れられるほど豊かな命をである。この命にあずかる者となるには、私たちはすべてを捨てて彼に従う覚悟をしなければならない。
永遠の命はここで今始まる
主は言われる、彼の言葉は「霊であり命である」と。すべての真のキリスト者は自分の個人的な経験と観察から、神の言葉はあらゆる状態や階級にある人々の死んだ心を生かすことを実感している。他の宗教の聖典は、もし人が今生で祈り深い禁欲的な生活を送るなら来世で永遠の命を持つと教える。しかし、今永遠の命を得ないなら、未来に対する希望はない。主は讃むべきかな、主はこの世で天的な永遠の命と同じ命を与え、御霊を遣わすことによって忠実な者の心をパラダイスとされる。これは私たちが将来永遠の命を持つ証拠である。
経験してはじめて理解できる
ヒマラヤ山の万年雪の間――そこではすべてが凍りついていた――を旅していたとき、私は温泉に出くわして、ある人にその温泉について話した。その人は湯に触れるまでそれを信じようとしなかった。その後、彼は山の中に火があるにちがいないと言った。彼の頭脳が彼の理解を促し始めたのである。彼は経験したからである。私たちは霊的経験をするまでは理解することができない。そして、経験は祈りを通して来るのである。
祈りは隠れた根である
ある砂漠地帯――そこに水の気配はなかった――に一本の木が生えていて、緑の葉が茂り実を結んでいた。それは、その木の長い根が延びて、地の深い処にある隠れた水にまで達し、それによって養われていたからである。祈りは隠れた根であり、隠れた水――それは神である――に至る。祈りを通して私たちは神から命と実を結ぶ力とを受けるのである。
死せる教会
パレスチナで私はヨルダン川の近くに立って思った。「この水、この新鮮な甘い水は常に死海に流れ込んでいるが、死海は依然として死の状態にある。それは流れを注ぎ出していないからである」と。そのように或るキリスト教会は死んでいる。イエス・キリストからの新鮮な水が常に流れ込んでいるのに、死んだ状態である。なぜか?それらは他に与えていないからである。
あなたの心は一つだけである、それを神に与えよ
あなたの心は一つだけである。もし心が二つあったなら、一つは世に与えることができただろう。しかし、あなたには一つの心しかない。それを主に献げよ。そうすればあなたは主を受け、主と共にすべてを受けるだろう。
あなただけを私は求める
私の主なる神よ、私のすべてのすべてよ、私の命の命よ、私の霊の霊よ、あわれみをもって私をみそなわし、聖霊をもって私を満たしたまえ。それは、ただあなたの愛だけが私の心を占めるようになるためです。私はあなたご自身以外の賜物をあなたに求めません。あなたは命とあらゆる祝福との与え主です。あなたから私は世やその宝を求めません、天さえも求めません。ただあなただけを願い求めます。あなたの在ますところ、そこが天です。私のこの心の飢え渇きを満たせるのは、心を生み出されたあなただけです。おお私の造り主よ!あなたは私の心をただあなたご自身のために造られました、他のもののためにではありません。それゆえ、この私の心はあなたの中にのみ安息と平安を見いだします。あなたが心を造り、その中に安息を求めるこの願いを置かれたからです。ですから、私の心からあなたに逆らうものをすべて取り去り、私の心の中に入り、留まり、永遠に支配してください。アーメン。