サンダーシングの生涯と教えは世界の教会にとって大きな価値がある。今日、私たちは様々な国がそれぞれの特別な賜物を持ち寄ることのできる世界教会という観点から考えている。イエス・キリストの福音には普遍的な意義がある一方で、国によってこの福音の異なる側面を強調する傾向がある。今日多くの国でなされているキリスト教の様々な解釈をまとめることは私たち全てにとって有益である。それらは、私たちの主イエス・キリストの福音が如何に豊かであるかを私たちに示してくれる。
サンダーシングは幼年の頃、インドが与え得る生活と文化の最良のものを受けた。彼は一八八九年九月四日にパンジャーブ地方ランプール村に生まれた。彼の父は裕福で、広い麦畑の土地を所有していた。彼は本当に恵まれた環境で育った。彼の両親の宗教はシーク教であり、シーク教はもともとヒンドゥー教及びイスラム教の最良の要素が融合したもので、偶像も階級もなく唯一の神を礼拝することを目指していた。しかし、サンダーシングの家ではシーク教と同じくヒンドゥー教も重要な部分を占めていた。彼の母はとても宗教的な婦人であり、彼の幼い頃から神を礼拝し、神に献身するよう彼に教えた。彼女は朝早く起きてバガヴァッド・ギーターとその他の聖典を読み、朝の食事の前に祈りを捧げるようサンダーにいつも促していた。この幼年時代に、彼女はできる限りの宗教教育を彼に施した。彼女はいつも彼に、全くこの世を捨てて神に従う聖者であるサドゥーになるよう教えていた。後年サンダーシングは時々言った、自分をサドゥーにしたものは母であり、クリスチャンにしたものは聖霊であると。
彼が成長すると、サンダーの母は彼をヒンドゥー教のパンディット(学僧)とサドゥーに預け、さらなる霊的指導を受けさせた。ヒンドゥー教の教師たちは彼にバガヴァッド・ギーターを教えた。七歳になるまでに彼はそれをすべて暗記してしまった。彼らはまたインド哲学の根本教理を教え、特に神は唯一の実在であることと、私たちはみな彼と一体であることとを教えた。サンダーはこの教えによって満足せず、魂が切望する平安を得る最善の方法は何かと問い詰めた。教師たちは「もっと大きくなれば、もっとよく理解できるようになる」と言って、彼をなだめようとしたが、彼は言った「どうして飢えている子供に『成長するまでパンを待て』と言えるでしょう。飢えを満たすには今すぐにパンが必要なのです」と。彼は教師たちから受ける宗教的教えに耳を傾けるだけでなく、昼夜を問わず様々な宗教の聖典を熱心に読み耽り、時には深夜まで起きていることもあった。父親は叱って言った、「何と狂気じみたことか。そんなに長時間、遅くまで読書をしていたら、健康と視力を害するだけだ。おまえの年頃の子供は遊びに時間を費やすもので、こんなに勉強はしないものだ」。ランプールにはアメリカ長老派宣教団の学校があり、彼はそこに送られたが、イエス・キリストの宗教を憎んでいた。外国の宗教だったからである。キリストの幻を見た時、彼は霊的転機を迎え、キリストに従う者となった。彼自身の言葉で、その回心の物語を語ってもらおう。
私はヒンドゥー哲学の中に何物も見いださなかった。ただ私の憎んできたイエス・キリストの中にのみ平安を見いだした。私は霊的に盲目だったが、彼の中に長い間私の求めていたものを見いだした。私は一九○四年十二月十六日を忘れることができない。私が聖書を火に投じて焼いた時に父は言った「なぜおまえはそんな愚かなことをするのか?」。私は言った「西洋の宗教は偽りだ、これを滅ぼさなければなりません」と。そうして私は聖書を焼き、自分の義務を果たしたと思った。それから三日目に私は生けるキリストの御力を見た。その三日目に私は心の中に平安を少しも持つことができずに自殺しようと思い、朝早く起き上った。それは冬であったが冷水を浴びて後祈祷に入った。しかしキリスト教のキリストへではなかった。私はキリスト教を憎んでいたからである。また神への信仰を失っていたから、無神論者のような祈りであって、こう言った「もし神がおられるなら私に救いへの道を示してくださらねばなりません。そうでなければ私は自殺します」。早朝の三時から四時半くらいまで祈っていた。五時頃に通る汽車の前で自分の頭を線路において自殺しようと思ったから、まだ半時間ばかりを残していた。その時、私が少しも予期していなかった事が起きた。室内が驚くべき光で満たされた。そして室内に栄光に輝く姿が立っているのを見た。私はそれがいつも拝し、又は拝そうと願っていた仏陀かクリシュナか他の聖者であると思った。しかし次の言葉を聞いて全く驚いてしまった。
「あなたはいつまでわたしを迫害するつもりなのですか。わたしはあなたのために死んだのです。あなたのためにわたしは自分の命を捧げたのです。」
私は理解することができず、一言も語ることができなかった。それから私は生けるキリストの傷跡を見た。今までは彼を昔パレスチナに住んでいた一人の偉人で、今はもう死んでしまった人であると考えていた。しかし私は彼が生きておられること、生けるキリストであって死んでいなくなったわけではないことを見いだした。私が三日前に聖書を焼いたにもかかわらず、彼は怒っておられなかった。私は一変した。そこで私は世界の救い主、生けるキリストを知って、私の心は言い表わせない喜びと平安で満たされた。私が立ち上がると、彼は見えなくなってしまった。私は父に話しに行ったが、父は信じることができなかった。「一昨日聖書を焼いたばかりではないか。どうして今クリスチャンになったなどと言えるのか?」「今、彼の御力を見たからです。彼は生きておられるキリス卜です。私が彼を見たことは想像ではありません。そのわけは、御姿を見る前は彼を憎んでいましたから、私は彼を拝しませんでした。もしそれが仏陀であったなら、あなたはそれは想像だと言えたでしょう、私は平素彼を拝していたからです。それは夢ではありません。冷たい水を浴びた直後に夢を見ることはだれにもできないからです。彼は事実、生けるキリストです」。
初めサンダーシングの近親は、イエス・キリストを見たという彼の幻や、キリストに従おうという彼の決意を、深刻に受けとめていなかった。彼らは、彼がクリスチャンになったら家族にとって大きな恥だと思ったので、その考えを捨てるよう彼を説得しようとした。優しい愛の言葉や説得が失敗すると、彼らは多くの厳しい冷酷な仕方で彼を脅迫した。彼はシーク教徒として長く伸ばしていた髪を切って、本当にシーク教を放棄したことを示した。すると、彼らは彼を追い出した。しかし、彼が去る前に、食物の中に毒を混入された。彼が保護を求めてクリスチャンの知人の家にまで辿りついた時、盛られた毒が効いてきて彼は瀕死の状態になった。彼を診察に来た医者は薬を与えることを拒んで言った、もしも少年が死ねば自分が非難されるからだと。しかし、サンダーは回復すると確信していた。そして、そのとおりになった。その医者はこれを見た時、非常に深い感銘を受けて、自らもクリスチャンとなり、二年後には福音の奉仕者となった。
サンダーシングは宣教師たちによってアメリカ長老派宣教団が運営するルディヤーナーの高等学校に送られた。彼はバプテスマを受けることができなかった。というのは、当時彼は十五歳であり、インドの法律では、非キリスト教徒の少年は十六歳に達しなければバプテスマを受けることはできないとされていたからである。
一九○五年九月二日、彼は紹介状と共にシムラのC.M.S.宣教団(英国国教会伝道協会)のJ・レッドマン牧師のもとに送られた。レッドマン氏は注意深く少年を吟味し、サンダーがキリストの生涯と教えとに関して既に有していた知識に深い感銘を受けた。彼は、サンダーがとても誠実であること、そしてすでにキリストを救い主として個人的に経験していることを確信した。少年は言った、たとえバプテスマを受けていなくても出て行って宣べ伝えたい、自分の内にはイエスの御名を告げよという非常に強い促しがあるのです、と。サンダーシングは一九○五年九月三日、彼がちょうど満十六歳になった時、シムラの聖トマス教会でJ・レッドマン氏からバプテスマを受けた。
サンダーシングは長年の間、彼の母が常々勧めていたようにサドゥーになることを願っていた。バプテスマを受けた今、彼はクリスチャンのサドゥーになる決意をし、一九○五年十月六日にその生活を始めた。彼のバプテスマの三十三日後のことである。彼はキリストを宣べ伝えつつ各地を旅すること、またこの働きのために金銭を受け取らないことを決意した。もし食物が与えられるならばそれを受け、そうでなければ飢えを選ぼう、もし招かれたらその家で眠ろう、そうでなければ木の下や洞窟で眠ろうと。彼の務めの初期の頃は、彼はこの理想を忠実に守った。特に彼の名が知られていない土地では、飢えたり洞穴で眠ったりすることがたびたびあった。極寒の天候のときでも、彼は薄手の黄色い綿の衣を着た。彼はこの服装で世界中を旅した。
一九○六年八月から一九○七年十一月までサンダーシングはS・E・ストークスと共に働いた。彼はアメリカの裕福な青年であったが、イエスの生涯及びアシジの聖フランシスのような托鉢僧の生涯を理想としてそれに没入した。サンダーシングとストークスの両人は疾病、癩病、コレラ、飢饉に悩む人々に仕えた。ストークスは短いけれども当時の興味ある観察を述べている。
彼は少年の域を脱したばかりにすぎないけれども、すでにその主のために飢え、寒さ、病、さらには投獄までも耐え忍んできた。私たちは何百マイルも奥地へ踏み入り、とても衛生状態の悪い土地を通過しなければならなかった。サンダーシングは連日高熱に侵され、激しい消化不良にも苦しんだ。ついにある夜、私たちが徒歩で歩いていると、彼はひどく具合が悪くなり、もはや歩くこともできなくなり、道に倒れて気を失った。道は幾つもの山々を通っていて、その脇に土手があった。私は彼を引きずり、頭が足よりも高くなるように土手にもたれさせた。彼は発熱の前兆である悪寒で震えており、その顔は胃の不調による痛みで引き吊っていた。私たちは孤立していて、徒歩であり、気候はとても寒かったので、私は心配だった。私は彼の耳元にかがんで、どんな具合かと尋ねた。彼が決して不平を言わないだろうことはわかっていたが、返ってきた答えは予期せぬものであった。彼は目を開けてぼんやりと微笑み、ほとんど聞きとれないほど低い声で言った。「私はとても幸せです、主のために苦しむことは何と甘美なことでしょう」と。
一九○九年から一九一一年にかけて、当時デリーの聖ステパノ大学の教授だったC・F・アンドリウスは、暑い季節になると毎年シムラ山中のコトガルに赴いていたが、そこで彼はサンダーシングと親しく交わるようになった。彼も夏の間、絶え間ない伝道旅行の合間に、休息をとるためにそこを訪れていたからである。彼らの友情は深まり、サンダーシングの生涯の終わりまで続いた。アンドリウスはサンダーとその働きについて――特に彼がまだ有名になる前の初期の頃の――興味深い観察を記した。彼は一九○七年コトガルの小さなキリスト教会でラホールのレクローイ主教によって行なわれた印象深い堅信礼について書いている。日曜日の朝、村の会衆は主教を迎えるために陽光を浴びて立っていた。雨は止んで空気は清く空は紺碧であった。その式には驚くほど平和な雰囲気が漂っていた。堅信礼を受ける人々はみな白衣をまとい、按手によって聖霊を受けるために一人ずつ前に進み出た。最後に堅信礼を受けたのはサンダーシングだった。式の後、主教が彼と握手を交わし祝福の言葉をかけた時、彼の顔は確固たる確信と輝くような活力に満ちていた。
以下に、サンダーシングが初期の務めをどのように行っていたのか、いくつかの例を挙げることにする。ある夜、コトガルで彼は祈りを終え、一人で出かける準備をした。そんな夜の時間に森を通って歩くのは多くの危険があった。友人たちは夜明けまで待つよう勧めたが、サンダーシングはその忠告に耳を貸さず、夜中のその時刻に出発することを主張した。数日後に戻った彼は、訪ねた人物が重い病にかかっており、彼の助けを切実に必要としていたと語った。聖霊の召しに、結果を顧みることなく従うこの態度こそが、サンダーシングのクリスチャンとしての全生涯の特徴であった。
学期中、彼はデリーの聖ステパノ大学へ行って幾ばくかの時間をそこで費やした。寮のクリスチャンの学生たちは、しばしば夜遅くまで彼と座談した。彼は彼らと同じように若く、その勇敢な精神は彼らに強く響いた。学生の一人だったあるクリケットの選手は政府の職に心を引かれていたが、それよりも直接キリスト教の働きに従事することを選んだ。別の学生はキリスト教会で奉仕者となって、奉仕と祈りの生活を送ることを決意した。大学の清掃夫の一人が病気になった。普通学生たちはこのような人々には無関心であった。彼は「不可触賤民」だったからである。しかしサドゥーの感化を非常に強く受けていたある男性はその清掃夫の宿舎で彼と共にすごし、病気のあいだ彼を介抱した。
アンドリウスは、サンダーシングが田舎でシーク教徒として育った少年の頃、超自然的なものを無条件に信じるようになったことを明らかにしている。彼自身の気質と、彼が熱心に取り組んでいた長時間の祈りと瞑想が、彼の初期の信念を確固たるものにした。神は常に奇跡を起こして信者たちを迫害や死から救ってくださる、と彼は容易に確信することができた。言い換えれば、彼は常に夢と幻と奇蹟の世界に生きており、自分の思考及び幻と外の世界の出来事との区別が時としてつかなかった。彼には自分の夢と幻が自分の精神の中だけでなく実際に人生に起きたものであると信ずる傾向があった。
一九○九年、レフローイ主教は、叙任に向けて神学を学ばせるために、サンダーをラホールの聖ヨハネ神学校に送った。サンダーシングはレフローイ主教を深く愛しており、彼への敬意から進学に同意した。しかし、彼は神学校の生活に馴染めなかった。そこでは生活が知的追求に満たされるあまり、祈りの中でキリストの足下に座る時間が十分に取れないことに彼は気づいた。彼は、学術書を学ぶよりも信仰の創始者に祈り深く接触する方が、キリスト教信仰についてはるかに多く学べると確信した。同級生たちはキリストに対する彼の幻を理解せず、彼が追及する奉仕と犠牲の理想をあまり理解しなかった。アンドリウスは言う、サンダーシングは籠の中に入れられた森の鳥のようだったと。彼はコトガルでの喜びに満ちた開放的な自由と、丘陵の平穏と孤独を懐かしみ、全く幸せというわけではなかった。「どのキリスト教会でも自由に説教をし、また聖餐を受けることができるのか」という質問が持ち上がった時、主教は明言した――それはできず、奉仕できるのは聖公会の教会のみであると。サンダーシングは、これはキリストの教会の普遍的性格にそぐわないと感じた。そこで多くの思索と祈りの末、彼は神学校を去った。そこに居たのは八ヵ月足らずであった。
後に、彼は聖ヨハネ神学校についてこう書いている。
私はたしかに多くの有益で興味深いことを学んだが、それらはあまり霊的な益にならなかった。そこには教派について、イエス・キリストについて、多くの興味深い事柄についての論議はあったが、私はこれらすべてのことの実体・真髄をただ主の足下でのみ見いだした。祈りつつ主の足下で時間を費やした時、私は照らしを受け、神は私の母国語でも表現できないことをたくさん教えてくださった。祈りつつ主の足下に座しなさい、それこそがこの世界で最も偉大な神学校である。私たちは神学について知っているが、彼は神学そのものの源である。彼は理解するのに何年もかかる真理を数秒で説明してくださる。私の学んだことは、すべて彼の足下で学んだものである。
一九一二年から、サンダーシングはチベットを定期的に訪れるようになった。彼はチベットでは福音宣教が禁じられていて、キリスト教の伝道者は迫害されて殉教しかねないことを知った。これは直ちに彼の心に強く訴えかけた。しかしチベットで容易に歩き回れるのは四月、五月、六月だけであることがわかった。他の月は大雪だったのである。そこで彼は一年のうち九ヶ月はインドの平原で働き、他の三ヵ月はチベットや福音宣教が禁じられているネパールのようなヒマラヤ諸国で福音を宣べ伝えることにした。このようにして彼は八年連続でチベットを訪問したようである。幸いなことに、これらの伝道旅行に関する彼自身の報告が残っており、元はウルドゥー語で書かれ、「ヌール・アフシャン」というキリスト教の新聞に掲載された。迫害や殉教(サンダーシングが大いに切望していた)に加えて、気候、盗賊、険しい隘路といった多くの困難や危険があった。サンダーシングは、私たちの救いのためにこの世界に降って十字架上で苦しまれた私たちの救い主イエス・キリストのために、自分もこのように苦しまなければならないと感じていたのである。
一九一二年三月九日、サンダーシングはチベット人同行者T・ナシブ・アリと共にプーから出発し、標高約一万五千四百フィートのシプケを目指した。道は雪で塞がれており、そこに行くことはできなかった。一行は代わりにラマ僧の長が住むタシガンへと向かった。一行はサトレジ河を藁でできた棒で渡らなければならなかったが、その棒は前後に揺れて目が回るほどだった。しかし、サンダーシングはとても勇敢で、この危険な道具でいとも簡単に川を渡った。その後、一行は山を着実に登りつつ、約五マイル歩かねばならなかった。風はとても冷たく、一行の手や顔は氷のように冷たくなり、一言も話せなくなった。ラマ僧の長は一行を温かく迎え、サンダーシングの話を聞くために集まるよう人々を招いた。彼はこの人々に宣べ伝え、ナシブ・アリが通訳を務めた。話は三時間続いた。
しかし、全てのラマ僧がそのように友好的だったわけではない。サンダーシングの報告によると、ある時、政府の命令に背いて福音を宣べ伝えたために、枯れ井戸に投げ込まれ、そこでかなり苦しんだという。この出来事は一九一二年頃に起きたにちがいない。
「私は時々あの日のことを思い起こす、チベットで福音を宣べ伝えたために深い井戸に投げ込まれた日のことを。三日間、私は食べ物も水もないまま、その井戸の中にいた。蓋は閉じられていて、真っ暗だった。その井戸の中には死体と骨しかなく、まるで地獄のようだった。そこで私は誘惑を受けた、『おまえのキリストはおまえを救ってくれるのか、今やおまえはこの牢獄に閉じ込められているのに』と。しかし私は覚えている、迫害のさなか、腕は折れ、悪臭が漂っていたにもかかわらず、素晴らしい平安と喜びが自分に臨んだことを。その地獄は天のように思われた。私は生けるキリストの臨在を感じた。約束されたとおり、彼はいつも私たちと共におられる。このような平安の中で十字架を経験するとはこれまで思いもよらなかったが、そこで私はこれを経験をしたのである。その後、驚くべきことが起きた。ついに自分の時が来て自分は天に召されるのだと思っていた時、だれかが蓋を開けたのである。だれも見えなかった。その時、不思議な力が自分を救ってくれたことがわかった。もしかすると、『それは夢だったのである』とか、『だれかがその井戸の中から助け出したのである』とか思う人もいるかもしれない。しかし、私を自由にしてくれた方――その方が私の腕に触れると数分後には腕は治ってしまった――は人間ではなかった。人間にそんなことはできない、できるのは神の力だけである。今、私が宣べ伝えているのは、書き物を通してキリストを知っているからではなく、自分自身の経験からキリストを知っているからである。彼は生ける救い主である。もしイエス・キリストが生けるキリストでなかったなら、私は福音を宣べ伝えていないであろう。」
一九一二年十一月十二日、サンダーシングはカルカッタ市のハリソン通りで説教をしていた。十二人のヒンドゥー教のパンディット(博学な人)がその道を通り、彼の路傍説教を聞いた。彼らの中の一人が叫んで言った、キリストは実際にニシュ・カランク・アヴァターラ(無垢なる化身)である、それで自分たちは彼の慎ましい僕また弟子になりたい、と。彼らはベナレスで聖なるヴェーダ(註:バラモンの古い経典で四部より成る)を学び、長い間、ヒンドゥー教とキリスト教のどちらが救いの手段であるかを見極めたいと願っていた。これらのパンディットのうち四人は商店街で、自分は心ではクリスチャンであると公言した。三日後に彼らはサンダーシングに会い、宗教上の問題について三時間語りあった。いずれ彼らは信者になるだろうと彼は確信した。三年後の一九一五年、「彼らのうちの何人かがクリスチャンになった」と記している。
何年もの間、サンダーシングは主なる救い主がなさったように四十日間の断食をしたいと願っていた。そこで、彼は一九一三年一月下旬にリシ・ケシに行った。その近くにタポバンという森があり、そこではインド中から来たヒンドゥー教の修行者の群れが様々な苦行に取り組んでいた。タポバンの先にはカジリバンという別の森がある。カジリバンの森はとても深く、通常は竹の伐採人しかそこへ行かない。サンダーシングはこの森に隠所を求めた。この深いジャングルには野生動物が住んでいたが、彼はそれらを恐れていなかったようである。数日間の断食の後、彼は非常に衰弱して横たわらねばならなくなり、動くのもやっとなほどだった。そんな状態にある彼を見た二人の木こりが、彼を毛布に乗せ、竹の棒で担ぎ、リシ・ケシに運んだ。リシ・ケシから彼は汽車で次に荷車でアンフィールドの村へ運ばれ、そこで数名のクリスチャンが彼の看護と世話をした。断食でとても衰弱していたため、一人の人が彼を支えなければならないほどだった。初日は話すことすらできず、二日目からようやく話せるようになった。彼は牛乳を与えられ、次にスープ、サゴー(椰子で作った澱粉)、そして八日か十日たってようやくパンが与えられた。サンダーシングが彼の断食について記した以下の記述は興味深く貴重である。
「数年間の奉仕の後、私は、なんの妨げもないどこかの森に入って、四十日間の断食を行い、過去の働きへの祝福と将来のための力とを求めるように、という導きを感じた。断食を始めた当初、数日間は大きな困難を経験したが、その後は全く困難ではなくなった。しかし血が涸渇してしまって、見る力も話す力もすっかりなくなってしまった。何も聞こえず、衰弱のせいで体の向きを変えることすらできなかった。しかし、私の知力は数倍研ぎ澄まされ、これによって魂は肉体が死んでも生き続ける不滅の実体であるという真実の証拠を得た。その状態の中で、私は言葉では表現できない神の臨在と御霊の満たしを経験した。さらにその状態の中で、私は栄光に満ちた主の御姿の幻を見た。そして、主は私を今しばらく生かし続けて主に仕えさせてくださるという確信を得たのである。」
彼の断食の長さについては様々な議論がある。関連する事実の多くが不明なため、その長さについては推察することしかできない。手元にあるすべての情報を注意深く検討した結果、彼が断食したのはおそらく二十三日間であったと考えられる。断食の期間がどうであれ、この断食は彼の霊的生活の転換点だったと述べる充分な証拠がある。彼の疑問や困難の幾つかは解消され、彼は新たな奉仕の期間のために大いに力づけられたのである。
一九一四年七月、福音を宣べ伝えるために彼はネパールへ赴いた。彼はネパール人のクリスチャンであるブディ・シング氏がネパールに小さな病院を設立し、治療のために訪れる患者たちに毎日宣べ伝えていたということを聞いた。ブディ・シング氏は二十四時間の猶予を与えられてその国土から追い出された。そして当局はクリスチャンの入国を厳しく禁じる命令を発した。いかなるキリスト者も入国すれば、厳格な六か月間の禁固刑に処されるというのである。サンダーシングはこれを聞いた時、非常に落胆した。しかし彼が祈ってから聖書を開くと、「見よ、わたしはあなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた」(黙示録三・八)という箇所が開かれた。そこで彼の心は喜びに満たされ、「進め、クリスチャンの兵士らよ」と歌い始めた。彼は報告書の中で、ネパールで捕らえられて投獄されたことを次のように記している。
「彼らは私の衣服をすべて剥ぎ取り、両手両足を木の枷に固定した。そして、たくさんのヒルを持ち込んで私の傍らに放ち、外からは汚物を投げつけ、罵声を浴びせた。二、三時間はひどい苦しみを感じたが、その後、私の主はご自身の聖なる臨在によって牢獄をパラダイスに変えてくださった。私の心は限りない至福で満たされた。私が喜びに満たされて歌っていると、多くの人々が聞くために戸口に来たので、私は再び宣べ伝え始めた。その後、彼らは私を解放した。私はヒルに血をたくさん吸われたので、翌日は歩くとめまいを感じた。御名のために苦しむ栄誉を私に授けてくださった神に栄光あれ。」
サドゥーとして彼は、人々が家で眠るよう招いてくれないときは、しばしば洞穴や廃屋で眠らなければならなかった。以下はその印象的な経験である。
雨の降る中、私は夜になってドイワラに着いたが、宿を提供してくれる人がだれもいなかったので、汚物に満ちた荒れ果てた場所に行って眠った。それよりもましな場所は見つからなかったからである。私が持っていたのは一枚の毛布だけで、ずぶ濡れだった。その毛布の半分の上に横たわり、もう半分を体にかけて眠った。朝起きると、大きな蛇が毛布の中で私と並んで横たわっているのを見つけた。これを見て私は大声で叫んだが、その後、私の心は感謝で満たされ、慰めを覚えた――神は夜通しこの有害なものから自分を守ってくださったのだから、きっとその口を今も閉ざしていてくださるだろう、と。そこで私は起き上がり、ゆっくりと毛布を取り除いた。蛇は隅の方でトグロを巻いたままだった。私たちの愛する主は、その約束にしたがって、日々私たちと共にいて、あらゆる危険から私たちを守ってくださる。これは疑いようのない事実である。
ヌール・アフシャン紙(一九一五年八月十日)は、或る記者からの報告を掲載した。それは、サンダーシングが行った働きと彼が遭遇した諸々の困難の例を示すものだった。
森林局関連の用事を済ませて丘を下っていた時、私は一人のサドゥーを見かけた。そのサドゥーはヒンドゥー語とウルドゥー語の本を片手に持ち、毛布を肩に掛けて、息を切らしながら坂を登っていた。真昼の暑さと急な坂道のせいで、汗が滝のように流れ落ちていた……しばらくして村に着き、汗を拭うと、彼は丸太に腰掛けて歌い始めた
「私たちが罪の中で溺れていた時、
キリストは私たちを救うために天から下って来てくださった。」
私はアリアサマジの熱心な信奉者だったので(バプテスマを受けてはいなかったが、スワミジの素晴らしい生活が、私を命の泉なるキリストに導いたのである)、これを聞いて激怒した。彼が宣べ伝えている時、怒りをおさえるのが困難だった。そのとき、聴衆の一人が激怒して立ち上がり、そのスワミジを殴り倒した。スワミジは顔から倒れた。彼の片手は激しく痛み、その顔は血に覆われた。しかし、この勇敢な人は一言も発しなかった。彼は立ち上がり、ターバン(頭布)を手に巻いて包帯とし、喜びつつ歌い、私たちの幸いのために祈り始めた。約半時間の間、血が彼のこめかみから流れ落ちていた。血の流れと共に、涙が彼の目から真珠のように地に落ちた。このような偉大な人物の血と涙が実を結ばないなどということがありえるだろうか?決してありえない!
サンダーシングの報告によると、彼はヒマラヤでの伝道旅行の間、カイラシ山付近の洞窟で年老いたクリスチャンのマハリシに一九一二年、一九一六年及び一九一七年の三回会ったという。この老聖徒は全ての時を聖書の学びと祈りに費やしていた。彼が言うには、三百歳とのことだった。サンダーシングは彼の足下に座し、敬意をもってマハリシの霊的教えに耳を傾けた。マハリシはまた、主イエス・キリストの信者である数千のヒンドゥー教のサンヤシがいることを彼に告げた。彼らは秘密のサンヤシミッションのメンバーであり、礼拝のため定期的に集まって、インドの諸地方でキリストを宣べ伝えているとのことだった。これについては三つの可能性がある。(1)サンダーシングがこの話をでっち上げた可能性。しかし、私が知るサンダーシングの性格から判断するに、彼がそんなに不正直だとは思えない。(2)サンダーシングが幻か夢の中でマハリシを見た可能性。しかし、彼は常にこれを強く否定した。(3)サンダーシングはカイラシの近くで、非常に高齢であるというマハリシに会ったのだが、それを無批判に受け入れて広めてしまった可能性。彼が絶えざる祈りととりなしと聖書の学びに励んでいる老聖徒に会ったことについては何ら疑うべき理由はない。
一九一七年から彼の名声が広まるにつれて、彼に対する招聘が殺倒した。一九一七年には西インドを訪れ、翌年には南インドとセイロンの全土を旅した。さらに翌年にはビルマ、マラヤ、中国、日本を訪問した。一九二○年には英国、アメリカ、オーストラリアを旅行し、一九二二年にはスイス、ドイツ、ポーランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの重要な多くの場所で宣べ伝えた。
南アメリカ、中央アフリカ、ニュージーランド等、世界各地から手紙が寄せられた。それらの国々も訪問するよう促す手紙であった。まだ若い青年の時から、彼はインド全土で福音を宣べ伝えることを願っていた。しかし、彼は夢にも思っていなかったのである、パンジャブ出身の一人の素朴な田舎青年である自分が世界中からこのように招待されて、国々に向かってキリストのために証しすることになろうとは。
一九一九年から一九二二年まで、私はオックスフォードで哲学博士の学位を取得するために働いていた。一人のインドのクリスチャン指導者が今やインド人に非常に効果的に宣べ伝えるようになり、インド最高の霊的理想像の何人かをキリストの御名の中にバプテスマしていることに、私は大いに引き付けられた。一九二○年二月に英国に上陸したサンダーシングはバーミンガムに近いウッドブルック居留地でクエーカーの友人たちと一週間すごした。そこからオックスフォードの近くのカウリーに来て、アングロ・カトリック的な礼拝と生活を行う福音史家聖ヨハネ協会の家に滞在した。これがまさに彼の特徴だった。彼はあらゆる教会のクリスチャンたちの間を自由に動き回り、彼らはみな温かく彼を迎えた。私はオックスフォードでできるだけ多くの時間を彼と共に費やし、私が自由な時は、ロンドン、パリ、ジュネーヴ、ロ-ザンヌまで彼について行った。私は巨大な会衆に対する彼の演説を幾つか聞いた。また、彼が人々の小さな群れに向かって語り、彼らの多くの質問に対して機知と真の洞察力とをもって答えるのを聞いた。
西洋でサンダーシングがこれほど大きな魅力を放った秘訣は何だったのか?第一に、彼の画のような姿である。彼は背が高く調和のとれた姿で、流れるような橙色の衣服をまとい、同じ色のスカーフを肩から斜めに掛けていた。また、同じ色のターバンをかぶり、きちんと巧みに巻いていた。また裸足に質素なサンダルを履いていた。その顔は穏やかで輝かしく、たちまち人々の注目を集め、「イエスがこの地上におられた頃、こうした姿をしておられたのではないか」と人々に思わせた。チベットにおけるサンダーの英雄的な宣教活動の物語は大きな感銘を与えた。生涯を通じて宣教に関心を抱いてきた男女は、インド出身のこのクリスチャンを見て大いに喜び、宣教活動への長年の献身は確かに価値あるものだったと感じた。
サンダーシングが世界各地で行った伝道旅行の霊的結果を評価することは困難である。彼と親しく行動した友人たちは、何件かの回心が起きたと報告している。多くの記者が彼に手紙を書き送ったが、その中には、彼の講演によって大きな助けを受けたことを、彼の西洋訪問の数年後に知らせる手紙もあった。熱心なクリスチャンたちは、彼との接触から新たな霊的力を得た。宣教に携わる友人たちは、イエス・キリストの御名を世界中に広めるために、より熱心に働くようになった。
彼が西洋を訪問した結果として、三つの書物が彼のキリスト教メッセ―ジを示すために書かれた。キャノン・B・H・ストリーターと私は英語で「サドゥー」(The Sadhu)という題名の書物を書いた。これは非常に多く発行され、多くの言語に翻訳された。キャノン・B・H・ストリーターは優れたオックスフォードの神学者であった。サンダーシングと接触するようになった時、彼はサンダーシングが昔の聖者のように献身と奉仕の生活をこの二十世紀で送る霊的天才であることを確信した。ウプサラの大主教であるナタン・ゼーデルブローム博士はスウェーデン語でサンダーシングについて書いた(註:著名「ルターとサンダーシング」)。ドイツのマーブルグのF・ハイラー教授はドイツ語で彼の生涯と教えについて書き、「サンダーシングの福音」という題名で英訳された。これらの三つの書物によってサンダーシングは多くの学識ある神学者界隈に紹介され、その影響は着実に広がっていった。
サンダーシングがカノン・ストリーターと私に、私たちが「サドゥー」と題した書物に収録した資料を渡した時、彼は私たちに、数年間恍惚状態を経験してきたと語った。これは彼の生涯における一つの新しい事実であり(これまで一般には知られていなかった)、彼の経験と教えとに対して新たな意義を与えるものである。彼の恍惚状態は頻繁に訪れ、月に十回に及ぶこともあった。恍惚状態の間に彼が見た幻では、キリストは常にその中心であって、美しく輝き、常に甘美な愛に満ちた微笑を浮かべておられる。キリストの御座の周囲は聖徒等と天使等の群衆によって囲まれている。幻の中でサンダーシングはそれらの霊的存在と語り、自分が悩んでいる問題を彼らの前に示すと、彼らは直ちにそれを解いてくれる。サンダーシングは言う、彼が用いた多くの思想やたとえは恍惚状態の間に与えられたものであると。復活、審判、天と地獄が彼の幻の主要なテーマであった。また、恍惚状態のときは普段の生活のときよりも彼の思想はより鮮明であり強烈であると、彼は確信していた。恍惚状態の間、サンダーシングは外界を意識しなかった。食物を忘れ、時間の経過も気づかなかった。一度、話をするはずだった集会に行きそこねたことすらあった、恍惚状態にすっかり浸っていたからである。
一九二二年にヨーロッパ大陸の伝道旅行からインドに帰って来た時、彼の健康は次第に悪化し始めた。一九○五年から十七年間、彼は福音宣教の働きに尽力した。彼の務めの初期の頃、彼はしばしば食事を絶たなければならなかった。金銭を持つことを拒み、招かれた時だけ食事をしたからである。木の下や洞窟で眠らざるをえない時もたくさんあった。彼が有名になってからは、どこに行っても歓迎されたので、食物や夜泊まる所には困らなくなった。しかし他方において、彼は世間の注目という恐ろしい圧力の下で生活するようになり、広範囲に散在する都市で講演をして、団体や個人から成る人々と会わなければならなくなった。さすがに頑丈な彼の身体も、彼がそれに課す過酷な要求の下で衰え始めた。一九二二年以後、彼は時々病気に罹った。心臓発作が何度も起きた。ある時は旅行に出かけたけれども、出血のために引き返さなければならなかった。彼はまた両眼を患って手術を受けなければならなかった。彼の健康がこのように不安定な状態になったため、世界のあちこちから来る招待にも応じられなくなった。インドにおいてすら、彼は非常に注意深くして、健康状態が許す範囲でのみ招待に応じるようになった。彼は時々インドの様々な都市を訪問し、またヒマラヤ地方を旅行した。しかし、もはやインド沿岸を離れることはできなくなった。
彼の健康が損なわれたことは、一つの重要な結果を招いた。もはや遍く旅行して彼の主なる救い主の御名を宣べ伝えられなくなった時、彼は書物を書こうと決心した。これらの書物は広く流布され、四十の言語に翻訳された。ある時オランダの出版社が、彼の書物はオランダ語だけでも十六万二千部売れたことを報告した。彼は自分の書いたメッセージが昼も夜も働きつつあることを喜んだ。
それと共に彼の生活様式に別の変化も生じた。彼の父は死ぬ前に、サンダーシングにある額の金を残すことを願った、彼が老年に備えて住む家を買えるようにするためであった。サンダーシングは、「自分は老人になるまで生きることはないだろうし、神が自分を世話してくださるのだから、住む家は必要ない」と反対した。その反対にもかかわらず、父は彼のために若干の金を残した。サンダーシングがキリスト教に改宗することに激しく反対した彼の父が、バプテスマは受けなかったようではあるがキリストの従者になったのは興味深いことである。また、大金が彼の著作の印税として彼に入り始めた。そこで彼はかつて宣教師が所有していたバンガロー(平屋)をサバツーに買った。彼は生来の伝道者であって、彼の救いの福音を多くの人々と分かち合おうとする情熱に常に突き動かされていた。彼は、時には一日に十二時間以上原稿に取り組むと述べた。
チベットを訪問したいという願いは、彼の内になお強く残っていた。一九一九年の南インド大旅行後、彼はチベットへ行って、務めの初期の頃によく経験したように多くの困難を経過した。一九二一年、英国・アメリカ・オーストラリア旅行後、彼はチベットへ行って、またもや多くの苦難と冒険とを経過した。しかし一九二二年以降、彼は幾度かチベットに向けて出発したけれども、あまり遠くまで進めなかった。一九二九年四月十六日、彼はまたもやチベットに向かった。彼の健康状態は悪かったが、チベットで宣べ伝えよという強い促しが内側にあり、それに従わざるを得なかった。それ以来、彼については何の音沙汰もない。その足跡を尋ねようとする彼の友人たちの尽力も全て徒労に終わった。私たちは、彼が常々望んでいたように、主の喜びの中に入ったのだと結論づけるしかない。おそらく、急な道から滑り落ちて亡くなったのかもしれない。あるいは野獣に襲われたのかもしれない。コレラか何か他の伝染病に罹って亡くなったのかもしれない。福音を伝えたために殉教したのかもしれない。きわめて不思議なことに、彼の最後に関する情報は少しもないのである。
この選集に収めた文章は、未出版の断片や雑誌記事から選んだ。サンダーシングは同じ話を常に繰り返した。「私の口に著作権はない」が彼の口癖だった。私は、彼の本には現在掲載されていない題材の一部を一般の人々に提供するために、そのような情報源に限定した。