第1章 十字架の究極的意義

T. オースチン-スパークス

「キリスト・イエスのうちにあったこの思い(中略)キリストは神の形の中に存在されますが、神と等しくあることを固守すべきこととは見なさず、ご自身を空しくし、僕の形を取り、人間の姿になられました。その有様は人と異ならず、ご自身を低くして、死に至るまでも、実に十字架の死に至るまでも従順になられました。それゆえに神もまた、彼を高く引き上げて、あらゆる名にまさる名を彼にお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地下にあるものが、すべてひざをかがめるためであり、そしてあらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神に栄光を帰すためです。」(ピリピ二・五~十一)

「主の民が今日直面すべき一つの緊急の大きな問題があり、その問題に生きた形で答え、その答えに生きた形で入れるなら、霊的に大いに価値あるものが確保されることになる」と私は感じています。その問題とは、「キリストの十字架の結果成就される究極的御旨として、神は何を啓示しておられるのか?」ということです。この問題から別の問題が派生します。それは、「この御旨はどのように確保されて実現されることになると、神は啓示しておられるのか?」という問題です。この一連の黙想では、もっぱらこの二次的問題を取り扱いますが、それはこの一次的問題に対する答えにつながります。

この主要な問題に迫るにあたって、一連の問いを発することにします。「キリストの十字架の究極的結果とは、救われたことを多くのクリスチャンが知って喜ぶことにあるのでしょうか?」。さらに、「キリストの十字架の究極的結果とは、救われた多くの人々が他の人々を同じ立場――救われた事実を喜ぶ立場――にもたらそうと努めることにあるのでしょうか?」。さらに、「その答えは、救われた多くのクリスチャンがもっぱら自分自身の聖別、勝利の道、より充実した生活に専念することにあるのでしょうか?」。さらにまた、「キリストの十字架の究極的結果とは、多くのクリスチャンたちを、いっそう深い事柄、いっそう深い神の事柄に没頭させることにあるのでしょうか?」。そして、「この四つをすべて合わせれば、この御旨、すなわち、キリストの十字架における神の完全な御旨を知ったことになるのでしょうか?」。いま述べたこれらの事柄は、確かに神の完全な御旨の一部です。しかし、それらの事柄――救い、魂を勝ち取ること、聖別、教育――で終わりでしょうか?このどれか、あるいはすべてが目的なのでしょうか?それで神は満足されるのでしょうか?これが神の願いや期待を満たすものであり、カルバリから生じる正当な結果なのでしょうか?さて、主が力づけてくださるなら、これについて見ることにします。

いま述べたこうした事柄全体が網羅する領域は、依然として限られた領域にすぎません。その理由は二つあります。第一に、これらの事柄は依然として何か個人的な事柄――私の救い、私の奉仕、私の聖別、私の霊的教育――に帰着するからです。第二に、これらの事柄はみな、すべてではないにせよ、そのほとんどが何か地的な事柄に帰着し、この地上の生活と関係しているからです――すなわち、救われること、人々を救うこと、恵みによって成長すること、霊的知識を増し加えることと関係しているからです。これらのことは、もちろん、天に至るものであり、究極的には天を目的としていますが、はなはだ地的なものかもしれません。この立場は結局のところ、依然として制限された立場ではないでしょうか?また、この立場は十字架の意義をすべて示しているのでしょうか?

さて、私が述べたこれらの段階は新約聖書に記されています。事実、ある意味において、「新約聖書は所々でこれらのことを個別に取り扱っている」と言えます。ローマ人への手紙は主に第一の問題――私たちの救い――について扱っています。コリント人への手紙は第二の問題――私たちの聖別――について扱っています。新約聖書は確かに、きわめて具体的なはっきりとした形で、こうした一つ一つの問題について扱っています。しかし、私たちは次のことを認識しなければなりません。すなわち、神の御言葉の一部だけでは、決して神の御旨の全体像を見ることはできないのです。神の御旨全体を見るには、神の御言葉全体が必要です。

キリストの主権を表す人々

ですから、私たちが御言葉に向かう時、私たちの基礎であり、私たちの道である十字架はこれらに通じるものであることがわかるのですが、これらを通してさらに先に、さらに高く十字架は進むのです。十字架はこれらの事柄を遙かに超えたものに――個別的にも、集合的にも、包括的にも超えたものに――進みます。そして、それこそ主イエスの十字架の結果成就される究極的御旨です。私が「究極的」という言葉を用いる時、あなたの思いを現在から逸らすことを私は望みません。私はこの言葉を「後で」とか「最終的に」といった時間的意味合いで用いているのではありません。なぜなら、この「究極的」とは今現在のことだからです。神の示しによると、神は、御子の十字架の正しさを完全に証明されるのです。

いま述べたことについて、しばし追加の言葉を述べたいと思います。私たちクリスチャンは自分たちのキリスト教に大いに関心を持つべきです。知的問題としてだけでなく、心の問題としてです。神の御言葉は全体的に私たちをどこに導くのかを見いだすことに、私たちは心から真に関心を持たなければなりません。私たちは聖書を読んでいます。毎日、数節読んでいると思います。もっと読んでいる人もいるでしょう。しかし、聖書はクリスチャンの本であり、私たちは多かれ少なかれ聖書を読んでいます。しかし、私たちのうちどれくらいの人が、「この御言葉は自分をどこに導こうとしているのでしょう?この御言葉の行き着く先は一体どこでしょう?この御言葉はたんなるついでの言葉ではありません。この御言葉には何か途方もない内容、何か大いなる内容があります。御言葉は常に将来の見通しや展望を示しており、何らかの目的を帯びていて、何かを示しているのです。私たちは何かに向かって駆り立てられており、引き寄せられています。要するに、神がこの御言葉で真に言わんとしておられることを理解する時、私たちはどこに辿り着くのでしょう?」と心の中で問いつつ聖書を読んでいるでしょう?あなたたちの何人くらいがこのような読み方をしているでしょう?私たちはこのような精神で神の御言葉に近づかなければなりません――自分の心から発したこのような問いかけをもって、神の愛によって自分の内に生み出された愛から発したこのような問いかけをもって、神の御言葉に近づかなければなりません。また、キリスト教は私たちの宗教であるだけでなく、主と心を通わせて主に満足していただくものでもありますから、私たちはキリスト教に関心を持つ必要があります。私たちは、主の御心が何を求めているのかを知りたいという願いをもって、それゆえ、自分は何を心から求めればいいのかを知りたいという願いをもって、聖書に近づかなければなりません。そしてまた私たちは、それらすべてに対する鍵である主イエスの十字架を取らなければなりません。そうするなら、私たちは何かとても偉大な結末に、とても偉大な地位に導かれることがわかるでしょう。

この究極的なものが何か、たった一句にまとめることは可能でしょうか?試しにやってみることにしましょう。こう述べてもよいでしょうか?この究極的なものとはキリストの至高の主権と頭首権であり、それは十字架の神聖な意義が経験的に現実化されたクリスチャンの団体において、またその団体によって、この宇宙の全領域にわたって表現され、明示されるのです

十字架の成果である、知覚可能な霊的関係

これをさらに噛み砕くと、どうなるでしょう?別の言葉で言い換えると次のようになります。第一に、知覚可能な霊的関係の中に生きる信者たちは十字架の成果である、ということです。十字架の成果である、知覚可能な霊的関係――これが最初の断片です。この関係は霊的関係以外の何ものでもありえません。すべての信者と実際に個人的に物理的知り合いになって生きることは不可能です。私たちはすべての信者を知っているわけではありません。現存する信者のごく一部しか知りません。私たちはこれを体系化できませんし、組織や協会やその類のものの範疇に収めることもできません。この関係は霊的関係でしかありえません。しかし、この霊的関係は知覚可能です。この関係が霊的であることは、それが知覚できない、抽象的な、漠然とした、空想上の、どこかにある、何か定義不能なものであることを意味しません。いいえ、この関係はあらゆる信者との個人的で、知覚可能な、霊的関係なのです。信者たちは地の果てまで散らされているかもしれませんが、それにもかかわらず、聖霊の御業により、この人々は他のすべての信者たちとの関係を知覚するようになっています。これはこの究極的御旨――イエス・キリストの主権と頭首権――にとって絶対に必要不可欠です。これは抽象的な虚構ではありません。これはとても積極的で、とても実際的なことです。宇宙の全領域がこの主権の衝撃力を感じるようになるには、この知覚可能な霊的関係が絶対に必要不可欠です。

この宇宙の領域を占有しているこれらの権力者たちはみな、この宇宙を統治していますが、クリスチャンの一致の教理には何の興味も関心も持っていません。しかし、彼らは実際の霊的関係には大いに関心を持っています。その関心はあまりにも大きいため、ペンテコステの日以来ずっと、彼らの第一の狙いは常に、神の民の霊的感覚を分裂させることでした。彼らは神の民の間に数々の形で割り込めない場合でも、疎遠な感覚、無縁な感覚、すさんだ関係の感覚を生じさせようとします。なぜなら、神の民の間の生ける、実際的な、現実の、知覚可能な霊的関係というこの問題は、途方もなく重要だからです――この関係は何か機械的な組織的関係以上のものであり、何か霊的なものなのです。

次に、この関係は十字架の成果である、と私たちは述べました。なぜなら、この関係は主イエスの十字架の素晴らしい意義がなければ決して生じえないものだからです。今この宇宙は、霊的関係に関する限り、引き裂かれ、破られ、バラバラになっていますが、主イエスの十字架はこの領域で働きます。この宇宙は粉砕され、無数の破片に砕かれてきました。宇宙の調和と一致は完全に台無しにされました。これらの宇宙的な権力者たちがそれを行った勢力であり、今もそれを行っています。これはほとんど議論するまでもありません。私たちは自分の内側でこれを経験しています――自制のための戦い、辛抱強さのための戦い、忍耐のための戦い、優しさのための戦い、我慢のための戦い、愛のための戦い、熟慮のための戦いがあります――これはみなまさにクリスチャン生活の実際問題です。この破壊が行われる方法をご覧なさい。全被造物、全宇宙における、これらの際限ない不調和をご覧なさい。主イエスの十字架以外にこれを解決できるものはありません。そして、これこそ今回私たちが目的としている、十字架の主要な意義の一つです――すなわち、十字架は人々の中に、またこの宇宙の中に働いて、生ける知覚可能な霊的関係で結ばれた民を生み出すのです。これがピリピ人への手紙の御言葉を読んだ理由です。目標は主の絶対至上の主権と頭首権です。どうやってこれに到達するのでしょう?「あなたたちもこの思いを持ちなさい……」。これは文脈的に何を意味し、どう適用すればいいのでしょう?「私はユーオデヤに勧め、またスントケに勧めます。主にあって一つ思いになってください」(ピリピ四・二)。「この思いを持ちなさい……」――「この思い」とは二つの相争う思いの間に介入して征服する一つの思いのことです。そして、それをなせる唯一の思いは主の思いだけです。主は十字架に行き、他の人々のために自分自身の個人的な地位や権利を放棄されました。十字架だけがこの状況に応じることができます。そうです、いま必要なのは、信者たちが十字架の成果である、生ける、知覚可能な霊的関係の中に生きることなのです。

この地上を超越した霊的地位

第二に、いま必要なのは、このような霊的関係にある信者たちが、この地上を超越した霊的地位に就くことです。地上にありながら、地上の事柄から大いに霊的に隔たっている地位に就くことです――これには地上に存在する非宗教的なものだけでなく、宗教的なものも含まれます。地上で宗教的に過ごすおそれや、地から出た宗教に属するおそれ、宗教的方法で地に触れるおそれがあるのです。私が「地に触れる」と言う時、それは体で地面に触れることを言っているのではないことはおわかりでしょう。「地に触れる」とは、呪いの宿っている領域に触れることです。地には一つの霊的特徴と要素があります――すなわち、地は呪われているのです。これは言い過ぎでしょうか?これがいかに真実か、一、二時間費やして説明することもできます。この呪いの印は次のとおりです。人類がどれほど進歩し、発展し、建て上げ、達成したように見えたとしても、また、人類の歩みがあらゆる「進歩」(?)に彩られ、いわゆる発展や、あらゆる達成、あらゆる発明、あらゆる生産と歩調を合わせているように見えたとしても、そこには呪いの要素が存在していて、その「進歩」を人にとって不利なものに転じて、人を滅ぼすものにしてしまうのです。人が世界の益のために発見し、発明し、造り出したものが、まさに世界の滅びを招くものになります。私たちが生きている今の時代、私たちは最高度に発達したこの呪いの原理に直面しています。この呪いの原理はこの宇宙の歴史の中に働いてきたものです。人々は驚異的発見をし、驚異的事柄を成し遂げてきました。そのせいで、たった一回の実験で数万人を数分の一秒で地上から消し去ることができるのです。この発展を遂げたものを人々が解き放ったら、いったいどうなるのでしょう?これを発明と言えるでしょうか?進歩と言えるでしょうか?ああ、言えないのです。この創造された世界にあるものはすべて呪いを帯びています。人自身の創造力の中に、人の滅びが内包されています。しかし、この原理の非常に強烈かつ強力な一つの側面及び表れがあります。この地的性質は多くの点で大いに洗練されたものになりました。大いに宗教的ですらあります。しかし、それは依然として地的であり、地上のものとつながっており、その期待も希望も企てもすべて地的です。この不愉快な話をあまり続ける必要はないと思います。

しかし、この一般的説明のこの第二の断片に戻ることにします――私たちは今、信者のあるべき姿について考えています。信者は、十字架の成果である知覚可能な霊的関係の中に生きて、この地上を超越した霊的地位に就く必要があります。また、信者が地的な事柄と関わりを持つのは、それがいっそう高い権益、天的な目的と関係している場合だけでなければなりません。そのような信者たちは天的領域に生きる民であり、使徒パウロはこの領域のことを「キリストにある天上の」領域という独特な句で描写しています。彼らは天的な民です。これには、もちろん、いま述べている以上の意味があります。

常に増し加わる霊的豊かさ

信者は十字架の成果であるこの生ける知覚可能な霊的関係の中に生きて、地上を超越したこの霊的地位に就かなければなりません。第三に、いま必要なのは、そのような信者が常に増し加わる霊的豊かさという特徴を帯びることです。なぜなら、この地位に就いているそのような民を主が獲得される時、いかなる停滞も制限もなくなるからです。常に霊的豊かさが増し加わっていきます。彼らは数々の資源を持ち、自分たちではとうてい使い尽くせないほど多くのものを持ちます。これは作り話ではなく事実です。神の御思いもまた豊かなものであることを、神の御言葉全体が圧倒的力で示しています。神が御旨に到達されるのを見る時は常に、神はそれをみな満ち満ちた手段で達成されます。幕屋や宮はそうではないでしょうか?――幕屋も宮も主の栄光で満ちています。神の川はそうではないでしょうか?――神の川は水で満ちています。主の木々はそうではないでしょうか?――主の木々は樹液で満ちています。水がめはそうではないでしょうか?――それらは縁まで満たされています。教会はそうではないでしょうか?――教会は「すべての中ですべてを満たしている方の豊満」です(エペソ一・二三)。このようにもっと続けることもできます。神の御思いは常に豊かさという道に沿って進みます。そしてすでに述べたように、この究極的御旨は将来のためではなく、現在のためです――人々は通常以上のものを持つことができ、必要を満たすのにちょうど間に合う分量や、どうにか必要を満たせる分量を超えたものを持つことができます。キリストの豊かさ――これこそ十字架という方法により成就される神の目的であり、いま経験されるべきものです。

天の支配の現れ

さしあたって最後の点である、四番目の点に来ます。すでに述べたこの三つの条件を満たす信者は、天の王国は霊的現実であることを示す必要があり、また、その領域を実際に拡張する必要があります。それは、天が確かに支配していること、そして、天が支配しているのは天的特徴を帯びた天的民という仲介者や道具を通してであることを示すことによってです。この天の至高の支配の衝撃力をもたらして、この宇宙の普遍的権力者たちに影響を及ぼすことが、いま述べているこのような民からなる教会の使命です。また、これが究極的には十字架の意義です。十字架はどこに導くのでしょう?あなたの救いや私の救いでしょうか?もちろんそうなのですが、それだけでしょうか?また、私は他の人々を救いにもたらすために忙しく働くべきでしょうか?ああ、もちろん、言うまでもなく、そのとおりです。また、あなたや私は恵みによって段階的に成長し、聖別され、御子の形に同形化されるべきでしょうか?言うまでもなく、そのとおりです。何度でも「そのとおりです」と言います。また、私たちは主を知る知識を増し加え、神に属する事柄に関する理解力において成長し、絶えず霊的に学び続けるべきでしょうか?そのとおりです。これはみな神の御旨です。しかし、これやこれらのものを一まとめにしたものが目的でしょうか?いいえ、違います。十字架の目的は、悪の霊の勢力や知的存在の全領域が、こうした衝撃力全体に直面するようになることです――これらがみな客観的に実際的影響を及ぼすようになることなのです。

すでに述べたように、私の救い、あなたの救い、私の聖別、あなたの聖別、私の勝利の生活、あなたの勝利の生活、私の学び、あなたの学びといったことはみな、結局のところ、個人的なものにすぎないおそれがあります。それらはみな、その大部分が個別の個人的なものにすぎないかもしれません。また、それらはみな何かしら地上のものであり、人々は聖別や、霊的学びや、魂を勝ち取ることといった目的を掲げる小さな群れに、それぞれ別れて集まっているのかもしれません。ああ、そういったことは主イエスの十字架の究極的な神の意義ではありません。神が意図しておられるのは、こうしたあらゆる手段により、こうしたあらゆる線に沿って、次の目的を成就することです――すなわち、暗闇と悪と邪悪さからなる体系全体を打ち倒して、イエス・キリストの絶対的主権と頭首権の下に服従させることであり、すべてのひざが彼に対してかがむようになることです。そして、これは今まさに、あなたや私がこの霊的関係に関わっているその場所で始まっていなければなりません。これは今現在、実際のものでなければならず、拡張・拡大していかなければなりません。そしてそれにより、この民を通して表現されたこの天の王国は影響を及ぼして、さらに広大な領域を占有するようにならなければなりません。それは、この悪しき者の力と支配と悪がますます制限されるようになるためです。これこそキリストの十字架の真の目的です。キリストの十字架は、霊の命に関してあらゆる段階や局面にある個々の人々を生み出しますが、さらに先に進みます。主イエスの十字架の正しさを究極的に示すものは、この宇宙的衝撃力なのです。

十字架の訓練の必要性

さて、これは私たちへの課題です。最初に述べたように、私たちは主の民として一つの大きな問題に直面しなければなりません。重ねて言いたいのですが、これは私たちの個人的な救いの問題にすぎないとは私は思いません。また、これはたんに、私たちがもっと熱心に魂を勝ち取る者にならなければならないという問題でもありません。私たちは人々の救いのために心の底から熱心に気遣う必要がありますが、そうしたことは私たちにとって遙か昔に実現していなければなりません。これはたんなる私たちの個人的聖潔の問題でもありません。聖潔の必要性を軽んじたり、霊的生活で罪や欠点に対して目を閉ざすことを、神はお許しになりません。しかし、たとえそうだとしても、何か聖潔以上に偉大なものが目的なのです。また、神に属するいっそう深い事柄を知るよう求めることについては、もしそれがどうにかしてこの霊の領域で問題を解決するものでないなら、一体なんの役に立つでしょう?この領域で霊の勢力が活動しているのを私たちは感じていますが、この領域の中に私たちは入っていかなければなりません――この国でそうする人もいますし、他の国々でそうする人もいます。この領域では、主な問題は肉や血ではなく、主権者たち、権力者たち、この宇宙の暗い事象、今も働いているこれらの恐るべき、罪深い、悪の勢力です。もし私たちがここまで至らないなら、私たちの探求は失敗したのであり、依然として多くのことを願う必要があります。これは大問題です。神はキリストの十字架の究極的結果として何を啓示されたのでしょう?それは御子がこの宇宙で最高の絶対的な主権的頭首権の地位に就くことです。それには、他の主権、名前、権威を、すべて退陣させる必要があります。そして神の御言葉によると、これが成就されるのはこの同じ十字架によります。十字架はクリスチャンの一団の中に働いて、彼らをある地位にもたらします。それにより、彼らを通して、また彼らのうちに、この主権、この頭首権が確立されるのです。

これは大きな問題であり、私たちを霊的訓練に関わる何かとても現実的な問題に巻き込みます。大学や施設に行ってもこれを学ぶことはできません。特別集会や集会でこれを会得することはできません。いかなる学問的方法によっても、これを会得することはできません。これを学ぶには、十字架が私たちの内に真にその働きを行うこと、主が十字架によって意味しておられるものがすべて私たちの内になされることが必要です。そして、それには私たちは大いに現実的な取り引きを主と交わさなければなりません。主にはそれをなす無数の方法があります。十字架の働きの性質の中には次の点が含まれます。すなわち、十字架の働きは常に、私たちの好まない路線に沿って、私たちなら決して選ばない路線に沿って進むのです。もし十字架を自分たちの状況に合わせられたなら、それはとてもたやすい十字架だったでしょう。しかし、そんなことはできません。十字架は常に麦粒に逆らって働きます。これが十字架の性質です。十字架は常に、私たちなら決して選択しないことを要求します。主が私たちをさらに導いて、私たちが主によって示された道、主の目的に到達する道について考えるようになる時、私たちはこうした問題に直面するでしょう。その時、この宇宙的な戦い全体の中心はもともと私たちの内にあること、この問題の決着はこの個人の内なる要塞の中でつけなければならないことがわかります。この要塞とは意志です。ああ、宇宙的戦いについて、暗闇の勢力に対する戦いについて話すことは、これとはまったく別の問題です!この戦いを覗いてみてご覧なさい。少しでも経験のある人なら、だれもこの戦いについて軽々しく話したりしません。とても注意深く、とても祈り深く話します。なぜなら、結局のところ、この戦いはすべて私たちの外側のものではなく、私たちの内側のものであり、私たちの内側から始まるからです。それはあなたの意志や私の意志の問題です。サタンとその強力な王国を追放することは、ひとりの人の意志によって成就されました。この御方は御父に完全に服従されました。そしてご自身に関する限り、敵を完全に打ち負かして、追放されたのです。彼は敵の存在を消し去らずに残しておかれましたが、それは私たちを彼ご自身が到達されたのと同じ地位にもたらすためでした。これはまったく同じ方法――無数の点に及ぶ意志の戦い――によって成就されます。そしてついには、サタンは私たちの意志の中にもはや何の地位も立場も持たなくなり、滅び失せます。もし主がそうされるなら、私たちは後でもっと詳しくこれについて追うことにします。

この大問題がおわかりになったでしょう。ああ、これは大問題です!神の御旨に逆らうこれらの悪の勢力を対処するために、一群れの人々が内側に造り込まれた十字架によって立ち上がる必要があります。私自身について言うと、私は数年来これを確信してきましたが、今ほど強くこれを確信したことはありません。どうか主がこの一連の黙想を通して、そのような民を部分的にでも――それはほんのわずかなものにすぎないかもしれませんが――起こしてくださいますように。