第2章 天的な使命を果たすための教会の霊的資源

T. オースチン-スパークス

「しかし、十一人の弟子たちはガリラヤへ行き、イエスが彼らに行くよう命じられた山に登った。弟子たちはイエスに会った時、彼を礼拝した。しかし、疑う者もいた。イエスは彼らのところに来て言われた、『わたしは天と地のすべての権威を与えられました。それゆえ、あなたたちは行って、すべての国民を弟子としなさい』。」(マタイ二八・十六~十九)

霊的課題に応じる必要性

今日、一つの課題があります。この課題はおそらく、この世界の歴史の他のいかなる時にもまして、厳しい重大なものかもしれません。疑いなく、教会の初期の時代、この課題はとても厳しいものでした。しかし当時、福音が勝ち取った地表の面積は今日と比べるなら微々たるものであり、他の多くの点においても、当時の状況は今日の状況に遠く及びませんでした。何世紀にも及ぶ発展の結果、この世界に関して暗闇の王国は膨大な立場や手段を得ました。今日、この悪の王国の攻撃はとても深刻であり熾烈です。多くの面で、神の教会はこれに気づいています――おそらく、その原因や理由について完全に理解しているわけではないかもしれませんが、自分が攻撃や抵抗を受けており、かなり無力化されている事実に気づいています。教会は自分の無能さや無力さ、激しさを増しつつある霊的状況に対処する権威と力の無さに気づかざるをえなくなっています。これは今日の課題であり、教会を脅かしています。この脅威により、教会はどちらかというとあまり重視されないおそれがあります。この世は教会を通り過ぎて無視することができます。また、あちこちで教会には対処できない状況、その前では教会は無能で無力な状況が生じるおそれがあります――教会はこれを知っているのです。

この課題は一つの必要を示します。私たちは「自分たちならこの必要を満たすことができる」と思うほどうぬぼれてはいませんが、それでも、この課題に直面してこの必要について考えることは私たちの義務です。もし神が弱い者や小さな者を選んで、彼らが生来なしうることを遙かに超えて彼らを用いることができるとするなら、その時、私たちにも新たな可能性が拓かれることになります。ただし、私たちは神の御前でこの問題に本当に真剣に向き合う必要があります。

私たちは、ある霊的状況について述べてきました。この現世の状況は神の働きにとってますます困難なものになりつつあることを、私たちは大いに感じています。他方、こうしたあらゆる外面的困難の背後には、ある霊的な支配があります。これはあなたたちに告げるまでもないことだと思います。目に見える物事は、結局のところ、背後にある遙かに大いなる何かの前景、舞台にすぎません。「この暗闇の世の支配者たち」という句は無意味な句ではありません。ここに問題があるのです。キリストの権威をもってそこの状況に触れられるものが生じない限り、教会にとって状況はお手上げです。「わたしは天と地のすべての権威を与えられました。それゆえ、あなたたちは行って、すべての国民を弟子としなさい」と私たちは容易に引用することができますし、これはあらゆる宣教の働きのスローガンでもあります。いずれにせよ、この御言葉を実行に移すとき、「あなたちは全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」がもっぱら強調されており、「わたしは天と地のすべての権威を与えられました」はあまり強調されていないように思います。「それゆえ、あなたたちは行って……」。この「それゆえ」という言葉の実際の意味に十分な注意が払われてきませんでしたし、今もそうです。この「それゆえ」という言葉は、宣教の働きと主イエスに与えられた「すべての権威」とを結ぶ鎖です。この「すべての権威」の恩恵や意義によくあずかって立っている教会については、もし教会の今日の影響力がその判断基準だとするなら、この権威はあまり大したものではないことになるでしょう。これが今日の緊急事態を成しているものです。

この課題は霊的な民によって果たされる

さて、この課題はすべて霊的な問題であって、霊の領域で戦い抜くべきものであることを、私たちは繰り返し指摘しました。その結果として、神の働きはまず霊の領域でなされなければならないことがわかります。現世の状況を対処して、それに打ち勝つのは、その後のことです。ここで私たちは直ちに状況の核心に導かれます。私たちは前の黙想でクリスチャンの一団について述べました。彼らはある種の人々であり、ある特別な地位にあり、ある特別な働きをしています。これはどういう意味でしょう?言葉だけで述べても、必ずしも助けになるとは限りません。私たちは自分の言葉を説明しなければなりません。私たちは霊的な民について話していますが、この霊的な民は霊的な関係の中にあり、霊的な地位を占めていて、霊の勢力を対処して打ち倒す卓越した働きを行っています。しかし、この「霊的」という言葉の意味は、すぐにはわかりにくいです。「霊的」であるとは、実際の働きではどういうことなのでしょう?

霊的な民の特徴

(a)天然の命によってではなく、神の命によって生きている

さて第一に、「霊的」という言葉が意味するのは、そのような民の命は霊の命でなければならないということです。神の働きにおいて、天然の命が大量に放出されるおそれがあり、しばしば実際にそうなっています。あなたはそれを別の言葉――熱心、熱狂、動力、力、その他あなたが全力を尽くして打ち込む様子を描写する言葉――で呼ぶこともできます。この熱意、この熱烈さ、この力で、あなたは神の働きを果たします。さて、これは私が「霊的」と言っているものではありません。もし物事を霊の領域で行おうとするなら、ただ霊の命によって行わなければなりません。そして、霊の命は天然の命とはまったく異なります。私たちがすべてを十字架の基礎の上に据えて、十字架が私たちの基礎、私たちの解釈となることを許す時、まさにそこでこの大いなる断絶がなされ、この大きな違いが認識され、この大転換が起きます。十字架で、霊の事柄に関する限り、天然の命はすべて終わります。霊的な効果を生じうる天然の力は、十字架ですべて終わらされ、無効化されます。実質的に霊的なものを生み出しうる、天然の体の命、エネルギー、力でさえも、まったく価値がなくなります。霊の勢力と接触するようになる時、物理的な天然の領域にある筋肉や体格の力が一体なんの役に立つでしょう?最強の肉体といえども、霊の勢力がただ触れるだけで損なわれてしまいます。ですから新約聖書を見ると、天然の命のエネルギー、能力、力に頼る人々はみな退けられているのがわかります。そして、当時者たちは天然の命の終焉に導かれ、自分たちの霊的働きや自分たちの霊的責任は神の命から発することを知るようにされます。体のための命でさえ、神の命から発します。ですから、彼らは神の御手の下で、神の命が自分の体にも供給されない限り――たとえ以前は肉体的にも体格的にも強かったとしても――前進することができず、おしまいであるという地点に達したのです。

パウロはこの偉大な際だった例です。他の人々もまたそうです。ペテロはこれに関して危機的状況を経験しました。ペテロは自分自身に、自分にできることに、自分がどれほど先に進めるのかに、自分が切り抜けて耐えられることに、大いに自信を持っていました。しかし、十字架により、まさに十字架を目の前にして、彼は決して自分では切り抜けられないことを認めざるをえない地点に至らなければなりませんでした。「あなたは今はわたしについて来ることはできません。しかし、後でついて来るでしょう」(ヨハネ十三・三六)という主の御言葉は、ペテロにとって差し迫った意味がありました。主は「今生の後(hereafter)」すなわち来世の遠い将来について言われたのではなく、「後で(afterwards)」と言われたのです。何の後でしょう?――人間の命はまったく無力であり、神の命が体の領域でも絶対に必要であり有効であるという学課を、あなたが学んだ後のことです。

ですから、この民が経験的に学ぶべき大いなる学課の一つは、神の命によって生きる方法を知ることです。私たちがこの基礎に辿り着くとき、どの結果も自然な成り行きの結果ではなくなります。例としてタルソのサウロを取り上げましょう。彼は途方もない力を持つ人であり、肉体的にとても強い持久力を持っているようです。彼はとても強い天然の命――いわゆる魂の命――を持っています。主は彼をどうされたでしょうか?主は彼を生きる望みのない所に連れて行かれたのです。それは彼が自分自身にではなく、死者をよみがえらせてくださる神に信頼するようになるためでした(二コリント一・九)。このように自分の経験を描写することで、彼は率直に次のようにほのめかしています――「そうです、もともと私は死人であり、死の判決が私に下されているのです」。しかし、この人は進み続けます――死人が進み続けます。彼は最後に、「私はこれから処刑されます。今、人々は私を終わらせます。私は今度ばかりは降参しなければなりません」とは言いませんでした。そうです!この結果は皇帝や政府や迫害者で終わりませんでした。パウロは自分の行程を終えようとしていました――行程を中断しようとしていたのではありません。そこに「隊列の乱れ」はありませんでした。彼は自分の行程を終えようとしており、最後の瞬間まで信仰を守り抜きました(二テモテ四・七)。状況のゆえに諦めるのではなく、彼が他の箇所で述べているように、自分自身を注ぎの供え物(ピリピ二・十七)としてささげようとしていました。主はご自身の命について、「だれかがわたしから命を取り去るのではありません。わたしが自分から命を捨てるのです。わたしには命を捨てる権威があり、また命を得る権威があります」(ヨハネ十・十八)と言われましたが、パウロはこの主とまったく同じ立場にあったのではないでしょうか?この主の御言葉は大祭司についてではなく、ユダヤの国についてでもなく、他のだれについてでもありませんでした――主はご自身が死なれる時のことについてこう話されたのです。人々は「祭りの間はまずい」と言いましたが、主は事実上、「いいえ、祭りの間です。わたしが自分の命を捨てるのは過越の日です」と仰せられ、事実そうなりました。

ですから、キリストにある権威は、まず第一に命によります。この神の権威の衝撃力を悪と死の王国の上に及ぼすには、この衝撃力を及ぼす経路となる民はこの基礎の上に至らなければなりません。この基礎の上で、彼らは神の命を経験し、神から命を引き出す方法を学び、霊的な神の命を互いに供給しあう方法を学ばなければなりません。自分たちの体の命のためにも、そうする必要があります。神の命は途方もありません。もし私たちが神の命によって生きるなら、年を取ったからといって死ぬことはありません。自然の理がそうだから、また医者がそう言ったからといって死ぬこともありません!私たちが死ぬのは、主がそう言われた時だけです!主が私たちを通して御業を遂行するのにもはや神聖な命は必要ないと判断される時、私たちはより豊かな命の中に入ります。これは死ではありません。これが、死が主要な抵抗勢力であるこの宇宙における、キリストの権威です。霊的な民はこれを知らなければなりません。

そこに導かれることはたんなる教えではありません。これは厳しい死にもの狂いの仕事です。これは反対を受けます。まさにサタンの全階級組織から反対を受けます。この反対に応じるには、私たちは霊と魂と体のために神の命を経験しなければなりません。

この命に対する課題には団体的に応じなければならない

そして、これは何と団体的な問題であることか!私は人々のことを述べています。そうです、これは個人の問題です。個人的な実行と経験が必要であり、個人的な知識と適用と獲得が必要です。しかし、これは個人を超えた問題なのです。この戦いでは、すべての個人が協力する必要があり、教会全体を巻き込む必要があります。聖徒たちと協力せずに、この霊の戦いの領域の中に入って行く哀れな人の上には、その人がだれだろうと災いが降りかかります!

ですから、この霊の領域で勝利を得る問題は教会の問題です。私が「教会の問題」と言う時、それは団体的問題を意味します。教会は主の御名の中に集まる二人または三人を指す場合もありますが、少なくとも互いに供給し合うものでなければなりません。ああ、教会の大部分がこれについて知り、直ちにこの中に入り込んでこの上に立っていたなら、現在起きている悲劇の多くは決して起きていなかったでしょう!いま神の働きから退いている多くの人がいますが、その中のどれほど多くの人が神の働きのために用いられていたことでしょう!どれほど多くの人が働きから引退しなかったことでしょう!彼らは敵の勝利を示しているのでしょうか?神の命の不足のせいで諦めざるをえない人はみな――敵の勝利を表しているのでしょうか?霊の勢力を対処する霊的立場についている霊的な人々とは、次のような意味です――第一に、内なる人である霊のために霊の命(つまり神の命)を経験している人々であり、魂と知性のために経験している人であり、実に体のためにも経験している人のことです。

霊的力を得るには生来の弱さが必要不可欠である

「私が弱いとき、私は強いのです」(二コリント十二・十)。「わたしの力は弱さの中で完成されます」(九節)。これはキリスト教の偉大な逆説です。神の命は私たちを文字どおり肉体的な意味でサムソンのようにはしません。私たちの筋肉を発達させたり、二頭筋を並外れたものにしたり、そうした類のことはしません。むしろ弱さの中で、普通なら脆い器をたちまち潰して消し去るはずの何かがなくなっていくのです。そして、何か生来のものではないものが与えられます。それはまさに神の命です。すべてはこの根拠に基づいて説明されなければなりません。

誤解や思い違いを防ぐために、一言付け加えましょう。私は「健康であることは悪いことである」とか、「肉体的に丈夫であることは悪いことである」と言っているのではありません。「主のもとに行って、あなたの健康と力を取り去ってくれるよう主に求めなさい」と私はあなたに示唆しているのではありません。そうではなく、私が言っているのは、もしあなたが健康や力に基づいて働いており、霊的効力のためにそれに信頼しているなら、あなたは間違っている、ということです。健康や力は何の役にも立ちません。あなたは健康で丈夫かもしれませんが、この働きを果たすのは健康や丈夫さではないことを、あなたは理解する必要があります。あなたが大いに必要としているのは霊的な神の命だけでなく、極度の弱さと無力さでもあります。あなたの健康や力にもその果たすべき役割があるかもしれませんが、霊の領域で働きを行うには何かそれ以上のものが必要なのです。

(b)知性によってではなく啓示によって主を知る霊的知識

霊的知識の問題にも同じことが言えます。いくら天然的な知識を蓄えて学んだとしても、霊的な事柄に触れることはできません。聖書を学ぶことには価値がありますし、神の御言葉と神の御業に関する知識を蓄えることにも価値があります。ああ、これを軽んじないでください。また、私が話した言葉によって、あなたがこれに対して勤勉でなくならないようにしてください。しかし、結局のところ、たとえあなたがそのような膨大な知識を持ち、聖書を最初から最後まで知り尽くしていて、いわゆる聖書学者だったとしても、そうしたことはみな、完全なものであっても、霊的効力には至らないのです。あなたにどれだけ知識があっても関係ありません。これらの霊的知的存在に影響を及ぼす問題になると、いかなる天然の知識も彼らに触れることはできません。天然の知識や蓄積された情報では、たとえそれがいかに膨大であっても、決して暗闇の勢力を圧倒することはできません。霊的知識はそれとは別の種類の知識なのです。あなたには知性があるかもしれません――言っておきますが、知性を軽んじてはいけません――しかし、あなたには別の何かが必要なことを認識しなければなりません。そうです、私はある方法で聖書を知っています。つまり、私は聖書の中にどのような文字や文章や段落があるのかを知っています。しかし、霊的な事柄を取り扱う時になると、それは何の役にも立ちません。私はそれに加えて何かを得なければなりません――すなわち、霊的理解力と霊的知識を得なければならないのです。聖書に記されている神の御思いに関して、照らしや啓示という方法で、何かが神から私自身の心に与えられなければなりません。これをどう説明すればいいのでしょう?説明はとても難しいのですが、確かに存在します――おそらく、あなたは私が言わんとしていることを理解しているでしょう。霊的知識は別次元の知識です。霊的知的存在を対処できるような形でご存じなのは、ただ神だけです。

ですから、この究極的領域――この領域で真の責任の所在が明らかになります――で何らかの重要性を帯びる人々は、霊的知識と霊的理解力を持つ人々でなければなりません。パウロは祈りました、「どうか、私たちの主イエス・キリストの神が、あなたたちに知恵と啓示の霊を与えて彼を知らせ、あなたたちの心の目を照らして、あなたたちに知らせてくださいますように……」(エペソ一・十七~十八)。彼はこの霊的啓示と知識を求める祈りの後で敵の策略について記し、「私たちの格闘は肉や血に対するものではなく、主権者たちに、この暗闇の権力者たちに対するものです」(エペソ六・十一、十二)と述べていますが、これは無意味なことではありません。どんな神学校や施設で学んだとしても、それだけではあなたを悪魔の策略に対して備えさせることはできません。これには霊的訓練が必要なのです。

学問的ではなく実際的な霊的訓練

ここで挿話を述べたいと思います。この本を読んでいる人の中には、自分の人生、自分の将来について気にしている人がいるかもしれません。あなたは、「主は私を主の奉仕の中に導かれるのでしょうか?」と疑問に思っているかもしれません。「主は私をそのように導いておられる」とはっきり感じている人もいるかもしれません。あなたは心の中で、「どのように訓練を受ければいいのでしょう?どのように準備すればいいのでしょう?」と疑問に思っているかもしれません。私はこう答えましょう。神の御言葉に記されている健全な教えは基礎として必要なものではありますが、神の働きのためにあなたを訓練するのにそれだけで十分だとは思わないでください。それだけでは適切な訓練とは言えませんし、資格を得たことにもなりません。神の働きがなされる領域では、たとえあなたが神の御言葉をすべて持っていたとしても、あなたはまったく何の役にも立たないかもしれないのです。あなたは挫折し、打ち砕かれ、敗北するかもしれません。今日、神の多くの僕たちがそのような目に遭っています。なぜなら、この状況を対処できる霊的資産を得ていないからです。あなたにとって真に欠かせない訓練とは実際的な訓練であり、霊の領域でなされるものです。つまり、主はあなたが霊的な命と霊的な知識を知る霊的な人に成長するよう、あなたを取り扱われるのです。そして、それはただ十字架の原則に基づいてあなたの生活を実際的に取り扱うことによってのみ実現します。このような訓練を喜んで通ろうとしない人が大勢います。彼らは聖書研究や、神学講義や、そうしたあらゆる類のものに出かけて行きます。彼らはそのようなものに出かけて行く用意はあるのですが、生きていくことや他の人々とやっていくのがきわめて困難な状況に出くわす用意はそれほどありません。そのような困難な状況の中、あなたは絶えず自分が間違ったやり方で磨き上げられているように感じ、すべてが麦粒に逆らうものであるかのように感じます。そのような状況にある時、あなたを駆り立てる唯一の望み、あなたの魂の唯一の願いは、その状況から脱け出し、逃げ去って、どこか他の場所、何か別の環境を見つけることです。しかし、そうするなら、あなたは神の御手の中から飛び出してしまいます。神の御手の中にとどまることは、十字架がその働きを終えるまで、その状況の中にとどまることを意味します。あなたは、そこで喜びを感じ、勝利を得、霊的優位性を獲得し、自分に対する敵の力が打ち砕かれるまで、その状況の中にとどまらなければなりません。これが神の働きのためにあなたが受けるべき訓練です。神がこのようなあなたを獲得されるとき、神はあなたをどこにでも置くことができますし、あなたは重要な存在になるでしょう。しかし、この訓練を受けない限り、他のものはみな無に等しいでしょう。

(c)霊的影響力――人々ではなく、キリストの衝撃力

次に、この人々は霊的影響力という特徴を帯びていなければなりません。これはどういう意味でしょう?私たちは影響力のある人について話す時、その意味を承知しています。何らかの理由で、彼らは重視されています。その理由とは、先天性であれ後天性であれ、強烈な個性、個人的な進取性、指導力、異彩を放つ能力かもしれません。彼らは取るに足りない存在ではありません。積極的であって、消極的ではありません。このような類の膨大な影響が神の働きの中に持ち込まれてきました。そして、こうした生来の性格、生来の特徴や生来の先天的な資質を持つ人々が、神の王国に関する事柄でも影響力があると見なされてきました。

さて、あなたは生来の影響力という点では巨人かもしれませんが、それでも霊の領域では暗闇の勢力はあなたを笑っているかもしれません。霊の領域では、あなたの身の丈は無に等しく、あなたの天然の寸法も彼らにとっては無にすぎません。その領域であなたが果たす責任の大きさは、あなたの霊の命の度量にほかなりません。あなたが霊の領域で、神に対して、人々に対して、そして悪の勢力に対して及ぼす影響は、霊的な影響力であって、さもなければまったくの無にすぎません。ですから、非常に多くの場合、弱い者や無に等しい者の方が、暗闇の勢力や人々にとって重視すべき存在であり、注意すべき存在なのです。しばしば次のようなことが起きます。あなたは自分があまり重んじていない信者たちのことを評価した後、彼らについて再考せずに、彼らを価値のない人々に分類します。しかし、どういうわけか、あなたは彼らをそのように片付けてしまえません。彼らの個性の有無や、彼らの現実の所在や、彼らの受けた訓練からは説明できない何かがあります。これを説明できる理由は何もないのですが、それでも、彼らは何か重要な者であることを認めないわけにはいきません。これが霊的影響力です。このように構成された人々こそ、今日の緊急事態に対応できる唯一の人々です。このような人々こそ、神がキリストの十字架の正しさを実証するための道具なのです。

しかし、これはどういう結果になるのでしょう?こういう結果になります――このような人々に関することはみな、主に帰されなければならないのです。これがその結果です。十字架から生じる究極的結果は何であると神は啓示されたのでしょう?その結果はこれです――キリストが他のすべての勢力を圧倒的に凌駕して、それが一団の人々によって表現されることです。次に、この人々に関する限り、これに至る道は空にされ続けることです――それはあらゆることでキリストが第一位となるためです。明らかにされるべきは主イエスであって、人々ではありません。悪の勢力は言うでしょう、「イエスなら知っているし、その僕パウロも知っている。それに、この霊的な人々も知っている。しかし、お前たち、仰々しく儀式を執り行う、天然的に発達した者たちよ。お前たちは一体何者で、何なのだ?」。

主が何を求めておられるのか、あなたが真に理解するよう私は望みます。主はこの種の人々によって彼の宇宙に現されなければなりません。この課題は私たちに対するものです――私たちはこのような種類の人々になるために必要なことをすべて受け入れるでしょうか?

環境の訓練によって内側に造り込まれた霊性

さて、終える前に、これを付け加えなければなりません。私がこれまで述べてきたことは、あなたたちの多くの人々に対して、自分の環境に順応するよう調整や再調整を要求するかもしれません。私の親愛なる友よ、若者、中年、老年の人々よ――これまで述べてきたことに照らして、「老年」という言葉は除外することにしましょう――あなたは今、かつてないほど「訓練学校」で訓練を受けているところかもしれません。神学校や施設に行くことは、必ずしもあなたを神の働きにふさわしい者とする機会にはならないかもしれません。あなたたちの中にはこれを慰めに感じる人もいるかもしれませんが、それには調整が必要です。もしあなたが神の御手の中にあるなら、あなたは神の学校の中にいるのです。あなたは何を教わり、何を学んでいるでしょう?また、その意味は何でしょう?さて、あなたは本としての聖書や、あらゆる種類の関連する主題についてさらに詳しく知ろうとしているのでしょうか?それとも、あなたは主を知ろうとしているのでしょうか?主を知る人こそ最も重要です。主以外のことなら何でも知っているという人は二の次です。聖書の知識やその類のものはみな、価値があり、重要であり、ある意味、なくてはならない基礎であり付加物ですが、唯一必要なのは主を知ることです。では、あなたはどうやって主を知るのでしょう?――これまで私が示してきた方法によってです。あなたは主をあなたの命として、あなたの知恵として、あなたの影響力として知らなければなりません。あなたの環境や状況に順応しなさい。もし私が若者に向かって訓練のコースを受けに来るよう訴えて、「さあ、これから聖書学校を始めます。あなたの人生を主にささげ、来て、主の働きのために訓練を受けませんか?」と言うなら、この呼びかけに応じて、「わかりました。私は神の働きのために訓練を受けます」と言う人もいるだろうと思います。あなたがすでに訓練にあずかっているのでない限り、そのような神学校に通ったとしても、それだけでは決して訓練にあずかれません。あなたの現在の状況に順応しなさい。その状況の中にとどまることが、あなたに対する主の御旨だからです。訓練学校に順応するように、現在の状況に順応しなさい。職場に退職届を出し、荷物をカバンに詰め込んで、聖書学校に行くことになったら、あなたは真剣にそうするでしょうが、それと同じくらい真剣に、新たな気持ちで取り組みなさい。あなたの現在の状況に対して、そのような態度を取りなさい。そして、このことを知りなさい。あなたが神の御旨でそこにいる間、神ご自身があなたを教えてくださるのです。そして、これこそ重要なことです。神はあなたに神の命によって生きる方法、霊的理解力と知識をもって神を知る方法、霊的影響力を行使して発揮する方法を教えてくださいます。「主が、その種の試練と試験の後、あなたがもっと完全に主の働きに移ることを望んでおられるかどうか、疑問を呈してはならない」と私は言っているのではありません。主はそう望んでおられるかもしれません。しかし、あなたはこの言葉の要点を理解していると思います。私たちは自分自身を自分の生活状況にまったく順応させなければなりません。あなたたちの多くは、今いる所から決して離れられませんでした。しかし、その場所こそあなたの大学であり、あなたはそこで学ぶべきなのです。しかし、あなたはそうしているでしょうか?あるいは、あなたは始終そこから脱出することを願い、ひたすら堪え忍び、我慢して、「ここに私はいます。何かが解放してくれるまで、私はここにとどまらなければならないと思います」と言っているのでしょうか?あなたの態度はどうでしょう?ボート競技で漕ぐ人たちをご覧なさい。時が来て、彼らは訓練を受け、一つ心で訓練にあずかり、徹底的に訓練をこなし、訓練に打ち込みます。彼らの目的はただ一つであり、すべてはこの目的と一致させなければなりません――自分たちの前にある任務に適応させなければなりません。私たちは人生に対してこのような態度を取らなければなりません。私たちは神の御旨によってこのような人生を送っているのです。「この状況は私が訓練されるための舞台であり、私はこの状況を最大限有効に活用するために取り組みます。それは私が主を知るためであり、主を証明するためであり、主に頼って生きるためです。こうして、私は今日の必要に間に合う者として資格づけられるのです」――これは大きな必要であり、大いに緊急を要することであり、今日神の民が直面していることです。