私たちはこれまであなたに、「私たちはこの宇宙の霊的歴史において、とても危機的な時を迎えている」という私たちの強い感覚を分け与えようとしてきました。今日のこの情勢を観察している人なら、あまり議論や証拠を示すまでもなく、この情勢が大いに脅威的なものであることを納得するでしょう。この地上における神の働きに関するかぎり、これはとても深刻な状況です。神に敵対する悪の全体系は、様々な異なる姿で、様々な異なる名の下で、また様々な強力さで、大いに目立つものになりつつあります。この試みは、神をこの宇宙から追い出すために、大いに増し加わりつつあります。これは全く明らかなことです。こうした情勢に関するかぎり、神の占める場所は地上で狭まりつつあります。キリスト教国と言われている国々ですら、急速に異教が優勢になりつつあり、神に対する言及がかなり減りつつあります。もちろん、これは世界の他の場所でも、もっと強力な形で見られます。かつては多かれ少なかれ受動的だった固有の傾向が、今では積極的なものとなり、ますますそうなりつつあります。これらはみな途方もない動きであり、あらゆるものの背後にある一つの王国に向かって共に進みつつあります。そして、「誰がこの創造された世界を治めることになるのか?」というこの決定的問題を提起しています。私は、宗教の自由に関する問題や、人類の自由に関する問題といった多くの問題について問いかけることにより、この問題をかなり詳しく追うこともできたでしょう。しかし、あなたは事の成り行きや、この悪の働きを――その名がいかなるものであれ――ご覧になっています。これらすべての問題の一つの焦点は、この世界の主権に関する問題です。この問題は数多くの問題に帰結するものではなく、一つの問題に帰結するものであることは明らかです――その一つの問題とは、「どちらの王国が勝利を収めるのか?」という問題です。今日、この世界の歴史のいかなる時にもまして、この問題は切迫しています。
今日、地上にいる主の民はみな、この大問題と関係しています。私たちに関するかぎり、主は私たちがこれに直面するようにしておられます。そして、この一連の黙想でこれまで述べてきたこと、またこれからなおも述べようとしていることは、これとの関係で意義を持つものなのです。
神の王国とは神の領域である
ですから、詳細は省いて、この問題に取り組んで専念することにします。付記すると、私たちが取り組んでいるのは創造における神の御旨という問題以外のものではありません。これは何でしょう?これについては、とても一般的な言葉で述べることしかできません。これはみなこの一つの句――神の王国――に要約することができます。私たちはこの句にかなり慣れ親しんでいるため、実際のところ、この句の意味を理解しそこなっているのではないかと思います。さて、第一に、神の王国とは神の領域であり、神がご自身を表現される領域です。神の王国はそうでなければなりません。全聖書を貫いている原理はこれです。神がおられる所はどこでも、その領域は神ご自身と一致するものにならなければなりません。その領域は神の性格を帯びなければならず、神ご自身の御心、神ご自身を表現するものでなければなりません。神の王国は神の領域です。この領域は神ご自身を表現し、神の性格を帯びています。また、その領域の中ではすべてのものが、ごく小さなものに至るまで、神について告げ、神がどのような方かを示します。
王国の祝福
神の王国は神について告げるものであり、それゆえ、神の性格を帯び、神を表現し、神の祝福で満ちています。私は「祝福」という言葉よりも良い言葉を知りません。あなたは「祝福された神の福音」(一テモテ一・十一)というささやかな句の存在をご存じでしょう。しかし不幸なことに、この句は私たちの英訳聖書では間違って訳されており、文字どおりには、「幸いな神の福音」となります。山上の垂訓をこのような仕方で再翻訳することもできます。すなわち、「……者は祝福されています」ではなく、「……者は幸いです」と訳すことができるのです。ご存じのとおり、山上の垂訓は王国の道徳的基礎を示したものであり、とても祝福された状況を表しています。ですから、神の王国が実際に確立されて、あらゆる領域に広がる時、神の祝福に満ちたものになります。神の王国は、恐るべき神の専制的な独裁支配ではありません。神の王国はとても祝福された王国であり、その中にいる人はみな大いに祝福された、大いに幸いな人です。そして、神の王国を拡張するという神の御旨――これがまさにこの創造された世界の存在の背後に控えているものなのです。
地上で王国を拡張すること
これはある意味、推測にすぎないかもしれません。なぜなら、私たちは他の惑星や世界の状態を知らないからです。もしかすると、他の惑星や世界では、神がすべてを創造されたまさに祝福された状態にあるのかもしれません。もしかすると、この惑星は自分の霊の軌道を外れて王国を失い、回復される必要がある放蕩息子の惑星なのかもしれません。これは推測にすぎません。なぜなら、私たちには知るよしもないからです。ですから、「王国を拡張すること」という言葉を用いる時、私たちはある程度控えめに用いる必要があります。しかし、次のような形で使うのは間違っていないと思います――すなわち、この世界に関するかぎり、神はその王国を拡張することに取りかかられたのです。この世界は、いま定義した神の王国の拡張であり、神はこの世界を創造する時、この世界がある特別な形で神の王国を代表して表現するようにされたのです。この世界は、その霊的性質により、神ご自身を表すべきものです。もちろん、これには多くの内容があるので、それについて今は述べることができません。この地上で神は人となられ、それに続いて、神はキリストによりこの世界をご自身と和解させられました――また、神はこの地球上で、地球という手段により、地球に対して何をしようとしておられるのかについて、私たちに素晴らしい啓示を与えてくださいました。この事実はまさに、神の王国はあなたや私が住むこの世界に対して特別かつ独特な形で働いてきたことを、少なくとも示唆します。
しかし、私たちの今の目的は、啓示によってまぎれもなく明らかにされた神の御旨を示すことです――神がこの世界を創造された目的・動機は神の王国です。そして、これまで述べてきたこの神の王国は――神の領域であり、神の性格を帯びている、それゆえ神ご自身の祝福で満ちているものなのです。
しかし、神の王国は神によって治められている領域です――だれかが委託されて治めているのではなく、神ご自身が自ら治めておられます。それゆえ、無限の知恵、無限の愛、無限の力が、神の王国の支配的要素です。
無限の知恵が神の王国の支配的要素です。この知恵は、人がこれまで蓄えてきたあらゆる機知や理解力や知識を遙かに超越しています。そうです、まさに無限の知恵なのです。また、無限の愛もあります。なぜなら、神は愛だからです。さらに、無限の力があります。神の王国が背後に控えています。これが神の王国であり、この創造された世界の意義です。
地上の王国を委ねられたのに裏切った(a)最初のアダム
しかし、私たちはあの恐ろしい光景を見ることにします。その時、この王国を実現するために、この王国は人に委ねられました。この王国は道徳的な王国であることを理解してください――この王国はたんなる機械的な王国ではなく、人の応答とは関係なく神の至高の決定によってもたらされるものでもありません――人は自分の自由意志を用いて協力しなければならなかったのです。神がどのようにご自身の王国の権益を人に委ねられたのか、私たちは知っています――ある意味において、神は人を彼の大いなる御旨の守護者とされたのです。しかしその後、重大な裏切りという悲劇が起きました。人は神に背き、神を裏切って、神の権益を敵の手に渡してしまいました。この敵については前の黙想で述べましたが、この者は神の地位を横奪することを心の中ではかり、それが効を奏さないのを見ると、神の王国に敵対する王国を打ち立てることにしました。人は神を裏切って、自分に委ねられたものをこの敵対者の手に渡しました。そこで、しばらくの間、この創造された世界に関するかぎり、神の王国は差し止められてしまったのです。しかし、神はこの裏切りにもかかわらず、ご自身の御旨を放棄されませんでした。全人類はこの神の王国が実現される領域となるはずだったのに、裏切ってこの敵対者の手に落ちてしまいました。しかし、それにもかかわらず、神は御旨にしたがって新たな動きを開始して、この人類の中から一つの民を選ばれたのです。
(b)イスラエル
私たちは神の動きについて知っています――神は最初、一人の人を選び、次に、一つの家族、一つの民族、一つの国を選ばれました。この国は選ばれた国であり、この国によって神の王国の意義が原則的にすべて示されることになっていました。この選ばれた国、この選ばれた民の意義を十分に理解するのはとても素晴らしいことです。この国は国々の間から選ばれましたが、それらの国々に属するものではありませんでした。なぜ神はイスラエルを選ばれたのでしょう?――国々の間で神の王国を実証し、表現するためです。イスラエルは一時的な部分的存在にすぎませんでしたが、それにもかかわらず、神の王国をかなり正確に表すものでした。この神の王国では神が統治されます。また、神がすべてをご自身の御心にかなうものにして、ご自身を表現されます。それゆえ、人にとってそのような統治の下に生きることがいかに祝福されたことなのかを、神は示すことができます。イスラエルの歴史には、たとえ不完全ではあったにせよ、神がすべてを支配されることがどういうことかを示す素晴らしい側面もありました。あなたは乳と蜜の流れる地とその地のあらゆる産物について聞いたことがあるでしょう。イスラエルの民は神によって定められたこの比類ない豊かな土地に住み着きました。国の全盛期には、彼らは溢れるほどの富を持ち、栄華をきわめ、あらゆるものに富んでいました。イスラエルはまさに、神によって選ばれた地球の中心でした。なぜなら、神がすべてとなるときどうなるのかを、たとえ一時的な形だったにせよ、イスラエルは示せたからです。イスラエルの歴史の全盛期――ソロモンの時代――この土地は富で満ちていました。ソロモンの王国にあった金、銀、宝石、あらゆる豊かさについて述べている章を読んでください。これは素晴らしい物語です。なぜでしょう?たとえ一時的で不完全な形だったにせよ、神はこの世界の歴史の他の何ものにもまして素晴らしいものを示そうとしておられたからにほかなりません。すなわち、神の王国が確立される時、その神の領域は全体的にどうなるのかを、神は示そうとしておられたのです。それで神は一つの国を選ばれたのです。それはこの国によって――この宇宙に存在する他の霊的状態と同じように、この国の状態を通して――神がすべてのすべてである神の王国がいかなるものなのかを、たとえかすかではあっても映し出し、指し示すためでした。
しかし、この国は失敗しました。彼らもまた神を裏切りました――そして、この同じ敵の手に陥りました。預言者たちは一貫してイスラエルの偶像崇拝に反対して叫びました。偶像崇拝は原理的に、この宇宙の悪の勢力によって支配されています。偶像崇拝の背後にはこの悪の勢力の支配があります。神はまたもや裏切りにあわれたのです。しかし、神は敗北しませんでした。神は諦めませんでした。神は当初の御旨にしたがって進まれたのです。
最後のアダムによって霊的に確保された王国
神の動きを辿っていくと、最大の出来事――御子の降誕――に行き着きます。「最後のアダムが救うために来てくださいました」。王国は御子と共にあり、御子の中にあります。今、御子は一時的なものや、地上の状態を取り扱っておられるのではありません。第一に、前の黙想で見たように、御子は問題の根幹、一次的原因を取り扱われました。二次的原因を先に取り扱われたのではありません。御子は万物の背後に回り込んで、十字架により主権者たち、権力者たち、この悪の支配の世界的体系全体を取り扱われました。私たちはさらにこれについて見なければなりません。
しかし、この時から、私たちは神の王国に関する新たな動きを見るようになります。これはたんなる一時的な地上のものではありません。すなわち、これはたんなる時間に属するものでも、地上の物事に属するものでもありません。これは王国のこの究極的な領域です。その時から始まったこの新しい動きは、神の王国に関する霊的な動きです。神の王国が到来しました。どこに到来したのでしょう?キリストにあって到来したのです。それでは、キリストはどこにおられるのでしょう?キリストは一つのからだ、霊的なからだ、彼のからだである教会にあって到来されたのです。これが新たに選ばれた国、永遠の国、この御旨のための国です。これは地上のものではなく、時間に属するものでもなく、金や銀や宝石のように今の一時的な事柄に属するものでもありません。キリスト教であれ、他の宗教であれ、宗教組織はこの地上の華美で贅沢なものに関心を持って見せびらかすかもしれませんが、放っておきなさい。そのようなものは神の王国ではありません。「神の王国は飲食にあるのではありません」(ローマ十四・十七)。この王国は霊的なものであり、今や団体的なキリストによって現されます。彼ご自身が彼のからだである教会、この永遠に定められたからだのかしらです。これは神が後で考え出されたものではありません。これは、他のものがみな失敗したから持ち上がったものでもありません。神は時代毎に変わる神ではありませんし、昔と今で異なるわけでもありません。神は永遠の現在のうちにおられます。ですから、神にとっては百万年も昨日のようです。神は最初から予見し、予知しておられたのであり、あらかじめ決定し、定めておられたのです。私たちは、神の永遠の御旨であるこの特別な器に来る時、この偉大な言葉に出くわします。このように時が満ちて、キリストが自ら到来され、次にご自身のために一つのからだを構成して、このからだにより永遠からの神の王国を構成されるのです。
すべてのすべてなる神
どのようにしてでしょう?どのような根拠に基づいてでしょう?神がすべてのすべてである所は、神の領域の第一の圏内であり、そこでは悪魔や人には何の地位もありません。これが十字架の偉大な意義であり、私たちはこれに達するよう努めています。そこでは、人のいかなる組織も治めることはなく、神がすべてのすべてです。これこそ万物が向かっている目標であることを、あなたは覚えておかなければなりません。第一に、万物はキリストを通して、キリストによって動いています。次にキリストは彼の教会を通して動いて、万物を完全に神に立ち返らせます。「彼は王国を父なる神に渡されます(中略)それは神がすべてのすべてとなるためです」(一コリント十五・二四~二八)。
この状況の中に私たちはあります。まずはじめに、神はすべてのすべてです。神はすべてのすべてとなっておられるでしょうか?さて、これこそ私たちの内なる生活の戦場です。この点に私たちは前の黙想で到達しました。主がそうされるなら、後で再開することにします。しかし、まず第一に、これは神がすべてのすべてとなること、主が主となること、他にはいかなる主権もなくなること、という問題です。私たちの意志、私たちの好き嫌い、私たちの好み、私たちの偏見、私たちの選り好み、そして私たちに属するいっさいのもの――そうしたものが立ち上がって、神の地位や道や御旨に対立するようなことがあってはなりません。他のいかなる特徴も主権を握ってはならず、神がすべての主でなければなりません。イエス・キリストは白い馬に乗ってやって来て、その衣には「王の王、主の主」と記されている、と聖書は述べていますが、私は文字どおりこのような光景を見るようになるとは期待していません。私は、この記述は偉大な霊的真理を示す象徴だと信じています。つまり、彼が主の主としての威光を帯びて来られること、彼は他のすべての主権を踏みにじってご自身に従わせること、また――比喩的ではあるもののまさに現実的に――王として勝利のうちに来られることの象徴なのです。これが目的であり、彼はご自身が獲得したこの絶対的支配権を御父に渡されます。それは、この世の基が据えられる前から定められていた御父の御旨が成就されて、御父が究極的に満足されるためです。この神の王国という問題はすべて、まず第一に、一人一人の信者の内側の問題に帰着します。つまり、一人一人の信者の内側で神が主となっておられるのか、という問題に帰着するのです。
たったいま述べたように、これが私たちが常に戦っている戦場です。しかし、神はほむべきかな、敗北ばかりではありません!神の御霊の大能の力により、「私は倒れるとも、立ち上がる」(ミカ七・八)と私たちは叫ぶことができます。これは自信やうぬぼれを言い表した言葉ではなく、私たちの内に働く力を信じる信仰の叫びです。この神の御霊の大能の力は、私たちの内に働く王国の力であり、来るべき世の力です。
私たちの内側に、また私たちの間にある神の王国
そして、この力は第一に霊的な力であって、これを実現します。あなたや私は、この二つの王国の間の恐ろしい戦いの中にあります。この戦いの焦点は、まさに私たちの魂です。あなたも私ももろくて不完全な者であり、何回も失敗、過ち、失態、間違いを犯してきました。しかし、それにもかかわらず、あなたも私も私たち自身のものではない力やエネルギーによって運ばれています。そしてついには、私たちに敵対している勢力を絶対的に超越した地位に到達するでしょう。神が私たちの内で働いてこれを実現してくださいます。これが神の王国です。神の王国、天の王国は、あなたの内側にあります。それは内側の問題であり、内側から始まります。また、それはあなたたちの間にあります――それは王国の団体的背景を表すものです。教会の中で、神によって確保されて構成された民の中で、まず第一に神の絶対的主権が確立されます。
もう一つの面について、一言付け加えなければなりません――教会は、その中に神の祝福が注がれる民です。さて、これは真実であるという感覚もあるのですが、まだあまり十分には感得できていません。この霊的大戦争の圧迫や厳しさが私たちに影響を及ぼして、損害を与えています。敵は私たちを消耗させようと絶えず狙いを定めており、その印が私たちの上に残っていて、私たちは神の王国の祝福という特徴をあまり帯びていません。しかし時として、神の王国の祝福が湧き出ることもあります。私たちは一緒にシオンの歌を歌い、キリストが間もなく出現される大いなる日について語り、彼の十字架の素晴らしさをすべて思い起こします――「ああ、この十字架の甘美な素晴らしさよ」――そして私たちがこれらのことを深く考える時、彼の王国の栄光が込み上げてきます。これがしばしば現れます。おそらく、これはクリスチャンの交わりの大きな祝福の一つでしょう。私たちは御霊の中で集会に集まります。すると、王国の真の性質が湧き上がってきて、姿を現します。それは常に現存しており、多かれ少なかれ、そこにとどまっており、そこで感じることができます。しかし、私たちは自分が問題に直面していること、自分が恐ろしい戦いの中にあることも感じています。しかし、この王国の中で私たちはますます神の祝福、神の幸いを受けなければなりません。私たちはこれに反するものを自戒しなければなりません。また、私たちは結局のところ、とても幸いな民であることを思い出さなければなりません。「主を神とする民は幸いです」(詩篇一四四・十五)。
教会は王国を治めて現さなければならない
しかし、この問題はこれで終わりではありません。イスラエルは選ばれた国でしたが、それ自身が目的なのではなく、すべての国々に神の王国の何たるかを示し、国々の間でこの王国を治めるためのものでした。他の国々がイスラエルから益を受けたこともしばしばありました。国々がイスラエルに敵対していない時、イスラエルに対して従順で友好的な時、大きな祝福がイスラエルのゆえにそれらの国々に臨みました。それ以来、ずっとそうです。私たちはこの国に対して過去に取ってきた姿勢のせいで、この国からあまり大きな祝福を受けてこなかったのではないかと、私は懸念しています――この国は拒絶されさえしたのです。「わたしはあなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者を呪う」(創世記十二・三)。これは今でも有効です。しかし、とても直接的な形で、イスラエルが神の御心にしたがって、神と一致していた時、人々はイスラエルのゆえに祝福されました。そして、教会もそれ自身が目的なのではありません。私たちは「黙示録」の中にこの目的を見いだします――この都が統治して、国々はこの都から益を受けます。諸国民の明かり、諸国民の健康のための葉、諸国民の命の水は、この都から発します。ですから、教会は神の王国を治めて現すための神の道具として構成されなければなりません。
その実際的な結果――暗闇の王国を制圧すること
しかし、私たちはこの究極的なものの中に置かれている一方で、これに関する実際上の問題や課題をすべて心に留めなければなりません。この問題はみな、さしあたって一つの問題に帰着します。その問題とは、神の王国すなわちイエス・キリストによる神の大能の主権の影響を、この地上の王たちや支配者たちの上に及ぼすことであり、さらにそれ以上の影響を主権者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たち、天上にいる悪の霊の軍勢の上に及ぼすことです。ここに私たちは連れて来られています。私たちの今の黙想における神の御旨と私が信じていることを一つの文章にまとめるとしたら、次のようになります――神はこの民の間にいる私たちをある地点に連れて行こうとしておられ、その地点に私たちが至る時、私たちはこの霊の領域で今より遙かに値打ちのある者となり、この世の体系の背後にいる悪の勢力は私たちのことを考慮せざるをえなくなるのです。この経綸時代、神にとってどれだけ価値があるかは、これによって決まります。
さて、私たちの話をすべて拒んだとしても、あなたは依然として救いを失うことはありません。救われるのに必要なのは、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたは救われます」(使徒十六・三一)だけです。これだけで、あなたは天に行くことができ、罪定めと地獄から救われることができます。私たちが話しているものが何もなくても大丈夫です。しかし、私はあなたにお尋ねします。「あなたは救われることと同じくらい、神に対して有用な者となることに関心を持っておられるでしょうか?」。これは救いとは別の問題です。あなたが神に対してどれだけ価値ある者となるかは、これによって決まります――神に敵対するこの宇宙のこの霊の勢力の領域で、あなたは神に対してどんな価値があるのでしょう?悪魔はあなたのことをどれだけ考慮しているのでしょう?あなたは悪魔の王国に対してどれだけ脅威となっているのでしょう?あなたがどれだけ多くの奉仕や集会に参加しているか、どれだけ多くのメッセージを与えているか、どれだけ多くの活動をしているかは問題ではありません。こうしたキリスト教の種々の活動は全く問題ではありません。この暗闇の悪の王国に対して、あなたがどれだけ多く衝撃を与えているかが問題なのです。まさにこれによって、神に対するあなたの価値が決まります。ですから、悪魔があなたを散々な目にあわせて、あなたを要注意人物と見なしていることをあなたに知らせる時、むしろ慰めを覚えてください。それは、あなたが神にとって価値ある者であることを示しているのです。しかし、私たちは常にこれを覚えているわけではありません。私たちが悪魔の手の下でひどく惨めな時を過ごして打ちひしがれる時、私たちは「悪魔はなんと恐ろしい邪悪な者なのだろう」と思って、その思いでいっぱいになってしまいます。そして――これは謙遜の一種なのかもしれませんが――結局のところ、自分は何かしら重要な存在であることを忘れてしまいます。この経綸時代、神に対する物事の価値はこれによって決まります。大事なのは、どれだけ多くの組織をあなたが設立できるかではありませんし、この地上でどれだけ大きな組織を造り上げられるかでもありません。この一時的な領域の何ものも重要ではありません。大事なのは、神の王国に敵対しているこの王国に対して、全体的にどれだけ脅威を与えているかです。これは私たちが真剣に直面すべき課題です。
原則として、王国は今、現存している
神の王国は、私たちが理解している以上にとても重要なものです。ああ、人々はこれをあまりにも体系化しすぎて、その現実の霊的価値を失ってしまいましたが、これはなんと哀れなことでしょう!例えば、「王国は来るべき時代のためのものであって、今は王国の時代ではない」と言う人もいます。これは正しくありません。神の王国は現在の問題であり、この創造された世界全体の究極的な問題です。そして、この神の王国に関して、暗闇の全勢力は――この地上でいかなる名の下で働いていたとしても―― 一つの邪悪な霊的統治と君主の下に集結しています。それは、神の王国がこの創造された世界に確立されて広がらないようにするためです。クリスチャンの民はこれを知っています。今日、宣教団体の雑誌に記されている大問題は、「多くの場所で働きを続けていくことは可能か?」、「撤退するべきか?」、「将来、発展する見込みはあるのか?」ということです。扉は閉じつつあります。しかし、神の王国についてはどうでしょう?神は主なのでしょうか?神は彼の宇宙から押し出されてしまうのでしょうか?神の御言葉が最後に与えている絵図はそうではなく、その正反対です。私たちはこの戦いの中にあります。結局のところ、この戦いは霊的戦いです。主はこの課題の重大さを私たちの心に痛感させてくださり、これは今や個人的問題であることを理解するよう私たちを助けてくださいます。神の王国は個人的な問題なのです。