まだこの一つの区分が残っています。この区分ではすべてがキリストとその信者に集約されます。
私が切に望んでいるのは、私たちが生きているこの時代、主は私たちをどこに導こうとしておられるのかを知ることです。つまり、現在進行中のあらゆる事柄の超地上的背景を理解し、はっきりと把握したいのです。(私は前に「宇宙的(cosmic)」という言葉を使いましたが、私はあまりこの言葉が好きではありません。また、この言葉の威力をみなが理解し把握してくれるかどうか私には定かではありません。ですから、おそらく、超地上的性質や超地上的背景という言葉を使った方が、私の言わんとしていることを読者はよりよく理解できるでしょう。)これが意味するのは、物事は地上で起きていることだけに限られるのではなく、すべてのことには別の背景すなわち霊的背景があって、第一に重要なのはこの領域であるということです。この領域で私たちは行動しています。そして現在、最後の局面や結論に向かいつつあるものと関係しているのもこの領域です。ですから、キリストと信者たちに関するかぎり、私たちはこの領域についてよく知らなければなりません。
私たちはみな、キリストの生涯の物語を読んだことがあります。その物語は、多かれ少なかれ、興味深いものであり、ある意味、有益でもあります。当時のローマの支配者が誰だったのか、主がお生まれになった土地はどんな所だったのか、ナザレはどんな所だったのか、ガリラヤ湖にはどんな特徴があったのか、その漁師たちはどんな人だったのか、そのほか主の地上生涯にまつわる無数の事柄について知るのは興味深いことです。これらはみなためになりますし、ある種の価値があります。しかし、そうしたことがキリストの生涯なのでしょうか?それがすべてでしょうか?それがイエスの物語なのでしょうか?私が言わんとしていることはおわかりでしょう。キリストの真の生活はガリラヤやユダヤや様々な場所の中にあったわけではありませんし、様々な光景の中にあったわけでもありません。キリストの真の生活は、この領域の全く外側にあったのです。イエスの物語は、場所や出来事や人々という観点からは決して記しえない物語です。この物語は超地上的領域の中にあります。実に、この物語の関心事は超自然的関心であり、たんなる人間的関心ではありません。この物語全体には一つの意味があります。主の行い、主の訪問先、主の言葉、主に起きた出来事しか学ばないなら、その意味を完全に見落としてしまうかもしれません。重要なのはこの別のもの――これらすべての背景――なのです。この背景は永遠の時間の領域の中にあり、霊的な目に見えない知的存在や勢力がいる一つの大きな宇宙の中心に位置します。この領域でキリストの生涯は記されたのであり、この領域でのみキリストの生涯を真に知ることができます。私たちは他のあらゆる情報を知っているかもしれませんし、そうした情報は興味深く素晴らしいものかもしれませんが、情報は私たちをあまり遠くに至らせることはできません。私はあなたにお尋ねします。家々が並び立つベツレヘムと呼ばれていた小さな町でイエスがお生まれになったこと等を知ることが、罪との死にもの狂いの恐ろしい戦いで、どれだけあなたの役に立ったでしょうか?あまり役に立たなかったのではないでしょうか?しかし、あなたが霊の光景を見、霊の領域で起きていることを知る時、それはあなたの最も深い霊的経験に影響を及ぼすことがわかります。これが「あらゆる事柄の超地上的背景」という言葉で私が言わんとしたことです。今、私たちはしばらくの間、この問題に取り組むことにします。
主の勝利の領域
そこで、まず第一に、この霊の領域におけるキリストを見ようと努めることにします。キリストがこの世界に来られたことには一つの中心的な包括的目的があったことを私たちは認識しなければなりません。この包括的目的には二つの面がありましたが、それでもそれは一つのことでした。一方において、キリスト来臨の目的は第一に、サタンの王国を法理的に無効化することであり、次に、この王国を究極的に滅ぼすことでした。法理的には――そうです、これは成就されました。究極的には――これは将来のことです。悪鬼どもは主の臨在の意義を認識していました。「私はあなたがどなたか知っています。神の聖なる方です」(マルコ一・二四)。「まだその時ではないのに、あなたは私たちを苦しめに来たのですか?」(マタイ八・二九)。この悪鬼の言葉は究極的滅びのことを言っています。しかし、当時の主の臨在と主の十字架は、悪鬼どもにとって法理的滅びを意味しました。しかし、それは当座のことにすぎません。ですから一方において、キリスト来臨の中心的目的はサタンの王国を滅ぼすことだったのです。他方において、キリストの来臨は天の王国、神の王国を開始することでもありました――今は法理的に始まっていますが、後で文字どおり確立されます。これが主の来臨の中心目的です。主の来臨の中心目的は、善人の生活を送ることや、ある種の教え、「イエスの教え」について説明することではありません。また、人はいかに生きるべきかについて偉大な模範を示し、次に人はいかに自分の信念のために喜んで死ぬべきかについて最高の模範となることでもありません。そのようなことはどれも、この真の意義からなん とかけ離れていることでしょう!
さて次に、いま述べたことには三つの面があります。第一の面は、主イエスの生涯のあらゆる出来事が有する普遍的関係です。ここでは主の生涯を受肉、誘惑、十字架、復活、昇天と大まかに示すことにします。
(a)受肉の勝利
主は肉体となって来て、私たちの間に幕屋を張られました。これが受肉です。まさにこの受肉の始まりから、それどころか実際の受肉の前ですら、これはこれまで述べてきた宇宙的な超地上的要素に影響を及ぼしました。この諸々の要素はサタンの王国を構成するものであり、サタンの性質そのものです――高ぶり、反逆、倒錯によってサタンの王国は構成されており、地上で維持されています。主が生まれる前ですら、サタンの王国は影響を受けたのです。御使いがマリヤにこの大いなる計画を話した時の、ふたりの間の会話に再び耳を傾けましょう。その計画は彼女に義務として課せられたわけではありませんでした――これは重要な点です。御使いはこの計画を彼女に押しつけて、「この計画は実現しなければなりません。あなたはこれを行わなければなりません。これはあなたの義務です」と言ったわけではありませんでした。そうです、それは提案であり、暗示であって、御使いは神の偉大な御思いと御旨を彼女の前に示しました。その御旨は、人間生活や人間関係に関するかぎり、彼女を最も困難で微妙な立場に巻き込むものでした。そして、この御旨は彼女の判断に委ねられたのです。彼女はこの御旨を見て、量りにかけました。彼女は人にとってそれが何を意味するのかを見ました。この御旨を受け入れるなら社会から追放されるおそれが十分あるのを彼女は見ました。いまはこれを辿ることはしません。彼女はそのおそれを承知していました。この物語を読むと、彼女の内に真の戦いがあったのを見て取るのは難しくありません。彼女の内には戦いがありましたが、最後に彼女は勝利しました。彼女は自分の意志を用いて勝利を勝ち取りました。この勝利を得るには、高ぶりや自分の利益をすべて地に投げ捨てる必要がありました。これは力強い勝利でした――「お言葉どおり、私の身になりますように」(ルカ一・三八)。マリヤは神の御旨に絶対的に服従しました。「ご覧ください、私は主のはしためです」――これはしもべの精神です。この光に照らして見ると、何がこの影響を受けたのかわかります。もし高ぶりが所を得ていたなら……!サタンの王国に対して、これがどんな影響を及ぼしたのかをご覧なさい。もし彼女が自己の利益に支配されていたなら、もし彼女の中に反逆、倒錯、手放すのを嫌がる気持ちがあったなら、どうなっていたでしょう?もちろん、主は別の器を見いだされたと思いますが、私たちはこれについて何もわかりません。ここで私たちは、代々の時代にわたる偉大な物語が一人の女性の魂の中に凝縮されるのを見ます。はたして彼女は神の御旨に委ね、明け渡し、服従するのでしょうか?この自己放棄により、彼女の意志は神の意志と一つになりました。そしてそれによって、この地球に関するかぎり、サタンを王座から追放することになるひとりの方がお生まれになったのです。サタンを王座から追放するには、神の宇宙にはびこっていた高ぶり、反逆、倒錯、自己中心性を取り去ることが必要でした。そして、その最初の戦いはこの女性の魂の中でなされたのです。私たちは降誕節の季節になると主の誕生について話しますが、受肉のまさに第一歩の背後にこのような恐ろしい戦いがあったことを見ているとは私には思えません。その背後には、この広大な領域が広がっていたのです。私たちはこれまでマリヤについて話しすぎるのを少し恐れてきました。なぜなら、邪悪で悪質な組織が存在していて、彼女を礼拝し、彼女の歌の言葉に誇張された誤った意味を与えてきたからです。「見よ、今から後、あらゆる世代の人が私を祝福された女と呼ぶでしょう」(ルカ一・四八)。もちろん、私たちには「祝福された処女マリヤ」という句がありますが、私たちはこれを恐れているのです。悪魔はとても狡猾です。悪魔はこの偽りによって真理を覆い隠してきたのです。彼女の魂の中で悪魔の王国を征服する第一歩が踏み出されました――高ぶりは打ち倒され、絶対的な意志の服従によりこの女性の意志は神の意志と一つになりました。そのおかげで、創世記三章十五節の御言葉「わたしは恨みを置く。お前と女との間に、お前の子孫と女の子孫との間に。彼はお前の頭を打ち砕く……」の成就が可能になったのです。
しかし、受肉はこれだけではありません。当時ですら、そうでした。処女懐胎の神秘があります。私たちは「無原罪の宿り」を受け入れません。これはマリヤを罪の無い存在とするからです。マリヤの系図の中には罪深い人もいます。ですから、彼女は生まれつき罪深い性質を受け継いでいました。しかし、御使いが彼女に告げた「あの聖なるもの」に関する言葉は、イエスは罪深い性質を受け継がれないこと、むしろ、罪の無い不朽不滅の存在になられることを意味しました。神は最初のアダムと最後のアダムとを性質上はっきりと区別されました。最後のアダムは全く別の存在であり、この領域には属さず、彼方の領域に属しています。この彼方の領域では、神はかけ離れた、異なる、「別の」存在です。何らかの方法で、聖霊はこの聖なるものを聖くない遺伝から分離する奇跡を行われました。サタンの王国を滅ぼすにはこれが必要だったことがわかります。キリストは最初のアダムとは全くかけ離れていました。これこそ、この宇宙的戦いの最大の力なのです。
次に、この問題に関して別の勢力がいかに興味を抱いたのかをご覧なさい。ベツレヘムの馬小屋だけでなく、その周辺の野原や遠く離れた地で、途方もない活動がなされていました――賢者たちがやってきた土地や、ヘロデのいたユダヤでもそうでした。この問題全体によって、とても大きな関心が引き起こされました。この女性は自分の魂の中で勝利しましたが、それは数々の原則に関わることでした。また、聖霊は奇跡をもってアダムの罪の系譜とこの「聖なるもの」とを切り離されました。代々の時代にわたる戦いの行く末は、このマリヤの勝利と聖霊の奇跡にすべてかかっていました。そうです、創世記三章十五節は預言や事実を述べたものであるだけでなく、広範に及ぶ素晴らしい結果をもたらすものでもありますが、それが直ちに成就しはじめたのです。ああ、殺人者が立ち上がりました!カインとアベルの物語はこの二つの体系の戦いの始まりを私たちに示しています。この二つの体系の戦いは個人から部族へ、部族から国へと発展し、拡張してきました。聖書全体を通してこれを見ることができます。それは二つの路線に沿ってであり、二つの基礎に基づいています――すなわち殺人と混合です。敵はモーセや主の他の僕たちを殺そうとしました。敵は選民を殺したり、直接的に滅ぼすことができないときには、彼らを誘惑し、欺き、混合した結婚や混合した礼拝により何とかして彼らを混合の中にもたらして、自分の目的を遂げようとしました。聖書はまさに殺人と混合に満ちています――殺人と混合の目的は、悪の王国の滅亡とこの別の王国の到来を阻止することでした。この宇宙的な関心や懸念が地上でこの受肉の上に集中していました。すべての男の子を殺すようにというヘロデの殺意に満ちた、不法で、野蛮な命令の背後にはこのような理由があったのです。これが行われたのは一人の人――たった一人の人――をつかまえるためだったことを私たちは知っています。悪魔は自分の目的を遂げるためなら手段を選びません。受肉はこの領域でなされました。主イエスは降誕されました――ああ、毎年恒例のお祭り騒ぎをすべて取り払えれば!このお祭り騒ぎは後で付け足されたものであり、そのせいで主イエスの降誕の霊的意義が台無しになってしまったのです。私たちがこの主イエスの降誕の素晴らしさを見ることができさえすれば!主イエスの降誕は地上の食べ飲み等より遙かに素晴らしいのです。これらの点にはどれも同じ背景があります。それについてはもう十分述べて指摘したと思います。
(b)誘惑における勝利
誘惑にはこの霊的背景があったことを私たちは知っています。この誘惑にもこの同じ要素がありました。その要素とは何でしょう?――混合と殺人です。主イエスはバプテスマを受けた後、三つの誘惑によってふるいにかけられる必要があったのでしょうか?この誘惑は敵の狙いだったことは明白です――敵の狙いは主を自分の土俵に引き込むことでした。「もしあなたが、ひれ伏して私を礼拝するなら、これらのものをみなあなたに差し上げましょう」(マタイ四・九)。「もし……するなら、差し上げましょう」。これは賄賂による誘惑です。そして、賄賂により腐敗が生じます。敵は誘惑するために聖書の御言葉すら引用します。敵は聖書の中の一つの約束に基づいて、宮の屋根から身を投げるよう主を促しました。「神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、御使いたちはあなたを手で支えるであろう」。しかし、主の返答はこのたくらみを暴きました、「主なるあなたの神を試みてはならない」。神が私たちを助けてくださらない場合もあります。その場合とは、私たちが思い込んでいる場合です。思い込みは悪魔の道です。ダビデが、「あなたのしもべを引き止めて、思い込みの罪からお守りください」(詩篇十九・十三)と祈ったのも理解できます。ここでダビデが言っている「思い込みの罪」とは、サタンの忠告を聞いて、「神は御言葉に基づいてそれを行ってくださる」と思い込むことだったにちがいありません。誘惑して腐敗と殺人に至らせるこの技術の狡猾さと深遠さがおわかりになるでしょう。主が思い込みに陥っておられたなら、神は彼を守ることができず、彼は死んでいたでしょう。この策略はなんと深遠だったことか!そうです、主の誘惑には人が造り出した世界よりも遙かに広大な世界という背景があったのです。私たちはこれらの誘惑についてこれまで何度も読んできましたが、その地的な天然的意味しか見ていませんでした。
(c)死における勝利
十字架刑については――前の黙想ですでに十分に示しましたが、この十字架刑は善人が自分の信念のために死ぬ以上のものでした。この十字架には遙か彼方まで及ぶ意義があり、この地上を超越したものでした。主は十字架で主権者たちや権力者たちを剥ぎ取り、彼らを公にさらし者として、十字架において彼らに勝ち誇られました(コロサイ二・十五)。その時そこで何があったのか、使徒たちは私たちに明確に示しています。これがその霊的背景です。
(d)復活と昇天の勝利
主の復活と昇天については、パウロの言葉をもう一度聞いてください――「神はキリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自身の右に座らせ、あらゆる支配、権威、力、主権の上に置き、また、この世だけでなく来るべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に置かれました」(エペソ一・二〇~二一)。これは地的なことではなく、地上のことだけでもありません。キリストの復活と昇天の霊的背景がわかります。
以上述べてきたことは、この大いなる霊的背景――キリストに関するあらゆる事柄が持つ普遍的・宇宙的関係――の中に含まれる三つの面の最初の一つにすぎません。
主の命の強力な力
第二の面は「命」という言葉に集約されます。これが焦点であり、この問題は実際それに集中していました。命!主イエスは、ご自身がすべてに応じる強力な力と徳を帯びて来たことを自覚しておられました。「わたしが来たのは彼らが命を持つためです」(ヨハネ十・十)。「わたしは(わたしの羊に)永遠の命を与えます」(ヨハネ十・二八)。主は、ご自身があらゆる問題を解決できる強力な力と性質と能力――いわゆる神聖な命――を持っていることを自覚しておられました。この命はただの力ではなく、その性質ゆえに力があります。その力はその性質にあります。それは神聖であり、命です。敵が攻撃しようとしている一つのものはこれです。敵の活動はみな、この命の上に集中しています――敵は第一に、人々がこの命を受ける邪魔をします。敵は人々がこの現実の純粋な命を得ることがないよう、その代替物や代用品や偽物を提供するためになんと長い道のりを行くことか!敵はなんと壮大な宗教組織を打ち立てて、この一つのものの道に割り込もうとすることか――それは人々が神聖な命、まさに神ご自身の命を受けることがないよう邪魔するためです。また、人が敵を出し抜いて内側にこの命を受け入れた場合、敵は何としてもこの命を抑圧しようとします。敵はこの命の器、すなわちその命が宿っている体そのものを滅ぼそうとし始めます。そうするための手段はなんとたくさんあることか!神聖な命の数々の法則を破らないよう注意するために、神の子供たちはなんと多くの知恵を必要とすることか!この命を何とかして抑圧し、阻止し、妨げ、制限すること、これを行うことが敵の狙いです。
他方、この命の道について、また死が宿っているものに触れてはならないことについて、主の民は理解して学ぶ必要があります。この必要はなんと大きいことか。これは全行程に及ぶ現実的戦いです。「死に触れること」という言葉で私が何を言わんとしているのか、きっとあなたはご存じでしょう。あなたは自分の心の中でこれを経験しておられるでしょう。もしあなたが高ぶった言葉を一言でも発するなら、もしあなたがクリスチャンなのに何か地的で個人的なものを自慢し始めるなら、もしあなたが神の子供にふさわしくない方法で何か言ったり行動したりするなら、あなたはどう感じるでしょう?あなたの内側で何かが死んだように感じます――まるで何かが死んだように感じるのです。あなたの喜び、安息、平安、主の親密さの感覚は陰ってしまいます。何かが起きました。あなたはそれを知っています。あなたは死に触れたのです。そのようなことをしてはならないと、命の道は要求します。あなたは学びます。命の霊が内側にあって、この道によって教えてくださいます。これには信者の学びが必要です。ここでこれを見ることは助けになるでしょう。これはこの大いなる宇宙的戦いと関係しているものです。それは命です。この命が到来して自分の道を進むことができるとき、また主の民がこの命の法則と協力してそれに応じるとき、彼らの中で、それゆえ彼らのゆえに、サタンは常に自分の地歩を失って、神の愛する御子のこの別の王国が地歩を得ることになります。なぜなら、この王国は外側の組織ではなく、私たちの内なる命と関係する霊的なものだからです。これについてはこれくらいにしましょう。
主の勝利の領域の中にある信者たち
述べるべき三番目の面は増殖した一粒の種です。一粒の麦が死を通って百倍、千倍の実を結ぶこと――これが主の道です。信者とキリストとの合一、有機的な生き生きとした合一により、「生めよ、増えよ」(創世記一・二二)という命令が霊的な意味で成就されます。キリストの死を通して伝達される神の命により、多くの実が生じます。この多くの実はサタンの王国を滅ぼす方法であり、この宇宙の全体的光景のただ中に置かれた器です。
(a)分与された新しい命による勝利
さて、キリストに言えることは、信者にも言えます。なぜなら、個人的なキリストから団体的なキリストに移っただけだからです。キリストと同じように私たちもこの宇宙的背景の中にあることを、私たちは見なければなりません。信者としての、また神の子供としての私たちの生活には、この宇宙的意義があります。新生の意義は何でしょう?私たちはこれまであまりにも新生の意義を切り詰めて制限してきました。それによると、新生とは私たちが個人的に地獄を免れて天に入ることであり、私たちの罪の悲惨さから逃れて救いの中に入ること、それゆえ平安の中に入ることです。そして、私たちがそこに到達したなら、私たちは少しばかりのことを学び、恵みの中で少しばかり成長するでしょう。しかし、大勢の人々にとって、新生はかなり個人的な問題にすぎません。つまり、自分の救いや他の人々の救いに関する問題にすぎないのです。そして、新生の意義は人々に関するものにとどまっています。しかし、それがすべてでしょうか?新生とは何でしょう?それは今しがた述べたことです。新生とは、死によって征服されることのないこの新しい命が一人の新しい生命体に与えられることです――「キリストと共に生かされ、彼と共によみがえらされました」(エペソ二・五、六)――新しい命、この神の命が、一人の新しい生命体に分与されることです。
こうして戦いが始まります。新生した神の子供が経験するこの初歩的戦いについて、なぜ私たちは理解していないのでしょう?子供が生まれないかぎり、この戦いは始まりません。そして、この戦いは内側で始まります。なぜでしょう?その子供の誕生と共に、その子供は別の関係を持つ一つの世界の中に置かれるからです。その世界ではもはや、自分に関係するのは個人だけではありません。今や、別世界の中にいます。そこでは他の数々の思惑や考えが渦巻いています。さらに、何かそれ以上のものに自分が直面していることに気づきます。自分自身の命がその世界の命と戦闘状態に入ります。もしあなたが新生した子供の生活条件をその後も維持して、全世界をその子供に従わせようとするなら、あなたは台無しにしてしまいます。つまり、あなたはその子を駄目にしてしまいます。これはどういうことでしょう?これは新生した神の子供たちを、まるで彼らのために世界が造られたかのように世界の中心とすることであり、また彼らの望むものは何でも与えて何一つ拒まないことです。このように彼らを取り扱うことは、その子の内にある命の原則、責任の原則に反します。
これを霊的な事柄にあてはめてみてください。なぜなら、これはたとえにすぎないからです。私たちが新たに生まれて、内側に神の命を持つようになる時、私たちは一つの世界の中に導かれます。その世界は戦いの世界です。私たちの内にあるこの命は、直ちに戦いの領域の中に入ります。その領域の中には競合する数々の意志が存在します。そして、この線に沿って私たちの霊的学びが始まります。私たちはこの命にもともと備わっている勝利の力を開拓しなければなりません。まさにこのためにサタンは地上に残されているのです。「主イエスは十字架でサタンを退治されたのに、なぜサタンを完全に除き去ってしまわれなかったのでしょう?もし主がそうなさっていれば、どれほど多くのことを未然に防げたでしょう!サタンのせいで生じた何世紀にも及ぶ問題をご覧なさい!なぜ主は即座に彼を滅ぼされなかったのでしょう?」と、あなたはたびたび自問するかもしれません。その答えは、サタンを滅ぼすより残しておく方が主にとって有益だったからです。主は私たちに、神の命のこの素晴らしい可能性を試す機会を与えてくださったのです。最終的にこの命が死のあらゆる力に勝利する点に至るまで、私たちはこの命を試すことができます。この命は新生と共に始まります。上から生まれることには、途方もない結果と内容が伴っているのです。
(b)性格の造り変えによる勝利
造り変えに進むことにします。信者の造り変えとは何でしょう?一言で言うと、一方で壊し、他方で建て上げることにほかなりません。物質の領域では、私たち全員の体の中でこれが起きています。私たちの体の中では二つのことが起きています。一つは食べた食物を分解して、その栄養素を抽出することです。これは異化作用と呼ばれています。もう一つの働きは体を積極的に建て上げることであり、食物の栄養素を分解してそれに備わっていたエネルギーを解放することによります。これは同化作用と呼ばれています。この二つの過程を両方とも含む言葉が代謝作用であり、命の変化を意味します。体に必要な健康食を食べると、私たちはすっかり元気になります。霊的にも同じです。クリスチャン生活における造り変えもこのとおりです。私たちの内のこの命の過程は分解して毒素や不要なものを取り除き、「だめです。それは良くありません。それは欲しくありません。それは去らなければなりません」と言います。他方、「これこそ必要なものであり、欲しいものです。これは建て上げるものです」という内なる証しがあります。自分にとって霊的に何が良くて何が良くないのか、もしクリスチャンが感覚的に知らず、学んでもいないなら、その人の霊的健康には何か問題があります。もし神の命が私たちの内で道を得るなら、この二つの過程が進行します。すなわち、私たちは有益でないものがますますわかるようになって、それらを捨て去ります。他方、私たちは何が良くて、何が霊的に価値あるものなのかわかるようになり、「これこそ私の求めるものです」と言うようになります。これが霊的知性です。この打ち壊しと建て上げの二重の過程により、私たちは変えられていきます。これは生命活動です。信者の造り変えはこの線によります。
(c)試練を通してキリストを学ぶことによる勝利
霊的理解力について新約聖書が述べていることをすべて次の御言葉にまとめることができます――「あらゆる知恵と霊的理解力により、御旨を知る知識で満たされますように」。ですから、私たちクリスチャンの学びはこの方向に向かうものですが、それは試み、試練、逆境、苦難という線に沿ってなされます。私たちが持っている知識はすべて、苦難、試練、逆境を通して学んだものです。主を知るにはどうすればいいのでしょう?主を真に知る知識は本から学んだ知識ではなく、私たちが火の中で、試練の中で学んだものにほかなりません。私たちが敵に関する事柄に実際に立ち向かう時、私たちは知識を得るのです。
(d)隠れた勝利の顕現による勝利
信者たちの顕現について一言述べることにします。これはどういう意味でしょう?私がこれを述べているのは、より豊かで高い霊の領域についてです。顕現とは何でしょう?――ローマ八章はこれについて完全に私たちに告げています、「被造物は神の子たちの顕現を熱心に待ち望んでいます」(八・十九)。学びが完了して卒業を迎える時、水面下で起きていたこと、信者たちの内側深くに隠されていたことが現されます。かなりのことが進行しているのですが、最も身近にいる人ですらそれに気づきません――これらの隠れた戦いについて、他の人はいっさい何も知りません。私たちはこれらの戦いに中にあり、私たちは一人で戦い、主に恵みと勝利と力を求めなければなりません。霊的生活におけるこの戦いの積み重ねはみな、その大部分は人の目から隠されていますが、これまで効力を及ぼし、何事かを成し遂げ、私たちを変え、別人とし、さらにキリストに似た者に、さらに優しく、へりくだった、拠り頼む者としてきました。これはみなこの隠れた学びの結果ですが、やがてすべて現されることになるでしょう。将来、子たちが現されます。そして、彼らの現れと共に、これこそ全被造物が待ち望んでいたものであることが明らかにされます。なぜかというと、被造物はこのために造られたからです。被造物が造られたのは、主に似た人々――主の栄光に満ちた人々――が被造物を占有するためです。そして、これが成就する時、被造物の意義が明らかにされ、被造物自身も滅びの縄目から解放されます。これは私たちを最後の言葉――栄化――に導きます。
(e)栄化における勝利
これについて短く、一般的方法で述べることにします。結局のところ、栄化とはこの命の豊かさの顕現にほかなりません。栄化は、成熟に達したこの神の命の性質そのものです。そして、栄化と共にこの宇宙的大戦争も終わります。私たちが彼と共に栄光のうちに現される時、この戦いは終わり、サタンにはもはや何の立場も場所もなくなって、新しいエルサレムが天から出て神から下って来ます。
これについてはかなり述べてきました。私には一つだけ気がかりがあります。それは私たちの思いが散漫になったり、あるいは多くの話を聞くことで、私たちがこの差し迫った課題や要点から逸らされてしまうことです。今、私たちはまさにこの問題の中にあります。これは厳しい仕事です。私たちの霊的成長――霊的誕生から栄化に至るまでの霊的成長――から途方もない結果が生じます。私たちの霊的生活に途方もないことがかかっています。私たちの内で起きている事柄、私たちがどれだけ学び、成長しているのか、この命がどれだけ道を得ているのか、私たちがどれだけ主を知るようになり、目に見えない世界で重要な存在となっているのかに、途方もないことがかかっています。私たちがキリスト教と呼ばれる宗教に属し、ある事柄を信じたり行ったりしたとしても、それに真の価値はありません。この地表を遙かに超えた領域で主に価値があったように私たちも値打ちのある人物となる時、私たちは真の価値を持つのです。もしこの領域で私たちに値打ちがないなら、それは全くのお笑いぐさであり、全く何の意味もありません。主が私たちをこのような形で価値ある者としてくださいますように!