第2章 主イエスの地上生活

T. オースチン-スパークス

「主イエスの地上生活はなぜか?」と問う時、この質問は他の質問を暗示・内包していることが明らかになります。たとえば、「なぜ主は地上に三十三年半以上とどまる必要があったのか?」「その期間の大半を人目に触れることなく、また私たちに対して秘密裏に過ごすことがなぜ必要だったのか?」というような質問です。先に進むにつれて、こうした副次的な質問にもある程度答えるよう努めたいと思います。

キリストの地上生活を題材として多くの作品が生み出されてきました――大抵の場合その目的は、過去にナザレのイエスという人物がいたこと、イエスはたいそう善良な人物だったこと、イエスは教師として他の教師たちよりも遙かに偉大だったことを示すことです。あるいはせいぜい良くても、イエスは単なる人以上の存在だったことを示すことです。イエスの生涯について本を書く目的は他にもあるかもしれませんが、たいていはこうした理由によります。もちろん、イエスは世界の歴史的偉人ですから、彼がどこで生まれたのか、彼はどこでどのように育てられたのか、彼は国内のどこに行かれたのか、彼はどのようなことを教え、どのような奇跡を行われたのか、といったことを知るのは興味深いことです。こうしたことはどれも多くの議論や論争の題材となってきました。彼の奇跡は心理学者に多くの題材を提供してきましたし、彼の教えは神学者や教理学者に多くの題材を提供してきました。しかしこうした事柄についてことごとく述べ尽くし、書き尽くしたとしても、人間的物語を越えてあまり進むことはできません。そのような人間的物語は感情や想像力には大いに訴えますが、性格を変えることはないのです。たとえそれがどれほど魅力的で、印象的で、感動的だったとしても、そこで止まってしまうなら、主イエスの地上生活の真の意義に達したことにはなりません。

私たちの主の地上生活はこうした目的のためではありませんでした。主の伝記の目的は、ある一人の人――たとえその人がどれほど偉大で素晴らしかったとしても――に関するデータや情報や興味深い題材を私たちに与えることだけではありません。「大昔に世界のある所に住んでいた人で、こういうことを言い、ああいうことを行った」というようなことを示すだけではないのです。主が来られたのはそのような目的のためではありません。主はそのような目的のために地上で三十数年過ごされたわけではまったくありません。主の生涯の目的は、主は多くの面で他の人々と異なっているだけでなく、他の全人類とは異なる秩序に属していることを示すためだったのです。これをはっきりと理解しない限り、主イエスの地上生活に対する鍵を見出したことにはなりません。主は当時最高の部類の人々の何人かと会われましたが、主と彼らとの間には大きな隔たりがありました―― 一方から他方に渡ることはできませんでした。

人類の別の秩序

イエスは奥義でした。彼は奥義的だっただけでなく――奥義だったのです。彼は単に理解されなかっただけではありません。多くの人が彼について、「彼はまったく誤解されている人だ」と言ってきました。そうではありません。彼は誤解されてきただけでなく――理解不能だったのです。この違いは大きいです。イエスはこの世の運行の基礎になっている原理や方法のどれにも適応されませんでした。彼はこの世や友人たちの期待に沿うことを行われませんでした。しばしば彼は期待を拒絶しました。彼は何かをするよう求められても、あるいは人から何かを期待されても、すぐには行われませんでした。彼は人々の期待と自分の行動との間に合間を設けられました。そしてこの合間にこそ、彼のこの独自性が存します。彼は人の一つの秩序に属す方であり――他の人々とは「異なって」いるのです。もし彼を確立された人の秩序の中に押し込んでその一部にしようとするなら、また彼はとても優しかったから優しい方法で様々なことを行われたのだと示そうとするなら、あなたは完全に的を外しています。

例えば、ガリラヤのカナの婚宴で困った状況が生じた時、その状況は彼にとって好機だったにもかかわらず、なぜ彼はぶっきらぼうに聞こえる答え方で拒否されたのでしょう?人々の期待に応えるようなことは何も起きませんでした――しかし、彼は全く別の領域に属する何事かのために事を行われたのです。私たちは他にもこれと同じような事が繰り返されるのを見ます。彼は人々が期待していることを行われませんでした――彼は人々が全然期待していなかったことを大いに行われました。彼は想定外のことを行われました――人々をまったく不意打ちにしただけでなく、人々の度肝を抜いたのです。彼が行われたいくつかのことでは、人々は彼に従えませんでした。彼は人々が期待する所に行かず、人々の秩序や予定に適応されませんでした。また、彼は人々が期待する言葉を語ることを確かにされませんでした――それどころではありません。逆に、彼は人々が期待していないこと――難しいこと、衝撃的なこと、怒りを招くこと――を多く話されたのです。

さて、イエスは異なる者、厄介者、特異な者だっただけではありません。そのように振る舞う人々もいますが、イエスは全く異なる立場に立っておられたのです。数年前、世界的に有名になったあるクリスチャンの男性がいました。その人は大いに評判になったため、自意識過剰になりました。ある時、私は庭で彼と話していました。少しして、私は「家に入りましょう」と提案しました。私は彼と一緒に家に入るために彼の腕を取りました。すると、彼はすぐに身を引き、足をふんばって、決して動こうとしなかったのです!「なんと!これはなんだろう?」と私は思いました。動いても良いと彼がよく納得するまで、私は一、二分待たなければなりませんでした。それから彼は緊張を解いて、私たちは一緒に家に歩いて行きました――しかし、腕は組まなかったのです!私は教訓を学びました。彼がこのような流儀に従っていることを私は知りました。彼は他の人から影響を受けたり、動かされたり、導かれたりするのを、決してよしとしようとはしなかったのです。彼はこのような「超越的」立場に立っていたので、主がそうするよう自分に語られない限り、クリスチャンの兄弟と腕を組んで歩くことすらしようとしませんでした。もちろん、これは最終的に極めて深刻な厄介事に発展しました。しかし、私が何を言いたいのか、おわかりになるでしょう。完全に間違った立場に基づいてこのように行動することも可能なのです。

イエスはそうではありませんでした。そのように振る舞っているように見えることもしばしばありましたが、その行動はこの立場に基づくものではありませんでした。私たちはこれについてよくよくはっきりしていなければなりません――彼が取られたこの奇妙で不可解な道は、しばしば人をとまどわせ、不思議がらせました。時には人を失望させたり、悩ませたり、怒らせたりすることもありました。しかし、これらは事実であり、主イエスの地上生活の極めて明瞭な特徴です。これらは前に述べた慣習――過剰な自意識、意図的に孤高を守ること、他人とは違う者になろうとすること、拘束服を着ること、屈しないこと、譲らないこと――から出たものではありませんでした。彼はそのような特徴を帯びていませんでした。私たちはこれを説明しなければなりません。なぜなら、これはまぎれもない事実だからです。彼はこのような御方です――不可解な人なのです。

消極的な面:「心の割礼」

当時、人なる方が地上で、他のすべての人々とは異なる原則に基づいて人間生活を送っておられました。この事実には消極的な面と積極的な面がありました。消極的な面とは、彼は「心に割礼を受けていた」ということです。ここで「心の割礼」という表現を用いました。彼の知性、心、意志は、あらゆる点で自己の原則から完全に分離されていました。彼は自己の原則に基づいて自分の知性を用いたり、自分の思いを抱いたり、自分の判断を下したりすることを決してなさいませんでした。また、自分の感情や意志の中に入り込む隙を決して自己に与えませんでした。この人なる方には魂――知性、心、意志――があり、この魂が彼を真の人間とします。しかし、この方の魂の中に自己の原則は全くありません。

通常の人の理屈では、たとえそれがどんなに良く思えても、彼を動かすことはできません。「葡萄酒が尽きてしまいました――ですから……」。ここで議論や理屈が入り込みます。「ですから……このことやあのこと、他のことをして下さい」。これは彼が介入して何かを行うための良い口実となります。彼にはそうする義務がある、という観点から論ずることも可能です。人間的な優しさの観点から、彼の務めと彼の神聖なパースンを正当化する観点から論ずることも可能です。そうです、ありとあらゆる観点から論ずることができます。しかし、いかなる議論も彼の知性に影響を及ぼしませんし、彼は知性に基づいて進まれません。彼が考慮されるのは、「私の父はこれを望まれるだろうか?私の父はそれを望んでおられるだろうか?私の父はこれをこのような方法で行うことを望んでおられるだろうか?」ということだけです。これが彼の知性、彼の心、彼の意志――彼の魂――に影響を及ぼします。これを確信しない限り、この地上やこの世界の何物も彼を動かせませんし、いかなる議論、要求、事情も彼を動かせません。彼は何かを行っておられます。彼が行っておられるその何かを今から見ることにします。

すでに述べたように、彼は完全に「心に割礼を受けて」いました。これは聖書の用語です(ローマ二・二九を見よ)。私たちはその意味を理解する必要があります。その意味するところは、心の中で二つのものの間に完全な分離がなされた、ということです。ご所望なら、「心」という言葉を「魂」に置き換えることもできます。これは内なる人です。主の内側で何かがなされました。そして、主は最後まで堅くその立場を守られます。主はこの立場に立って、主の生涯で最も激しい戦いを戦われました。時には、最も親しい友人や弟子を通して攻撃が来ることもありました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起きるはずはありません」。「下がれ、サタン。あなたは人のことを思っている」(マタイ一六・二二~二三)。「あなたの見方は人の見方です――人間の水準の見方にすぎません。あなたがその中で活動している人の領域に私は属しません。他の人々はあなたの議論に耳を傾け、影響を受け、説得されるかもしれません。しかし私については――否です!」。これは最後までそうです。主は堅くこの立場を守られました――この立場を「内なる心の割礼の立場」と呼ぶことにして、それでよしとしましょう。

すでに述べたように、サタンの執拗な試みの焦点は、あることを行うことの是非についての理屈や議論でした。それは議論の対象であり、時として絶対に必要なものに関する議論ですらあります。「あなたの体はパンを必要としています。さもないとあなたは死ぬでしょう。この必要を満たすために、あなたはこれらの石をパンに変えなければなりません」。人々はこう言いますが、神の神聖な御子であり人の子である方はそうではありません。イエスはこの議論を断固として拒絶されました。

そうです、サタンのあらゆる攻撃の焦点はまさにこれでした――人間的水準にしたがって主に何かを行わせ、活動させ、動くようにさせ、決定を下させることであり、私たちと同じように人間生活の一般的規則の影響を受けるようにさせることだったのです。主はこれを拒否されました。これがサタンのあらゆる攻撃や試みの焦点であり、主はこの領域でサタンとこの世に完全に勝利されました。「この世の君が来ます。彼は私の内に何も持っていません」(ヨハネ一四・三〇)。サタンは主の内に何を探していたのでしょう?――自己の原則です。知性、心、意志を通して、この自己の原則を活動させることができさえすれば、それを掻き立てて活動させることができさえすれば、最初のアダムに起きたのと同じことが最後のアダムにも起きて、王国は悪魔の手に渡っていたでしょう。しかし、悪魔は異なる種類の人に遭遇しました。この方はこの自己の原則に基づいて悪魔に対することを全くなさいません。イエスは「悪魔が私のところに来ようとしています…」「サタンが私のところに来ようとしています…」と言われただけでなく、「この世の君が来ます」と言われました――これはサタンの王国であるこの世の原則全体、この世の君の自己の原則を暗示しています。しかし――「彼は私の内に何も持っていません」。

積極的な面:御父の御旨に委ねること

主の生涯の消極的な面は以上です。積極的な面は、主は完全に御父の御旨に委ねておられたということです。主はただ拒否し、抵抗し、制止し、抑制し、放棄されただけではありません。主がそうされた動機は、御父の御旨に完全に委ねておられたことです。最初から最後まで、御父の御旨が支配的要因であり、主の生涯における最も積極的な現実でした。そして、この御父の御旨が生活の細部全体にきめこまやかに行き渡っていました。主の地上生涯全体にわたって、御父の御旨が確立されました。

これが最初に確立されたのは、いわゆる主の個人生活の三十年においてでした。この三十年は二つの期間に分かれます。この区分はルカによる福音書の第二章に見られます。第一の期間は、宮での奉献から十二歳になるまでです。この期間に関して次のように述べられています、「子供は成長して強くなり、知恵に満たされていった。神の恵みがその上にあった」(四〇節)。次の期間は十二歳以降です。「イエスは知恵においても身の丈においても成長し、神と人々から恵みを得た」(五二節)。今は立ち止まってこれを調べることはしません。この主題を調べるなら、とても益になります。主が成長された領域――肉体的、精神的、霊的領域――がわかります。そしてその総括は神の恵みです。神の恵み、神の是認、神の満足が、彼の生涯の上にありました。彼は主の御前で御旨に適う者として成長しました。どうしてでしょう?心が正しかったからです。「私は父の働きに携わらなければならないのを、あなたたちは知らないのですか?」――あるいは別の訳がよければ、「私は父の家にいなければならないのを、あなたたちは知らないのですか?」(四九節)。この御言葉の意味が何であれ、これは主が通常の自然の関係以上に御父を意識しておられたことを意味します。肉による彼の両親は大いに心配して悩みましたが、そのような状況のただ中でこれが語られたことに注意して下さい。

そうです、主は御父の御旨に完全に委ねておられました。そしてそれは三十年に及ぶ普段の日常生活の中で確立されました。これはとても素晴らしいことだと思います。私たちに対して隠されているこの沈黙の三十年はなぜだったのでしょう?これに関する光があまりにも不足しています。どうしてでしょう?まさにこの同じ理由によります。もし説明を欲するなら、旧約聖書に戻りなさい。レビ人が奉仕を始めたのは三十歳からであることを思い出すでしょう。ルカはイエスが務めを開始されたことについて私たちに告げています。「務めを開始された時、イエスはおよそ三十歳だった」(ルカ三・二三)。主イエスはユダ族出身でしたが、予型としてはレビ人でした(ヘブル七・一三~一四と比較せよ)。しかし、レビ人が三十歳で公式に職について務めを開始するのは無条件ではありませんでした。その背後には、レビ人としての経歴、生涯、振る舞いがあったのです。聖書に何も述べられていないので確証は何もありませんが、あえて言うことにすると、旧約の時代、もしレビ族の若者が放蕩な生活を送っていたら、その若者は三十歳になってもレビの祭司職につくことは決してなかったでしょう。そうです、その人が神と共に歩んだという証印がこの三十年の上に押されなければなりませんでした。この同じ原則がイエスの生涯にも適用されました。神は日常生活の中で彼を試み、彼を証明されたのです。

私たちはこれを神が是認される原則として、とても深刻に受け止めるべきです。あなたは務めに出て行くことを願っているかもしれません。神はあなたが務めにふさわしい者となることを願っておられます!あなたが過ごす日常生活全般にわたって、あなたは試されています。神はあなたをご覧になっています。三十歳のイエスがヨルダン川に来られた時、天が開かれ、「これは私の喜ぶ者である」という声があったのを思い出して下さい(マルコ一・一一)。これは三十年間を網羅していると思います。この声は三十年の日常生活に及ぶ神の恵みについて語ったものであり、それにより主は務めを始めることができたのです。おそらく、「日常生活」という言い方はあまり適切ではないでしょう。悪魔はその最初の時から主を殺そうとしていたからです(マタイ二・一三~一八)。

しかし、この三十年が何を意味するにせよ、主は何も保留せずに御父の御旨に委ねておられたことは、火のように激しい試みを経た三年半の公の務めから明らかです。この三年半は最も激しい試みの期間でしたが、主は個人の私的な都合で御父の御旨を行うことから逸れることは少しもありませんでした。サタンは「この世の王国とその栄光」という賄賂によって、また十字架の屈辱という脅かしによって、主を神の御旨から逸らそうとしました。イエスはこれに対して最後まで戦い抜かれたのです。

主の人性の現実性

この地上生活はなぜでしょう?まず第一に、主の人性の現実性を確立するためです。ご存じのように、旧約の時代、神は何度も人の姿で現れました。これについてあえて異論を唱える人はいません。しかし、神の御子御自身がこれらのいわゆる「顕現」で現れたこともあったのかもしれません。神は人の姿で来られました。この訪問を受けた人々は、初め訪問者を人だと思いますが、次に「私は神を見た――神がここにおられたのだ!」という現実に目覚めます。しかし、この三十三年の地上生活は顕現ではなく、本物の人でした。これは束の間の見せかけや、かりそめの姿や、一回限りの訪問ではありませんでした。この方は人であり、本物の人間であって、この地上で三十三年過ごされたのです。この方は天使のような訪問者ではありませんでした。人だったのです。とりわけこの理由により、主はこの世界に来るにあたって、赤ん坊として生まれて初めから開始されたのだと思います。彼は完全に成熟した訪問者として来られたのではありません。彼はまさに最初から開始され――違いが一つあるものの――他の人々と同じ扉をくぐってやって来られました。彼は地上で生活し、幼児、小児、若者、成人と成長し、神に対する絶対的信頼という原則に基づく生活を他の人々と同じように受け入れました。

これを思い巡らすなら、これから多くのことがわかります。彼が赤ん坊の時、その命を狙う者たちがいたため、ヨセフとマリヤは急いで国外に逃亡しなければなりませんでしたが、これはどうしてでしょう?どうして天は介入して奇跡的な方法で赤ん坊の安全を完全に確立し、赤ん坊を保護して敵対者たちに立ち向かわなかったのでしょう?彼は他の子供たちと同じように親に連れられて逃亡し、そこから離れなければなりませんでした!実際、彼は私たちの人間生活を送られ、私たちの人間経験の制約下にありました。背後で奇跡的な要素が働くこともありましたが、状況を外から眺めると、彼は飢え、渇き、試みられ、付け狙われ、命を狙われました――彼はあなたや私と同じようにそれらを「経過された」のです。彼は人間生活を送られました。彼は御父への絶対的信頼という原則を自発的に受け入れました。御父は奇跡を立て続けに行われたわけではありません――しかし実際のところ、すべてが奇跡だったのです。

信仰の生活

こういうわけで、他の人々と同じように、主は信仰の原則によって勝利しなければなりませんでした。原則として、主はあなたや私の生活とは異なる生活を送られたのではありません。信仰の生活を送られたのです。主が御自身で信仰を活用する前に、他の人が主のために信仰を活用しなければなりませんでした。このことでヨセフとマリヤが大いに信仰を活用したであろうことは疑う余地がありません。彼らはこの問題に正面から取り組んで、「よし、神がこの子の世話をして下さると信じよう。私たちは何もせず、ただ神を信じよう」、あるいは「私たちは行って、神を信じよう」と言わなければなりませんでした。どう言ったにせよ、これは信仰を意味しました――主のために信じたのです。次に、主が御自身で信仰を活用する時が来ました。彼にとってすべては、あなたや私と同じように、信仰の原則に基づいていなければなりませんでした。

「主の神性についてはどうでしょう?主の奇跡的な知識や行動の力についてはどうでしょう?確かに主は超自然的な方法で物事をご存じでした。主は極めて超自然的な力を用いられました。これは人性ではありません!」と疑問に思われるかもしれません。この気になる問題をきれいさっぱり解決することにしましょう。これは私が述べたことと何ら矛盾しません。イエスは神の奇跡的力を御自身のために使われたことは一度もありませんでした。その反例と思われる事例はただ一つしかありません。税金を払うお金がなくて、主がペテロを海に遣わされた事例です。ペテロが魚を捕ると、その口に硬貨がありました(マタイ一七・二四~二七)。「料金を払うこのような力があればいいのに!」とあなたは言うかもしれません。ああ、しかし注意して下さい――この事例はそういうことではないのです。この事例は私が述べたことと実際のところ矛盾しません。主は超自然的な神の力を御自身のために用いたことは一度もありませんでしたし、主は状況によって神に対する信頼の立場と信仰の立場から引き離されたことは一度もありませんでした。この事例では創造的な働きはなされなかったことに注意して下さい。主は予め知っておられたのです。一匹の魚がいて、その口に硬貨があることを、主は何らかの方法でご存じでした。

奇跡でも変わらない不信仰

しかし、この問題を追うことにしましょう。奇跡について考えて下さい。奇跡は一面において主の神性と関係していました。しかしそれにもかかわらず、奇跡を見た人々や奇跡にあずかった人々の性格は奇跡によって変わらなかったのです。奇跡は主に対する証しに過ぎませんでした。この意義がおわかりになったでしょうか?主の奇跡をもってしても、不信仰の原則を根こそぎにされる人は一人もいなかったのです!これはまったく悲劇です。これはとても酷いことです。人々は主の御業をすべて見たのに、根深い不信仰は変わりませんでした。驚くべきことに――弟子たち自身ですら――依然として根深い不信仰を抱くことがありえたのです。「ああ、愚かで心が鈍いため信じられない者たちよ……」(ルカ二四・二五)。「主は彼らの不信仰を責められた」(マルコ一六・一四)。弟子たちは主の御業を見たにもかかわらず、彼らの性格は変わらず、彼らの性質も変わりませんでした。

ですから、奇跡はただ証しのために行われたのです――主がどのような方かを示すための証しとして行われたのです。これが一つの面です。ご存じのように、これには二つの面があります。主には神性の面があり、ヨハネはこれを「これらのことが書かれたのは、イエスはキリスト、神の御子であることをあなたたちが信じるため、そして信じてあなたたちが彼の御名の中で命を得るためです」という文章に要約しています。奇跡が行われたのは、主が本質的にどのような方かを示す証しのためでした。しかしそれにもかかわらず、奇跡のゆえに不信仰を取り除かれて性質が変化することはありませんでした。そうです――しばしの間、人々は主を信じたかもしれませんが、不信仰を根本的かつ劇的に対処されたわけではなかったのです。奇跡はそのような働きをしませんでしたし、イエスもそのようなことは期待されませんでした。主は奇跡の上に望みを築いているわけではないことを完全に明らかにされました。主は依然として実際の効力について御父に信頼されたのです。

ここでついでに述べることにすると――これは考慮すべきことです――主が私たちのために行われるのは外面的事柄ではなく、人の子の生活の大いなる効能、力、原則を私たちの内に働かせることであり、これが違いを生じさせるのです。主は慢性的な病や通常ならほぼ間違いなく死に至る病からあなたの体を癒されるかもしれません。しかし、これは必ずしもあなたの心の中に深く根を下ろしている不信仰が対処されることを意味しません。数年後、あなたは心理学や他の方法を用いて癒しを説明し、異論を唱えるようになるかもしれません。そうなると、癒しの真の効果は失われてしまいます。私たちのためになされる事柄は、それがいかなる領域においてであれ、またたとえそれが奇跡のように思われたとしても、私たちの真の性質には触れません。思い違いをしてはいけません。しるしや不思議は究極的証拠ではありません――違います。究極的証拠は私たちの奥深くの根本的存在が変わることであり、これをなさないものは何であれ主の来臨の究極的目的に達しません。大事なのは、主が外面的事柄によって私たちのために何を奇跡的に行われるかではなく、主は私たちの内でいかなる方かということです。主は私たちの内に別の種類の人として住んでおられます。重要なのは「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」であって、あなたたちのために奇跡を行われるキリストではありません。

神の御旨に適う人が持つ優れた力

しかし、さらに言うべきことがあります。主は行動するための優れた力、また知識を得るための優れた力を持っておられました。さしあたって私は「これは主の神性、主の神聖な性質とは関係なかった」と言うつもりはありません。しかし、この優れた――いわゆる超自然的な――力と知性は、いわばイエスのような方が人として持つべき「正常な」ものだった、と言えるでしょう。神性にあずかる問題を除くと、イエスが御父に対して持っておられたような関係の中に人々がもたらされるとき、その人々もこの優れた知性を持つようになり、世界中で起きている出来事に関して普通の人よりも多くのことを知ることができるようになるでしょう。これは魂的な力によるだけでなく、神との霊的つながりによる直感にもよります。あえて言いますが――魂的なものをすべて脇に置くことにすると――クリスチャンはこのような力を全く知らないわけではありません。ペテロは死人を甦らせました。使徒たちは病人を癒し、奇跡を行いました。彼らは神だったのでしょうか?いいえ、しかしイエス・キリストの霊により彼らは彼とのこのような関係の中にもたらされ、彼の力を委ねられたのです。「これよりも偉大な働きを行うでしょう。私が父のもとに行くからです」(ヨハネ一四・一二)。

ヨハネ五・二六~二七に記されている主の御言葉には深い意義があります。おそらくこれはあまりにも深くて私たちの理解を超えているため、私はあえてこの深みには踏み込みません。「父は子に裁きを行う権威をお与えになりました。なぜなら子は人の子だからです」。神の子だからではなく――「人の子だからです」。この御言葉は探求を要する広大な領域を拓きますが、今はそれには立ち入りません。しかし、要点は次の通りです。すなわち、神性は別として――さしあたって私は、知識、力、超自然的能力におけるキリストの神性について論じるつもりはありません――神の当初の御旨にしたがって神とこのような関係にある人性、このように神が内住している人性には、いわゆる「超自然的な」このような力が備わっているのではないでしょうか?この力は知識を得たり行動したりするための「別世界の知性」をまさに意味します。これが意味するのは、人は通常知られている普通の水準よりも高い能力と理解力の水準に上げられうるということです。これは教会に与えられた聖霊の賜物について言えるのではないでしょうか?

では、この地上生活はなぜでしょう?それは神がどのような人を望んでおられるのかを明らかにするためであり、神御自身の御心に適う人がどのような者かを人間生活を通して示すためです。これが答だと私は信じます。主の人間生活は三十三年半でしたが、これは何を意味するのでしょう?数世紀にわたって預言者が発してきた声が聞こえます、「彼は生ける者の地から絶たれた」(イザヤ五三・八)、「彼の命は地から取り去られた」(使徒八・三三)。主の命は人生半ばで絶たれました。人々は主に人生を全うさせませんでした。人々は主が人生を全うしないように行動したのです。人々は――ある観点から見ると――まだその時ではないのに主の人生を終わらせたのです。ああ、サタンはこのような人が地上でできるだけながらえないようにします。

しかし、このような人が完成されうるのはただ天においてです。主は人でなくなったわけではありませんし、人性を脱ぎ捨てられたわけでもありません。主は天でも人のままです。これを少し考えるだけで、私たちは「八階調」の必要性を見ることができます。しかし、主は必要なことをすべて地上で行われました。主は神の御心にしたがった人がいかなる者かを示されました。そして、主は預言の残りの部分が成就されるように行動されました、「彼は自分の子孫を見、自分の日を長くする」(イザヤ五三・一〇)。主は断ち切られましたが、御自身の日を長くします。主の人性の日は彼の教会によって長くされます。このために私たちは召されています。主は私たちを御自身の種類にしたがった男女とするために働いておられますが、その過程は私たちの肉の弱さのせいで痛ましいほど遅々としています。この働き全体の核心は、自己の命の原則から完全に切り離すことなのです。