第5章 主イエスの昇天と栄化

T. オースチン-スパークス

「テオピロよ、私が著した前書では、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことを、ことごとく記しました。」(使徒一・一~二)

「御使いたちよりも少し低い者とされたイエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れを冠として受けたのを、私たちは見ています。」(ヘブル二・九)

「それゆえに神もまた彼を高く上げて、すべての名にまさる名を彼に賜りました。」(ピリピ二・九)

私たちはこれまで昇天を十分に重視してきませんでした。私たちは主イエスの誕生を重視し、主の復活を大いに強調し、ペンテコステについて幾らか述べてきました。しかし昇天については、しばしば言及することはあるものの、ほとんど注意を払わずに、たいてい通り過ぎてしまいます。しかし、昇天には測り知れない意義があります。実際、昇天は贖いの御業の階調の中で最も大きな特徴の一つです。昇天を取り去るなら、この階調は完全なものではなくなってしまいます。

私たちはこれまで上り調子の八階調について述べてきました。御存知のように、音は空気の振動によって生じます。しかし、音を聞き分けるのは耳の中の素晴らしい仕組みによります。人の耳の中には小さな構造体があり、それは少なくとも一万本以上の弦を持つ小さなハープのようです。音がこの器官に到達すると、その音に対応する弦が振動し、その振動は脳に到達して、脳によって解釈されます。これにより、私たちは異なる音を聞き分け、その源を認識することができるのです。さて、この音階では、階調が高くなればなるほど、音の周波数は高くなります。低い音では振動数は比較的低くなります。しかし、音が高くなるほど振動数は高くなり、ますます耳を澄まさなければなりません。人の耳では聞こえない高い音もあります。

私が言いたいのは次の通りです。すなわち、私たちの得るものが霊的に高くなればなるほど、私たちはそれを見分けるためにますます敏感にならなければならないのです。「耳のある者は聞きなさい」(マタイ一一・一五他)と主が言われた時、おそらく主はこう考えておられたのでしょう。語られた言葉に応答する必要があるのです。私たちが昇天に来る時、私たちはこの音階をかなり上っています。ここには贖いの階調全体の中でも何かとても重大なものがあります。昇天は重大な転換点であり、ここですべてが転回します。私たちは今、「なぜ昇天と栄化なのか?」という問いに少しは答えるよう努めなければなりません。

弟子たちの喜び

弟子たちと、主の地上生涯のあいだ主と共にいた人たちは、主が去って行かれることを最終的には大いに喜びましたが、これは確かに主イエスの復活を証明する最も強力な根拠の一つです。前に指摘したように、主が来たるべき別れについて言及される時はいつでも、彼らの心は恐れと驚きで打ちのめされました。実に、ヨハネ一四章の冒頭に記されている「あなたたちは心を騒がせてはいけません」という御言葉を主が語られたのは、まさにこのためでした。主は御自身が去って行くことについて話されたので、彼らは困惑と落胆で一杯でした。もし主が去って行かれるなら、希望も未来もなくなることが彼らにはわかっていました。すべてが瓦解してしまうでしょう。彼らは主が去って行かれることに耐えられませんでした。主が彼らと共に過ごした最後の日々、主はどれだけの時間をこの問題に、また彼らの恐れを和らげて彼らを安心させるための努力に費やされたことでしょう!彼らはそれを受け入れることができませんでした。彼らの行く手には暗雲が立ちこめていました。

しかし、この実際の別れの場面では、何という変わりようでしょう!暗さは微塵もありません。主は両手を上げて彼らを祝福し、そうしている間に主は天に上げられて見えなくなりました。彼らが恐れや喪失感を抱いたとは少しも感じられません。その様子を的確に見定められたなら、その瞬間は決して悲しいものではありませんでした。何かが彼らに起きたので、「主が話されたことは真実である」と彼らは悟ったのです。事態は悪化したのではなく、限りなく良くなったのです。彼らは「大いに喜んでエルサレムに戻った」(ルカ二四・五二)。何かが起きました。繰り返しますが、彼らにこのような変化が生じたことは復活を証明する最も強力な証拠の一つだと思います。あなたや私、それに今日の主の民はみな、彼らの心の中にあったこの何かを得る必要がある、と私は感じます。主は「上って行かれました」!(詩篇四七・五)――私たちはこの喜ばしい出来事から何かを得る必要があります。私たちは主を失ったわけではありません。むしろ主が御父のもとに上って行かれたことにより、多くのものを得たのです!主が上って行かれることによって私たちは何を得たのか、よく考える必要があります。

新しい始まり

再び、「なぜ昇天と栄化なのか?」という問いに戻りましょう。まず初めに、これは経綸の転換点であり、新しい始まりを意味しました。詩篇のいくつかの篇から何が起きていたのかを垣間見ることができます。詩篇二二篇「わが神、わが神、なぜ私を見捨てられたのですか?」。詩篇二四篇(これは確かに預言的な詩篇です)「門よ、こうべを上げよ。とこしえの戸よ、上がれ。栄光の王が入られる」(七節、アメリカ標準訳)。これは断片にすぎません。詩篇二四篇は「地は主のものである…」から始まり、「主の山に上る者は誰か」(三節)と続きますが、この答を求めて私たちは詩篇二三篇に来ます。この方は羊飼いであり、「とこしえに主の家に住む」(六節)羊飼いです。この方が主の山に上る方であり、この方は「清い手と清い心を持ち、その魂を虚しいものに向けません」(二四・四)。この方は主です。今や、「とこしえの戸」が主を待っています。

こうして私たちはこの絵図を得ます。まるで天は宙ぶらりんで、地は黙しているかのようです。場面は一時停止状態です。詩篇二二篇――恐るべき十字架、悲惨な遺棄と荒廃――はすべて成就されました。主は墓の中に横たえられました。そして今、神は主を死者の中から復活させました。しかし、天は何かを待っています。次に「主が来られる!」という叫びが上がります。御使いたちと天の軍勢は、「門よ、こうべを上げよ。とこしえの戸よ、上がれ。栄光の王が入られる」と叫びます。「主は道の途上にあり、やって来られます。主のために門を上げよ!」。これは主の昇天、主の高揚、主の天への帰還の絵図です。その焦点は、万物がそれを待っていたということです。これが起きない限り、それ以上何も起きえません。そうです、その準備はこの地上でなされました。その働きはすべて十字架によってなされ、準備万端整っています。しかし天は、「私たちは待っています――主が戻って来て、正当な座に着かない限り、私たちは先に進めません」という気配で満ちています。みながそれを待っています。これが起きない限り、すべてが宙ぶらりんの状態です。この昇天、この高揚、この主イエスの栄化は何か重大なものです。ですから、これには私たちにとって何か重大な意味があるに違いありません。

今や万物の中心は天である

「これは新しい始まりであり、その準備はすべて十字架によってなされた」と私は述べてきました。新しい始まりとは何でしょう?経綸の性格、性質に一大変化があったのです。旧契約の下の旧経綸では、万物の中心はこの地上の一つの場所、国々の間の一つの国にありました。ユダヤ人を国民とするパレスチナ国家のエルサレムが中心でした。万物の中心はエルサレムであり、何か地的なもの、時間の中にある何か束の間のものを中心としていました――何か完全に破壊されかねないものを中心としており、事実破壊されたのです。今や、この中心はまったく地から取り去られ、万物の中心は天にあります。神のすべての権益の中心、神のあらゆる活動の源と、そのための能力はにあります。今や天が中心です――なぜなら主御自身がそこにおられるからです!新経綸はこの特徴を帯びています。しかし、ああ、教会はこれを忘れているか、あるいはこれを見ていないのです!中心、本部、統治の座は今や天にあり、時間や空間を越えた領域にあって、移り変わることも破壊されるおそれもありません!私たちはこの教えに慣れ親しみすぎて、教会は今や天的な民であって地的ではないこと、また私たちの霊的祝福はすべてキリスト・イエスにあって天にあること(エペソ一・三)を思い出せなくなっているのでしょうか?しかし、これにはとても貴重な実際的意義があるのです。

例えば、主イエスについて次のことを考えてみて下さい。主が地上におられた時、ある意味において、主は人々や環境の慈悲の下にありました。主はかなりの部分地的条件によって支配されていました。人々は主を自分たちのしたいように取り扱うことができ――実際そうしました。人々が受肉した神をあのように取り扱ったとは、実に驚くべきことではないでしょうか?そして遂に人々は主を死に渡しました。人々はこのように主をあしらい、このように主を取り扱いました――この世や人々の観点から言うとそうです。しかし今や、誰もそうすることはできません。今や誰も主に触れられず、今や誰も決して主をあしらえません。主はまさにそのような条件や可能性を超越しておられます。これを知るとき、私たちの心に大いなる安息、満足、慰めがあるのではないでしょうか?主はこれら主に敵対するすべてのものの手の届かない所におられます。主は、主を滅ぼそうとしているあらゆる敵対勢力の手の届かない所におられます。主はそれらすべてを超越しておられ、すべての支配、権威、権力、権勢(エペソ一・二一)の上にあって、絶対的に安全です。私たちは一瞬たりとも主のために恐れる必要はありませんし、一瞬たりとも安息を破られることもありません。

真の教会は今やキリストと共に天にある

なぜ私はこれを言うのでしょう?これは実行上大いに有用で価値があるからです。なぜなら、教会(Church)は天的な団体であり、主と共に座しているからです(エペソ二・六)。ですから、私たちはこの真の教会(Church)について一瞬たりとも心配する必要はありません。地上に降りて来て、人々がいかに自分たちの「教会(church)」、諸教会(churches)、「状況」について心配しているのかをご覧なさい。人々は「状況」を見守り、世話し、守らなければなりません。彼らはこの守護者であり、妬みと熱心さをもってこれを見張ります。なんとたくさんの心配事、なんとたくさんの問題を彼らは抱えていることか――これは世話すべき地上の事柄のために他なりません。ですから、天的教会の領域内にあることは何と素晴らしいことでしょう!そこでは何かを保存して前進させ、なくならないように見守ろうと努めて心配する必要はありません。天のキリストと結ばれている天的な働きには、このような心配はまったくありません。あなたが天の立場に立つ時、状況は一変します。あなたは物事を先に進ませて前進させ続けさせるために、心配したり、いらついたりする必要はありません。「自分の手がけてきたものが駄目になって、自分は『成果』のないまま取り残されるのではないか。自分の時間と力を全て注ぎ込んだものがなくなってしまうのではないか」と心配する必要はありません。天的な事柄は――神に感謝します――これらすべてのものの上におられる方が守っておられ、安泰なのです。

主はこう言われました、「私の父の家には多くの休み場があります…。私はあなたたちのために場所を用意しに行きます」(ヨハネ一四・二)。あなたが天的な立場に到達する時、あなたは主が安息に入られたように安息に入ります。あなたは心配する必要はありません――ただこの立場に立ち続けるだけです。仮に心配する必要があるとしたら――仮に心配しなければならないとしたら――地的立場に下らないよう心配しなさい。なぜなら、そこは心配の領域だからです。上に居続けなさい。天的なものは安全に守られています――「万物を遙かに超えた」方が守っていて下さるのです。

しかし、これはそれ以上のことを意味します。私たちは「キリストにあって天上のあらゆる霊的祝福」をもって祝福されており、そこにキリストと共に座しています。このキリストとの天的合一は大いなる豊かさ、大いなる豊満を意味するので、私たちは霊的供給のことで決して心配する必要はありません。私たちが正しい立場に立ち、正しい地位に着きさえするなら、何という富、何という供給があることでしょう。これはまさに驚異的です。もしあなたが霊的にこの地上に降下するなら(矛盾した言い方です!)、あなたは自分の供給について心配しなければなりません。もしあなたが天然的な務めの水準に落ちるなら、物事を進めるためにどれほど辛い働きをしなければならないかご覧なさい。しかし、開かれた天の中に上って、天的立場とあらゆる霊的祝福とに至るなら、豊かさと豊満が続きます。それらは抽象的なものではなく現実です。それは天的養いの奇跡の一つであり――全行程にわたって決して尽きることのない供給です。「自分はもう終わりだ。もう何もない」とあなたは感じるかもしれませんが、それに続いて新たな豊満が訪れます。再びあなたは「自分はすべてを使い尽くしてしまった。自分にはパンのひとかけらもない」と思いますが――それでも別の豊かさが訪れつつあります。主がそれを欲し、その必要があるときはいつも、このようです。こうしてあなたは何年も進み続けます。

これはすべて、主が天におられ、教会は主に結合されて天にあることの一部です。これが「なぜ昇天と栄化なのか?」という問いに対する答の一部です。

天的勝利に対する神の証し

しかしさらに、主の昇天と栄化は主のパースンと働きに関する神御自身の証しでもありました。これは聖書が言っていることです。これが、「天から下って来た者、すなわち天にいる人の子の他には、誰も天に昇った者はいません」(ヨハネ三・一三)等の節の意味です。これは主のパースンについての証しです。私たちは詩篇二二篇に続く詩篇二四篇に注意を払いました。詩篇二四篇は詩篇二二篇で「わが神、わが神、なぜ私を見捨てられたのですか?」と叫ばれた方の正しさを証明します。天が介入して、この方とその十字架の御業を証しします。この章の初めで私たちはピリピ二・九を読みました。「それゆえに」――「死に至るまで、十字架の死に至るまでも従順であった」がゆえに――「神は彼を高く上げられました」。これは主と主の御業を証明します。これと同じことがヘブル二・九で読んだ節にも言えます。「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れを冠として受けたのを、私たちは見ています」。主の高揚と栄化は主の勝利を宣言します。「栄光の王は誰か?」。「戦いに力強い主である」(詩篇二四・一〇、八)。主が入って来て、勝利を宣言されます。

さて、真の戦いと真の勝利は天においてでした。私たちはこれをよく知っており、これは私たちにとって何も目新しいことではないかもしれませんが、これを常に心に留めておくことが大いに必要です。この戦いは肉や血に対するもの、ユダヤ人の統治者たちや指導者たちに対するもの、ローマの役人たちに対するもの、ローマ帝国自身に対するものではありませんでした。これらすべてのものの背後に、別の霊的な帝国、目には見えないけれど、とてもとても現実的なものがあったのです。私たちはこれを知っています。この領域で真の戦いがなされました。二つの霊的王国、帝国が衝突し、そこで真の勝利が勝ち取られました。その勝利は「主権者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たち、悪の霊の軍勢」に対する勝利でした。主はこの外側の世の体系の裏側に行き、この世の背後にあるすべてのものを対処されました。この領域で主は御自身の勝利を確立されたのです。

状況が悪化するのを見る時、私たちの思いの中に問題が生じるのは事実です――ヤコブは殺され、ステパノは殉教し、数千の人々がローマの競技場に投げ込まれて虐殺されました。今日、無数の家庭や家族が破壊され、神の僕や民が投獄されているのを私たちは見ています。「主は御座に着いておられるのだろうか?主は万物の上におられるというのは本当なのだろうか?」と疑問に思うのは難しいことではありません。しかし、もしこう言っても構わなければ、この主の王国は「長期的」なものなのです。おそらくあなたは走者の競技を見たことがあるでしょう。その競技には一人の卓越した有名な陸上選手が参加しています。選手たちは競技で走り出しますが、その選手は他の選手たちにはまったく興味がありません。他の選手たちを先に行かせ、追い越されても不安な表情は少しも見せません。他の選手の行くがままにします。「他の選手たちが優勢で、この選手は劣勢だ」と誰もが思います。しかし――最後まで待ちなさい。彼は力を蓄えていて、最後の瞬間、他の選手たちがみな消耗しきった頃に、蓄えてあった力を用いていとも容易に試合に勝ちます。これは実力と持久力の素晴らしい勝利です。

主イエスはこのようです。これが今日まさに起きていることです。主の敵が道を制して先頭に立っているかのように見えます。そして、主はあまり心配しているようには見えません。主に不安、苛立ち、深刻な懸念の様子はまったく見あたりません。これは主が無関心だからではなく、主は御自身の余力を御存知だからです――主は何ができるのかを御存知なのです。何度も何度もそうであることが証明されてきました。最後に主は先頭に立って――試合に勝利されます。主は最初ローマ帝国に対してそうされ、それ以降くりかえしそうしてこられました。主は敵を先に行かせ、敵が道を制しているかのようです。しかし最後には、主の無限の蓄えと能力により、主は勝利を手中に収めて――賞を総なめにされます。

最終的勝利の確かさ

教会にとっても事情は同じです。「今日、敵がかなり機先を制している」と私たちは感じるかもしれません。時として、主は敵よりかなり遅れを取っているように思われます。しかし待ちなさい!主は弟子たちに最後の言葉を語って言われました、「私はこの時代の終わりまで、あなたたちと共にいます」(マタイ二八・二〇)。「私は最後までとどまります」。最後の時、主イエスは場外にはおらず、とどまっておられます。場外にいるのは敵の方です。

今日のような時代、この事実から力と慰めと助けを得る必要があると思います。私たちは容易に圧迫されてしまいます。数年前、私は極東からの知らせを耳にしました。数千人の兄弟姉妹や指導的な働き人たちが国中で逮捕され、投獄されたのです。彼らは長年忠実に力を尽くして主に仕えてきた人たちでした。私たちはこれと同じ肉体的苦難や投獄という目に実際にはあっていないかもしれませんが、同じ戦いの中にあり、この霊的圧迫は恐るべきものです。大気に敵意が満ちています。私たちには助けと励ましが必要です。主は高き所に昇って行かれ、そこで御座に着いておられるというこの事実以上に、私たちにとって助けになるものが他にあるでしょうか?

これはこの偉大な真理に関する最初の点にすぎませんが、強力です。この事実はこの記録に記されている人々の上に顕著な影響を及ぼしましたが、その影響の中からこれが私たちに対して記録として与えられています。ルカはとても注意深い歴史家だったことを私たちは覚えておかなければなりません。彼は資料を正確かつ精密に調べてまとめるのに労苦した、と私たちに告げています。彼がもしこれに関して疑問や疑いを抱いていたなら、彼は決してこれを記録していなかったでしょう。彼は使徒行伝に記したすべての事柄に関して多くの証拠を持っていました。この書に記されている人々は様々な環境や状況の中にありましたが、勝ち誇っていました。大いに勝ち誇っていたのです!これは普通なら正反対の結果になっていたはずです。彼らの主は彼らから去って行かれ、雲に包まれて見えなくなりました。主は去って行かれました。彼らはどう感じてしかるべきでしょう?しかし、彼らは悲しみません。彼らは勝ち誇りつつ前進し、勝利を得ます。なぜなら、主は昇って行かれたからです!

主イエスの高揚は贖いの八階調の大いなる音符の一つであり、私たちはこれを信じるべきです。主が天におられることを知るなら、私たちは不安や不確かさから贖われ、災いの時、圧倒せんばかりの圧迫や抑圧から贖われます。まるで聖霊はこのように苦しんでいる人たちの内で、言葉では語っておられなくても、こう言わんとしておられるかのようです、「大丈夫です――主が御座に着いておられ、イエスが治めておられます――主が御座に着いておられます――主は高い所に昇って行かれたのです」。この真理のゆえに人々は最後まで持ちこたえると私は信じます。これは贖いの中の一つの偉大な要素です。

代表者たる人が目的を達成されたこと

しかし、「これはこの偉大な真理の一部にすぎない」と私は言いました。他に大きな部分があるのですが、今は示唆することしかできません。「人の子が元いた所に昇るのをあなたたちが見たら、どうなるのでしょう?」(ヨハネ六・六二)。「人の子が昇る…」。「人の子」というこの称号はある偉大な素晴らしい真理を示唆しています。この称号は私たちをただちにヘブル人への手紙に導きます。「人の子は何者なので、あなたはこれを御心にとめられるのですか?人の子は何者なので、あなたはこれをかえりみられるのですか?あなたは彼を御手の業の上に置かれました。あなたは万物を彼の足の下に服従させられました。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、私たちは見ていません」(ヘブル二・六~八)。人はまだそのために自分が造られた地位に着いていません。これはまだ完全には成就されていません。「御使いたちよりも少し低い者とされたイエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れを冠として受けたのを、私たちは見ています」(九節)。これは一体何を意味するのでしょう?

ここに人の子なる方がおられます。この方は第一の者であり、被造物である人に関する神の御旨はすべてこの方によって実現されます。ここでヘブル人への手紙、特にその第一章について詳しく学ぶことは有益でしょう。「神は、私たちがここで語っている来るべき世界を、御使いたちに服従させることはなさいませんでした。しかし、ある人がある箇所で証しして言っています、『人は何者なので…』」(二・五~六)。神は未来の地球を人に服従させられます。これがここで見せていることです。私たちはまだ万物が人に服している事実を見ていません。しかし、人の代表者たる方が天におられ、人のために万物を御自身に服従させておられるのを私たちは見ています。天におられる代表者たる人により、これは人のために確保されているのです。

著者は続けます、「ですから、聖なる兄弟たち、天の召しにあずかっている者たちよ…」(三・一)。ご覧のように、これは一つながりです。この「天の召し」とは何でしょう?主との交わりの中にあること、主との協力関係の中にあることです――「なぜなら、聖別する方と聖別される者たちとは、みなひとりの方から出ているからです。このゆえに彼は彼らを兄弟たちと呼ぶことを恥とせずに言われます、『私はあなたの御名を私の兄弟たちに告げ知らせます』」(二・一一~一二)。「ですから、聖なる兄弟たち、彼の協力者であり、互いに天の召しにあずかっている者たちよ…」。これはどういうことでしょう?来るべき地球を治める支配権を持つことです。主は天におられ、御自身のパースンによりこの神の御旨を確保されました。主のパースンは人々を代表しており、主が「栄光にもたらしつつある」「多くの子たち」(二・一〇)を代表しています。これが主が「高き所に昇られた」(詩篇六八・一八、エペソ四・八)理由です。これは人なる方が天で就任して、人に関する神の永遠の御旨を完全に執行されることを意味します。人なる方が、栄光へ導かれつつある多くの子たちの中の第一の者として、天で就任されたのです。

おそらくあなたは尋ねるでしょう、「天的支配と統治は、今日と旧経綸ではどう違うのでしょう?旧経綸でも天が支配していたからです。ダニエルの時代、天が支配していました」(ダニエル四・二六:参照一七、二五、三二節)。確かに旧経綸でも天が支配していました。しかし違いは何でしょう?この問いは巨大な扉を開放します。そして、このヘブル人への手紙全体がこの問いに答えるものなのです。純粋に地的で一時的な経綸と、永遠で天的で霊的な経綸との間には、大きな違いがあります。この違いはこの手紙――「さらにまさった」事柄に関する手紙――で述べられているすべての違いを含んでいます。人の子なる方の天的統治では、あなたは旧経綸における神の一般的主権よりも遙かにまさったものの中に入ります。これはあまりにも重大な問題なので、ここで考察することはできません。しかし、これはすべて「なぜ主は天で栄光の中におられるのだろう?――なぜ主は上って行かれたのだろう?なぜ主は昇天して栄化されたのだろう?」という問いに集約されます。イエスが天におられることは、何かとても偉大な課題を意味するのです。

実際的な試金石

さて、次のことを述べて終わることにします。教会は天的団体、天的民です。また御言葉が告げているように、私たちは「天で彼と共に座して」おり、「天のあらゆる霊的祝福をもって祝福」されています。おそらく、これについて聖書講解をすることもできるでしょう。しかし、これらの真理を知ることと、その恩恵に浴することとは、まったく別問題です!あなたは自分が取った一つ一つの立場について、常に徹底的に極みまで試されるでしょう。これは聖書を貫く法則であることを覚えておいて下さい。あなたが受ける試みは、あなたが取って宣言した立場に相応します。ですから、「私は天的立場を取ります」とあなたが言う時、あなたはあなたの天的立場に関して徹底的に試されるでしょう。あなたはあなたの助けになるものをこの地上では得ません。あなたはすべての助けを天から受けなければなりません。あなたはあなたを守るものをこの地上では得ません。あなたはすべての守りを天から受けなければなりません。あなたはあなたを擁護するものをこの地上では得ません。あなたはあなたを擁護するものをすべて天から受けなければなりません。あなたは自分の地位について試されるでしょう。しかし、神を賛美します。この地位は永遠であり堅固です。それは試みに耐えうる地位です。

これはとても深く私たちを探ります。最初、弟子たちは大いにこれを喜びました。そして、その喜びの大部分は最後まで残りました。しかし、彼らは時としてこの問いに関して実際的戦いを経験したことは明らかです。彼らはこの立場――イエスはキリストであるという立場――を維持するために戦わなければなりませんでした。状況的に、この立場を非常に強く確証することが必要でしたし、状況がどうであれ、一歩も譲らずに「彼は主です!」と言わなければなりませんでした。これは決してロマンチックなことではなく――死に物狂いのことです。ですから使徒は言います、「立ちなさい(中略)抵抗しなさい(中略)すべてをなし終えて立ちなさい!」。どこでそうするのでしょう?「私たちの格闘は天においてです」。そこに主と共に立ちなさい!