第6章 聖霊降臨

T. オースチン-スパークス

贖いの八階調の六番目の音符である聖霊降臨を見るにあたり、前と同じように、「なぜ聖霊なのか?」という問いをもってこの問題に迫ることにします。もちろん、聖霊の降臨によりこの地上で新しい経綸が始まったことを私たちは知っています。ですから、この時代に生きるクリスチャンである私たちは、これは何を意味したのか、また私たちが生きるこの時代特有の特別な特徴は何かを知らなければなりません。

もちろん、私たちがこの「経綸(dispensation)」という言葉を用いる時、この言葉は通常一般的には「時代」を意味しますが、それ以上の意味を込めて用いています。「経綸はある出来事や日付によって区切られており、一方の特定の時点から他方の時点まで継続するものである」と考えられています。しかし、この言葉にはそういう意味もあるのですが、それ以上の意味があります。この言葉自体は字義的には「一家の経営」、「執事の仕事」を意味し、したがって「執事職」を意味します。このことから、ある一定の期間に生じる出来事の順序や性質を意味するようになりました――「経済、エコノミー(economy)」という言葉が意味する通りです。この「経綸」という言葉は、事実、「経済」と元々は同じ言葉です。つまり、ある時点で何が行われているのか、どのように行われているのか、その支配的原則は何かを意味する言葉なのです。

ですから、繰り返し言います。世界史における今の時代の特徴が何かを知ることは、クリスチャンにとって極めて重要です。何が行われているのか、どのように行われているのか、その支配的原則は何かを知ることが重要なのです。なぜならあなたや私は――この問題を自分自身にあてはめてみましょう――この特別なエコノミーの中にある民だからです。これを認識しそこなったせいで多くの混乱や弱さが生じてきましたし、これからもそうでしょう。いわゆるペンテコステの日に始まったこの神の経綸、エコノミーの特徴は何か、私たちは知らなければなりません。もちろん、ペンテコステとは「五十番目の日」を意味するにすぎません――この祭では、初穂の祭の五十日後に、二つのパンが揺祭として献げられました。この「ペンテコステの日」はこのようなとても多くの「五十番目の日」の一つであり、その中で最も際だった、最も素晴らしいものでした。これは際だっており、唯一のペンテコステと思われています。しかし、その時なにかが起こり、この世界を統治する神のエコノミーはまったく変わってしまいました。この変化とは何だったのでしょう?あなたや私はこれを理解しなければなりません。明確に理解しなければなりません。

「この日、聖霊が統治を引き継がれた」ということだけではありませんでした。そうではありませんでした。聖霊は常に責任を担っておられました。聖霊は創造の時、責任を担っておられました。「神の霊が水の面を覆っていた」(創世記一・二)。また、旧経綸の間ずっと、聖霊は活動しておられました。聖霊は臨在しておられました。型や象徴や絵図として臨在しておられただけでなく、時には実際の力と知恵を人々に賦与することもありました。聖霊はこれまでずっと臨在して監督してこられました。私たちが理解すべきは、聖霊はペンテコステの日に統治を引き継がれたということだけでなく、聖霊はまったく新しい原則に基づいて統治を引き継がれたということです。その日、聖霊の働きの行動原理に一大変化があったのです。

おそらく、この事実を提示する最も助けになる方法は、まず第一に、この贖いの八階調の時系列に注意を引くことでしょう。聖霊降臨は全体の一部分、贖いの一部分にすぎません。しかし、それはこの八階調の中でとても重要な音符です。この八階調のこれらの段階、局面を追う時、その全体の流れを認識することができれば、この階調の一つ一つの連続的動きを理解する助けになるでしょう。

(1)受肉

贖いの八階調の時系列を見ることにしましょう。この八階調の最初の音符、局面は神の御子の受肉でした。神の御子が人の姿でこの世界に来臨されました。この受肉には三つの目的があることを説明しようとしたことを、あなたは覚えておられるでしょう――受肉には三つの極めて明白な意味がありました。一つ目は、人を贖うことです。人の性質について、また人は何から贖われなければならないのか、私たちは見ました。二番目は、神の当初の原型に従って人を再構成することです。三番目に、人を完成することです。神の御子は「人の子」という称号を帯びてこの三つの目的に取り組まれました。そして、彼御自身において、この三つの目的は個人的に実現されました。彼は贖い主であっただけでなく、彼御自身が贖いだったのです。贖いは人格的なものになりました。贖いとは彼が行われたことだけでなく、彼御自身でした。彼は贖われた人の原型なのです。いま述べていることを補う必要があるでしょうか?繰り返すと、イエスは贖い主であっただけではありませんし、贖いとは彼が行われたことだけでもありません。イエスは贖いの個人的化身であり、代表者なのです。彼は贖われた人の代表者であり、贖われる時に出現する人類の代表者です。

次に、彼は神の御心にしたがって再構成された人でした。再構成されて別人になった人を代表する人でした。彼御自身、「苦しみを通して完成されました」(ヘブル二・一〇)。彼は苦しみと試みを通して完成された人を代表しておられます。もちろん、善良で罪のない者にされたという意味ではなく、完成に導かれたという意味です。聖書の中の「完全」という言葉は、ある状態を意味するだけではありません。私たちはこれを常に覚えておかなければなりません。この言葉は度量、成熟、欠けているものがないこと、「あらゆる点で十分なこと」、「仕上がり」、決定的成就を意味します。彼の場合、完成されることはさらに良い者になることではありませんでした――何ものもそうすることはできません――しかし、彼は人として成長しえたのです。事実、彼は成長されました。すでに見たように、公生涯以前の彼の生涯は十二歳以前と以後の二つの期間に分かれますが、この期間について、「(彼は)知恵においても身の丈においても成長した」、「神の恵みが彼の上にあった」、「(彼は)神と人から好意を得た」(ルカ二・四〇、五二)と述べられています。彼は成長されました。そして公生涯の三年半の間、忍耐、信仰、愛がどれほど成長したことでしょう。彼は完成された人であり、苦しみを通して完成されました。つまり、彼は欠けたところのない者にされたのです。これが受肉です。

(2)地上生活

次に、私たちは彼の地上生活について考えました。私たちは彼の三十年間と三年半に注目し、それを要約してこう言いました、「ここに神が求めておられる種類の人がいます。あらゆる試みや試練、どんな逆境の時でも、彼は私たちの模範です。神はこのような種類の人――真の人性――を得ることを求めておられます」。すでに述べたように、この方は「顕現」、すなわち、神が人の姿で一時的に訪れたものではなく、人として赤ん坊から成年に達するまで生活し、神の承認を受けた者として地上に立たれました。この方について、神は「私は彼を喜ぶ」(マタイ三・一七、一七・五)と言うことができました。この方は人として神を満足させました。この地上生活は、神が得ようとしておられる人、神が求めておられる人を、私たちに提示し、私たちの前に置きます。

彼御自身が一体どのような御方だったのか、また彼がそれによって支配されていた数々の法則や原則――これらのことを見るための目と、把握するための理解力を私たちが持ってさえいれば!彼は他の人と何と異なっていたことか――まったく異なっておられ、すべての人が不思議に思いました。「あなたたちの間に、あなたたちの知らない方が立っておられます」(ヨハネ一・二六、アメリカ標準訳)。これは、彼は肉において現れた神聖な神の御子だったということだけではありません。繰り返し明らかになったように、人々は人としての彼すら理解できませんでした。最も親しい友人たちですら彼を誤解し、理解できませんでした。人としての彼には何か他の人と異なる、説明できないものがありました。しかし、彼こそ神が得ようとしておられる種類の人なのです。

おそらくここで次のことを挿入的に述べる必要があるでしょう。これはある程度――その程度は小さなものかもしれませんが、とても現実的です――すべてのクリスチャンもそうでなければならないのです。この世は彼を知らなかったので、私たちをも知りません(ヨハネ一・一〇、一六・三、一ヨハネ三・一b)。真のクリスチャンは、世には理解不能な何らかの特徴を帯びているべきです。世に理解させようとしてもできない何らかの特徴を帯びているべきです。何かが異なっているのです。私たちは人々と異なる独特で奇妙な存在になろうと努める必要はありません。なぜなら、主と共に進み続けるなら、私たちは確かにそのような者になるからです!

(3)十字架

次は十字架でした。十字架には三つの要点があることを私たちは見ました。第一に、一人の人、一つの種類の人が暴露されたのを見ました。主イエスの十字架は恐るべき方法で天然の人を暴露し、あらわにしました。十字架ほど人が自分の本性を暴露し、人はどのような者で何をなしうるのかを示したものはありません。人は実は悪魔自身によって動かされ、駆り立てられているのです。悪魔は人の内に足がかりを持っているのですが、きっかけさえあればこれは明らかになります。十字架はまさにこのきっかけでした。「ああ、彼らは酷い人たちです。私たちはこのような人々とは全然違います。私たちなら決してこんなことはしません」と思わないようにしましょう。自分が試みにさらされるまで待ちなさい。私たちの性質中にある罪の深みを暴露して、私たちを誘い出す環境が私たちの上に臨む時、私たちになせないことは何もないのです。そうです、人は十字架で暴露されました。

第二に、人が分類されるのを見ました。人は自分が何者でどこに属するのかを示し、しかるべき区分の中に入れられました。これはクリスチャンである私たちの場合もそうではないでしょうか?私たちが聖霊の光の下で、自分自身の心についていくらか真に理解する時、ある程度自分自身について知る時――私たちは自分がどこに属しているのかを知るのではないでしょうか?しかし神の憐れみと恵みのゆえに、私たちは最後に自分がどこにいることになるのかを知るようになります――私たちは「自分の居場所」に行くでしょう。そこに私たちは属しています。十字架は人を分類し、人がどこに属すのかを示しました。

(4)復活

復活とは、別の人が迎え入れられて立証されたことを意味します。使徒パウロは言いました、「聖なる霊によれば、死者からの復活により、御力をもって神の御子と宣言されました(あるいは、選定されました)。この方はイエス・キリストです」(ローマ一・一、四)。これがすべてを要約しています。復活はこの人なる方に対する神が証しです。この方は――取り除かれるどころか――拒絶された人の代わりに迎え入れられたのです。

(5)昇天

昇天と栄化は次のようにまとめられます。すなわち、昇天と栄化は新しい人が就任することであり、この方は栄光に導かれつつある子どもたちの中の第一の者であり、その代表者です。新しい人が天で就任されました。

御霊が来臨されたのはこれらの事柄を信者の内で実際のものとするためである

この八階調の最初の五段階に関する短い備忘録を念頭に置きつつ、聖霊降臨に来ることにします。各段階は先立つ段階に続くものでなければならないこと、各段階は先立つ段階の一部であることがわかります。聖霊降臨はこうした先立つすべての段階を引き継いで、それらを天で栄光を受けた主から地上にもたらし、あなたや私の内で有効化されました。聖霊はこの贖いをあなたや私の内で発効するために来られたのです。この贖いのためにキリストは来られました――「キリスト・イエスにある贖い」(ローマ三・二四)――人のこの再構成はキリストにあって示されました。聖霊が来臨されたのは、キリストにあって完成されたこの働きを引き継いで、それを私たちの中で完成させるためです――私たちをも完成させて、キリストの完全さをもって私たちを完全にするためです。

ですから、聖霊の働きの原則は、このような点で、受肉の完全な意義以外のものではありません。

この地上生活について述べると、ここに人なる方、神が求めておられる種類の人がいます。そして、聖霊は私たちをこの種類の人に、神の御子のかたちに同形化するために来臨されました。一言で言うと、私たちをキリストに似た者とするためです。これが聖霊の働きです。このために聖霊は来臨されました。これは私たちにとって栄光の望みです。

十字架について述べると――そうです、次のことが同様に言えます。すなわち、聖霊の働きは常に、排除された古い人に反対して証しすることなのです。もしあなたや私が本当に聖霊によって内住されており、治められているなら、この古い人に触れる時それがわかるでしょう。この古い人は立ち入り禁止区域であることがわかるでしょう。「立ち入り禁止――近づくな!」という標識が掲示されていることに気づくでしょう。この古い人に触れる時に受ける痛みや反動に気づかないクリスチャンはみな、聖霊に対する感受性に欠けています。しかし、これには他の面もあります。聖霊は私たちを積極面に保って言われます、「さあ、これが道です。命の道です。その古い立場から離れなさい――この命の立場にとどまりなさい!」。親愛なるクリスチャンよ、これを心にとめなさい。その古い人と手を切りなさい!古い人を掘り返して、それを見つめてばかりいてはいけません。古い人の所に行ってその周囲を巡り、その中に――すなわち自分の中に――何か良いものを探そうとしてはいけません。なぜなら、そうしようとしてもできないからです!神の判決は「古い人の中には『良いものがなにもない』」(ローマ七・一八)です。ですから、この古い人の立場を離れて、この新しい人の立場にとどまりなさい。この古い人は暴露されました。きっとあなたはすでに、この古い人がどれほど悪いかを御存知でしょう。どうしてこの古い人に関わる必要があるのでしょう?

聖霊が来臨されたのは、私たちがそれに基づいて生活するべき別の立場があることを私たちに知らせるためです。聖霊が来臨されたのは、十字架の働きを有効化するためです。十字架は古い人を取り除き、新しい人をもたらします。言いかえると、十字架は復活のために道を拓くためです。あなたや私は今、彼の復活の立場に基づいて復活の命によって生きるよう、聖霊によって召されています。復活はこの経綸の偉大な特徴です。古い人を取り除いて新しい人のために道を拓くこと――これは二つの対をなす真理です。聖霊はこの立場に基づいて働くために来臨されたのです。

最後に、これはみな栄光のうちにある人なる方に集約されます。彼はこうしたあらゆる神聖な事柄の化身です。彼は天で就任しておられ、地上のあらゆる危険を超越していて、地上から介入されるおそれはありません。この世は状況を変えようとしていますが、彼はこの世の手の届かない所におられます。彼はこの世を全く超越しておられます。そして聖霊が来臨されたのは、彼の中に化身されているこれらすべてのものを引き継いで、それを私たちや教会の中で成就するためです。

ですから、「なぜ聖霊なのか?」という問いに対する答えは次の通りです。すなわち、人類に関する主の受肉の意義をすべて有効化するためであり、主の地上生活の意義を有効化し、主の十字架の意義を有効化し、主の復活の意義を有効化し、主イエスの昇天と栄化の意義を有効化するためです。聖霊はこれをすべて引き継がれます。その目的は、それをすべて信者の内に実現させることです。

聖霊は主イエスに専念される

このように聖霊は主イエスに専念しておられます。聖霊はすべてを含み、すべてを包含する一つの関心を持っておられます。聖霊は主イエスに集中しておられ、主イエスだけを見、主イエスにすべての力を注いでおられます。それは主の栄光を表すためであり、信者の内におられる主の栄光を表すためです。御存知のように、主イエスは「聖霊は私の栄光を表します」(ヨハネ一六・一四)と言われました。これが聖霊の働きです。おそらく、これはあまりにも馴染み深いことなので、何の感興も湧かないかもしれません。しかし、次の事実を新たに黙想するたびに、私の心は大いに慰められます。すなわち、聖霊の偉大な降臨はこの一つのこと――あなたや私の内で、すなわち教会の内で、人の子としての主イエスの臨在と御業を実際のものとすること――を焦点としており、これに集約されるのです。この事実は祈りの確信の根拠と希望の保証の根拠を与えます。このように聖霊はこの経綸において働かれるのです。

これがまさに、弟子たちと過ごした最後の日々における、私たちの主の負担でした。主は公の務めを止め、群衆から身を引き、最後の多くの時間を費やして弟子たちに専念されました。この最後の日々を見る時、主は指示や教えを弟子たちに与えて心中の負担を下ろされたわけですが、当時主の心中の負担はすべて、来るべき日と関係していたことがわかります。「その日には…」、「その日には…」と主は言われました。そして、「その」日とは聖霊の日でした。「聖霊が来られる時…」。「聖霊が来られるその日には…」。主は聖霊降臨の重要性と意義を極めて重んじられました。なぜなら、主の来臨の目的、受肉・人間生活・十字架の目的は、聖霊がそれを他の人々の内に有機的に生き生きと再産出しない限り、まったく価値がないことを主は御存知だったからです。

主はこれを次の有名な御言葉に要約されました、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、死ぬなら多くの実を結びます」(ヨハネ一二・二四)。さて、主がこれを語られたのは、「イエスにお会いしたいのですが」(二一節)という願いを表明したある人々に応じてでした。これは奇妙で不思議な返答でした。「人の子が栄光を受ける時が来ました(中略)一粒の麦が地に落ちて死なないなら、それは一粒のままです…」。主の御言葉の意味は確かに次のようなものでした、「あなたたちはこんなにも熱心に尋ね求めていますが、あなたたちが栄光を受けた人の子を見ることができるのは、人の子が他の人々の内に再産出される時だけなのです。これは自分自身を再産出するトウモロコシの場合と同じです。そこにあなたたちは私を見、私の栄光を見るでしょう」。

人の子、栄光の人の子を見ることが出来る所は、教会、信者たちをおいて他にない、という意味がここに示されています。ああ!私たちは何と少ししか栄光の人の子を表していないのでしょう!しかし、これが主の道です。私は言いますが、主はこれに専念して多くの時間と日々を費やされたのです。「私が来て生活行動したことがすべて有効化されるには、聖霊が来る必要があります。私がとどまることよりも聖霊が来ることの方が遙かに重要です。もし私がとどまるなら、私は一粒の麦のようです。もし私が去るなら、私は聖霊による再産出の道を拓くことになります」。こうして、主を知る唯一の道、主を見る唯一の道はこの道である、と主は教えられたのです。

神の御旨を妨げる障害物である死は取り除かれた

これは私たちの上にいかなる影響を及ぼすべきでしょうか?確かに言えるのは、まず第一に、聖霊が私たちの内で正当な地位に着いて、何の妨げも受けずに自由に御業を行えるよう、これは私たちの上に実際的に働かなければなりません。神はあらゆる障害物の中で最大の障害物を神の側から取り除いて下さったことを思い出しましょう。ヘブル人への手紙は主イエスを天で就任した人なる方として示しています――「栄光と誉れの冠を受けたイエスを私たちは見ています」(二・九)――これが意味するのは、今や神は人類に関する御業に取りかかれるということです。神の御思いは常に人と関係しています。「人は何者なので、これを御心にとめられるのですか?人の子は何者なので、これをかえりみられるのですか?」(二・六)。ここに人なる方がおられ、この方に人々は同形化されなければなりません。しかし、これを妨げるものがありました。これを不可能にする大きな妨げがあったのです。その妨げとは死でした。死が道を邪魔していました。万物の上に死の判決がとどまっている限り、人は決してこれに到達できません。人の始祖が罪を犯した時、神のあらゆる御旨の大敵である死が、判決としてすべての人の上に下されました。ですから、死がこの途上に立ちはだかっています。この人、この種族は決してそこに到達できませんし、決してそうなることもできません。

しかし、「死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けたイエスを、私たちは見ています」。主はこの障害物、この妨げを取り除き、それを滅ぼされました。「死を通して、彼は死の力を持つ者を無に帰されました」(ヘブル二・一四)。彼は「すべての人のために死を味わわれました」(九節)。主はこの大きな妨げを取り上げて、道から除いて下さいました。今や、私たちはこの方に似た者になれます!神の側から、この神の御旨を妨げる最大の障害物は取り除かれました――最大の障害物が取り除かれたからには、すべての障害物が取り除かれたのです――こうして道が開かれました。

ですから、これは私たちの上に、この死――古い人の上にとどまっている死――の立場を離れて近づかないよう注意する、という影響を及ぼしてしかるべきです。これは神秘的に、難解に聞こえるかもしれませんが、事実、これはとても現実的であり、とても実際的です。もしあなたや私が自分自身と少しでも取り引きを始めて、自分自身の中に落ち込むなら、死が働き始めるのがわかります。常にそうです。敵もこれを知っています。この「天然の車輪」(ヤコブ三・六)を動かし、これを掻き立て、これに私たちを巻き込めさえすれば、再び私たちを死の力の下に捕らえられることを、敵は知っています。聖霊は命の霊であり、命の立場に基づいて働かれます。ただ命の立場に基づいてのみ働かれるのです。ですから、常に命の立場にとどまることを、あなたや私は実行しなければなりません。私たちに対する神の御思いは命であって死ではないことを、私たちは覚えておく必要があります。もし私たちが命を握るなら、神は行動され、聖霊は動かれます。私たちはあまりにもたやすく死を受け入れてしまいます。敵は常に何らかの形で死を私たちに差し出して、それを私たちに取らせようとしています。もし私たちが何らかの方法で死をもてあそび始めるなら、それはまさに悪魔に働く機会を与えることであり、悪魔がすべてをだめにしてしまうでしょう。死は聖霊の正反対です。これが何を意味するのか、どうか主が私たちに教えて下さいますように。

このように、聖霊は復活したキリストに専念しておられ、キリストの復活の命の意味を私たちの内で実際のものとすることに専念しておられます。その目的は栄化です。

今日の懲らしめは将来の統治と関係している

キリストの中に人に関する完全な御旨があります。これは実に完全な御旨です。前の章でこれについてヘブル人への手紙からいくらか述べました。「あなたは彼に御手の業を治めさせられました」(詩篇八・六)。「あなたは万物を彼の足の下に服従させられました」(ヘブル二・八)。「神は、私たちが今語っているこの地を、御使いたちにではなく、人に服従させられました」(ヘブル二・五)。これは素晴らしい召しであり、素晴らしい使命です。この使命は、キリストとの合一により、来るべき代々にわたって、この世界を統治すること以外の何ものでもありません。「これは素晴らしい思想、麗しい概念です――しかし、この麗しい概念や思想は遠い未来の来るべき代々のことですから、一体どのような実際的価値があるのでしょう?」とあなたは仰るのでしょうか?これまでキリストについて、人のキリストとの関係について、来たるべき時代キリストと人が共に協力して地を治めることについて見てきました。この素晴らしい描写のあと、このヘブル人への手紙から明らかになる二つのことがあります。

一つは、この御旨に関して、、神は信者の内で何かを行っておられるということです。ヘブル人への手紙一二章を覚えておられるでしょうか?「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えにしたがって私たちを懲らしめますが、なお彼をうやまうとすれば、なおさら私たちは霊の父に服するべきではないでしょうか?」(九~一〇節)。この手紙はすべてこの点にまったく帰着します。一二章で著者は彼のメッセージの目的に迫って、まとめています。その目的とは一体何でしょう?「聖なる兄弟たち、天の召しにあずかっている者たちよ…」(三・一)。キリストとの合一により来たるべき地を支配すること――これが私たちの召しです。しかし、そのために私たちは訓練されなければなりません。今、私たちの霊的生活の中で私たちに起きていることはそのための訓練であり、とても実際的なことなのです。

もしあなたや私に学ぶべきことが一つあるとするなら、それはまさに霊的に優位に立つ方法です。どうして主はこれらの境遇――逆境や試み――を許されるのでしょう?どうして主はそれらの境遇を阻止されないのでしょう?霊において優位に立つことを私たちが学ぶためです。なぜなら、この統治は事務的なものではなく――霊的統治だからです。この世界を現実に統治することは霊的に統治することです。人々やあらゆる出来事の背後で、ある霊的体系が働いています。しかし、その体系は邪悪なものです。神は御自身の宇宙の中からそれを一掃して、その代わりに良い体系を設置されます。その体系は霊的な体系ですが、天的な体系でもあります。この世界に天的な背景が設置される時、世界はどれほど様変わりすることでしょう。神はこの世界を健全な世界にされます。それは、その上に霊的で健全な統治を打ち立てることによってです。そして、この支配権は聖徒たちの手に渡されます。

しかしこの目的のために、私たちは私たちの霊の父の御手により、恐ろしい罰や恐ろしい教育を通ることになります。これはみな霊的に優位に立つためのものです。毎日、私たちには霊的に克服すべきことがあります。毎日、私たちの足の下に服従させなければならないことがあります。しかし、逆に私たちが克服され、あしげにされることがあまりにも多いのです。克服するには主と協力しなければなりません。私たちが受ける訓練は、物事を私たちの足の下に服従させる術を学ぶためです。聖霊がここにおられるのはそのためです。「御霊を通して力をもって内なる人の中で強められますように」(エペソ三・一六)、「主の御力によって強められなさい」(参照 エペソ六・一〇、一ペテロ四・一一)という御言葉はみな――こうした御言葉はみな、霊的に優位に立つこと、頂点に立つことと関係しています。

励ましと警告の必要性

このヘブル人への手紙から明らかになるもう一つのことは、常に激励と励ましの音色が鳴り響いていることです。「前進しようではありませんか…」。多くの警告と懇願があります。なぜでしょう?それはこの高い召しのため、この偉大な使命のためであり、私たちが新創造とされて神の御子に結合されるというこの御旨のためです。来るべき地と、それを治める支配権――これが私たちの嗣業です。私たちには多くの励ましが必要であり、多くの激励が必要であり、常に警告が必要です。これはあまりにも重大な事柄です。「こんなにも偉大な救いをなおざりにするなら、どうして逃れることができるでしょう?」(二・三)と手紙の著者が述べた時、彼はこれを言っていたのだと私は信じます。「こんなにも偉大な救い」とは、たんに地獄を逃れて何とか天に滑り込むことだけではありません――この手紙に記されていることはみな次のことです。すなわち、「天の召しにあずかっている者たち」ということなのです。

聖霊が来臨されたのはまさに、これを有効化する目的のためです。おそらく、主イエスが聖霊を呼ぶ時に使われた数々の名に、あなたはあまり強い印象を受けてこなかったでしょう。例えば、主は聖霊のことを私たちの言葉で「慰め主」と呼ばれました。もちろん、これはとても良い名です。私たちには慰めが必要です。しかし、これは聖霊の御名の意義の一部にすぎません。この御名のさらに十分な意味は「傍らに呼ばれた者」であり、聖霊は私たちと共に働いて下さいます。また、「促す者」「弁護者」という意味もあります。聖霊は傍らに寄りそうために来臨されました――聖霊は私たちの助け手になって下さいます。また、聖霊は促す者になって下さいます。聖霊はこの偉大な働き――私たちを神の御子に同形化して、来るべき代々の時代に永遠の使命を成就する働き――を促して下さるのです。