第8章 主イエスの再来

T. オースチン-スパークス

贖いの八階調の最後の音符、「主イエスの再来」に来ます。これまで私たちは、贖いのこれらの面のどれについても、その包括的描像を示そうとはしませんでした。ただ、それぞれの面に関する「これはなぜだろう…?これはなぜだろう…?」という問いに対して、可能なら簡潔な答えを与えようとしてきたにすぎません。これは特にこの最後の面についても言えます。さしあたって、私は主の再来に関してすべての面を網羅しようとは試みません。

では、なぜ主イエスの再来なのでしょう?主の再来はたいていの場合、一つの出来事と考えられています。計画の中の一つの項目として決められた時に起きる何らかの出来事であり、ある日起きる出来事にすぎないと考えられています。もちろん、通常はその通りです。しかし、なぜそれが起きなければならないのか――なぜ主は再び来なければならないのか――を知ることは極めて重要です。神はキリストの再臨に関するほとんどあらゆる事を、何もキリストが実際に再臨するまでもなく、達成できたはずです。これについてはっきりさせておきましょう。たとえば、クリスチャンを天に携え挙げることについては、神はキリストが再臨しなくても私たちを引き上げることができました。神が直接単独で行えたことが、他にもたくさんあります。しかし、それらはみなキリストその人の来臨と関係しており、またそれに焦点づけられていることを、聖書は私たちに示しています。そしてこの事実こそ、「なぜそうなっているのでしょう?なぜこれはキリストの再来に関する問題なのでしょう?」という問いに対する核心なのです。

贖いの成就

この答えは実は、これまでの学びで述べてきたことの中に見つかります。主イエスの再来は、主御自身がまさにそれらすべてを成就されることなのです。使徒たちに、主は彼らから去られる時、言われました、「私はこの時代の満了まであなたたちと共にいます」(マタイ二八・二〇)。「私はこの時代を総括する時まであなたたちと共にいます」というのが、この御言葉の意味です。では、この時代に関して、最後に総括されるものとは何でしょう?それはこの本でこれまで主に関して述べてきたすべてのことです。主の再臨によるこの総括について見るために、それらを急いでざっと眺めることにしましょう。

主の初臨と最後の来臨の目的及び成就は、明らかにひとまとめにされています。私たちが見た贖いの最初の段階は神の御子の受肉でした――主が人の姿でこの世に来られることでした。そして、この受肉には三つの目的があることを指摘しました。一つ目は、人なる方による人の贖いです。人によって罪が来ました。人なる方によって罪は去らなければなりません。人によって数々の結果が生じました。人なる方によって、それらの結果は滅ぼされて取り除かれなければなりません。これが主が人になられた理由です。二つ目は人の贖いであり、人を再構成して、神が意図された通りの種類の人にすることです。悲しむべきことに、人は神が意図された通りの人になるのをやめてしまいました。三つ目は、人を完成して栄化することです。この三つのことが、主が人の姿で最初に来られたことと関係していました。

二番目の段階は主の地上生活でした。私たちはこの段階を要約して次のように述べました。主はこの地上に生まれ、幼年期を過ごし、成年に達しました。その間、主はあらゆる試み、試験、火のような試練を通り、十字架上で最後の時を迎えられました。十字架で火は七倍にも燃え上がりました。主は罪や失敗や問題事を起こさずに、体を神にささげられました。「あなたは私のために体を備えて下さいました」と主は言われました(ヘブル一〇・五)。そして、主はあらゆる種類の試練をくぐり抜けて、神に体を返されました。その体は弱々しいものでも、霊的性格を失ったものでもありませんでした。主は体を全焼の献げ物として(ヘブル九・一四)、神に受け入れられる喜ばしい献げ物として神に返されました。主は最初から最後まで、人類が遭遇するあらゆるものに対する絶対的勝利の生活を送ることにより、神が求めておられる種類の人を表現されました。こうして主は神の御心にしたがった人の模範となりました。このような人を神は求めておられ、神は獲得されるのです。

「地は主のものである」

神の御子が人の子としてこの地上を御自身の足で歩まれたことには、何かとても重要な意義がありました。前の学びで詩篇二四編を引用しました。この詩篇は「地とそれに満ちるものは主のものである」という言葉で始まっていることがわかります。これが最初の区分の始まりです。第二区分(三節)は「主の山に登る者は誰か?」で始まり、その答えが続きます。「手が清く、心の純粋な者、その魂を空しいものに向けない者、偽って誓わない者こそ、その者である」。キリスト――この方こそ、その者です!次に第三区分です(七節)。「門よ、こうべを上げよ。とこしえの戸よ、上がれ。栄光の王が入られる」(アメリカ標準訳)。この流れをご覧になったでしょうか?地は主のものです。主は御自身の足で地上を歩み、実際にこの地上に立ちました。主は手や心を汚すことなく、この地上で生活されました。それゆえ、主、ただ主だけが、主の山に登るのにふさわしい方です。主が地上に来て、このような生活を送り、このように勝利されたがゆえに、とこしえの戸が開きました。主は入ることができます。

さて、要点はこうです。地は主のものであり、主はこの地上を歩んで言われました、「この地はこのような種類の人のものであり、天はこれを証しします!」。これが詩篇二四篇の意味です。これが、主がこの生涯を送り、勝利を収め、勝利のうちに復活された時、弟子たちに「全世界に出て行きなさい。全地に行って、あなたたちの足で歩み、『地は主のものです。主は創造者であり、贖い主だからです』と宣言しなさい。あなたたちは出て行って、地上を自分の足で歩みなさい。地は私のものです。これはみな贖いの行程の一部なのです」と言われた理由です。

十字架は、この受肉の目的であるこの贖いを有効化することでした――主は御自身の足でこの地上を歩み、そこで勝利の生活を送られましたが、十字架はこの地の贖いを有効化することだったのです。十字架により、主は地をこの世の君の手から取り上げて、御自身の合法的所有として取り戻されました。主は言われました、「今、この世の君は追い出されます」(ヨハネ一二・三一)。

復活した主は地を所有しておられます。そして四十日のあいだ、主は御自身が生きているというこの偉大な事実を確かなものにされます。主は生きておられます!主は「死にました」が、「永遠に生きて」おられます。主は「死とハデスの鍵」(黙示録一・一八)を持っておられます。そして主はこの事実を彼の教会の数々の核により、まさにそれらの核の存在そのものにより、常に確かなものとしておられます。

次に、主は弟子たちの前で栄光に入られました。そしてこれらすべてのこと――意義深い受肉、輝かしい勝利を収めた地上生活、悪魔の働きを滅ぼした素晴らしい十字架――これらはみな地上から取られて、人であれ悪魔であれ、この地上の何ものの手も届かない所に、何ものも触れたり変更したりできない所に置かれました。すなわち、天に置かれたのです。主御自身が天について私たちに告げておられることは覚えておられるでしょう、「そこでは虫も食わず、さびもつかず、盗人らが押し入って盗み出すこともありません」(マタイ六・二〇)。それは彼方にあります。「あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されています」(コロサイ三・三)。それは上なる天にあります。地上の何ものもそれを妨げられません。これが昇天です。

御霊は天で栄光を受けたキリストの霊として降臨しました。御霊が遣わされたのは、これらの真価をすべて――潜在的に――天から地にもたらすためであり、それらをこの経綸のあいだ弟子たちの内で有効化する働きを引き受けるためでした。

教会は「ひとりの新しい人」である器として誕生しました。これについて、「教会はキリストが再び受肉したものである」とは述べていないことに注意しましょう。御霊が来臨したのは、教会に内住するためであり、教会をキリストのからだとしてキリストの伴侶にするためでした。それは、主御自身が成し遂げて栄光にもたらされたすべての御業を、表現するためでした。

再来

最後に主は来られます!なぜでしょう?これをすべて成就するためです!人の贖いを完成させるためです!主が最初に来られたとき行われたことをすべて、あらゆる領域にわたって完成させるためです!ローマ人への手紙第八章は、この贖いの究極的完成の二つの面について取り扱っています。

第一に、神の息子たちの出現、現れです(ローマ八・一九)。彼らは秘密にされ、隠されてきました。神格の三位の間でのみ、誰がキリストのものか知られています。しかし、彼らは公表され、明らかにされます。これが贖いの究極的完成です。それは神の息子たちを公にして明らかにすること、彼らを公に知らせて、栄光のうちに示すことです。私は常々思うのですが、この点に関して使徒パウロがテサロニケ人に述べた言葉はとても素晴らしい言葉です。「主が来られる時、主は聖徒たちの中で栄光を受け、信じるすべての者たちの中で驚嘆されます」(二テサロニケ一・一〇)。その時、受肉の目的が完成されます。贖い、再構成、成就、栄化、これはみな主の再来のとき満ち満ちたものとされます。「信じるすべての者たちの中で驚嘆されます」。この句はいつも私をうっとりさせます。この句は何を意味するのでしょう?すべての観衆、見ているすべての知的生命体は、聖徒たちを見る時、きっと言うでしょう、「彼らをご覧なさい!主は驚くべき御方ではないでしょうか?」。「主が来られる時」「信じるすべての者たちの中で驚嘆されます」。これは受肉の働きと目的の究極的完成であり、主の地上生活の意義が信者たちの内ですべて究極的に完成されることです。

しかし次に、ローマ八章は贖いの他の面にも触れています。「全被造物は神の息子たちの出現を待ち望んで」おり、「共にうめき、苦しんでいます」(一九、二二節)。現にそうなのです。「被造物自身も解放されます」(二一節)と使徒は言います。主は御足を地上に置いて、「地は私のものです」と仰せられました。主はこの地上に来て、そこで生活し、そこで勝利を収め、地のために全地にわたる勝利を獲得されました。そして今、主が再臨される時、贖いの究極的完成として地が贖われます。「被造物自身も腐敗の縄目から解放されます」。しかし、解放されるのは被造物だけではありません。私たちの体もまた、この贖いの究極的完成の恩恵を受けます。「私たちもまた内側でうめきつつ、私たちの体の贖いを待ち望んでいます」(二三節)。信者の肉体も「腐敗の縄目から解放されます」。

これはみな、主が来て行われたことです。主が御自身で行われたこと、主御自身に言えることを、主はいま信者たちの内ですべて実際化しておられます。次の御言葉はもっぱら主の神性に関するものであることを私は知っていますが、それでもこの御言葉には二次的な意味があります。「彼が死に支配されていることは、ありえないからです」(使徒二・二四)。「あなたはあなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しになりません」(二七節)。主は聖者だったので、死に支配されていることはありえませんでした。なぜなら、死は罪の刑罰だからです。前に述べたように、この御言葉はもっぱら神の神聖な御子に関するものです。御子は朽ちることのない、罪のない御方です。しかし今、主は信者たちを罪と腐敗から解放し、それゆえ罪から解放されます。また、主御自身に言えることを信者たちの内で実際化されます。主は信者たちを神にするのではありませんが、恵みを通して御自身の勝利のすべての価値を信者たちに与えて下さいます。そして、これには体の贖いも含まれます。

なぜ再来が必要か、おわかりになったでしょうか?主がそのために来られたこと、初臨のときに主が行われたことを、すべて実際化するためです。そして、これがすべてではありません。十字架において、主は罪の問題全体を取り扱っておられました――主は御自身で罪の問題を完全かつ決定的に取り扱われました。その間、主はそれ以上に、サタンの問題全体を取り扱っておられました。十字架の真の戦いが行われたのは、主権者たちや権力者たちというあの宇宙的領域においてであるという事実を、私たちは強調しようとしてきました。その領域で真の戦いが繰り広げられました。それはあらゆる悪、邪悪さ、サタンの王国の暗い事柄に対する、恐ろしい戦いでした。そしてそこにおいて、主イエスは完全な勝利を勝ち取られました。主の再来はこの勝利を絶対的な最終のものとするためであり、教会をこの勝利の恩恵にあずからせるためです。

私たちは戦いの中にあります。そして、私たちがカルバリの立場、十字架の立場に立てば立つほど、この戦いはますます激しくなります。これはまぎれもない事実です。サタンは十字架を憎んでいます。もしあなたが本当に霊の中で十字架の立場に立つなら、あなたは戦いの中に入ります。サタンはあなたをこの立場から引き離すためにあらゆることをするでしょう。主イエスが戻って来られるのはまさに、御自身の内でこの戦いを完全に終わらせたように、教会のためにこの戦いを完全に終わらせるためです――あるいはおそらく、主が教会のためにこの戦いを終わらせたように、教会の内でこの戦いを終わらせるためである、と言うべきかもしれません。主が来られる時、サタンの統治と暗闇の王国は、一度限り完全に終わります。これが主が来られる理由です。

人の子の来臨

再び一点だけ強調させて下さい。この再来は「人の子の再来」です(マタイ二四・二七、三七、三九)。主は「の子が来ること」と述べておられます。残念なことに、サンキーは私たちがしばしば歌う彼の詩歌でこの御言葉を変えてしまいました。

「ああ、素晴らしい日!ああ、輝かしい朝よ!
神の御子がやってこられるその時は。」

主が語っておられること、そして聖書が述べていることは、の子の来臨であって神の御子の来臨ではありません。来臨するのが神の御子であることは事実です。しかし、ここで大いに実際的な事実を理解しなければなりません。初臨の時、彼は最初から最後まで人として人に仕えました。最後の時も、やはりそうでしょう。もし彼が人として人に仕えたのでないなら、その受肉には何の意味もなくなってしまいます。もし彼が人として人に仕えたのでないなら、その地上生活には何の意味もなくなってしまいます。もし彼が人として人に仕えたのでないなら、その十字架には何の意味もなくなってしまいます。復活についても同じであり、昇天と即位についても同じです。彼は栄光の中におられる人です。「栄光と誉れの冠を受けたイエスを私たちは見ています」(ヘブル二・九)――イエスは彼の人としての名前です。天におられるのは、人に仕えて下さる人なる御方です。教会は「天から遣わされた聖霊」(一ペテロ一・一二b)によって生まれた「ひとりの新しい人」です。そして再来されるのは、人に仕えて下さる人なる御方です。人に関するこのすべてを究極的に完成して下さるのは人なる御方であり、人はキリストにあって自分の嗣業の中に入ります。この驚くべき事実はみな人のためです――あなたや私のためなのです!彼は人の子として来臨されます。

この「人の子」という称号には途方もない事実が関係しています。この称号は人類との関係を表しています。彼の御業はすべて人類のためです。また、この称号は彼が天で人類を代表しておられることを表しています。人々に対する今日の懇願は、このような事実全体に基づいています。ああ、「クリスマス」によってこのようなことがみな何と戯画化されてしまったことか!受肉、贖い、人の再構成と栄化について私たちがこれまで述べてきたことの光の中で、クリスマスについて考えてご覧なさい。今日の一般的なクリスマスのどこに、それらの入り込む余地があるでしょうか?悪魔がすべてを逆転させてしまい、クリスマスをその真の意味に反するものにしてしまったのです。悪魔はクリスマスを、あの別の人、古い人を発達させて、自分の満足のために大食いさせる手段として用いてきました。他のすべてのことでもそうです――逆転してしまっているのです。主イエスが来られる時、これはみな正されるでしょう。

しかし、他方、私たちに対する――人に対する――彼の懇願は、彼は私たちを贖うために来られたというこの事実に基づいています。彼が来られたのは私たちを別の者にするため、私たちを再構成するためです。彼が来られたのは彼御自身の形にしたがって私たちを完成するためです。彼が来られたのは私たちを栄化するためです。彼は御自身の地上生活により、これが可能であることを示されました。これは人なる方においてなされました。これは可能です。なぜなら、彼がこれをなさったからです。「神の御子が現れたのは悪魔の働きを滅ぼすというこの目的のためです」(一ヨハネ三・八b)。彼は悪魔の働きを滅ぼすために来られ、それを十字架で行われました。彼はとてもとても大きな根拠に基づいて、私たちに懇願しておられます。これはみな贖いであり、贖いは途方もないことです。私たちには偉大な贖いがあります。なぜなら、私たちには偉大な贖い主がおられるからです。私たちは彼が来られる時のことを考えてきました。その時、彼は来て、最後の大いなる接触をもってすべてに触れて下さいます。この素晴らしい贖い――人の贖い、地の贖い、全被造物の贖い――すべてに最後の接触を加えて下さいます。「彼は来て、聖徒たちの中で栄光をお受けになります」(二テサロニケ一・一〇)。

「主の再臨が近いことを告げる何かが空中に漂っているようだ」と私が言う時、こう感じているのは私だけではないと信じます。主の再臨はそう遠いものではありえない、という感覚があるようです。主の子供たちとして、私たちはかつてないほど「内側でうめいて」います。全被造物のうめき声が大きくなりつつあります。この被造物の産みの苦しみは、ほとんど耐えきれないものになりつつあります。この地球は贖いを必要としています。贖われないなら何が起きるのか、知っているのは神だけです。しかしどうであれ、神の真の子供の霊の中には、主の再臨が近づきつつあることを告げる何かがあります。主の再臨が唯一の希望です――他の方面には一切希望はありません。救われている人も、救われていない人も、全員これがわかっています。全能の神が介入されない限り、この世界には何の希望もありません。

ああ、しかし、神は介入して下さいます!神は御子によって介入して下さいます。ここに希望があります。ですから、使徒はこの「祝福された望み」――「私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ」(テトス二・一三)――について語ります。主は、開始したことをすべて完成させるために、まもなく来られます。私たちがこれを黙想する時、どうか主が新たな喜びで私たちを満たして下さいますように。