主の助けにより、私たちはキリストのからだについて新たに黙想することにします。この「奥義」のさらなる解き明かしを得たい時はどこへ行けばいいのか、私たちは知っています。私たちは本能的にエペソ人への手紙に向かいます。この手紙を見ると、第一に単純な予備的事実に気がつきます。それは、教会が「キリストのからだ」と呼ばれていることです。それは「キリストのからだなる教会」です。これはこの書の中の教会を、他の箇所の名称と区別します。宮や神の家といった名称もありますが、この書ではすべての啓示の基礎は特にキリストのからだです。そして、この書の内容は体の概念と一致しています。さて、この名称に関連して、この手紙全体を支配しているように思われる言葉は、「共に」と訳されている言葉です。印象的なことに、この言葉は何度も出てきます。ここでは、私たちはキリストにあって「共に生かされた」と述べられています。これは、私たちが彼の復活により主イエスと共に個人的に生かされただけでなく、団体的に生かされたことを意味します。私たちはキリストにあって共に生かされました。キリストと共に生かされただけでなく、キリストにあって団体的に生かされたのです。
からだの永遠の一体性(oneness)
主イエスの復活の中に教会全体が共に含まれていました。次に同じ節の二章六節には、私たちはキリストにあって「共に復活させられた」と述べられています。さらに同じ箇所で、私たちはキリストにあって「共に座らされた」と述べられています。一章十節に少し戻ると、私たちは「一つの中へと共に集められ」ます。再び先に進んで二章二一節に行くと、私たちは「共に組み合わされ」ます。二二節では、私たちは「共に建造され」ます。ですから、この「共に」という言葉は、とても単純な形で、キリストのからだである教会の団体的性質という事実を示しているのです。私たちはその意味をできるだけ完全に理解したいと願っています。なぜなら、この手紙は疑いなく、教会は団体的なからだであるという事実を強調しているからです。「恵みの働きが完成する時、教会はいつかそうなるだろう」ということではありません。「それは神の御心と御思い、神の御旨、神の意図の中だけのことである」「主がそれを始められた時には、そうなる予定だった」ということでもありません。教会は実際にそうなのです。この地上で目にするもの、絶えず増加する分裂や分離、この地上で神の民の交わりの中に入り込んだあらゆる不幸な分派、過去・現在・将来にわたるこの線に沿ったいっさいの出来事にもかかわらず、教会は依然として一つの団体的なまとまりなのです。
これは地上の人々に関してではありません。これが真実なのは、キリストのからだである教会の本質的性質に関してです。自分の霊の受容と意識の中にこれを根付かせて定着させるのが、早ければ早いほどいいのです。愛する人よ、地上でクリスチャンの民の関係に生じるいかなる分裂も、この事実を変えることはできません。性格、選択、好み、好き嫌い、知的受容や拒否の相違、もしくはそれらによって生じる相違は、この究極的事実に触れません。共存性、一体性、団体性が存在する領域があるのです。この事実は、宗教的なものであれ神学的なものであれ、人自身から出る何ものによっても影響されません。
もちろん、交わりの断絶が起こりうる領域もあります。その領域では、交わりの断絶が霊の領域に入り込み、霊が影響を受けます。そこでは、あなたはかなり明確にキリストのからだに打撃を与えることができます。しかし究極的には、このからだは一つです。もちろんこれは、地上のものではない何かがある、ということを明らかに示しています。それは天のからだであり、地によって影響されたり、触れられたりすることはないのです。
私たちは目にするものを受け入れがちですし、地上に存在する分裂によって影響されがちです。そして、目にしていることのゆえに、絶望しかけています。そうしたことをすっかり一掃するのが、早ければ早いほどいいでしょう。地上にクリスチャンの民からなる五万の地的機関があったとしても、キリストのからだは一つのままです。それは縫い目のない衣であり、分けられないからだです。それは一つのままです。これが私たちの戻るべき基本的事実であり、そこから私たちは出発します。
この手紙では、キリストとその肢体たち、教会、一つからだの奥義が啓示されています。最も強調されているのは、からだの団体的性質という事実です。この手紙はそれについて論じたり、議論したりしません。それを当然視しています。それは決着済みの事柄です。もちろん、その享受には程度の差がありますし、その豊かさにも程度の差があります。しかし、その事実に程度の差はありません。その事実は堅固なままです。私たちがなすべきは、この堅固な事実の中に入り込み、その意義の中に入ることです。しかし、その完全な意義の中に私たちがまだ入っていないからといって、それが存在しないことにはなりません。問題は、神が最初から確立しておられるものの中に私たちが入っていないことです。つまり、私たちはからだを一つにしているものが何かを知らなければならないのです。これが私たちのなすべきことです。合一が存在します。私たちがなすべきはそれを理解することであって、それを造り出すことではありません。私たちは直ちにそれに進みます。しかし、エペソ人への手紙は依然として生きており、依然として適用可能であり、今日も依然として真実であることに注意してください。この手紙が書かれてから何世紀もたった今、地上にはクリスチャンの民――彼らはみなキリストのからだの肢体たりえます――のたくさんの機関や分裂があります。しかし何世紀もたった今でも、エペソ人への手紙は当初と同じところにあり、からだを一つの堅固なまとまり、団体的な一つとして示しているのです。
一体性(oneness)を理解するために必要な天的立場
私たちが天上にのぼり、地上を離れる時はじめて、私たちはこの事実の中に入り始めます。そして、この事実が神に対して、天に対して、地獄に対して、この世に対して、何を意味するのかを理解し始めます。ですから、この事実に含まれている実効的な召命と生活とをもってこの事実の中に入るには、キリストにある私たちの天上の立場からこの問題全体に取り組んで、自分が霊的にどこに置かれているのかを正確に見なければなりません。なぜなら、私たちがそれを認識して、キリストにある自分の天的立場につかないかぎり、キリストのからだである教会のこの天的実際の意味を、私たちは見ることも、認識することも、その中に入ることもできないからです。私たちは地上から教会を見ることはできません。天上からしか見ることができないのです。
相違に対する私たちの姿勢
ただ何かを述べただけで、これを後にしたくありません。私の望みは、私たちがその恩恵を得ることです。あなたと私には同意できないことがあるかもしれません。しかし、それは主イエスにある私たちの関係に何の違いも生じさせません。あなたと私が仲たがいしている事実、あるいは同意していない事実は、肢体である私たちをキリストのからだから引き裂いたりはしません。いいえ、それは私たちの損失であり、私たちの恥であり、私たちのクリスチャン生活に起こりがちなことであり、私たちの間にある恵みを毀損するものですが、私たちの間で動いておられる御霊の動きに明け渡すなら、私たちはそれから回復されるでしょう。そして戻ってきて、キリストにそのからだの中に再び結合してもらう必要はないことがわかるでしょう。この事実は残るのです。
実際に役立つ原則は次のようなものであることがわかるでしょう。この地上には信者たちの間に多くの分裂があるかもしれませんが、私たちはそれを究極的なものとして受け入れる必要はありません。また、「キリストの中にいる人たちとキリストの外にいる人たちが存在する」「自分たちはキリストの中にあるが、他の人たちはそうではない」「からだは全く崩壊していて、ばらばらである」と考える必要もありません。この事実を享受する唯一の希望は、それとは異なる事実のように見えるものを拒否し、そうしたものを生じさせる地的なものを超越することを追い求めて、自分が天上にある事実を発掘することです。そうするなら、交わりは続きます。これが実際に役立つ原則です。私たちはこれがその事実の意味であることを悟るべきです。私たちはその事実を受け入れて、この究極的事実に逆らって現れる他の事柄に打ち勝つこと――それを拒否すること――を求めなければならないのです。