第2章 一体性の根拠

T. オースチン-スパークス

さて、私たちが共にあることを見たので、この一体性の根拠についてさらに見ていきたいと思います。レビ記二三章を思い出すなら、おそらく最大の助けになると思います。この章は、主の祭りを確立することを含んでいます。さて、これらの祭りのおもな特徴、支配的特徴は、神の民の団体生活、教会の団体生活を表していることです。それらは主の民がみな集まる集会であることがわかります。これらの祭りは聖なる集会と呼ばれています。民が招集され、このような機会に、またこのような機会によって、彼らの一体性が現されます。ですから主要な要素は、これらの時に示される神の民の団体生活です。

それが見せているのは次のことです。すなわち、祭りの時、人々は個人的な生活を送るのをやめ、個別の生活を送るのをやめます。自分たちの家庭生活や、内輪の社会生活を送ることすらやめます。これらの祭りの時、部門的なものはすべて放棄されます。そして、民が一つであることがわかります。彼らを一つにしているものが何かを考えるなら、祭りであることがわかります。そうです、しかし、主の民の団体生活や交わりの根拠は、異なる種類の祭りをすべてひとまとめにしたものなのです。

ですから、これらの祭りについて見渡すことにします。(詳しく詳細には扱いません。ただ、それらに言及して、たぶんその顕著な特徴を述べるだけです。)最初は過越の祭りです。

過越の祭り

とても多くの神聖な原則が、過越の祭りの中に込められています。しかし、他のすべての原則を包括する一つの原則があります。過越が象徴し、表しているのは、血によるいのちの契約というこの原則です。すべてはこれに集約されます。神は契約をお立てになります。神はその契約を血によってお立てになります。この契約の血は、裁きと死からの解放であり、裁きによって死がはびこっている時にいのちを保ち、滅ぼす者を無にします。これが、流されて振り注がれた血の力による、死のただなかにおける、悪魔に対する勝利のいのちです。そこには、神とその民との間の契約があります。これが神の民の団体生活を生み出す第一段階であり、最初のものです。

さて、私は区別したいと思います。今日とても多くの人が、主イエスの血の価値と効力の教理、血の教理に基づいて、教会の一体性を実現しようとしてきましたし、そうしようとしています。なんなら、「あらゆる角度から宣べ伝えられて、あらゆる方面に適用される、贖い、血の価値、主イエスの血についてのすべての教え」と言い換えることもできます。彼らは、それを本質的教理として確立することによって、教会の一体性を実現しようとしています。「それを信仰の教理の一つとして受け入れるなら、あなたは教会の一体性の中に入ります」と彼らは言います。しかし、教理が一体性を実現できたためしはありません。根本主義を信奉するだけでは不十分です。根本主義は結局のところ、ある認知されている根本的な教理を一緒にしただけかもしれません。一体性の根拠として教理を持つだけでは不十分です。それは機能しません。あなたは教理という根拠に基づいて、信条という根拠に基づいて、一体性を得ることはできません。あなたは経験という根拠に基づいて、力という根拠に基づいて、造り込まれたもの、もたらされたものの根拠に基づいて、一体性を得なければなりません。多くの人々は、主イエスの血の永遠の無限の効力と価値をすべて信じているのですが、その血の力を内外の死の力に対して働く大能の力として、自分の生活の中で少しも経験していません。主イエスの血は天的なものですが、教理はきわめて地的なものであるおそれがあります。まったく健全で正しかったとしても、教理は地的な団体向けのきわめて地的なものかもしれません。教理は霊の領域では役に立ちません。

血の真価は、霊の宇宙に刻印されている、血の霊的な力です。その中に入る時、あなたは――信条的にではなく霊的に――教会の真の一体性の中に入ります。これは経験的なことであって、教理的なことではありません。それはいのちであり、積極的で力強い強力なものです。健全な教理に忠実であることではありません。この違いに注意することがとても重要です。愛する人よ、キリストのからだの一体性を維持するには、健全な信条や正しい教理を無限に超えたものが必要です。それには力、恐るべき力、この宇宙の他のいかなる力よりも強力な力が必要です。血こそ、その力なのです。

この血の根拠に基づいて、教会は生み出されました。キリストは今、ご自身の血の効力によって生きておられます。そして、その効力によって生きておられる彼は、その血の同じ効力によって、すべての肢体たちをご自身との天的交わりの中にもたらされました。この血は生きており、働いており、作用しています。過越とは、私たちがキリストにあって、この契約の彼の血の力により、経験的な、生ける、能動的な、相互の合一の中に入ることにほかなりません。これがキリストのからだである教会の一体性です。それが少しも機能していないあいだは、天的なからだである教会のいのちの力強い働きの中に私たちは入っていないのです。

教会は有用なものとなって、自分の召命を成就し、支配たちと権威たちとこの暗闇の世の支配者たち、悪の軍勢に対して衝撃力を及ぼして、自分の宇宙的な使命、予め定められていた自分の目的を果たさなければなりません。それを可能にする根拠は、主イエスの尊い血のこの凄まじい力しかありません。これは真実であり、この血を離れて教会は存在できません。したがって、この血を離れるなら使命もないのです。

すでに述べたように、私たちはこれを認識して、すでに成就されている事実に迫らなければなりません。しかし、神の御心によると、キリストの尊い血のあらゆる恩恵に浴していない人は、キリストのからだの肢体ではありません。「キリストのからだの肢体たちはこの血の意義をすべて知的に理解している」「彼らはこの血の何たるかの完全な啓示を受けている」という意味ではありません。「主イエスに対する彼らの関係はこの血の効力によって生じており、その血が天で彼らを彼に結合し、互いに結合した」という意味です。教会が究極的に勝利するのは、その力によります。「彼らは小羊の血のゆえに打ち勝った」(黙示録十二章十一節)。

これは始まりにすぎないことがわかります。ですから、キリストのからだの団体的真理を知り、認識し、享受して、それから益を得るには、血の力の何たるかを学ばなければなりません。また、交わりを損なうために悪魔が用いようとするものに対して、その血が私たちの生活の中で認証済みの力とならなければなりません。ああ、悪魔のそのようなあらゆる働きに対するこの血の力と効力を、主の民が認識してさえいれば、分派や分裂という線に沿った悪魔の働きが功を奏することはずっと少なかったでしょう!もし敵の何らかの働きの結果、あなたと私が緊張関係に入るなら、愛する人よ、私たちを交わりの中に連れ戻す唯一の道は、敵が行ったあらゆる働きに対抗して、その血の力にすがることです。これこそ、教会は血の効力により、始まりも、途中も、終わりも一つである事実の完全な証拠です。過越はこの第一の真理を生み出します。ですから、旧約で主の民が一緒に集まったこと、その団体生活、その交わりは、第一に、死と滅ぼす者に勝利する血の契約という根拠に基づいていました。これが彼らの交わりの第一段階です。これらの祭りの二番目は種なしパンの祭りでした。

種なしパンの祭り

種なしパンの祭りは丸七日間続けなければなりませんでした。七日は完全な期間、完全な霊的期間を表します(七は霊的完全の数字です)。それは完全な霊的期間であり、この間ずっと、肉に属するものはすべて取り除かれ、排除されます。なぜなら、パン種は肉の発酵であり、肉の働きであり、腐敗した肉の潜在的要素だからです。腐敗のもとはパン種であることを私たちは知っています。肉は腐敗しています。霊的生活の全期間にわたって、肉は取り除かれ、排除されなければなりません。私たちはローマ人への手紙六章に来なければなりません。そして、主イエスの十字架により肉の体は活動を停止したことを見なければなりません。その場所で、この肉は神によって取り除かれたことを私たちは認識します。主は肉を捨てることを要求されます。私たちは肉を拒否し、「肉が所を得てはならない」という肉に関する神の立場を受け入れなければなりません。これは、「決して肉という線に沿って誘惑されることはない」「決して肉の存在を意識することはない」ということではありません。そうではなく、「たとえ肉に触れられることがあっても、肉を拒否しなければならない」ということです。私たちはその立場を取り戻し、肉を拒否して言わなければなりません、「私は悔い改めて、それを戻します。これは腐敗していること、そして、これがすべてを腐敗させることを、私は認めます。私はそれを下ろして、追い出します。自分はそれに対して死んでいる、と私は勘定します」。過越の前の晩、ユダヤの家庭の父親は、ランプに明かりをともし、部屋から部屋へと家を行き巡り、すべての角や食器棚、通路から外れたすべての場所を調べて、パン種を見つけようとしました。そして、徹底的調査で見つかったパン種から家を掃き清めました。しかしそれでも、神の御前で父親は満足しませんでした。父親は宣言しました、「私は自分の家を調べて、見つかったパン種を取り除きました。しかし、私の徹底的な調査や検査をのがれたパン種がもしまだあるなら、私はそれをも拒否します」。

腐敗させる要素である肉を徹底的に拒否することが、種なしパンの祭りです。キリストのからだである教会の一体性は、私たちの罪を取り除くことだけでなく、私たちの肉を取り除くことをも要求します。天然の人は物事を腐敗させ、駄目にし、分裂させます。からだの一体性に反して働き、分裂を生じさせ、霊的一体性による主の民の積極的な霊的機能を覆すのは、肉の発酵であることを私たちは知っています。それをすべて行うのは肉です。ですから、すべての民が神にある自分たちのいのちの一体性を表すには、肉を拒否してパン種を取り除かなければなりません。嫉妬、ねたみ、個人的感情、利己的熱心、個人的怒り――私と他の人との間に影を落とす、原則や正義に基づかない個人的怒り――が少しでも芽生えるなら、それについてすぐに立ち返って、心を尽くして言わなければなりません、「これは間違いでした。私はそれを悔い改め、このパン種を抽出して取り除くことを求めます」。

私たちはみな、こうしなければなりません。私たちは依然として、狼狽やつまずきにあいやすい、この天然の命の中にあります。私たちは依然としてとても短気です。そうです、私たちはこれをとてもよく知っています!狼狽して当然と感じるかどうかは問題ではありません。問題は、自分の肉がその状況の中に入り込んだかどうかです。もし入り込んだのなら、それは私たちと他の人々との間に隔てを生じさせます。私たちは行って、自分に非があるその過ちを告白しなければなりません。「自分が行った悪以上に酷い目にあわされた」と言い訳ばかりしていてはいけません。また、それが悪いことだからといって、自分の悪を隠してばかりいてはいけません。私たちは戻って言わなければなりません、「私は自分がしたように応答するべきではありませんでした。善をもって悪に報いるための恵みを求めるべきでした」。私たち全員が常にそうするわけではありません。しかしそうしないなら、すぐに注意しないなら、私たちの間に隔てが生じるでしょう。

キリストのからだの団体的一体性は、ローマ人への手紙六章とコロサイ人への手紙二章十一~十二節にある、肉の体の割礼と除去という実際的事実に基づいています。死によるキリストとの一体化という原則を超えたものを持つことがいかに必要か、再びわかります。原則ではなく、原則の積極的働きが必要なのです。この原則はもしかすると、私たちをただ誤った立場に置くだけかもしれません。もしこの原則が適用されなければ、そうなるでしょう。過ちによって迷わされることがありえるように、真理によって迷わされることもありえます。とても多くの人が真理によって迷わされています。彼らは原則を持っており、教理を持っていますが、彼らにはそれがすべてです。原則の働きが必要であり、それがいのちとなることが必要なのですが、これを彼らは見ていません。イスラエルの団体生活はこの二番目のもの、すなわち肉の除去に基づいていたことがわかります。祭りの三番目は初穂の祭りです。

初穂の祭り

さて、これは真理の多くの面を含んでおり、いま述べようと思っていることよりも遙かに多くの結果を生じさせます。私たちは主要な点、第一の点、これらの祭りの他のすべてを支配している際立った点だけを取り上げることにします。初穂の祭りに来る時、あなたはまさに、代表者である主イエスの復活という大いなる真理に来ます。最初に実った実は、それに続くすべての実を代表します。初穂が全体を代表して取られます。祭司は最初に実った麦の穂を主のもとに持って行き、収穫全体のために主に感謝します。それは収穫の保証です。パウロがこれについて何と言っているのか、私たちは「コリント人への手紙」から知っています。主イエスは初穂であり、ご自身のパースンにより復活の中で教会を代表しておられます。「エペソ人への手紙」は「私たちは彼と共に復活させられた」と述べています。私たちはキリストと共に葬られました。すなわち、古い人は取り除かれました。今、私たちはキリストと共に復活させられています。キリストの肢体たちの真の一体性、キリストのからだの一体性は、復活による主イエスとの合一に対する、その生ける証しによります。一粒の麦の単純で有名なささやかなたとえ話の中で、彼がこの原則をどのように確立されたのか、私たちは知っています。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、死ねば多くの実を結びます」(ヨハネによる福音書十二章二四節)。ここに百倍の増殖があることがわかります。一粒の麦が死んで、生ける百粒の麦という結果になります。これはキリストの死を経過した、キリストにある復活の団体性です。

ああ、私たちはキリストのからだとして、その実際の力の中に入らなければなりません。私たちはキリストと共にキリストの復活の様の中に植えられました。そして、キリストの復活の力が私たちの内に働いています。この事実の中に経験的に生き生きと真に入り始める時、何という交わりの感覚があることでしょう。私たちの関係に何という変化があることでしょう。自分たちの内に働く復活のいのちの力を知るとき、私たちは何という交わりを持つことでしょう。死に勝利するいのち、私たちの内に働いているもの、経験の相互性を、私たちが互いに幾らかでも知るとき、この相互性は価値を持つようになります。それはすでに天上における証しであり、死と暗闇の勢力に対して働いているのです。

キリストのからだの中には次の事実に対する証しが造り込まれています。すなわち、悪魔の力は打ち砕かれており、キリストは死を征服して勝利のうちに死を飲み尽くされた、という事実です(コリント人への第一の手紙十五章五四節、ホセア書十三章十四節)。霊の領域でこれを経験的に知らない限り、物質の領域でもこれを知ることはないでしょう。神の順序では、物質的なものが霊的なものに続きます。霊の中で復活をすでに知っているのでなければ、決して永遠のいのちに至る体の復活を知ることはないでしょう。教会の活動と機能の存立基盤そのものを構成しているのは、実際の力です。からだの一体性という事実の中に入るには、復活の力の経験の中に入らなければなりません。四番目は贖いの日です。

贖いの日

他のすべての祭りと同じように、多くの原則が含まれています。しかし、一つの原則が支配しています。主は言われます、「これはあなたたちの安息日である。何の働きもしてはならない」。これは主の民が共に集まって安息に入る祭り、贖いの日です。さて、他の要素はすべておくことにして、この時点で登場する安息日の意義に注意することにしましょう。安息日の確立と共に、諸々の祭りがすでに導入されています。ここでは安息日の休みが、贖いの日に関する特別で独特な特定の箇所に登場します。これは私たちに次のことを告げます。すなわち、私たちは三つの根拠に基づいて安息の中に入るのです。第一は、契約による神との合一です。これは死に勝利するいのちによってであり、流されて振り注がれた血によります。第二は、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたことであり、肉の体が取り除かれたことです。第三は、復活したキリストとの合一であり、キリストの復活の力を私たちが知るようになったことです。私たちは安息の中に入ります。私たちの働きは終わり、私たちは神の安息日、神の安息の中に入ります。私たちはもはや目標達成のためにもがきません。すでに目標に達しています。神を満足させようとする奮闘はやみます。神は満足しておられます。神は全き満足をもってご自身のわざをご覧になります。私たちは神の満足の中に入ります。

この贖いの日は、主イエスの贖いと、神の御前にある恵みの御座の上に振り注がれたその血の贖いの価値を表しています。この贖いの日に、神の願いや要求はすべてかなえられます。そして、神は安息し、御子に完全に満足されます。すべてはなされ、完了しました。主イエスの完全な達成により、その血を通して、神は安息されます。もはや奮闘はありません。この事実の証しとして、この血は神の御前にもたらされます。主イエスの完全な贖いの働きを理解する時、私たちは安息しなければなりません。神を満足させるための悩ましい配慮は、すべて取り除かれなければなりません。そして、キリストが私たちのために御父の御前ですべての必要を満たしてくださることを知らなければなりません。

漸進的聖化についてはどうでしょう?それに関して私たちの内側になされるべきことは何もないのでしょうか?あります。しかし、土台が完全に据えられない限り、あなたは決して完成や聖潔に向かって漸進的に進むことはできません。その土台とは、主イエスは御父の満足のために、すべてを私たちのためにささげられた、ということです。キリストは私たちのためにすでにこの働きをすべて成就してくださいました。私たちを聖化するための彼の働きに付け加えられるものは何もありません。この根拠に基づいて、私たちは恵みにより成長するのです。

ルターは任務を帯びてローマに遣わされました。彼はその都と特別な懺悔の場所を訪問することを熱望していました。それは、その階段を手と膝をついて登ることにより、特別な恩恵と罪の赦しなどを得るためでした。「この恐ろしい苦行を自分に課せば、義とされて安息を得るだろう」と彼は考えたのです。彼は登り始めました。登るのが大変になってきた時、何かが「義人は信仰によって生きる」と言いました。彼は再び進みました。すると、あの声が再び、「義人は信仰によって生きる」と言いました。彼はさらに階段を登りました。すると、また声がして、一つの単語を強調しました、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書二章四節、ローマ人への手紙一章十七節、ガラテヤ人への手紙三章十一節、ヘブル人への手紙十章三八節)。これが彼を回心に導き、行いによる義というローマの体系全体を放棄するよう彼を導いたのです。

「義人は信仰によって生きる」。大事なのは私たちの信仰それ自体ではなく、私たちの信仰の対象である主イエスの御業です。私たちは自分の信仰の度量をあまりにも重んじますが、大切なのは私たちの信仰の対象です。この対象――キリストと、私たちのためのキリストの完全な御業――に自分の信仰を結びつける時、私たちは安息の中に入ります。私たちはもはや、手と膝をついて石段を登ったりしません。これは主の民の団体生活にとって基本的なことです。不安、混乱、不満足の要素は去っていきます。そして、私たちは神との平和を持ちます。調和を得ます。なぜなら、調和は平和の別の言葉にほかならないからです。これが安息です。聖書の中の平和とは、何らかの雰囲気のことではなく、完全な調和の内にすべての要素が互いに適切に調整されていることです。

祭りの最後は仮庵の祭りです。

仮庵の祭り

これらの祭りの順序は何と適切なのでしょう。仮庵の祭りに来る時、これらの祭りの順序がいかに正しいのかがわかります。集会の間、人々は自分の家を離れ、外に出て、行って木の枝を切り落とし、庵を造るよう命じられます。祭りの期間中、人々は自分の家の外のこれらの庵の中に住みます。これは団体行動です。旧約聖書中の仮庵の祭りをネヘミヤ記に至るまで辿るなら、それは過去を指し示すことがわかります。仮庵の祭りが回復されたレムナントの場合、その回復とイスラエルのエジプト脱出との間に、明確な関連付けがなされています(レビ記二三章四二~四三節)。

この仮庵の祭りはイスラエルのエジプト脱出の記憶を永遠に保つためである、と述べられています。しかし、イスラエルがエジプトを出た時、仮庵の祭りは設立されていませんでした。仮庵の祭りは、出エジプトの記憶をながらえさせるための手段です。彼らは石の家――地と直接関係しています――を出て、荒野の中に入りました。荒野では、地的なものは何もなく、すべてが天的でした。大祭司の青い衣と、老若男女の衣の裾の同じ青は、天の象徴でした。ですから、天的性質がこれらの民の特徴だったのです。彼らはこの地上に属していませんでした。彼らは神のために天上に向かって出て行きました。仮庵の祭りは、神の民の天的性質を物語っています。

愛する人よ、これがキリストのからだである教会の重要な基本的要素です。これまで述べてきたように、神はこの経綸時代、この地上に何かを構築するようなことを公に何もなさっていません。しかし人々は、神のために何かをこの地上に設立するため、懸命に努力しています。

このキリスト教時代の二世紀の終わり頃、おそらくそれよりも前に、あるものが入り込みました。ある手段や方法が採用されました。それらの手段や方法は、教会をこの地上のものにするためのものであり、教会をこの世の勢力として組織するためのものでした。また、教会を人々に訴えるような形に、この世の人々に感銘を与えるような形にするためのものでした。それは、この世が教会を重んじるようになって、「教会は一大勢力であり、無視できないものである」と言うようになるためでした。これがこの経綸全体にわたって進展してきたことであり、神の原則を絶えず徹底的に破ってきたのです。神が行っておられるのは、天的な教会、天上のからだの建造です。神の教会は目に見えるものではなく、目に見えないものです。それは人目に触れない民であり、霊的です。世はこれを知りません――世は彼を知りませんでした(ヨハネによる福音書一章十節)。

これが私たちの一体性の基礎です。この地上に何かを設立しようとする傾向が生じるやいなや、分裂が生じます。それがどれだけ霊的かは関係ありません。地に触れるやいなや、分裂が生じるのです。神からの最も麗しい動き、天からの神の真の動きといえども、それが人の手に渡って地上のものになるやいなや、分裂が生じ、さらに多くの分派が生じます。

唯一安全なのは、地から離れていることです。唯一の安全は、神のなさっていることを悟ることです。この世には証しがあるでしょう。しかし、世に証しがあることと、世に組織があることとは別のことです。

この地上に何かを設立しようとする動きに、主はまったく同意されません。主は来たるべき時代にはそうなさるでしょうが、この時代にはなさいません。この地上に何かを設立する形で私たちが物事を行うなら、たとえそれが神のためだったとしても、やがて主は私たちがその責任を負うようにされるでしょう。主はその責任を負ってくださらないでしょう。主は、この時代におけるご自身の御心にしたがっているもの、すなわち絶対的に天的なものについては、すべて責任を負ってくださるでしょう。