さて先に進んで、教会の団体生活の性質について考えることにします。最初に、一、二のごく初歩的な事実に注目したいと思います。それらの事実は初歩的であるにもかかわらず、主に対して霊的に生きている人々に対して、常に新鮮な意味を伝えます。一つ目の単純な真理は、「キリストのからだ」という用語や名称は、使徒パウロに独特のものであるということです。パウロ以前の時代や、パウロの手紙以外の聖書の箇所には、教会の他の名称が見つかります。しかし、「キリストのからだ」、「からだ」、「彼のからだである教会」という名称はパウロ独特のものです。教会は全く新しい概念というわけではありませんでした。主の民はこの名称をよく知っていました。主イエスはご自身の教会について使徒たちに話されました。それには何ら新しい点はありませんでした。しかし、この教会を「キリストのからだ」として述べる時、それは全く新しい観念、新しい考え、新しい概念であり、それと共に教会の性質を全く新しく表現しています。それがとても強力にはっきりと強調しているのは、教会は神から見るとたんなる共同体ではないということです。教会は会衆ではありません。教会は宗派や超宗派ではなく、非宗派ですらありません。
「教会」という用語を用いる時、あなたは教会をクリスチャンの民の共同体、クリスチャン社会、キリストに属する事柄に相互に関心を寄せている地上の人々の群れと思うかもしれません。しかし、この名称は物事を全く別の領域にもたらします。それは体です。人々の団体ではなく、人の肉体によって表され、説明されているものです。教会はキリストの肉体である、と言うつもりはありません。どうか誤解しないでください。しかし、人のこの肉体が教会が何であるかの説明に用いられています。(キリストはなおもご自身の個人的な単独の体、栄光の霊の体を持っておられます。)
各地の「からだ」のようなものは存在しない
さて、キリストのからだの真理のもう一つの要素は、各地のからだのようなものは存在しないということです。各地の教会や各地の集会はありますが、各地のからだのようなものはありません。これは少なくとも一つの節――コリント人への第一の手紙十二章二七節――で明らかにされています。ただし、この節は適切に訳される必要があります。不幸なことに、英訳聖書の中には、「あなたたちはキリストのそのからだなのです(Ye are the body of Christ.)」と訳しているものがあります。しかし、ギリシャ語には冠詞がついておらず、「あなたたちはキリストのそのからだなのです(Ye are the body of Christ)」ではなく、「あなたたちはキリストのからだなのです(Ye are Christ's body)」と言っています。これは各地の集会に全く新しい様相を与えます。コリントの地元の信者の群れに対して語られたこの言葉は、部分が全体を暗示すること、各地の群れが全体を代表すること、からだ全体がその地の群れによって表されることを、きわめて明確に示しています。さて、各地の集会や各地の教会の場合とは異なり、キリストのからだをそのように局所化することはできません。つまり、肉体の多くの肢体を切り離して隅に集め、それを体と呼ぶことはできないのです。キリストの肢体たちが居る所ではどこでも、彼らはキリストのからだ全体を暗示・代表します。主の御心は、各地の教会がからだ全体の生ける表現となること、キリストのからだ全体の小宇宙となることです。からだ全体に言えることは、各地にも言えなければなりません。なぜなら、各地の教会は分離した群れ、孤立した別々の集会ではないからです。暗示として、からだ全体がそこにあります。それは――あなたに理解できるかどうかにはよらず――キリストのからだの偉大な要素や要因をすべて含んでいるのです。
これがとても明確に示しているのは次のことです。すなわち、神の御思いにおいては、局所的、部門的、分離した独立のものは何もないのです。神の御思いにおいては、彼の教会と関係があるものはみな、普遍的であり、関連しており、互いに依存し合っています。教会は一つです。つまり、あなたは他の信者たちと密接に関係しているがゆえに、暗示上、実効上、性質上、キリストのからだなのです。これは、神の御思いにおいては、部分は全体であり、全体として見なされるべきことを、きわめて強く示しています。これを次のように述べることにしましょう。
私たちは、この都市のこの区画のこの場所にいます。私たちは主の民の群れであり、キリストのからだ全体がここのこの群れと密接に関係しています。私たちは個別の分かれた群れ、独立した集会ではありません。私たちは、この全世界のキリストのからだの他のすべての肢体との、生ける機能的な霊的合一の中にあります。彼らがどこにいたとしてもそうです。フランス、スイス、ドイツ、ポーランド、アメリカ、アフリカ、中国など、彼らはみな、キリストのからだの絆によってここにおり、私たちの集まりの中に含まれているのです。私たちは今、これをもっとよく見なければなりません。しかし、ひとたびこの原則を霊的に理解するなら、私たちは自分の宇宙的務めの道に踏み出したことになります。私たちが集まる時はいつでも、たとえ二人または三人でも、からだ全体が天で私たちと共に集まり、私たちが共に集まることによって影響を受けます。途方もないことですが、神の子供の二人または三人が、かしらとの生ける接触の中で、どこでも一つの場所に集まるなら、キリストのからだ全体に影響を及ぼしますし、及ぼすことができるのです。たとえ何百万人いたとしても、すべての肢体が実効上キリストのからだなのです。
さて、あなたはこれをどう受けとめるでしょう?これはあなたに届いているでしょうか?それとも、あなたはこれをよく知っていて、「自分はこれについてすべて知っている」と仰るのでしょうか?これをしばしば強調することが必要です。
からだ――キリストを補うもの
さてさらに、からだである教会はキリストを補うものであり、キリストの豊満です。教会は万物のかしらであるキリストに結ばれており、キリストを補うもの、キリストの完成、キリストの豊満です。ご存じのようにエペソ人への手紙では、からだである教会は「すべての中ですべてを満たしている方の豊満」です。教会はキリストの豊満であると述べられています。教会は万物のかしらであるキリストに結ばれています。説明しましょう。からだの真理の原則は御言葉のまさに最初から含まれています――とはいえ、それは啓示されておらず、諸々の時代や世代にわたって依然として奥義のままでした。からだの真理が特別に示されたり、述べられたりすることは決してありませんでしたが、それは存在しています。真理は永遠です。まさに最初から、アダムとエバの事例が、からだの真理を表明し、説明しています。女は男から取られ、次に男のもとに導かれ、男を完成します。これが教会であり、キリストのからだです。教会はキリストから取られ、次にキリストのもとに導かれ、キリストを完成します。教会はキリストの完成です。教会はキリストに結ばれており、キリストを補ってキリストの豊満に至ります。「男が女のかしらであるように、キリストは教会のかしらです」。教会は万物のかしらであるキリストに結ばれています。その実際的作用のゆえに、今再びこれを取り上げることにします。
さらに注目しましょう。主の御言葉が啓示しているように、教会は神の御心においてはいつでも完全です。神の御言葉では、これは決して過去、現在、将来という時制で扱われていません。神の御心においては、教会は常に現在時制で完全なのです。主は完全になる時の教会について決して話されません。主は教会の将来の完成について決して話されません。「からだ全体」といった句があります。これがいま示しているのは、パウロの時代、彼がこの句を書いた時、からだは完全だったということです。彼は今、からだ全体について述べているのです。彼は自分の時代に、「からだ全体が適切に組み合わされ」と語りました。キリストのからだを構成していたのはパウロの時代の聖徒たちだけだったのでしょうか?それともそうではなく、パウロの時代以降の信者たちも含んでいたのでしょうか?あなたはどちらかを選ばなければなりません。これらの言葉で聖霊が示しておられる神の御心によると、からだは常に完全である、というこの結論にあなたは達しなければなりません。これは「永遠の時の前に」というエペソ書の御言葉にあなたを連れ戻します。永遠の時の前に、神は御心の中でからだを完成されました。「神はあらかじめ知っていた者たちを、あらかじめ定められました」。永遠の過去、教会は完全でした。そして、その完全性は神の御心の中にいついかなる時も存在しているのです。
次に進んで、からだはキリストを展覧するためであることに注目することにします。人が体を通して自分を表現するように、キリストもご自身のからだを通してご自身を表現されます。からだの主要な包括的機能は、キリストを展覧することです。
聖霊:からだを一つにする要素
さて、キリストのからだの中にある、一つにする偉大な要素についてです。キリストのからだの中にある、この一つにする要素とは何でしょう?提示されたある真理を互いに受け入れあうことではありません。それはキリストのからだを構成するものではありません。ある教理を信じることに全員が同意することでもありません。キリストのからだを一つにする要素は聖霊です。「私たちはみな、一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされました」(コリント人への第一の手紙十二章十三節)。「一つからだと一つ霊」(エペソ人への手紙四章四節)。私たちはみな、個人的に霊を持っています。分離した霊を持っています。キリストのからだには一つの御霊しかありません。これがからだを一つにする要素です。
さて、これから多くの実際的結果が生じることが、直ちにはっきりとわかります。例えば、聖霊を受ける必要性です。これがとても初歩的であることは承知しています。しかし、これは基本的事実です。私たちの「教会人精神」はこの真理に基づいて試されます。私たちは聖霊を受けたでしょうか?しかし、この事実だけでは十分ではなく、その機能が必要です。からだが機能するには、肢体が聖霊を受けるだけでなく、聖霊が各肢体の中で全き地位を得ることが必要です。全き地位です!御霊が全き地位を得、各肢体の中で彼に全き地位が与えられる時だけ、からだは機能できます。
さて、新約聖書の配列を見ると、歴史的順序ではなく霊的順序がとてもはっきりと示されています。ローマ書はコリント書に先立ち、コリント書はエペソ書に先立ちます。そうでなければならないのです。ローマ書は、特に天然の人を取り去るために十字架を導入します。コリント書の目的、強調点、特徴は、絶対的主権を持つキリストの地位です。コリントのあらゆる問題は、主イエスが主権的かしらとしての地位、主としての地位になかったためでした。それで使徒は、「私たちはキリスト・イエスを主として宣べ伝えます」と言ったのです。彼らは人――パウロ、アポロ、ペテロ――を主とし、人を主イエスの地位に置いていました。彼らはさまざまな事柄を主イエスの地位に置いていました。霊の賜物ですら、そうしていたのです。彼らは、絶対的な主権的かしらとしての正当な地位を、彼に与えていませんでした。そのために手紙が書かれたのです。ローマ書は天然の人を取り去り、コリント書はキリストを主としての地位に置きます。それから、エペソ書が来ることができます。この二つの原則――天然の人の除去と、主イエスが主として確立されること――に基づいて、この二重の基礎に基づいて、からだが示され、機能します。
天然の人が除かれないかぎり、キリストのからだは表現されません。天然の人が何らかの形で少しでも現れるなら、それはキリストのからだ全体を乱して、聖霊の主権に対して積極的に敵対することになります。キリストのからだが主の御思いどおりのものになるには、肉がキリストのからだの中に所を得てはなりません。キリストのからだが機能するには、主イエスがすべての信者に対して絶対的に主とならなければなりません。
ですから、これが順序です。次に、愛する人たち、彼の知恵により、これに続いてコロサイ書によって、再び御霊の知恵が啓示されます。歴史的にはコロサイ書はエペソ書の前に書かれましたが、霊的にはエペソ書の後に来ます。コロサイ書はキリストにある完全な嗣業です。神の豊かさがキリストに与えられています。キリストは神の豊かさ全体の総計です。コロサイ書は新約聖書の中でヨシュア記に対応します。キリストは嗣業です。キリストは乳と蜜の流れる約束の地であり、豊富な豊かな地です。キリストはそのすべてです。キリストが主となって、肉や天然の人は除かれました。この根拠に基づいて、あなたはからだとしてキリストの豊富の中に入ります。これがキリストのからだの性質です。これらの法則を今日適用するなら、あなたはエペソ書に記されているものの生ける表現を得るでしょう。エペソ書に記されているもの――天で力強く機能するからだ――を私たちは今日全く持っていないこと、あるいは少ししか持っていないことの原因は、天然の人が除かれていないためであり、キリストが絶対的な主としての地位にないためなのです。
ですから、キリストのからだである教会にとって、そしてキリストのからだの啓示にとって、基本的な第一の点は十字架の実際的働きです。ローマ書、特にローマ六章を見ないかぎり、十字架の啓示が私たちに示されないかぎり、私たちは決してキリストのからだを見るよう主に導かれることはないでしょう。私が言わんとしているのは、十字架の原則の提示ではなく、十字架の啓示です。さて、きわめて多くの事例から、これはおそらく証明済みです。
私自身について言うと、私は何年もローマ六章を宣べ伝えていました。私は十字架の完全なメッセージを、真理として、御言葉として、何年も宣べ伝えました。当時宣べ伝えた十字架の教理には、何の問題もありませんでした。しかし当時、十字架の実際的適用はありませんでした。そして時が来て、主は私をローマ六章の意味に直面させられたのです。その実際の意味に直面した時、私はまるでローマ六章について何もわかっていないかのように思われました。なぜなら、それはあまりにも過激で恐ろしかったため、私を打ち倒してほふらんばかりになったからです。十字架の教理と十字架の適用との間には、こんなにも違いがあるのです。これが済んで内側に造り込まれた時、主が私たちを――罪人としてだけでなく、人としても――キリストの死の中に含めておられたことを、私たちは見るようになりました。私たちの天然的な能力、天然的な才能、福音を宣べ伝える才能(宣べ伝えるための天然的な才能)でさえも、すべてキリストの死の中に一緒に含まれていたのです。また、キリスト教の奉仕の中で、私たちが資源――知的分野や他の各分野に及ぶ全分野の資源――として用いてきたものが、すべてキリストの死の中に一緒に含まれていたのです。主は私たちを導いて、キリストの死の中にすべてが含まれていたことを見せてくださいました。また、新創造ではすべてが主ご自身から出ていなければならないことも見せてくださいました(「私は自分からは何もしません」(ヨハネによる福音書五章十九節)と主ご自身が言われたように、これが主の僕の法則です。今や、すべては神から発しなければなりません。あらゆることで神に全く頼る生活です)。これが実際的方法で適用された時、それは恐るべき大変革でした。一時の間、それはすべてに対する死であり、終結だったのです。
さて、これは私たちの経験にしたがっています。しかし、これが起きた時、これが原則的に確立された時――その後、もはや十字架の適用がなくなったわけではありません。なぜなら、十字架は常に適用され続けるからです――主がそれを刻印して、天然の人を締め出しておく必要性を私たちが常に覚えるようになった時、その後しばらくしてから、主はからだの偉大な真理を私たちに啓示され始めました。私たちはキリストのからだである教会について何年も宣べ伝えていましたし、超宗派的精神と心構えで、すべての信者を一つの教会、一つの大いなる霊的社会の一員と見なしていました。私たちはエペソ書を徹底的に学んでいました。しかし、これが天からの啓示として開かれ始めた時、自分たちはまるで何もわかっていないかのように思われたのです。その実際的影響は凄まじく、再び別の変革を生じさせるほどでした。なぜなら、以前なら決して実際的問題を引き起こさなかったその教えが、今やある領域で実際的問題を引き起こし始めたからです。
例えば、啓示とは別の教えでは宗派の問題は全く生じませんでした。しかし、啓示が来た時、宗派主義者ではいられないことがわかりました。ある心構えを身につけたということではなく、あらゆる宗派の外側にある霊的立場の中に入ったのです。宗派の外にいるのに、その中に居続けるのは、矛盾することでした。私は説明しているのであって、これをあなたに教えとして押しつけているのではありません。また、「キリストのからだの教えは、宗派を去ることをあなたに要求する」と言っているのでもありません。啓示はあなたを別の立場にもたらすかもしれません。しかし、たんなる教理に基づいて、あるいは私の話のために、動くことはしないでください。とどまれなくなるような啓示を得ないかぎり、今いるところにとどまってください。啓示は実際的問題を引き起こしますが、教理はそれと同じ形でそうすることはないかもしれません。天然的知性による聖書真理の理解を超えたものが必要です。なぜなら、多くの人が多くの異なる見解を持っているからです。
キリストのからだの基盤は十字架の啓示と適用です。なぜなら、肉に属する天然の人が除去され、取り去られ、打たれる時、キリストのからだを真に霊的に理解する道が敷かれるからです。というのは、天然の人がいると、キリストのからだは存在することも、機能することもできないからです。これがキリストのからだの性質です。天然の人は全く排除されます。ですから、もう一度言いましょう。からだの啓示は十字架の啓示と適用に基づきます。その後、からだは聖霊が働かれる領域になります。コリント人への第一の手紙十二章に、「御旨のままに」というささやかな句があります。聖霊は御旨のままに任命し、賜物を与え、装備されます。これは完全な自由、聖霊の無制限の自由を意味します。聖霊が制限されるとき、それに応じてからだも制限され、神の召命の実現と神が定められた存在目的の成就も制限されます。聖霊が無制限の自由を得る時だけ、からだの正当な表現、正当な機能と働きが生じます。なぜなら、からだは聖霊の働きの領域だからです。
これまで見てきたように、キリストはからだのかしらであり、聖霊の働きの領域はからだの中にあります。さて、よく知られている例を肉体からあげると、周知のように、この肉体のすべての部分、すべての機能は、頭と密接に関係しており、頭と連携して働きます。ただし、これはもちろん、体が正常な状態の場合です。この複雑な体の組織全体にわたって、神経網が張り巡らされています。これは途方もない包括的組織であり、私たちの体の一点一点を徹底的に頭に連結します。ですから、自分の手足の指の痛みを頭に感じるのです。頭を切り離すなら、自分の手足の指をどれほど傷つけても、それを感じないでしょう!すべてが頭の中に自分の場所を持っています。肢体の感覚はすべて、頭の中に刻み込まれます。脳の組織全体が解明されれば、針を取って脳の任意の部分を刺すことにより、体の任意の肢体の機能を停止させ、他の部分はそのままにしておくこともできるでしょう。この組織を解明すれば、脳のある部分に針を刺して、手足の機能を停止させ、他の肢体は機能させ続けることができるでしょう。驚くべきことに、体全体が頭に集約されているのです。キリストはからだのかしらです。すべての肢体がかしらに結ばれており、かしらによって意識されています。すべての肢体は、かしらとの関係のゆえに、自分の意識を持っており、霊的に意識を持っています。これが、「私たちはキリストの思いを持っています」(コリント人への第一の手紙二章十六節b)というパウロの言葉の意味です。
しかし、この神経組織とは何でしょう?それは聖霊です。聖霊はからだ全体の霊的神経組織であり、すべてをかしらに連結します。聖霊はからだの意識であり、かしらの判断や決定といった反応をかしらから伝えます。聖霊は、各肢体に関するいっさいのことをかしらに伝えて、からだとかしらを一つの完全なまとまりにする御方です。聖霊は、からだ全体に張り巡らされた神経組織です。さて、聖霊がある肢体によって捕らわれ、妨げられ、傷つけられるなら、からだの機能の完全性は直ちに阻害され、妨害されます。これが、「各地の教会は実効上全体である」と冒頭で述べた理由です。愛する人たち、たとえば私たちがここで聖霊を妨げたり、捕らえたりして、ここのこの肢体の聖霊との関係が傷つけられるなら、からだ全体がその影響を受けることになります。たとえば、もしここで祈りに関して聖霊が妨げを受けるなら、からだ全体がそのことで苦しむことになります。地元の群れだけでなく、からだ全体が苦しむのです。他方、もしここで聖霊が完全な道を得るなら、からだ全体がその恩恵を受けることになります。このからだは普遍的なものです。そして、その普遍性は各地の群れの中に集約されており、全体がそこにあります。私たちのこの体は、正常な状態にある時、一つの肢体が残りの肢体にどれほど影響を及ぼすことでしょう!歯が痛む時、体のすべての部分がそれと共に苦しみます。この歯茎の腫れがすぐにあなたの体全体を巻き込むことになります!これは事実です。体の一部が突然やけどをするなら、たとえそれがほんのわずかだったとしても、あなたの体全体がそれと共に身震いするのです。
神の御言葉のこのからだの描写はなんと真実なのでしょう!「一つの肢体が苦しむなら、すべての肢体がそれと共に苦しみます」(コリント人への第一の手紙十二章二六節)。しかし、これは地上のことではありません。天然の命に関するかぎり、私が大いに苦しんでいたとしても、あなたはそれについて何も知らないかもしれません。あなたはその影響を受けません。しかし、愛する人よ、一つの肢体が霊的に苦しむなら、からだ全体がその苦しみに巻き込まれる領域があるのです。これは、からだは天的なものであり、その関係は天然的ではなく霊的であること、そして一つにする聖霊の要素は天然の意識とは別に働くことを示しています。あなたはこれを理解されたでしょうか?もし私たちが個人的な祈りを無視するなら、主は遠方のご自身のからだの中で何かを失われます――世界の反対側にいる主の子供たちが、私たちの振る舞いによって影響を受けます。天然の意識はそれを感じませんが、聖霊はご存じです。
しかし、なぜいつも消極面を取り上げるのでしょう?なぜ積極面を取り上げないのでしょう?聖霊の真のいのちを保つことは常に、私たちがそれに気づいていようといまいと、キリストのからだ全体の益になります。私たちは自分に生きるのでも、自分に死ぬのでもありません(ローマ人への手紙十四章七節)。真の証しを保つことは、たとえ他の信者がその戦いについて何も知らない場所だったとしても――それは家庭や職場かもしれません――あるいはキリストの肢体である他の信者たちと物理的に接触できない場所だったとしても、それでもそこで忠実に証しを保つことは、からだのこの領域である天上でからだ全体に対して果たす偉大な奉仕なのです。これが、家庭や職場における証しを可能なかぎり損なうことを敵が好む理由です。なぜなら、影響を被るのはその場の状況だけでなく、敵はかしらそのものであるキリストに普遍的打撃を与えられるからです。証しは、私たちが公の集会で維持しようとするものではなく、私たちの家庭生活や職場生活に関わるものなのです。
「からだ」の中に反映される天的関係
これは私たちを再びエペソ人への手紙に連れ戻します。信者たちの関係はすべて、一つからだの原則に基づかなければなりません。これは天上から地上に降りてきて、「夫は妻を愛しなさい」といった教えを取り入れることではありません。これは地上に降りることではなく、信者たちの関係は一つからだの原則に基づかなければならないということです。私が夫なら、妻に対する私の姿勢、関係、振る舞いは、人間的根拠に基づいていてはなりません。天然的権益だけでなく普遍的権益も関係していることを覚えつつ、キリストのからだの肢体仲間として接しなければならないのです。からだ全体が私たちの関係と密接に関係しています。よくご存じのように、これは真実です。神の子供である夫たちや妻たちの間に霊的な欠陥が生じるなら、それは主の証しに大きな害を及ぼしますし、主ご自身にも大きな害が及びます。そして敵に利用されて、その家庭の局所的状況を超えた、とても有害な霊的要因になります。それは霊の領域に有害な影響を及ぼします。他のすべての関係――主人に対する僕の関係、女主人に対する女中の関係――も同じです。これはクリスチャンらしい良い方法で地上で奉仕し、賃金を稼いで、善良なクリスチャンになることだけではありません。これは地上のことだけではなく、主人や女主人をキリストの肢体仲間と見なすことでもあるのです。主人や女主人に対するように彼らに接するのではなく、彼らに対する自分の奉仕と密接に関係しているのは、キリストのからだ全体であることを悟る必要があるのです。
パウロは主人と僕、女主人と女中の関係の中に、原則的にからだ全体を含めています。その影響はきわめて明白だと思います。主人、女主人、僕という関係にある信者たちの間に、何らかの緊張関係が生じたとしましょう。愛する人よ、それはその場を遙かに超えて、それよりもずっと広い領域に至り、主の権益に影響を及ぼすのです。
これをキリストのからだの公然の法則として私たちが悟ってさえいれば!これは害を及ぼしているかどうかの問題ではなく、主がそう述べておられるかどうかの問題です。ここで主が何にもまして明確に述べておられるように、これらの関係はその作用圏内のみに限定されているのではなく、この天のからだの広大な宇宙的広がりにまで及んでおり、キリストのからだ全体がそれらの関係の間に生じるこれらの緊張によって霊的に影響されるのです。
私たちの諸々の関係を高い水準に保つこと――これが何と関係しているのか、そしてその動機が何か、おわかりになるでしょう。これらの関係にある人々の間に、これらの聖徒たちの間に、緊張、目的の食い違い、行き違い、憤怒や混乱が生じ、この真の愛に破れ目が生じるなら、「これは不幸な悲劇的出来事です」という姿勢を取るだけでは不十分です。それを回復するのが早ければ早いほど良いのです。私たちの取るべき姿勢は、「霊的な知的存在たちの領域で、これはキリストの栄光に反して作用しています。これはかしらであるキリストに反して作用しています。なぜなら、これらの関係はみな、かしらと密接に結ばれているからです」「これはからだ全体を一つにする要素である聖霊に反して作用しており、害を及ぼしています」というものでなければなりません。私たちが聖霊によってすべての肢体と密接に関係している以上、だれかが行うことは何らかの形で、私たちの理解や意識を全く超えて、キリストに触れ、聖霊に触れ、したがって他のすべての肢体に触れるにちがいありません。実際、触れているのです。これがここで啓示されていることであり、からだの性質です。なぜこれらの関係に注意を払って、地から引き上げなければならないのか、おわかりになるでしょう。これはもっと考慮すべきことだと思います。
関連性はキリストのからだの法則です。関連性はかしらをしっかりと握ることです。キリストのからだの一体性を水平線上で保とうとすることに用心しましょう。そうすることはできません。それには望みがありません。私たちは絶えず駆け回って謝ることになるでしょう。水平線上では、そうすることはできません。しかし、かしらをしっかりと握るなら、私たちには互いに引力が働いていることがわかるでしょう。完全かつ徹底的にキリストに地位を与えるなら、他の信者と目的が食い違うことはありえません。キリストがご自身の地位につかなければなりません。それは、私たちがすべてをキリストのために行うようになるためです。このような姿勢を取るなら、他の信者に不満を持ち続けることはありえません。かしらをしっかりと握り、すべてを彼のために行うには、私たちの諸々の関係を調整して、それを実現することが必要です。心を尽くして主を愛するなら、主のものである人を愛さずにはいられません。そうしないことは矛盾です。ですから、からだの一体性は第一に、私たちがかしらをしっかりと握ることを要求します。
御霊の自由
からだとその務めを実現するには、私たちの間に御霊の自由がなければなりません。私は実際的な諸問題を扱うことにします。聖霊が完全に機能するには、人の組織、教会行政、そのような人の支配から絶対的に自由でなければなりません。偏狭な宗教組織、教会支配、教会の人間的組織――そこでは、言うことがあってもなくても、給料を受け取っている以上、毎回頻繁に説教しなければなりません――の中に陥ることは、絶対的に聖霊に反しています。それは聖霊の原則ではありません。御霊が自由に機能して、私たちが聖霊の中で務めをするには、私たちはそのようないっさいのものから絶対的に自由でなければなりません。
これが御霊の原則です。ユダヤ人とその指導者たちが使徒パウロに反対したのはこのためです。パウロは言いました、「ある人々が私たちの自由をうかがうために忍び込んできました」(ガラテヤ人への手紙二章四節)。その自由とは何だったのでしょう?彼は律法とユダヤの体系のくびきを投げ捨てて、キリストのからだの普遍的領域の中で働いていました。彼は異邦人とユダヤ人の領域で同じように働いていました。彼はキリストにある自由を持っていたのです。伝統、体系、地上の宗教組織といったすべてのくびきから彼は自由でした。それは聖霊の導きのままに、啓示の務めを果たすためでした。これがキリストのからだには必要不可欠です。つまり、キリストのからだである教会を組織しようとすること、そしてそのための計画を立てて聖霊に渡し、「どうか議長席に着いて私たちの計画を遂行してもらえないでしょうか?」と言うことは(非礼と思われることは承知していますが、そのつもりはありません)、ここで啓示されている原則に全く反するのです。
キリストのからだは地的組織から自由です。機能するには、そうでなければなりません。これは、ある真理を握ったので、地的組織を捨てることではありません。そうではなく、解放してもらうことなのです。教会の中には、霊的な統治や服従の占めるべき正当な地位があります。「自由契約」の原則は、官僚主義と同じくらい間違っています。
しかし、私は話を終えなければなりません。次の点を述べて終わることにします。私たちは教会の会員資格を得ることはできませんし、キリストのからだの中で教会の働きを得ることもできません。「教会の働きを得よう」と人々が言うのを、私たちはこれまで聞いてきました。そのような考えは、キリストのからだの真理とは全く無縁です。私たちはキリストのからだに加わることはできません。再び肉体を例に取りましょう。だれか他の人の手や腕を持ってきて、「これを私の体に加えよう」と言うのは、なんと滑稽でしょう!それは馬鹿げています。これは教会であって、私たちはその中に水平に入ることはできません。天からその中に入らなければなりません。私たちは誕生によってその中に入らなければなりません。賛同や付加によってではありません。これがからだの成長の法則です。それは誕生によってであり、天上からです。そして、この関係、キリストのからだの肢体たる資格に言えることは、務め、働きにも言えます。私たちはキリストのからだの中で働きや務めを得ることはできません。主の御心を表している真に霊的なものを私たちが得る時、外側からの人々はその中に入って奉仕を始めることはできません。彼らは聖霊によってそこにある啓示の中に入らなければなりませんし、経験的根拠に基づいてその中に入らなければなりません。あなたは、来て話をするよう、説教者たちを招くことはできません。その務めの交わりは、啓示の交わりです。同じ根拠に基づいて同じ方法でその中に入ること、上からその中に生まれること、これがからだの務めの唯一の基礎です。
組織化された教会は何でも好きなことができますが、キリストのからだの中ではできません!その務めでは、事物は本質的に上から来るのであって、外から加わるのではありません。ですから、新約聖書が意味するところの教会に加わることはできません。また、新約聖書が意味するところの教会の働きを拾い上げることもできません。私たちはその有機的な一部でなければならないのです。機械的な事務的方法で役員や働き人を任命する組織には、からだの真理が啓示されるための余地はありません。あなたは一人の兄弟をつかまえて、彼をキリストのからだの中で職員にすることはできません。地的な組織の中ではできても、ここではできません。そのような人は霊的な過程を経て成長しなければなりません。そうすれば、内なるいのちから務めが表され、成長します。これは事務的なことではなく、有機的なことです。
これは有益な真理の全領域を開きます。しかし今はここでやめて、私たちに啓示を与えてくださるよう主に求めることにします。啓示を得ないなら、それについてどんなに多く述べたとしても、それは結局私たちにとってたんなる教え、真理、教義にすぎなくなるでしょう。主がそれを生けるものとして、私たちに啓示を与えてくださらなければ、そうなってしまうでしょう。しかし、ああ、地上で教会と呼ばれているもの、その組織、その方法、その関係と、キリストのからだは霊的で天的なものであるというこの真理との間には、こんなにも大きな違いがあるのです!この天的なものの範囲と務めは宇宙的です。たとえそれが、ある土地でわずかな人々によって代表されているにすぎなかったとしてもです。宇宙的な務めであって、時間や空間には属しません。それは本質的に霊的です。それは天的であって、無限なのです。