Ⅰ.預言の務めとは何か

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:申命記一八章一五、一八節、使徒の働き三章二二節、七章三七節、ルカによる福音書二四章一九節、黙示録一九章一〇節、エペソ人への手紙四章八節、一一~一三節

「彼は、ある人たちを(中略)預言者(中略)としてお与になりました。それは聖徒たちを完成させて、奉仕の働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためです。」(エペソ人への手紙四章一一、一二節)

預言の務めについて考えることにしましょう。「彼は、ある人たちを(中略)預言者としてお与えになりました」。しかし、私たちはただちに一つの区別をしなければなりません。なぜなら、預言の務めについて話す時、いわゆる「予言」に関するある考えが支配的であることがわかるからです。人々は「預言」という言葉を、おもに将来の事件、出来事、日付などとすぐに結びつけてしまいます。つまり、預言の務めの予測的要素をすぐに思い浮かべて、その機能全体をこの考えに限定してしまうのです。

さて、私たちの前にあるものの真価を理解するために、私たちは自分の心の中から、「預言の務めの予測的面」という支配的な狭い考えを除かなければなりません。それは一つの面なのですが、一つの面にしかすぎません。預言の務めは予測よりもずっと大きなものなのです。

「預言の機能は、たんなる事件や出来事や日付を遙かに超えた、霊的解き明かしの務めである」と言った方がおそらくいいでしょう。この句は、私たちが今関わっているものの全領域を網羅します。預言は霊的解き明かしです。神の御言葉に記されている預言の務めの光の中で、しばらくこれについて考えるなら、これがいかに真実かきっとわかるでしょう。預言は霊的観点からすべてを解き明かすことであり、過去・現在・将来の事柄の霊的意義を神の民の前に示し、事の霊的価値や霊的意味の重要性を彼らに理解させるものです。これが預言の務めの本質でしたし、今もそうです。

もちろん、聖書に記されている預言者たちからわかることは、彼らが主の民の間で特殊な機能や能力を持っていたということです。しかし、次のことも憶えておかなければなりません。すなわち、彼らはしばしば自分の預言的機能を他の機能と組み合わせていたのです。サムエルは預言者であり、士師、祭司でもありました。モーセは預言者でしたが、他のものでもありました。パウロは預言者だったと私は信じています。彼は使徒であり、伝道者でした。私には彼があらゆるものだったように思われます!ですから私たちの目的は、預言者その人について述べることよりも、預言の務めについて述べることです。それは私たちと関係している務めです。成された務めを理解するなら、その使者のこともいっそうよくわかるでしょう。その務めが設けられた目的を見るなら、いっそうよくその器を理解し、その何たるかがわかるでしょう。ですから、こう言わせて下さい。私たちが預言者たちや預言の務めについて述べる時、その目的は機能であって人ではないのです。

私は確信しています。時代に関して何らかの知識を霊的に有している人なら、「私たちの時代に切実に必要なものは預言の務めである」と私が言う時、私に同意してくれるでしょう。今日ほど、解き明かしの声の必要性が広く存在している時代、解き明かしの務めがさらに必要な状況の時代はありません。大げさな発言をすることや、発言する時に極端であることを人は望まないものですが、「今日の世界は、真の預言の務め――人々に神の御思いを解き明かす声である預言の務め――にほとんど欠けている」と言ったとしても、私はそれが大げさや極端だとは思いません。ちらほらと少しはあるかもしれませんが、この務めは大きな規模では果たされていません。ですから、私たちの心はしばしば呻き叫びます、「おお、現在の状況に関する神の御思いが示されて、第一に神の民がそれを認識し、次に神の民を通してそれが遠くの人々にまで及びますように!」。今日、預言の務めに対する大きな恐ろしい必要があります。

神の完全な御旨に関する預言の務め

これを理解した上で、この機能が何かを正確に見なければなりません。預言の務めの機能は何でしょう?それは神の完全な御旨に事を保つことであり、したがって通常は応答的なものです。私たちが通常見るところでは、神の民の間における事態の成り行きや逸脱に対する神の応答として、預言者たちが立ち上がりました。彼らは戻るよう呼びかけ、神の御心を再宣言・再発表し、神の御思いを再びはっきりと示しました。預言者たちは流れ――たいていの場合、ほとばしる激流――の真ん中に岩のように立ちました。潮流が彼らの上ではじけました。彼らはその潮流に挑み、抵抗しました。その流れの真ん中に彼らがいることが、優勢な潮流に反対する神の御心を表していたのです。旧約において、状況が霊的に悪く、神の御心にかなっていない時、通常、預言者が務めに着きました。状況は悪く、事態は混乱し、滅茶苦茶で、混沌としていました。欺きや偽りが横行し、遙かに悪い状況の場合もしばしばでした。預言の務めともっぱら関係しているのは次のことです――すなわち、神の民の中で、神の民を通して成就される、神の当初の究極的御旨です。こう言うとき、あなたはまさに事の核心に至ったのです。もう一度、尋ねましょう。預言の務めとは何でしょう?預言の機能とは何でしょう?それは何と関係しているのでしょう?――その答えはおもに次の通りです。すなわち、預言の務めは、神の民の中で、神の民を通して成就される、神の完全な当初の究極的御旨と関係しているのです。

この記述が正しいとするなら、ただちに今日の必要を見る助けになります。なぜなら、一般的に言って、今日地上にいる神の民は、神の御旨の一部を全体と混同しており、全体を犠牲にして諸々の面を強調しているからです。彼らは手段、方法、熱心さ、熱意を主の目的そのものと混同しており、神の御旨は神の方法、神の手段によって達成されなければならないこと、方法や手段も目的と同じように重要であることを認識しそこなっています。つまり、どんな種類の方法を用いたとしても、また、自分の考え、計画、案を立てて神の目的に到達しようとしても、あなたは神の目的に到達することはできないのです。神には御旨に達するための御自身の方法や手段があります。神の御思いは御旨のごく小さな点にまで及んでおり、その上に広がっています。隅々まで神の御心にかなっていない限り、あなたは神の御旨をまったく実現できないのです。

神はモーセに次のように言うこともできたかもしれません、「私に幕屋を建ててくれないでしょうか?どのようにするのか、何を使うのかは、あなたに任せます。あなたは私が求めているものを理解しています。行って、私に幕屋を建てなさい」。モーセは、神が欲しておられるものに関する考えを持っていたかもしれませんし、自分自身の考えにしたがって神のためにそのような類の建造の働きをすることができたかもしれません。しかしご存じのように、細かな点、釘や留め針、針や糸の一本たりとも、神は人の考えに任されませんでした。この例を用いるのは、ただ私の論点を強調するためです。預言の務めは、神の完全な当初の究極的御旨を御心にかなうものとして示し、それをそのようなものとして神のために保つことであり、また、神の御旨に関するあらゆることで神の御心を解き明かし、隅々に至るまですべてを御旨に調和させて、御旨にすべてを治めさせることなのです。

油注ぎによる預言の務め

(a)神の御旨に関する詳しい知識

これはいくつかの点を含んでいます。それらの点は預言の務めの特徴であることが、神の御言葉からはっきりとわかります。第一に、それは油注ぎの問題を含んでいます。油注ぎの意味や意義は、第一に、神の霊だけが詳細にわたる完全な計画を理解しておられ、原則上すべてを神の意図にかなうものにすることができるということです。言っておきますが、ただ神の霊だけがそうできるのです。聖書の最も素晴らしい点の一つは次のことです。すなわち、神の御言葉に記されている神聖な事柄の最も単純な最初の――最も初歩的な、とも言えるでしょう――描写や計画に戻る時、そこに記されていることはみな、それに関連して後でいっそう豊かになって現れるものと、原則上まったく同じなのです。すべてを原則に忠実に保ってこられた神のなさりようは、実に驚異的です。あるものが後でどれほどよく発達したとしても、原則が変わるのを見いだすことは決してありません。原則がそこにあり、あなたはそれから逃れられません。いっそう発達した事柄を後で神の御言葉から取り上げたとしても、それは最初に導入された時の当初の原則に忠実であることがわかります。

神はこうした不変の原則に万事を調和させてこられました。神は少しも逸れたりされません。神の法則がそこにあり、それは不変です。聖霊だけがそれをすべてご存じです。聖霊は法則、原則、神の御旨を霊的に支配しているあらゆるものをご存じです。聖霊だけが、その計画と詳細をご存じであり、万事をそれらの原則や法則にしたがったものにすることができます。万事はそれらに忠実でなければなりません。私たちは次のことを決着済みのこととして受け入れることができるでしょう。すなわち、もし上部構造の中に神の当初の基本的な霊的原則と調和しないものがあるなら、遅かれ早かれ、それは惨事につながる欠陥になるのです。上部構造を支配している原則はことごとく、その土台、その原型に忠実でなければなりません。私たちの多くは、こうしたことについて完全な光を受けているわけではありません。私たちは、ゆっくりと少しずつ、自分の道を手探りし、前に向かって模索し、光を得つつあります。私たちは光を得つつあります。しかし、預言の務めは光で照らされた務めであり、油注ぎの下で絶対に安全で無事な所に事を戻します。なぜなら、預言の務めは神の原則に忠実な務めだからです。

油注ぎが必要です。それは第一に、神の霊だけが神のあらゆる御思いに通じているからであり、彼だけがすべてを支配している神の原則に忠実に、そしてそれと全く一致して、語り、働き、事を生じさせることができるからです。神からのものはみな、これらの原則に従っていなければなりません。教会の原則――教会を支配しているもの――は、教会は天的なものであるということです。教会は地的なものではありません。教会は天のキリストと関係しています。キリストが天に入られるまで、教会は存在しませんでした。これが意味しているのは、教会は天のキリストのもとに来なければならないように、霊的な方法で天的立場に至らなければならないということです。教会は依然としてこの地上にありますが、天におられるキリストと関係しており、地的立場を離れて、真に天的・霊的なものにならなければなりません。これが新約で大いにはっきりと示されている神の法則であり原則です。「使徒の働き」から先の書で、これは極めて顕著です。

しかし、これは新約と共に到来した何か新しいものではありません。神はこの法則を、教会とキリストを預言的に指し示すあらゆるものの中に置いてこられました。イサクは自分の土地を離れて、外国に花嫁をもらいに行くことを許されませんでした。彼はそこにとどまらなければならず、花嫁を彼のところに連れて来るために、僕が遣わされなければなりませんでした。ここに法則があります。キリストは天におられます。教会を――第一に霊的に、次に文字通りに――彼のところに連れて来るために、御霊が遣わされます。しかし、法則がそこにあります。ヨセフは排斥と象徴としての死を通って、最終的に王座に着きます。彼は高く上げられるのと同時に、妻であるアセナテを受けます。ヨセフはキリストの明白な型です。キリストが彼の教会、彼の花嫁を受けるのは、彼が高く上げられる時です。実に、ペンテコステはキリストの高揚の結果でした。この時、教会は高く上げられたキリスト御自身との生ける関係の中に霊的に入れられました。ヨセフの素朴な物語の中に法則があります。このようにさらに続けて、ささやかな細部に至るまで、神がどのように万事を原則に忠実に保ってこられたのかを見ることができます。神の永遠の原則が旧約の最も単純な点にすら具体化されており、「イエスの証しは預言の霊です」(黙示録一九章一〇節)というこの決定的宣言を成就していることがわかります。偉大な天的真理を示す何かがそこにあります。それは、キリストを指し示す預言の霊です。

諸事における神の原則の途方もない重要性にあなたが本当に感銘を受けているのかどうか、私には疑問です。原則があるのです。その原則を認識して尊重するなら、すべてはうまく行きます。さて、聖霊だけがこの神の原則をすべてご存じであり、神の御心、神の御思いを完全にご存じです。ですから、油注ぎの下でのみ、事は神の完全な御思いと御旨に保たれることができます――これは、神の霊が到来して、責任を引き受けなければならないことを意味します。油注がれた務めが意味するのは、聖霊なる神がすべての責任を引き受けて下さったということです。聖霊が責任を引き受けて下さいました。聖霊の必要性、聖霊に責任を負っていただく必要性、すべてを聖霊に行っていただく必要性について述べる発言に対して、反論や反対をする人は誰もいないでしょう。しかし、おお、これはありきたりの真理やありきたりの立場よりも、ずっと多くのことを意味するのです。

(b)啓示によって分け与えられる知識

これは預言の務めのこの二番目の点に導きます:油注ぎにより、啓示が来ます。私たちは、聖霊がすべてを行う必要性――聖霊が開始し、執り行い、支配し、あらゆる力、霊感となる必要性――を、普通に受け入れることができます。しかし、おお!これは生涯教育であり、すべてを啓示によって受ける必要性を生じさせます。これが、預言者が元々「見者」――見る者――と呼ばれていた理由です。彼らは他の人々が見ないものを見ました。彼らは、他の人々が見ることのできないもの、宗教的な神を畏れる人々ですら見ることのできないものを見ました。彼らは啓示によって見たのです。

預言の務めは啓示を必要とします。それは啓示による務めです。後でこれをもっと綿密に調べますが、今はこの事実を強調したいと思います。私は今、聖書にない啓示について考えているのではありません。聖書にないことを預言する、今日の教会のある「預言者たち」(?)の立場を取ることはできません。すでに与えられている啓示の範囲内で――それが十分膨大なものであることを神はご存じです!――聖霊は「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの」を啓示するためになおも動いておられます。これは御霊による生活の驚異です。それは絶えず新しい発見をする生活であり、すべてが驚きと不思議に満ちています。聖霊の下にある生活は決して静的ではありえません。この地上で完成に達することは決してありえませんし、真理の総計が箱詰めにされている所に達することもありえません。真に聖霊による生活は、私たちが見たことのあるもの、把握したことのあるもの、感じたことのあるものを、無限に超越したものが存在することを実感する生活です。知っているつもりの人々、ある特定の場所に達して、自分の現在の場所を越えて――動くことはもちろん――見ることもできない人々は、聖霊の御心とは無縁な場所にいます。聖霊の下にある預言の務めは、増し加わる啓示による務めなのです。

預言者は何度も神に戻って、神が次のことを示されない限り、出て来て話さない人でした。預言者が自分の職務を遂行したのは、自分が預言者であり、そうするよう期待されていたからではありません。預言者の地位には職業的なものが一切ありませんでした。それが職業的になった時、悲劇がその預言職を襲いました。預言者の地位は、サムエルによって設立された「預言者学校」によって、職業的なものになってしまいました。これらの預言者学校と真の預言職とを混同してはなりません。預言者学校の卒業生と、サムエル、エリヤ、エリシャのような人々によって代表される真の預言者との間には、ある違いがありました。事が職業的になる時、常に何かが失われます。なぜなら、預言の務めの本質・性質は、それが啓示によって毎回新たに到来することだからです。啓示されるものは新鮮です。それは古いものかもしれませんが、当事者の心に与えられた啓示として、なにかしら新鮮さを帯びています。それはとても新鮮で素晴らしいため、数千の人々が前にそれを見ているかもしれないにもかかわらず、かつて誰も見たことがないかのような影響を当人に及ぼします。事を生き生きと新鮮に保ち、神の力で満たすことが啓示の性質です。単なる古い教理では、古い立場を回復することはできません。真理の厳密な叙述をよみがえらせたところで、失われた神の何かを回復することは決してできません。新約初期の頃の真理を正確に述べたとしても、当時の状況を再現するにはほど遠いでしょう。

預言職の継承は、教えの継承ではなく、油注ぎの継承です。神の働きにより、何かが神から到来します。それは何かとても実際的で、とても生き生きとしています。神はそれをある手だてによってもたらされます。その手だては個人的なものかもしれませんし、団体的なものかもしれません。神はそれを油注ぎの下でもたらされたので、それは生きています。すると、誰かがそれを真似し、複製しようとします。あるいは後になって、誰かがそれを押し進めるために取り上げます。投票で誰かが後継者として指名され、立てられ、選ばれました。それは前進し、成長します。しかし、ある決定的な要素がもはやありません。継承は油注ぎによるのであって、教理の枠組みによるのでありません。新約の教理を再び述べても、新約の状態を回復することはできません。私たちは新約の油注ぎを得なければならないのです。私は教理を排しているわけではありません。教理は必要です。しかし、事を生き生きとした新鮮で活発なものにするのは油注ぎです。すべては啓示によって到来しなければならないのです。

私たちの中には、聖書を分析して各巻の内容やそのすべての教理を示せる人、おそらく大いに興味深く示せる人もいます。私たちは、これを他の本についてするように、「エペソ書」についてもすることができます。「エペソ書」に来てそれを分析し、教会、からだ、そのあらゆる概要を述べることができたとしても、コウモリのように盲目かもしれません。しかし、神が私たちの内に何かを行われる日、何か深くて途方もない恐ろしいことを行われる日が来る時、私たちは教会を、からだを見ます――私たちは「エペソ書」を見ます!それは二つの世界でした:一方は真理であり、隅々に至るまで技法的に正確であり、感興と魅力に満ちていました――しかし、何かが欠けていました。私たちはその真理を最初から最後まで述べることができましたが、何がその中にあるのかわかりませんでした。例の経験をくぐり抜けて何かが自分の内に起きない限り、たとえ「自分は知っている」と思い、知っていることを確信し、自分のいのちをそのために捨てることができたとしても、私たちは知らないのです。神の御言葉に記されている事柄に関する非常に鋭い明晰な知的理解と、霊的啓示とは全く異なります。そこには、二つの世界のこの違いがあるのです――しかし何かが起きない限り、その違いを人々に理解させることはまったくできません。この「何かの出来事」については後で話しますが、ここでは事実を述べておきます。油注ぎによって啓示が与えられます。油注ぎによる啓示は、神が求めておられるものの概略と詳細の両方を見るのに必要不可欠です。

こうして私たちは建造に至ります。預言の務めは――最も光で照らされている神の僕たちに対してさえ、依然として多くの詳細が啓示されなければならないにもかかわらず――聖霊により、当初の究極的な神の御旨を見るものなのです。

(c)神の御思いと全く同じであること

それから、この油注ぎと関係していることがわかる三番目の点があります。それについてはすでに概述しました――すなわち、正確さです。

油注ぎは神との直接的接触を生じさせます。それは顔と顔を合わせて神を見ることを意味します。これはモーセの生涯の要約ではなかったでしょうか?「モーセのような預言者は、イスラエルにはもう起こらなかった。彼を主は、顔と顔を合わせて知っておられた」(申命記三四章一〇節)。これが起きる時、あなたは神を霊的に直接知る所、神に直接触れる所、天が開かれている所に入ります――どんな事情があったとしても、あなたは便宜を求めて妥協する人や、自分の心に示されたことから逸れる人になることはできません。

使徒がモーセについて述べていることは何でしょう?「モーセは僕として神の家全体のために忠実でした」(ヘブル人への手紙三章五節)。彼は神の御言葉によって全く支配されていました。このことから、モーセの忠実さが特によくわかります。ご存じのように、出エジプト記の後の方の章では、何度も何度も何度も、「主がモーセに命じられたように」というこの御言葉に万事を連れ戻しています。すべては神が言われた通りに行われました。その体系全体にわたって――モーセが起こされたのは、それを設立し、確立するためでした――彼は細部に至るまで正確でした。もちろん、私たちはその理由を知っています。先ほど原則について話しましたが、その大いなる壮大な包括的解き明かしがここにあります。神は常に、細部全体にわたって、キリストを目的としておられるのです。モーセが設立したこの体系は、キリストを詳しく示すものでした。ですから、彼は細部全体にわたって正確でなければならなかったのです。それは困難な、代価を要する道です。しかし、啓示を受けてそれによって前進することと、細部で妥協してある点に関して主の望み通りにしないこととは、両立できません。あなたは外交、政策、世論によって支配されるのではありません。主が御旨に関して啓示によって自分の心に語られたことによって支配されるのです。これが預言の務めです。

預言者たちは、比較的良いものなら何にでも順応する人ではありませんでした。事が比較的良いものでしかない場合、彼らは完全には賛同しませんでした。エレミヤを見て下さい。エレミヤの生涯で、一人の良い王が物事を回復しようとした時がありました。彼は大いなる過ぎ越しの祭りを設けました。人々は群れをなしてその過ぎ越しの祝祭のために上って来ました。それは明らかに大きな機会でした。彼らはエルサレムで大いなる事をしていました。しかし、こうした良い事、明らかに良い事が行われていたにもかかわらず、エレミヤは参加しなかったのです。彼は保留しました。彼は正しかったのです。この事がほとんど外面的なものだったこと、人々の本心は変わっていなかったことが、後でわかりました。高きところは除かれず、エレミヤの最初の預言が成就しなければなりませんでした。その改革らしきものが本当のものだったなら、捕囚、都の破壊、完全に裁きに渡されることについてのエレミヤの預言は無に帰していたでしょう。エレミヤは差し控えました。彼はそれについて理解していなかったかもしれませんし、困惑していたかもしれません。しかし、彼の心はこの比較的良い事柄に完全に賛同することを自分に許しませんでした。後になって、彼はその理由がわかりました――それはある所までは良かったのですが、深い心の変化ではなかったため、裁きが下されなければならなかったのです。

預言者は、相対的にしかよくないものでも、そこにある善の度量に応じて喜ぶことができます。しかし、それを完全な最終のものとして受け入れることはできません。私たちはもちろん、世の中のあらゆるささやかな善に対して寛大でなければなりません――正しい、真実な、神から出ているあらゆるもののゆえに感謝しましょう。しかし、おお!「それは主にとって完全に満足のゆくものです」「それが主が望んでおられるすべてです」とは言えないのです。いいえ、この預言の務めは神の御思いに全く忠実な務めです。正確な務めです。これが油注ぎが意味することです。その理由はすでに述べました――目的は完全なキリストだからです。

黙示録一九章一〇節の最後の句は、これをことごとく要約しています。それは、当初からの預言の務めを、一つの文章にまとめています。蛇の頭を打ち砕く女のすえについて述べられた日に、預言の務めが始まったのでしょう。次に、預言の務めはエノクに受け継がれました。彼は預言して言いました、「見よ、主が来られる……」(ユダ書一四節)。それ以来、預言の務めはずっと続いてきました。これはみな、黙示録の終わりで「イエスの証しは預言の霊です」という思想にまとめられています。つまり、預言の霊は最初から最後まで、全くイエスの証しに向かっているのです。預言の霊は、その最初の発言――「女のすえ」――から、「見よ、主が来られる」に至るまで、常に彼を目標にしてきました。(何と早くから、最初と最後が一緒にされていたのでしょう!)全行程を通して、預言の霊は常に主イエス、完全なキリストを目標にしてきました。「彼は、ある人たちを(中略)預言者(中略)としてお与えになりました。(中略)それは私たちがみな、キリストの豊満に到達するためです」。これが目標です。神は、教会によって表現される御子の豊満未満の何ものにも、決して満足できません。教会は彼の豊満でなければなりません。一人の完全に成長した人――これが教会です。預言の務めは、キリストの豊満、キリストの究極性、キリストの万有網羅性という結果になります。中心も周辺もキリストでなければなりません。最初も最後もキリストです。概略もキリストであり、細部もキリストです。啓示によってキリストを見ることは、それ未満のものやそれ以外のものを決して受け入れられないことを意味します。あなたは見たので、これは決着済みです。次に、神の目的に到達する方法は、聖霊によって見ることです。この見ることが、この預言の務めの基礎なのです。

「この務めの性質を見るなら、ただちにその器の何たるかがわかる」と前に述べましたが、それを示すのはこれでもう十分だと思います。その器は、このような務めを果たしている個人かもしれませんし、あるいは団体かもしれません。後でこの器についてさらに何か述べるかもしれませんが、今は使徒や預言者などを職務として形式的に考えないようにしましょう。それらを重要な機能として考えることにしましょう。神が関心を持っておられるのは、この人がその機能を果たすことであって、肩書き付きの職業や地位に着くことではありません。肩書きが何だろうと関係ありません。その器はこの機能を果たさなければならず、この機能がその器を立証しなければならないのです。私たちは自分のことを預言者としてふれまわることはしません。しかし、このような時、神は預言の務めを起こして下さいます。その時、御子に関するあらゆる御旨が神の民の間に再び示されます。これが神の民の必要であり、神の必要なのです。