預言の務めは時と共に到来したものではなく、永遠のものです。それは永遠の計画に由来します。
「これはどういう意味だろう」とあなたはおそらく不思議に思われるでしょう。ご存じのように、何の解説や説明もなく、何かが一番初めにやって来て、神のエコノミーの中で統治する地位に就き、まさにこの機能を果たします。アダムが罪を犯して園から追放された時、御言葉はただこう告げています、「(神は)いのちの木の道を守るため、エデンの園の東にケルビムを置かれた」(創世記三章二四節)。
ケルビムとは何者であり、何なのでしょう?彼らはどこから来るのでしょう?私たちは彼らについて前に何も聞いたことがありません。彼らに関する説明は何も与えられていません。ただ述べられているだけです。神はいのちの木の道を守るため、彼らをそこに置かれました。彼らはいのちの守護者となり、神の御思いにしたがって諸事を守りました。人の心の思いが神の御思いから離れて邪悪になってしまったため、また、すべてが損なわれてしまったため、今、ケルビムがそこに置かれます。ケルビムは人にとって何よりも大切なもの――神のいのち、非受造のいのち――に関する神の御思いの守護者です。
しかし後に、ケルビムの姿に関する理解が与えられます。この象徴的な複合的表象には四つの面があります――獅子、牛、人、鷲です。その主要な特徴は人であることが、とてもはっきりと示されています。それは実際のところ、獅子、牛、鷲という他の三つの面を持つ、ひとりの人です。獅子は王職と支配の象徴であり、牛は奉仕と犠牲の象徴であり、鷲は天の栄光と神秘の象徴です。ケルビムの主要な面である人――これは何でしょう?
ご存じのように、全聖書を通して、人は神の秩序の中で預言者、神の代表の地位を占めています。神の御思いの代表は人です。神のあらゆる御思いの人格的具体化・表現となること――これが神のすがた、神のかたちにアダムが創造された目的でした。このために人は創造されたのです。これを私たちは人なる御方、肉において現れた神であった人に見ます。彼は神のあらゆる御思いの完全な表現でした。
このケルビムの象徴はどこから来たのでしょう?それはあっさりと導入されています。それは永遠から来ています。それは神聖なものであり、永遠の思想であり、責任を引き受けて、神のために諸事を守ります。ご存じのように、「人の子」という句は特に預言職と関係しています。預言の機能は永遠のものであり、自然に到来します。預言は性質的に神の御思いの表現であり、神の御思いを純粋さと完全さの中に保ちます。これが人に関する、預言者に関する概念であり、預言の機能と性質です。
預言者とそのメッセージの同一性
しかし、これにはどのような意味があるのでしょう?ここで、私たちは全体の中で最も重要な点に来ます。その点とは、器とその器の務めの絶対的同一性です。預言の務めは、何かあなたが取り上げることのできるものではありません。それは何かあなたであるものです。どんな学校も、あなたを預言者にすることはできません。サムエルは預言者学校を設立しました。それには二つの目的がありました―― 一つは宗教的知識を広めるためであり、もう一つは宗教史を書き上げるためです。サムエルの時代、開かれた幻はなく、人々は神の御言葉を失っていました。人々は神の御言葉を再び教わらなければなりませんでしたし、将来の世代のために、神の道についての年代記を書き上げて記録する必要がありました。そこで、おもにこの目的のために、預言者学校が設立されたのです。しかし、この学者の預言者たちと、生ける油塗られた預言者たちとの間には、大きな違いがあります。学者の預言者たちは知的職業の一員となり、たちまち堕落して無価値なものになりました。偽預言者たちはみな、預言者学校を卒業して、その学歴に基づいて公に受け入れられました。彼らは大学に行き、受け入れられました。しかし、彼らは偽預言者でした。宗教大学に行ったとしても、それで神の預言者になるわけではないのです。
私の要点はこうです――器とその務めの同一性こそ、神の御思いの核心です。人は神の御思いを表現するように、それを自分の存在で表現するように召されています。務めの形式や、方針として採用したものや、自分の行いで表現するのではありません。器自身が務めなのです。この二つを分けることはできません。
自己を空にする必要性
偉大な預言者たちの生涯はみな、これで説明がつきます。モーセの生涯はこれで説明がつきます。モーセは主なる神がその兄弟たちの中から起こされた預言者でした(申命記十八章十五、十八節)。モーセは自分の一生の仕事に取りかかろうとしました。彼は途方もない能力の持ち主であり、「エジプト人のあらゆる知恵をもって教育され」(使徒の働き七章二二節)、大きな素質と賜物を持っていました。次に、彼は何らかの方法で、神のための一生の事業についての考えを得ました。その考えは全く正しい考えでした。それは真実な考えであり、正当な考えでした。彼はとても誠実であり、動機に関して疑わしい点は全くありませんでした。しかし彼は、自分の生来の存在に基づいて、自分自身の能力、資質、熱心さによって、その働きに取りかかりました。そのため、その企て全体の上に災いが下ったのです。
預言者はこのように建て上げられるのではありません。預言職がこのように執行されることはありえません。モーセは荒野に行き、四十年のあいだ空にされなければなりません。それは、神の働きや神の任務を遂行する自信の根拠となるものがすっかりなくなるまでです。彼はもともと、「言葉にもわざにも力のある」人でした。しかし今、彼は言います、「私は雄弁ではなく(中略)話すのが遅いのです……」(出エジプト記四章十節)。天然の腕前や能力はすべて断ち切られました。「神に答える時、モーセは不満だらけだった」とは私は思いません。「あなたは以前、それをすることを私に許してくださいませんでした。ですから、私はもうそれをしません」というようなことを彼は言いませんでした。私が思うに、彼は神の訓練の下にある人でしたが、その訓練を克服していたのです。全く状況に支配されて怒りっぽくなった人は、人を助けるささやかな機会に応じません。荒野の生活の初期の頃のモーセの様子を私たちは垣間見ることができますが、それからわかるのは、彼はそのような人ではなかったということです。群れに水をやることに関して井戸で問題が生じた時、「エジプトで主は自分に味方してくれなかった」という理由で、もしモーセが不機嫌で、怒りっぽく、気難しかったなら、おそらく彼はどこか離れた所に座って傍観し、助けるために何もしなかったでしょう。しかし、彼は親切にすぐ助けに行き、手を尽くしました。彼は試練を克服していました。ささやかなことから、人の状態がわかります。
私たちは神の御手の下で試練と試みの時を通ります。「主は私たちを欲しておられない、主は私たちがいらないのだ!」と言いたい気持ちになるのはとても容易です。私たちはすべてを投げ出し、何も顧みません。試練に打ち負かされて、役立たずにされてしまいます。主が来てこのような人を召されるとは、私は信じません。エリヤは落胆して荒野に逃げ、山のほら穴に至りました。しかし、主が彼に対して何かをできるようになるには、彼は他の場所に到達しなければなりませんでした。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか?」(列王記上十九章九節)。主は決して、落胆している人のところに来て、その人を再任命したりなさいません。「主はあなたのすべてを赦してくださいます。ただし、あなたの絶望は別です」(F.W.H.マイヤー、「聖パウロ」)――なぜなら、絶望は神を信じる信仰を失うことであり、信仰を失った人に対して神は何もできないからです。
モーセは最後の一滴に至るまで空にされましたが、神に対して怒っていませんでしたし、不満でもありませんでした。主は何をなさっていたのでしょう?彼は預言者を建て上げておられたのです。以前、モーセは職務に着手し、預言の機能を自分のために役立てて、それを用いようとしました。モーセと彼が行うその働きとの間には、内なる生きた関係がありませんでした。それは二つの別々のものであり、その働きは彼にとって客観的なものでした。荒野の四十年が終わるとき、彼はその働きが主観的なものになる状態にあります。何かがなされました。彼を神の御思いの生ける表現にふさわしくする、ある状態が生じました。彼は自分の思いを空にされましたが、それは神の御思いのために場所を設けるためでした。彼は自分の力を空にされましたが、それはすべての力が神の力となるためでした。
おそらくこれが、炎と燃え尽きない柴の意味ではないでしょうか?それはたとえであり、おそらく壮大なたとえです。しかしその直接的適用として、それは何かをモーセに語りかけていたのだと思います。「モーセよ、あなたはとてもか弱い被造物です。あなたは荒野のありふれた柴、平凡な人間性の一片にすぎず、自分自身の内に何の能力もありません。しかし、ここに能力があります。この能力はあなたを前進させ続けることができます。あなたは自分のものではない力により、燃やし尽くされることなく、保ってもらえます。その能力とは神の霊、神の力です」。これが、この預言者が学ばなければならなかった大きな学課でした。「私にはできません!」。主は言われました、「よろしい。しかし、わたしがいます(I AM.)」。
主の多くの僕たちの天然的な面が大いに重んじられており、たいてい悲劇的結果に終わります。パウロが大いに重んじられています、「パウロはもともとなんと偉大な人だったのでしょう、彼はなんという知性を持ち、なんという訓練を積み、なんという途方もない能力を持っていたのでしょう!」。これはみな本当のことかもしれません。しかし、霊的状況に直面した時、それが彼にとって何の役に立ったのか、パウロに尋ねてください。彼は叫ぶでしょう、「これらの事にかなうのは、いったい誰でしょう?(中略)私たちの資格は神から来るのです」(コリント人への第二の手紙二章十六節、三章五節)。パウロはモーセのように、生きる望みさえ失う経験を通されました、「私たちは自分自身の内に死という判決を持ちました。それは、私たちが自分自身に信頼するのではなく、死人を復活させる神に信頼するためでした」(コリント人への第二の手紙一章九節)。
実際の経験によって内側に造り込まれたメッセージ
神は務めと奉仕者を一つにされます。この原則が常に働いていることがわかります。預言者全員にこの原則を見ます。何があっても主は立ち止まりませんでした。主はたいそう苦労されました。人生で最も親密な関係である家庭生活を通してすら、主は働かれたのです。ホセアの家庭生活の悲惨さを考えてみなさい。エゼキエルを考えてみなさい。主は彼の妻を死により一撃で取り去られました。主は言われました、「朝起きて、顔に油を塗れ。嘆きや悲しみを少しも悟られてはならない。まるで何もなかったかのように、いつもどおりに出て行け。人々に姿を見せて、明るい顔で歩き回れ。『このようなひどい振る舞いは何を意味するのか?』と彼らに尋ねさせよ」。主はこのような悲しみを彼に与え、それからこのように行動することを彼に要求されました。なぜでしょう?エゼキエルが預言者だったからです。彼は自分のメッセージを体現しなければならなかったのです。そのメッセージとはこうでした、「神の妻であるイスラエルは、神に対して失われ、神に対して死んだ。それなのに、イスラエルは気にしない。まるで何もなかったかのように、彼女はいつもどおりである」。預言者は自分自身の経験によってメッセージをはっきりと示さなければなりません。神はまさに内側にメッセージを造り込んでおられます。神は深遠な恐ろしい方法で僕の生活の中にメッセージを造り込んで、務めを生み出されるのです。
物事や主題を拾い上げることを、神は私たちに許されません。もし私たちが聖霊の下にあるなら、聖霊は私たちを預言者にされるでしょう。すなわち、聖霊は預言を私たちの内に起きたものとされるでしょう。ですから、私たちの話は進行中のこと、自分の内になされたことを口にしているだけなのです。神は何年にもわたって、奇妙で、深遠な、恐るべき方法で、ある人々の生活の中でこれを行ってこられました。神は何があっても立ち止まることなく、あらゆるものに触れてこられました。このような働きかけを受けた器こそメッセージなのです。人々が来るのは、あなたが教えるべきことを聞くためではありません。あなたが何者であるかを見るために、神によって造り込まれたものを見るために、人々は来ざるをえないのです。預言者はなんという代価を払わなければならないのでしょう!
ですから、モーセは荒野に行ったのです。それは天然のいのちと天然の精神を恐るべき方法で終わらされるため、無に帰されるため、メッセージを自分の内に造り込まれるためでした。神は正しかったのでしょうか?――というのは結局のところ、それは将来のための力の問題だったからです。おお、彼の人生の上にのしかかろうとしていた圧迫!モーセはしばしばくじけそうになりましたし、圧迫の下でくじけることが度々ありました。「私だけではこの民を負いきれません。私には重すぎます」(民数記十一章十四節)。何が彼の力だったのでしょう?おお、エジプトの昔の力だったなら、彼は一年ももたなかったでしょう。立ち上がって戦うべきエジプトの挑発に、彼は立ち向かえなかったでしょう。あの四十年に先立つこのささやかな圧迫の下で、精神的にも霊的にも押しつぶされていたでしょう。彼は反逆者たちをどうするのでしょう?どれだけ彼らを我慢しなければならないのでしょう?恐ろしい圧迫が彼の上にのしかかろうとしていました。神の全き御思いのために流れに逆らって立たなければならない時、ただ内側深くに造り込まれたもの、内側になされたものだけが切り抜けさせることができます。
私たちについても圧迫は凄まじいかもしれません。とても強力な誘惑がしばしばやって来るでしょう――「少し譲歩しなさい。少し妥協しなさい。そんなに徹底的であってはいけません。少し寛大になりさえすれば、もっと多くの扉が開かれるでしょう。緩めるなら、もっとたくさん得られます!」。このような誘惑の時、何があなたを救ってくれるのでしょう?ただ、神があなたの内になさったこのことだけです。それはまさにあなた自身の一部であって、手放せるものではありません。それはあなたであり、あなたのいのちそのものです。これが唯一のものです。神はモーセにしていることをご存じでした。そのメッセージとその人が別々のものではなくなるほど、両者は一つにならなければなりませんでした。その人こそ、預言の務めだったのです。
彼は自分の兄弟たちから拒絶されました。彼らは彼を受け入れようとしませんでした。「誰があなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか?」(出エジプト記二章十四節)。これはその人間的な側面です。しかし、そこには神の側面がありました。彼が四十年間荒野にいたのは神から出たことでした。神の側からすると、そうでなければならなかったのです。それはまるで人の行為のように見えました。しかし、そうではありませんでした。この両者が共に進みました。彼の兄弟たちによる拒絶は、神の主権的御旨と全く一致していました。それが、この人を再構成するのに必要な機会を神が得る唯一の道だったのです。彼の兄弟たちが彼を拒絶していたこの時期、この預言者の真の備えがなされました。おお、神の主権、素晴らしい神の主権!暗闇の時、深淵の時:砕かれ、粉々にされ、すりつぶされる時:空にされます。すべてなくなって、何も残らないかのようです。しかしそれはみな、預言の務めを建て上げる神の道なのです。
神によって証明された使者
最初、モーセは非常に律法的だったでしょう。彼は「あなたはあれやこれをしなければならない」等々という律法を押しつけて、独裁者か暴君のようだったでしょう。数十年後、彼がろくろから、陶器師の手の中から出て来た時、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数記十二章三節)と述べられています。その時、神は彼の傍に立つことができました。彼が高ぶりと傲慢と自己主張の霊の中で立ち上がったあの日、神は彼の傍に立てませんでした。神はそれをその必然的結果に至らせなければなりませんでした。しかし、人の中で最も柔和な、砕かれた、謙遜な、私心のない人であるモーセが、職務に関して他の人々から攻撃された時――そのような時、モーセは自分の地位や自分の権利のために立ち上がろうとせず、その問題をただ主に明け渡しました。彼の態度はこうでした、「主に決めてもらいましょう。私には固守すべき個人的地位はありません。もし主が私をご自身の預言者にされたのなら、主にそれを示してもらいましょう。もしそれが主から出ていないのなら、私には職を辞す用意があります」。なんと異なる精神でしょう!このような時、主は素晴らしい力強い形で彼の傍に立ち、反対者たちに対して恐るべき形で立ち向かわれました(民数記十二章二節、十六章三節)。
預言の務めはいのちであって、教えではない
さて、預言者とは何でしょう?預言の機能とは何でしょう?それはこれです。神は一つの器をとらえて(それは個人的なものかもしれませんし、あるいは団体的なものかもしれません。預言の務めの機能は、イスラエルを通して働いたように、一つの民を通して働くかもしれません)、砕きと破壊、幻滅、精神全体の変革といった深刻な経験を通らせます。そのため、力強く堅く握っていたものがもはや握れなくなります。すばらしい従順、適応性、素直さが培われます。神の働きに関して、神聖な真理に関して、正統性や根本主義に関して、客観的でしかなかったものが、すべて対処され、砕かれます。また、方法の善し悪しに関して、客観的な律法的方法で堅く握ってきたものも、すべて対処され、砕かれます。諸事に関する全く新しい観念、新しい展望が拓かれます。もはや形式的体系でも、自分が拾い上げる何か外側のものでもありません。内なる形でその器の中に造り込まれたものです。その器の務めは、それが何であるかです。その器が受け入れた教理ではありませんし、今や教えでもありません。
おお、この恐ろしい諸事の領域全体から解放されますように!それは悲惨な領域であり、教えを採用したり、解釈を取り入れたり、「これこれは自分の専門である」と人に知ってもらう領域です。おお、神が私たちを解放してくださいますように!おお、いのちが重要な所に――神が私たちの内に実際になさったこと、私たちから成っているものが重要な所に――導かれますように!最初、彼は私たちを砕かれます。次に、彼は新しい霊的原則にしたがって私たちを再構成されます。それは務めの中で表現されます。話の内容は、背後で進行していたこと、おそらくその直前まで数年にわたって進行していたことから出てきます。
預言の機能の法則がおわかりになったでしょうか?それは、神は油塗られた器たちに真理を経験させて、真理について行かせるということです。彼らが話す真理には、どれも歴史があります。彼らは深みに下って行って、その真理によって救われたのです。それは彼らのいのちでしたし、それゆえ彼らの一部です。これが預言の務めの性質です。
預言者は寛大だが妥協しない
モーセの変化について述べたことに戻ります。その片鱗をサムエルにも見ることができます。サムエルは旧約で最も麗しい愛すべき人物の一人だと思います。彼は預言者と呼ばれています。彼の心は神の最高の完全な御思いに全くささげられており、何に対しても決して内的に妥協しません。にもかかわらず、最初の数ヶ月間、彼はサウルに対して素晴らしい優しさを示しました。あなたはこれに気づいておられるでしょうか?(それは一年以上続かなかったようです。サウルの統治の最初の一年間、サウルは何か良さそうなものを本当に示そうとしていたようです。)しかし覚えておかなければならないのは、サウルが最高のもの――神の直接的統治――に対する拒絶を表していたことです。王を求めるイスラエルは、神の直接的統治を退けました――「他のすべての国々のように、私たちを裁く王を立ててください」と彼らは言いました。神はサムエルに言われました、「彼らはあなたを退けたのではなく、わたしを退けたのだ」(サムエル記上 八章五~七節)。
王職は預言と同じく神聖な原則でした。獅子が人と共にいます。統治に関する神の御思いを表す君主がそこにいます。しかしサウルについては、それは低い水準にあります。彼の登場は、この神の御思いをこの世の水準まで引き下げることを意味しました。「他のすべての国々のように」――肉的な人々が神の御思いを握って、この世の水準に引き下げてしまいました。サムエルはこれを知っていました。彼はこれを容認できず、これについて神に文句を言いました。彼はこれに反対しました。なぜなら、それが何を意味するのかを理解していたからです。しかし、優しくしていられる間、彼はサウルに対してなんと優しかったことでしょう!
なぜ私はこれを言うのでしょう?それは、このような状況が今日存在しているからです。人々が神聖な事柄を肉的に握って、地的水準にまで引き下げてしまっているのです。委員会や役員会などが、聖霊の直接的統治に取って代わっています。人々は神聖な事柄の中に行政を設けて、神のために運営しています。祈りと断食によって主の御心を求めるという新約の道は、ほとんど知られていません。知識と視力と理解力を持つ霊的な人々は、これを受け入れることができません。しかし、彼らはとても慈悲深くなければなりません。サムエルのような真の預言者は、その悪が顕著なはっきりとした不従順の形を取らないかぎり、できるだけ長く優しくあり続けるでしょう。主はサムエルを通してサウルを訪れ、なすべきことをはっきりと理解させました。彼に対する神の要求が、間違えようのないほどはっきりと、彼に知らされました。それなのに、彼は不従順だったのです。そこでサムエルは、「もはや彼をあわれみません!」と言いました。彼は赦しませんでした。「あなたが主の御言葉を退けたので、主もあなたを王位から退けた」(サムエル記上 十五章二三節)。この人が最善を尽くしていた間、サムエルはできるかぎりのことをしました。これが慈愛です。
もちろん、型は常に脆弱であり、不完全です。しかし、そこに真理を見ることができます。預言者サムエルは、たとえ容認できない時でも、間違っているものに対して多くの忍耐を示しました。彼が願っていたのは、光が射し込み、従順がそれに続いて、状況が改まることだったのです。同意できないあらゆるものに対して、私たちはとても慈悲深くなければなりません。
要点はこうです――モーセはこれを学ばなければならず、このような者にされなければならなかったのです。同意しかねることでも忍耐できるようになるなら、私たちはますます主の御旨に仕えるのにふさわしくなり、いっそう真実な預言者になるでしょう。熱情に駆られて因習打破主義者となり、腹立たしいものをひたすら壊そうとする場合と比べると、ずっとましでしょう。主は「そのようなことは無益です」と言われます。
これまで述べてきた話では、一つの点だけを強調してきました――すなわち、預言の務めは機能であるということです。その機能とは、すべてを神の全き御思いとの関係の中に保つことです――客観的な律法的方法で諸事の「筋道」を保つことではありません。あなたは何かを拾い上げるのではありません。あなたは正直に預言の務めを果たすことしかできないのです。なぜなら、神が預言の務めをあなたの内に造り込まれたからです。あなたは預言の務めのために立ちます。それは経験を通して、神の取り扱いを通して、あなたの内に啓示されました――神はあなたを導いてその経験を通らされたのであり、あなたはその経験をそのようなものとして承知しています。これはあなたが何かを達成したということではなく、むしろ、その過程の中であなたが砕かれたということです。今、あなたは主にあって用意が整っています。