Ⅵ.王国とそれへの入国

T. オースチン-スパークス

「なぜなら、エルサレムに住んでいる人たちとその支配者たちは、この方について、また安息日ごとに読まれる預言者たちの声について、無知であったために、彼を罪に定めることによって、それを成就したからです。」(使徒の働き十三章二七節)

「まことにわたしはあなたたちに言う。女から生まれた者のうち、バプテスマのヨハネよりも大いなる者は起こったことがない。しかし、天の王国で最も小さな者も、彼よりは大きいのである。バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の王国は激しく襲われており、激しく襲う者たちがそれを力ずくで奪い取っている。それは、すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までだからである。もしあなたたちが進んで受け入れるなら、彼こそ来るべきエリヤである。聞く耳のある者は聞くがよい。」(マタイによる福音書十一章十一~十五節)

「律法と預言者たちはヨハネの時までであった。その時から、神の王国の福音が宣べ伝えられていて、だれもが力ずくでそれに入ろうとしているのである。」(ルカによる福音書十六章十六節)

使徒の働き十三章二七節とマタイによる福音書十一章十三節の共通点は「すべての預言者」であることがわかると思います。一方において、彼らは預言者たちの声を聞きませんでした。他方、「聞く耳のある者は聞くがよい」(十五節)と述べられています。

預言者たちは王国について預言した

まず、マタイによる福音書十一章の「すべての預言者(中略)が預言したのは、ヨハネの時までだからである」というこの御言葉の意味を理解しなければなりません。彼らは何を預言したのでしょう?もちろん、彼らは多くのことを預言しました。彼らの預言の最大の関心事は、来るべき王と王国に関するものでした。大多数がそうだったので、新約では王国のことが当然視されています。新約聖書を開いて福音書を読み始めると、何の説明も与えられていないことがわかります。王国は何か人々がよく知らないものとして導入されているのではありません。主イエスの所に来た人々の中には、何の前置きや説明もなく、この語句を使った人々がいました。また主ご自身、ご自身の所に来た人々がこれについて述べていないのに、何の前置きや説明もなく、「王国」という語句を使われました。

ニコデモが良い例です。ニコデモが王国について話した形跡は、会話の中に何もありません。彼はこう言って話を始めました、「先生、私たちはあなたが神から来た教師であることを知っています」。この言葉は王国について何も述べていません。主イエスは途中でさえぎって言われました、「人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできません」(ヨハネによる福音書三章二、三節)。明らかに、これがニコデモの心にあったことであり、主はそれをご存じだったのです。このように、王国は新約では当たり前のことです。(使徒の働き以降の書からわかるように)後でその真の天的な意味が説明され、その真の意味に関する教えが与えられますが、王国はユダヤ人にとってすでにとても馴染み深いものでした。もちろん、これは預言者たちのおかげでした。預言者たちは王国について多くのことを語りました。中には、王について何かとてもはっきりと話した人もいたのです。その証明はしないことにします。これは容易に確かめられることです。

預言者たちは何を預言したのでしょう?彼らは王と王国について包括的に預言しました。この包括的文脈の中で、預言者たちの最高峰は誰だったのでしょう?それはバプテスマのヨハネでした。バプテスマのヨハネはすべての預言者を総括しました。彼はいわば、預言者の集大成でした。バプテスマのヨハネとは何者だったのでしょう?彼は、過去のあらゆるものと当時生じかけていたものとの間の、旧約と新約との間の、境界・転換点でした。ここでこう述べられています――「すべての預言者(中略)が預言したのは、ヨハネの時までだからである」。ヨハネの時まで:今は――ヨハネ以後です。ヨハネのメッセージはどのようなものだったのでしょう?「悔い改めよ、天の王国が近づいたからだ」(マタイによる福音書三章二節)。しかしこれと並んで、ヨハネの大きな際立った特色は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」(ヨハネによる福音書一章二九節)です。これは二つの別々の事柄ではありません。それは一つです。「王国が近づいた」:「見よ、神の小羊!」。

キリストの中に現存する王国

では、ヨハネの時以降、この問題とは何だったのでしょう?――この問題は新たな意味や力を帯びるようになりました。なぜなら、この問題は差し迫った問題になったからです。もはや預言の問題ではなく、今や実際の問題だったのです。その問題とは天の王国でした。「律法と預言者たちはヨハネの時までであった。その時から、神の王国の福音が宣べ伝えられている」。預言者たちは王国を預言しました。今、王国はすでに到来したものとして、「世の罪を取り除く神の小羊」と共に到来したものとして宣べ伝えられています。

では、天の王国とは何でしょう?私たちはここまで一歩一歩話を進めてきました。この最後の質問に答える時、それが何だったのかがはっきりとわかるでしょう。このユダヤ人の支配者たちとエルサレムに住んでいる人たちは、毎週預言者たちの書を聞いていたにもかかわらず、それを決して見なかったのです。

私はこの課題を再び述べることにします。天の王国がだれかの近くに到来したことがあるという事実は、とても厳粛なことだと思います。主は最終的にすべての人を、各自に与えられた機会に基づいて裁かれます。機会が与えられました――接触は機会です。王国に入る可能性は機会です。機会をどのように用いたのでしょう?主イエスはユダヤの国を三年半歩まれました。彼らの中に彼がおられたことは、彼らに対する機会でした――この機会を生かし損なったため、彼らはなんと恐ろしい悲惨な結果を迎えたことでしょう!

さて、この本を読んでいる人の中には、この範疇に属している人がいるかもしれません。この本を読むことを通して、たとえ今まではそうではなかったとしても(しかし、きっと私たちはそうは言えないはずです)、イエス・キリストの福音――主イエスとその十字架という事実に関する知識――をあなたは知りました。自分の手の届く範囲内に福音があったという事実は、あなたの永遠の運命を決定するのに十分です。もし天の王国があなたの生活圏内に到来していて、それを知る機会を与えられているなら――この根拠に基づいてあなたの永遠の運命が決まるかもしれません。もちろん、この民の場合、その機会がたくさんあったので、裁きもとても重かったのです。預言者たちは自分の聞いたことを預言しました。しかし、支配者たちと人々は、自分たちが耳にしていることを決して聞きませんでした。それは、彼ら自身の性質のためであり、彼ら自身の反応のためでした。ここにとても重大な意義を持つ何かがあること、そして、その実際の意義を見いださなければならないことを、彼らは決して理解しませんでした。「もしここに自分に関係するものが何かあるなら、それが何か知る必要がある」という姿勢を、彼らは取りませんでした。

これは求めうる最低限の要求と言えるのではないでしょうか?しかし、福音を前にして、このような最低限の反応すらしないなら、すでに述べたように、これに基づいて裁きが下されるかもしれません。まさに彼らの場合がそうであり、恐ろしい裁きが下ったのです!ユダヤ人の歴史のこの二千年は、なんという裁きだったことでしょう!「あなたたちの家は荒れ果てたまま、あなたたちに残される」(マタイによる福音書二三章三八節)。それ以来、ユダヤ人の歴史以上に恐ろしい荒廃の物語がかつてあったでしょうか?しかし、たとえそうだったとしても、それは荒廃のたとえにすぎず、この地上のことにすぎません。霊的な永遠の意味の荒廃――神に見捨てられて、そのような目に遭うこと――は、一体何を意味するのでしょう?これは厳粛なメッセージです。そしてもちろんそれは、「激しく襲って」王国に入るというこの別の部分への道を敷きます。これは厳粛に受け止めるべきことであり、不注意や無関心であってはならないことです。

王国とは何でしょう?その答えは三つか四つのとても短い文章で述べることができます。天の王国とは何だったのでしょう?「文字どおりの地的な現世的王国が当時ユダヤ人に提供されていた」と主張するあの解釈体系を私は退けます。私はこれを信じません。福音書に登場する人々が王国を手にしていたとしても、それは貧弱なものだったでしょう――彼らの間の神にとって、あまり栄光でも満足でもなかったでしょう!今日のパレスチナをご覧なさい。この人々が手にしていたら、それがどのような王国になっていたか、考えてご覧なさい!このようなものが王国を得ても、この世に対して何ができるでしょう?何もできません。「当時、イエスはイスラエルに現世的な王国を提供しておられた」という解釈を私は退けます。バプテスマのヨハネの時に宣べ伝えられた天の王国は、主イエスがそれを解釈し、後に使徒たちが解釈したとき、何を表し、何を意味していたのでしょう?

王国とは何か

(a)新しいいのち

第一に、天の王国は新しいいのちであり、アダム以降人が歴史上知るに至った何ものとも全く異なるものでした。これが、王国について最初に述べた時、主が言わんとされたことです。その時、主はニコデモに彼の魂の必要について話されました。「人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできません」――なぜなら、到来したのは新しいいのちであり、誕生によるものだからです。新しいいのちとは、古いいのちを力づけただけのものではありません。また、古いいのちを新たな関心に向かわせて、一つの関心の路線から別の路線に、一つの職務体系から別の職務体系に転向させただけのものでもありません。かつてはこの世に没頭していたけれども、今はそれと同じ生活や関心でキリスト教に没頭する、ということではありません。ちがいます、新しいいのちとは別の異なるいのちであり、神ご自身から与えられる、前にはなかったいのちです。天の王国の本質は、転機に際して特定の賜物として与えられる、天的ないのちの天的な性質です。別のいのち――第一にこれが王国です。

(b)新しい関係

天の王国は新しい関係、神との関係です。この関係は、「今や、私たちは神に関心を持つようになりました――神を考慮するようになって、一つの関係から別の関係に転向しました。今やキリスト教を採用したからです」ということではありません。いいえ、天の王国はこのいのちのまさに本質から生じる関係です。神との関係に関するかぎり、私たちには全く新しい別の感覚があります。福音書の偉大な真理、特にヨハネによる福音書で強調されている偉大な真理は、神との関係に関する新しい啓示がイエス・キリストによって到来したということです。「わたしは、あなたが世からわたしに与えてくださった者たちに、あなたの御名を現しました」(ヨハネによる福音書十七章六節)。彼が常に語っておられるその御名は、新しい関係を表していました――その御名とは「父」です。この御名は一般的・普遍的な神の父性や人の兄弟性を意味するのではなく、特定の新しい関係を意味します。この関係は、明確な決定的行いにより、聖霊がいのちの中に入り込むことによってのみ生じます。「神は私たちの心の中に、『アバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を遣わしてくださいました」(ガラテヤ人への手紙四章六節)。これはいつあなたに起きたでしょう?あなたの新しいいのちが発した最初の言葉は何だったでしょう?新たな感覚から発せられた「父よ!」という言葉です。神は今や、遠く離れた、思いもよらない、畏怖すべき、恐ろしい方ではありません。ちがいます、「父!」です。私たちが「御霊から生まれる」時、全く新しい関係が生じます。

(c)新しい構成

次に、天の王国は新しい構成です。いま私の念頭にあるのは、あなたや私に関するかぎり、新しい一組の律法や規則ではなく、新しい構成です。私たちは全く新しい一組の能力で新しく構成されます。その能力により、かつては不可能だったことが可能になります。次のことを理解しなければなりません――これを新たに心にとどめてもらいましょう――すなわち、神の子供、天の王国の一員は、奇跡の化身なのです。つまり、そのようなどの人の内にも、超自然的な可能性や能力があるのです。神の子供の人生には、なんと途方もないことが起きるのでしょう!最後に私たちが完全にはっきりと見る時、神の子供たちは神の奇跡未満の何ものでもなかったことがわかるでしょう。私たちは、神の子供を滅ぼすために傾注されている力をすべて知っているわけではありません。また、神の子供を最後までずっと守るために、神がどれほど全能の力を行使しておられるのかも知りません。私たちの中には次のことを多少知っている人もいます。すなわち、私たちが生き延びてきたのは他の強大な敵の力に対して神が御力を行使してくださったおかげであり、私たちは神の力によって保たれているのです――私たちを守るには神の力が必要なのです!

神の子供の生涯の始まりは奇跡です。「どうして人は再び生まれることができるのでしょう?」。「神がそれをなさるのです」という以外に、この問いに対する答えはありません。「この人はどうやって、自分の肉を私たちに与えて、食べさせることができるのか?」(ヨハネによる福音書六章五二節)。つまり、地上には助けや支えや養いが何もないのに、どうやって神の子供を最後まで守ることができるのでしょう?この問いに対しても、「神がそれをなさるのです」という以外に答えはありません。神が助けてくださらなければ、神の子供は沈むしかありません。彼や彼女の上には、滅ぼすために他の力が集中しているからです。神の子供の生涯の究極的完成も、同じように奇跡です。「死人はどのようにして復活させられるのですか?彼らはどのような体で来るのですか?」(コリント人への第一の手紙十五章三五節)。これに対する答えも同じです――神だけがそれをなさるのです。

最初から最後まで、すべてが奇跡です。天の王国は新しい構成です。その中には人間の能力の最高水準を遙かに上回る、遙かに超越した可能性や能力があります。すなわち、地や自然の王国全体を上回っており、超越しているのです。

(d)新しい召命

さらに、天の王国は新しい召命です。天の王国は生きる目的であり、その中で仕えるべきものであり、活動させるべきものです。天の王国は、新しいいのちの務めと目的の領域及び手段になります。真に再生された神の子供の意識は次のようなものです――「今、私は自分がなぜ生きているのか知っています!『なぜ自分は生まれたのだろう』と私はずっと疑問に思ってきました。私はそれについてつぶやき、『生まれることを望むかどうか尋ねられもせずにこの世に生み出されて、ひどい目にあった』と感じていました。しかし今、それには目的があることがわかります――私には生きる目的があるのです!」。真に再生された神の子供は、出かけて行って、「結局のところ、生きることには価値があります!」と人々に告げます。あらゆることに神の御旨や意味があることを、彼は見いだしたのです――彼が新しく生まれて王国の中に入るまで、それは積極的なものとして決して存在していませんでした。天の王国は新しい召命であり、人生の目的に対する新しい感覚です。天の王国は人生に意味を与えます。これが王国です。

これは、王国を法律や規則――「あなたは……するべきである」「あなたは……するべきではない」といった何か客観的なもの――を伴う一つの場所とする考えとは、全くかけ離れた考えではないでしょうか?「天の王国はあなたたちの内にあります」(ルカによる福音書十七章二一節)。天の王国はこのような類のものです。

(e)新しい引力――天への引力であって、地への引力ではない

さらに、天の王国は上からのものです。これは、天の王国はあらゆる点で卓越していることを確かに意味します。天の王国は何か生きているものであり、人生をいっそう高い水準に引き上げます。つまり、もし新しいいのちが上から、天から到来するなら、それは絶えずその源に引き寄せられるでしょうし、また、もしこの新しいいのちが私たちの内に働くなら、それは私たちを高く上げて、神の方に引き上げるでしょう。新しいいのちはこのように働くので、「この世は自分の故郷ではない」と私たちはまず感じるようになります。この世は私たちの故郷でした。これが起きるまで、私たちにとってすべてはここにありました。私たちはその向こうに何も見ませんでした。今、私たちはこの世に属さず、どこか別の所に属しています。そして何か奇妙な形で、常にこの地上から遠ざかっています。この地上の居心地は日毎に悪くなっていくのがわかります。何かこのような経験をしたことがあるなら、あなたは王国の中にいます。この地上で快適に、幸せに、満足して暮らしていけるなら、あなたは王国に関して自分がどこにいるのか、深刻な疑問を持つべきです。しかし、あなたとこの地上のあらゆるものとの間の距離が内面的に開きつつあることをますます感じるようになっているなら、王国は真に働いているのであり、天の王国は到来しているのです。

天の王国はすでに到来しているだけでなく、到来しつつある

さて、別の点についてです:王国はすでに到来していますが、常に到来しつつあります。私たちは王国に入りましたが、常に入るべきです。ヘブル人への手紙の最後にささやかな御言葉があります――「私たちは揺り動かされない王国を受けているのですから……」(ヘブル人への手紙十二章二八節)。その文字どおりの意味はこうです――「揺り動かされない王国を受ける過程・経過の中にあるのですから……」。王国はすでに到来しているだけでなく、到来しつつあるのです。この点において私たちはみな、回心と救いという二つの事柄の違いを識別する必要があると思います。

あなたはこれまでこの区別をしたことがあるでしょうか?回心と救いは全く別のものです。回心は転機であり、おそらく突然一瞬のうちに起きて、完了します。では救いはどうでしょう?救いは何か始まっているものです。しかしまた、新約聖書は「あなたたちの信仰の目的である魂の救いを受けること」(ペテロ第一の手紙一章九節)について語っており、救いは依然として将来であることを示しているのがわかります。これに基づいて誤った教理を打ち立てて、「救いは未来形で語られているのだから、自分が救われているかどうかは最後までわからない」と教える人たちがいます。しかし、私たちは救われていますし、救われつつあります。私たちは回心によって王国に入りました。しかし、救いは回心よりも遙かに大いなるものなのです。おお、救いは広大な事柄であり、王国を示す別の言葉にほかなりません――王国は常に到来しつつあります。神のいのちを受けたばかりの霊的な赤ん坊は、すべてを受けているわけではなく、潜在的に受けているだけです。霊的な赤ん坊は、回心して新しく生まれました。「小さな赤ん坊は持つべきものをすべて持っている」と言えるでしょうか?このいのちの中には潜在的にすべてがあります。しかし、さらに知るべきことがなんとたくさんあることでしょう!このいのちが意味するもの、このいのちに伴うものとその目的、そこにある可能性を、ことごとく知る必要があるのです。

これが回心と救いの違いです。この王国は広大な王国です――「彼の王国は永遠に続く王国です」(ダニエル書四章三節)。「彼の統治は増し加わり(中略)終わることなく」(イザヤ書九章七節)。「終わることなく」はまさに、永遠に拡張することを意味します。これを地理的な事に限定できるでしょうか?たしかにできません。これは霊的な事であるにちがいありません――ご自身の民に対する神の広大無辺な富であるにちがいありません。このあらゆる富と神の王国の大きさを知り、それを探求するには永遠の時が必要でしょう。

王国は激しく襲われている

さて、はなはだ不十分ではありますが、預言者たちが何について述べていたのか、また、あなたや私が何と接触するに至ったのかについて考えたので、次に、失うおそれがあるものについて見ることにしましょう。次の別の御言葉を見ましょう、「律法と預言者たちはヨハネの時までであった。その時から、神の王国の福音が宣べ伝えられていて、だれもが力ずくでそれに入ろうとしているのである」(ルカによる福音書十六章十六節)。「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の王国は激しく襲われており、激しく襲う者たちがそれを力ずくで奪い取っている」(マタイによる福音書十一章十二節)。王国は「激しく襲われて」います。激しく襲うことを許しているだけではありません。実に、激しく襲うことが必要であり、力ずくで奪い取るのは激しく襲う者たちなのです。ルカはこれを「力ずくで入る」と言っています。

これがこの王国の市民権の精神です――つまり、「力ずく」ということです。なぜでしょう?熱心さが必要であるだけでなく――確かに熱心さも必要なのですが、この王国がどれほど途方もないものなのか、また王国を真剣に受け止めないならどれほど大きな損失を被ることになるのか、理解する必要があるからです。しかし、主イエスは常に敵対的な状況のただ中で話しておられたことがわかります。ある体系的組織がこぞって、とんでもない偏見を公言していました。ある時、彼は彼らに言われました、「偽善者である律法学者とパリサイ人よ、あなたたちは災いだ!あなたたちは天の王国を人々の前で閉ざしています。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせないのです」(マタイによる福音書二三章十三節)。悪魔と人々から来るあらゆるものが妨害します。入るには激しく襲うことが必要です。あなたに邪魔される隙があるなら、あなたは邪魔されるでしょう。敵対勢力はあなたを追い払うための根拠を欲していますが、もしあなたが気楽にいこうとするなら、あなたは敵にその根拠を与えることになるでしょう。

王国の中に入るのは一度きりのことではなく継続的なことである、と指摘したのはこのためです。王国は回心よりも遙かに大きなものです。もちろん、救われるには――初期の救いのことです――あなたはそれに取り組まなければなりません。救いのために必死にならなければなりません。なぜなら、あらゆるものがあなたを阻止しようとするからです。しかし王国については、それに入るよりもずっと多くの取り組みが必要であり、回心するよりもはるかに多くの取り組みが必要です。私たちの人生に対する神の御旨の中には、私たちの想像以上にずっと多くのものがあります。神の御旨の中に入るには、力ずくで襲うことが私たちの特徴でなければなりません。私たちは必死に取り組んで、次のように言う境地に達しなければなりません、「主よ、私はあなたがキリストにあって意図しておられるすべてのものに集中します。私はこれに集中して、他の人々の偏見・疑い・批判がその道に割り込むのを許しません。人の造った組織が私の邪魔をするのを許しません。私はあなたのあらゆる御旨のために、あなたと共に進み続けます。その道に割り込むものを、私はすべて力ずくで襲います」。力ずくで襲うことが必要です。私たちに対する神の御旨をすべて成就するには、力ずくで大いに襲わなければならないのです。

おお、必死さに欠けるがゆえに、なんとたやすく多くの人が脇道に逸れされてしまうことか!彼らは制限する数々の事柄の中に捕らわれてしまいます――それらの事柄は良いものかもしれませんし、神からのものを何かしら含んでいるかもしれませんが、それにもかかわらず、それらは制限するものであり、神のあらゆる御旨に至る広く開かれた道ではありません。主が意図しておられるすべてのもの――自分が見たものだけでなく、主が目論まれたすべてのもの――にあずかる唯一の道は、必死になることであり、力ずくで襲う人になることであり、「神の恵みにより、何ものも、何人も、たとえどんなによくても、私の道に立ちふさがることはありません。私は神と共に進み続けます」と言う人になることです。主と共にこの立場に立ちなさい。そうするなら、神はこの立場の上であなたに会ってくださることがわかるでしょう。

何人も――パウロ自身でさえも――自分がこれから知ることになるものをすべて知っていたわけではありません。パウロはさらに豊かな啓示――彼の召しの目的に関する啓示――を常に受けていました。初めに、彼は何かとても強力で豊かなものを受けました。その後、彼は語ることのできないものを示されました(コリント人への第二の手紙十二章四節)。彼の理解は増し加わっていきました。しかし、どうしてでしょう?それは、彼が激しく襲う人だったからです。神はこのように私たちと会われます、「曲がった者には、あなたはご自身をひねくれた者として示されます」(箴言十八章二六節)。これが原則的に意味するのは、あなたが神に対してどのような者であるのかに応じて、神はあなたに対してそのような者になられるということです。もしあなたが真面目に取り組むなら、神も真面目に取り組んでくださいます。王国の中には、思いもよらぬものがたくさんあります。どうかこれを信じてください。この地上の何人も知らないことがさらにあり、私たちはみなそれを知らなければなりません――最も偉大な聖徒たちや最も進んだクリスチャンたちの知識を遙かに超えたものが、神の御旨の中にはあるのです。

パウロはこれを示唆しています。ピリピ人への手紙の中で彼が明らかにしているように、生涯の最後にもかかわらず、彼には理解すべきこと、知るべきことがまだありました。「それは私が知るためです……」(ピリピ人への手紙三章十節)。知るべきことがたくさんあります。あなたはこれを信じるでしょうか?あなたは自分の人生が、自分の知識量や他の人々の知識量によって制限されるのを、よしとするのでしょうか?いいえ――神の目的はキリストの度量です。「ついに私たちはみな、信仰の一に、また神の御子を知る知識の一に到達し、一人の完全に成長した人となって、キリストの豊満の身の丈の度量に到達するのです」(エペソ人への手紙四章十三節)。この地上のいかなる運動、協会、宣教組織、教会も、まだこれに達していません。しかし、これが目標です。しかし、私たちを豊満に導くために、神は次のことを必要としておられます。すなわち、私たちが激しく襲う人になること、本当に真面目に取り組むこと、その道に割り込んでくるあらゆるもの――それから、おお、もっともらしく聞こえるけれども、巧妙に偏見に毒されている声!――に対して、「どきなさい。私は神と共に進みます、私は道に立ちふさがる何ものも容赦しません」と言うことです。

「王国の福音が宣べ伝えられています」。あのユダヤ主義者たちがイエスについて人々に話すのを想像できるでしょうか?「注意しなさい。つかまらないように気をつけなさい!あなたたちへの忠告は、これを避けることです――彼とあまり深く関わってはいけません!」。このようなことが起きていたのです。パウロは常にこれに立ち向かいました。道中、彼はこの人たちに付け狙われました。彼らは彼の後についてきて言いました、「気をつけなさい――それは危険です!」。主ご自身も同様のことを経験されました。彼は言われました、「王国は激しく襲われています」。激しく襲うことが必要です。キリストにあって啓示された神の完全な御旨の道に立ちはだかるものをすべて激しく襲う人の一人でなければ、あなたはそもそも王国の中に入ることはないでしょうし、ますます豊かに入ることもきっとないでしょう。その御旨が何か、知ることすらないでしょう。あなたがこの種の人――激しく襲って入る人――であることを神がご覧にならないかぎり、神は御旨の次の部分をあなたに啓示することはできないでしょう。

あなたはそのような人でしょうか?もし受動的なら、すべてを失います。もし真面目に取り組むなら、すべてを得ます。主よ、私たちをそのような男女にしてください、もし私たちが「聞く耳があるのに聞かない」(エゼキエル書十二章二節)と述べられている人々の中に数えられているのでないなら。