Ⅶ.旧経綸と新経綸の対比

T. オースチン-スパークス

「なぜなら、エルサレムに住んでいる人たちとその支配者たちは、この方について、また安息日ごとに読まれる預言者たちの声について、無知であったために、彼を罪に定めることによって、それを成就したからです。」(使徒の働き十三章二七節)

ある意味で、この節は使徒の働き全体の鍵です。なぜなら、この書はまさに、この御言葉の核心たる原則を解き明かして示すものだからです――その原則とは次のようなものです。すなわち、たとえ聖書が朗読されていて、人々を通してなされた神の発言や活動の記録が読まれており、この御言葉が述べている人々のように、それを一生のあいだ何度も読み返すことができたとしても、その真の意味を見逃すおそれがあるのです。別の言葉で言うと、実際に朗読された言葉以上の何かが、その中にあるのです。このユダヤ人の支配者たちのように、あなたは文章、文字、巻、記録全体を持っているかもしれませんし、聖書をそのようなものとして知っているかもしれませんが、それでもあなたは道を見失っているのかもしれませんし、神が意図されたのとは全く異なる平面上を動いているのかもしれないのです。この使徒の働きは最初から最後まで次のことを示しています。すなわち、神が昔の人々に霊感を与えて語り記させられた時、彼らが用いた実際の言葉からわかること以上の何かが、神の御心の中にあったのです。それを聞いて把握・理解するには、また、それがこの書に記されているように――力と効力とをもって――功を奏するには、神の霊の働きが必要です。

使徒の働きと新約聖書全体を通して、旧約聖書が多く引用されています。預言書がとても多く引用されていますが、使徒の働きの中で用いられているその言葉の効力と、預言者たちの実際の発言をただ聞いたり読んだりしただけの人々に対する効力との違いを見てください。聖霊が来臨されました。聖霊は別の聖書を書いているのではなく、昔ながらの聖書を用いておられます。しかし、それは新しい意味と新しい効力を持つ新しい書です。聖霊が聖書を用いられる方法に、あなたはしばしば驚きます。そのような意味があることを、あなたは決して見ていませんでした。ある意味で聖書をとてもよく知っていたにもかかわらず、それは何か以前の理解を超えたものです。そこにはある違いがあり、この違いは決定的なものです。

ですから、エルサレムの人々とその支配者たちは、安息日ごとに預言書を聞いていたのに、預言者たちの声を聞き逃しました。彼らは何かを――語りかける神の御声と、神の語りかけの意味を――逃しました。一つの群れが共に集まって、一人の人が主の御言葉を語る場合を考えましょう。ある人はただ話を聞いただけで、出て行って「彼はこういう話をしました」と言い、実際に話された言葉を繰り返すかもしれません。他方、「私はそのようなものを前には見たことがありませんでした。聖書のその節は知っていましたが、これを見たことはなかったのです!」と言う人がいるかもしれません。その人は新たな意義と生ける価値を持つ何かを察知しました。これが預言者たちの言葉と、預言者たちの言葉を通して語られる神の御声との違いです。

ですから、すでに述べたように、十三章のこの節は、ある意味でこの書全体の鍵です。この節は文字と霊を区別し、文章とその文章の神聖な意味を区別します。この区別はとても重要です。一方は死であり、効果はありません。他方はいのちであり、進み通します。

預言はすべて主イエスを指し示す

さて、使徒の働きを見ることにしましょう。この原則を心にとめて、直ちに一章に戻ることにします。挿話として、次のことを思い出した方がいいでしょう。すなわち、大まかに言って、全聖書は(いくつかの節を除いて)これに関する包括的記述で終わっているのです。黙示録十九章十節で、「イエスの証しは預言の霊です」と述べられています。これは何を意味するのでしょう?これは次のことをまさに意味します――つまり、聖書全体を通して、初めからずっと、この意味の予測的要素や暗示的要素があったのであり、当時語られた実際の言葉以上の何かが暗示されていたのです。その中には必ず、先を指し示すものがありました。それは歴史的出来事かもしれませんし、時・場所・当事者が地理的にも時間的にもきわめて限られているかもしれませんが、聖書のいかなる箇所も、当座のことしか視野にないということはありません。何かそれ以上のものがあります――暗示があり、先を指し示すものがあります。これらが指し示すものをすべて見れたなら、それはイエスであることがわかったでしょう。あらゆるものの中に、いたるところで、彼が暗示されているのです。

預言について話す時、旧約の特定の時代や特定の人々に考えを限定しないようにしましょう。たしかに、私たちはこれまで、あまりにも多くの時、旧約聖書の「預言」の区分に収められている書の預言者たちで頭がいっぱいでした。しかし、私たちはこれを超えて進まなければなりません。モーセは預言者と呼ばれました(申命記十八章十五節)。サムエルは預言者でした(サムエル記上三章二〇節)。ダビデですら、新約聖書で預言者と呼ばれています(使徒の働き二章三〇節)。預言の霊は、私たちが預言者と呼んでいる特定の位の人々よりも、もっと多くの人々を包含しています。預言の霊は遙かエノクまで遡ります。いいえ、もっと前まで遡ります――女のすえに関する創世記三章十五節まで遡ります。これが預言の霊です。ですから、預言は遙か遠くまで及ぶ、すべてを含むものであり、主イエスと関係しているものなのです。これを覚えておくなら、朗読される言葉以上の何か神聖な意味を見ることができる、と私は期待します。

この挿話をもって、使徒の働きの一章に行くことにしましょう。

聖霊が聖書の中に隠された意義

「彼らは一緒に集まった時、彼に尋ねて言った、『主よ、あなたがイスラエルの王国を復興されるのは、この時ですか?』」(使徒の働き一章六節)

預言者たちがこの王国の問題にどれほど専念していたのか、前の章で指摘しました。主イエスのこの弟子たちは、王国についての観念を丸ごと預言者たちから得ました。ですから、彼らの質問は預言者たちの教えに関するある種の知的理解に基づいていました。彼らは預言者たちが述べたことからある考えを導き出して、この期に及んでこう尋ねます――「『あなたがイスラエルの王国を復興されるのは、この時ですか?』。彼は彼らに言われた、『父がご自身の権威によって定められた時や時期について、あなたたちは知らなくてもよい。しかし、聖霊があなたたちの上に臨む時、あなたたちは力を受ける。そしてエルサレムにおいても、ユダヤ全土とサマリヤにおいても、また地の果てまでも、わたしの証し人となるであろう』。彼はこれらの事を言い終えると、彼らが見ている間に」――王国を復興し、王座に着かれたのでしょうか?いいえ――「引き上げられて、雲が彼らの視界から彼を連れ去った」(使徒の働き一章六~九節)。

ここから、すべてが霊的理解の方法で始まります。なぜなら、主イエスのこの御言葉は、新しい時代が始まりつつあることを示していたからです。この新しい時代は、弟子たちが預言者たちの教えから予期していたものとは異なるものでした。それは聖霊の時代だったのです。そして、旧約聖書の預言に関して、聖霊は思いもよらないことを意味しておられたことを、弟子たちは発見しようとしていました。聖霊が神の御言葉を握られるまで、弟子たちは預言書を全く理解しませんでした。次に、聖霊が真に聖書を握って、それを適用し、開き、それに神聖な意味を与え始められた時、弟子たちの固定観念に全く反する予想外の出来事が起きたことがわかります。そのため、弟子たちは自分の考えを放棄しなければなりませんでしたし、確立された自分の立場を捨てなければなりませんでした。聖霊が神の御言葉を握り、次に私たちを握られる時、それはとんでもなくたいへんなことです。私たちの見解や行動全体に革命的変化が起きるでしょう。この使徒の働きは、そのような革命的変化でいっぱいです。

御霊の来臨――新しい秩序の導入

これは聖霊の経綸、聖霊の管理です。「経綸」と「管理」という言葉は、経営や秩序を意味し、現体制下における行動方法を意味します。聖霊が来臨されたこの時代、聖霊は変化を生じさせ始められました。なぜなら、聖霊が責任を担われたからです。あなたがある会社の社員になったとしましょう。あなたは赴任して、物事がどのように行われているのかを見ます。時間が決まっており、このように固定されています。この体制下では、このような仕方で物事が行われます。そこに新しい最高経営責任者が赴任してきて、この広く行き渡ったしきたりを見ます。そして直ちに、それが不完全な体系であること、会社の存立目的たる十分な成果をあげていないことを察知します。彼は静かに、しかし力強く、責任を担い、状況が変わり始めます。旧体制下に何年もいた旧来の人々は、この変化を好まず、反発し始めます。彼らはそれを受け入れません。反抗し、この新しい秩序に対して戦いを始めます。心の広い、あまり頑固でない人々は、経営者の考え、ビジョンを見始めます。彼らは困難に際して時々つまずき――コルネリオを訪問した際のペテロのように(使徒の働き十章)――この途方もない変化の意味に直面し、以前の偏見を克服するのに多少の葛藤が必要ですが、それでも彼らは戦い、困難を克服し、行動を共にします。こうして大きな変化が生じ、素晴らしい結果がもたらされます。何かが起き始めます。今、会社の当初の目的が素晴らしい形で実現・成就され始めます。

これこそまさに、聖霊がペンテコステの日に来臨された時、起きたことです。当時、一定の確立された秩序がありましたが、それは神の御旨に届いていませんでした。いわば、「商品を出荷して」いなかったのです。神の御心を完全に知る知識と共に、聖霊が来臨されました。聖霊は来臨して、この真の神の御思いを実現する働きを開始されました。聖霊が支配されました。それで、聖霊は人々を分けたのです。ある人々――エルサレムに住んでいる人たちとその支配者たち――は、この新しい秩序を受け入れようとしませんでした。まあ、いいでしょう――彼らはそれをすべて失います。しかし、他の人々は聖霊の交わりの中に入って、「主に結合されて一つ霊」(コリント人への第一の手紙六章十七節)となり、素晴らしい結果を得たのです。

決定的違い――聖書の文字と聖書の霊

要点はこうです。まず第一に、それは新しい経綸です。次に、聖霊が責任を担っておられます。聖霊が責任を担っておられることを、その全体的意義と共に認識しなければなりません。聖霊が責任を担っておられるので、聖霊はご自身の活動により、永遠からの神の御旨を啓示し、推進しておられます。そして、聖霊はこの時代にそれを実現しようとしておられます。亀裂については――当時それは歴史的な亀裂でしたが、この時代全体を通して霊的に進行してきた亀裂でもあります。この亀裂は文字の人と霊の人とを分けるものです。

固定された立場に向かうこの動きやこの傾向は、常に繰り返されており、神から出たものを閉じ込め、組織的制約の中にもたらそうとしています。これは神の計画全体を挫折させるものです。私の前に一つの記事があります――全部引用できるとよかったのですが、できません――しかし、この記事の中には、私がなしうる以上に私の考えをうまく表現している箇所があります。この記事は英国議会の議員によって書かれました。

「男女を分ける多くの分け方がある――上流、中流、下流:金持ち、裕福な者、貧者:宗教者、懐疑論者、無神論者……等々。しかし、真に重要な唯一の分け方は、人々を御霊の僕と組織の囚人とに分ける分け方であろう。他の分け方をすべて横断するこの分け方は、実に根本的なものである。思想、霊感は、内なる世界、御霊の世界から発する(中略)この思想が組織の中で具体化されると、その組織は自分を生み出した思想を抹殺する方向に少しずつ進んで行く。宗教の領域では、霊感を受けた預言者が真理の幻を見る。彼は出来る限り最善を尽くしてその幻を言葉で表現する。その預言者のメッセージに対する弟子たちの理解に基づいて、組織、教会が建てられる。中途半端にしか理解されなかったメッセージは、結晶化されて信条になる。やがて、教会の主要な関心事は自分を組織として維持することになる。この目的を達成するため、信条からのいかなる逸脱も否定されなければならず、必要なら異端として弾圧されなければならない。二、三の理由により、数百年のうちに、新しい高い真理の伝達手段として考案されたものが人々の魂の牢獄になってしまったのである。そして、人々は神を愛するがゆえに互いに殺し合っているのである」。

「これから一つの教訓を学ばなければならない。これを言うのは全くおかしなことではないであろう。その教訓とは、『あらゆる組織が持つべき第一の規則は、一定期間内の解散を命じる規則である』ということである。(中略)組織の一員であるとき、我々はその組織に対して部分的離脱の姿勢を取るべきである。たとえ組織の中にいても、組織を超越していなければならない。『自分は組織の中でほとんど絶え間なく抵抗している』と思うべきである。とりわけ、『組織に対する忠誠は仮のものであり、暫定的なものである』と見なすべきである。我々は御霊の僕でなければならない。組織の囚人であってはならない。我々はいのちの源に触れ続けなければならない。一時的な伝達手段によって自分を失ってはならない」。

「この世界は橋である。それを渡ることはできるが、その上に家を建てることはできない」。

使徒の働き全体を通して記されているのは、まさに次のことではないでしょうか――すなわち、自分の真理理解や自分の解釈や部分的認識を結晶化すること、文字による記述、最初は神の霊から出ていたけれども、その境界を越えて行くことを今は許さない、何か固定されたもの――が記されているのではないでしょうか?それ以上のものやそれ以外のものは、何であれ異端と呼ばれます。これが最後通牒の言葉です。それは組織、いわゆる教会、分派、宗派という形で現されているかもしれませんが、もしそれを踏み越えるなら、「あなたは完全に間違っている」と言われるのです。組織に属する人と御霊に属する人のこの大きな違いが、この使徒の働きに示されています。

前進するには御霊の主権が不可欠である

要点はこうです。神の御旨が完全に成就されるためには、聖霊が常に責任を担うこと、聖霊が完全に統治する地位に就くこと、聖霊の地位に何も置かないことが必要です――何も置いてはいけません。「教会」や定まったしきたりを置いてはいけません。いついかなる時も、「それは私たちの教えていることではありません。それは私たちが信じるように導かれてきたものではありません。それは私たちの教会が信じていることでも、教えていることでもありません」と決して言ってはならないのです。このように言うことは、聖霊の道を妨げることです。聖霊が責任を担わなければなりませんし、聖霊は自由でなければなりません。まさにこうした点に関して、使徒たち自身が最初に戦いを経験したのであり、次に拡大を経験したのです。先に進むにつれて、これがわかるようになるでしょう。聖霊が私たちの責任を担われるとき、神の完全な御旨が具体化します。

それから、時や時期よりも遙かに重要なものがあります。時や時期に注意しなさい。時や時期は、驚くべき有害な形であなたを制限することがあります。多くの人は時や時期の中にとどまっています。しかし、人々は何世紀もずっとそうしてきたのです。警戒し、監視し、注意しましょう。しかし、気をつけてください。たとえば、パレスチナでは様々な出来事が起きました。「アレンビー将軍がエルサレムに入った時、異邦人の時は終わった」「ムッソリーニがローマに自分の大帝国を設立したことは、新しい皇帝がローマ帝国を再興するために到来したことを意味する!」と言われました。このようなことが何世紀も続いてきました。これはみな時や時期に基づいています。

要点はこうです――時や時期がないわけではありませんし、神の御計画の中には独特の特徴を持った注目しうる動きがないわけでもありませんが、それよりも限りなく重要なものがあるのです。使徒の働きが見せているのは天的な面であって、地的な面ではありません。これが、「彼はこれらの事を言い終えると(中略)引き上げられた」という箇所に、私が時間を費やした理由です。その時から、それは天的な事柄になったのです。後に、使徒パウロはこのような句を用いています、「御霊はすべてのものを探り、実に神の深みさえも探られるからです」(コリント人への第一の手紙二章十節)。「御霊は(中略)神の深みさえも探られるからです」。これは時や時期よりもはるかに重大なことです。聖霊が実際に責任を担っておられるなら、神が啓示すべき事柄を推し量る必要はありません。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの」。これが向こうにあり、この広大な領域の中に、聖霊は私たちを導いてくださいます。人為的な人造の制度で聖霊を弾圧しないよう、私たちはとても注意深くなければなりません。私たちは御霊と共に外にいなければなりません。そこから私たちの驚きが始まります――そうです、そしてまさに私たちの実際の訓練も始まるのです。

預言書の究極的意味は霊的であり天的である

使徒の働き十三章二七節に述べられている人々、すなわち典型的な人々は、ある種の聖書理解を持っていました。神の御言葉に対する彼らの熱心さには、全く疑問の余地がありませんでした。聖書の霊感に関する限り、彼らは熱狂的な根本主義者でした。彼らは聖書にこだわりました。一点一角もなおざりにしなかったのです。彼らの多くは、外面的儀式の分野ではごく小さなことにもこだわり、こまごまと潔癖すぎるほどでした。律法が「その土地のすべての実の十分の一は主のものである」と定めていたので、彼らは細心の注意を払って、はっかや他のハーブの十分の一をささげました――しかし同時に、彼らは正義とあわれみと信実といった内面的なもの、主にとってはるかに重要なものをなおざりにしていたのです(マタイによる福音書二三章二三節)。これが彼らの理解であり、精神であり、立場でした。彼らは上辺しか見ていませんでした。彼らにとって大切なのは聖書の厳密な方法論の問題だったのです。

その結果はどうだったでしょう?彼らは地的組織を神の御言葉で保とうとしました。彼らの「教会」は「イスラエルの教会」、「イスラエル教会」でした――あなたはイスラエルの所に自分の好きな他の宗派の名前を入れることができます。この教会には、独自の形式、祭服、儀式、祈祷書があり、すべてが聖書どおりでした。安息日ごとに預言書が読まれていました。組織は整っていましたが、この地上のものであり、なによりも死んだ状態にありました。全く形式的で、神の御旨に全く届いていませんでした。ある意味で聖書的でしたが、神の永遠のご計画を実現することに失敗していたのです。聖霊が来臨されたとき、聖霊は預言書や旧約聖書を一掃されませんでした。聖霊はそれらの書を取り上げて、そこには何かそれ以上の内容――神の御言葉を地的な方法で完全に守るための方法論や、その付帯則を超えた内容――があることを示されたのです。もしそれがなければ、他のものはみな排除されなければならないでしょう。イスラエル教会は排除されます。それは神の御旨に到達することに失敗したので、過ぎ去ります。大いなる移行――これが使徒の働きの結末です。こうした一切の背後には、神聖な意味があります。この神聖な意味を理解するなら、他のものはなくてもすみます――去らせることができます。もしあなたが生ける天的な方法で、この神聖な意味を真に霊的な感覚と領域の中に保つなら、他のことは大したことではなく、すぐに落ちて離れていきます。

これが使徒の働きで起きたことです。それが起きた時を見分けるのは困難ですが、確かにそのような時があります。使徒たちはしばらくの間、宮と会堂に出席し続けましたが、その後、そうするのをやめました。彼らは一時の間とどまりましたが、その後、絶えず静かに外に向かって動き続け、ついには出てしまったのです。何かが起きました。彼らはこの実体の中に入り、最初のものは過ぎ去りました。一方は他方に至りましたが、それはこの目的に役立ったのです。彼らはそのあらゆる天的な恩恵と意義にあずかりました。今や、大切なのは方法論の問題ではなくなったのです。

一定の規則や儀式について、次のように言う人が大勢います、「もちろん、これがすべてだとは思いません。これは象徴にすぎません。それが何か別のものを意味し、指し示していることはわかっています。私たちの念頭にあるのは、その別の何かなのです」。そうかもしれませんが、次のこともまた真実ではないでしょうか?すなわち、当時のように聖霊が来臨してあなたを占有し、あなたが聖霊と共に進む時、キリスト教の外面的で地的な一時的面にすぎないものを強調することはますますやみ、その実際の栄光にいっそうとらわれるようになるのです。史的イエスは御霊のイエス、天のイエスに完全に置き換えられます。これこそまさに、「預言者たちの声」が意味することです。

ですから、ペンテコステの日はヨエル書と共に始まります。エルサレムの人たちはみな、「これは何を意味するのだろう?」と言いました(使徒の働き二章十二節)。彼らはみな当惑して、わけがわかりませんでした。ペテロは他の十一人と共に立って言いました、「これは預言者ヨエルによって語られたことです」(十六節)。「これは……です」。これは伝統に対する何という一撃であり、イスラエルに何という騒動を引き起こしたことでしょう!「これは」という言葉は――ナザレのイエスを暗示していたのです!使徒は旧約聖書から自由自在に引用して、さらに続けました。彼はダビデを引用しました。ペンテコステの日の彼の説教は旧約聖書の引用でいっぱいです。しかし、これがその意味であることを誰が理解していたでしょう――誰が知っていたでしょう!

要点がおわかりでしょう。これは途方もない力で私たちに臨む必要が実際にあるものです。なぜなら、新約のキリスト教ですら、厳密な方法論という地的体系に再び落ち込むおそれがあるからです。あなたは新約的方法について、自分の手引き書を書くことができます。全く文字にしたがって、この手引き書を持つことができます――しかし、それは全く表面的なものであり、律法的になって、聖霊を束縛してしまいます。「主がもっと良い道を得ることができるように、もっと厳密に聖書に従いたい」ということがその意図だったのかもしれませんが、常にそういう結果になるとはかぎりません。すべては聖霊の中にバプテスマされて、地的水準からすっかり引き上げられ、全く天的なものにならなければならないのです。

私たちの責任は御霊に明け渡すことである

さて、弟子たちが「あなたがイスラエルの王国を復興されるのは、この時ですか?」と尋ねた時、彼らは真剣かつ純粋に悩んでいた、と言ってかまわないと思います。聖書は成就されなければならず、書き記されたことは実現しなければなりません。弟子たちはこれで心がいっぱいで、重荷を負って困惑していたのだと思います。彼らは事の成り行きを知りたいと思いました。主は事実上こう言われました、「それについて心配してはいけません。聖霊が到来して、責任をすべて引き受けます――時、時期、他のあらゆる責任を引き受けます。聖霊は神のあらゆる御旨をたずさえて到来し、それを成就します。あなたたちは安息していられます――何も問題はありません」。組織に関するこの地的な考えや観念を思いついた人々は、それを成就するためにひどく心配して、重荷を負いました――この「新約の教会」という恐ろしい責任、すべてを全く聖書どおりにするという恐ろしい責任を負ったのです!聖霊が責任を負っておられたなら、この重荷は去っていたでしょう。聖霊がこれをなしておられます。私たちのなすべきことは、聖霊の御手の中に入り込むこと、このあらゆる些事から完全に自由になって、神の霊のもとに行くことだけです。事は無事に成就します。

聖霊が私たちの内にある数々の石にぶつかって、一時のあいだ戦いがあったとしても、聖霊はその状況を十分に克服することができます。聖霊はペテロよりも強く、汚れたものを食べたことがないという彼の慣習よりも強いのです。主があらゆる種類の四つ足の動物やはうものの入った敷物が降りてくる幻をペテロに与えて、「ペテロよ、起きなさい。ほふって食べなさい」と言われた時、ペテロは主に対して実質的に聖書を引用しました。食べてはならない汚れた動物に関する戒めが記されている、レビ記十一章を引用したのです。「主よ、この聖書の御言葉は私の立場を支持しています。私の立場はしっかりと神の御言葉に基づいているのです!」。あなたなら、これをどうするでしょう?さて、聞いてください――「聖霊は聖書に反することを行うよう私たちに要求される」と、私は言っているのでも、ほのめかしているのでもありません。聖霊は決してそんなことをなさいません。しかし、聖書には私たちが見たことのない意味があることを、聖霊は私たちに何度も示されるのです。レビ記十一章には、ペテロの見ていなかった意味がありました。彼は字面を見て、その文字どおりの意味を受け入れました。その背後にある神聖な霊的意味を決して見たことがなかったのです。コルネリオは聖霊を受けていなかったので、御使いが彼に話しかけました。ペテロはペンテコステの日に聖霊を受けていたので、ペテロに話しかけたのは御霊でした。聖霊はこの問題を治めて、ペテロの問題、彼の根本主義の問題さえも対処されました。それは彼を、たんなる一時的な地的立場から、天的立場に引き上げるためでした。ペテロは開かれた天の下で生きていました。あなたがそこに至る時、途方もない変化があります。それは一度に全部起きるわけではありません。

聖霊は信者の「上に(upon)」臨むだけでなく、信者の「内を(in)」満たす

さしあたって、もう一言だけ述べましょう。聖霊の二重の働きがあったことがここでわかります。二章では、御霊は彼らの「上で(upon)」燃えました。この炎のような分かれた舌が彼らの上にとどまりました。そして、こう記されています、「彼らはみな聖霊で満たされ、御霊が語らせてくださるままに、さまざまな言葉で話しだした」。「上に(upon)」と「内に(in)」。これまで専門的すぎることの弊害について述べてきたので、専門的な話はしたくないのですが、「上に(upon)」と「内に(in)」には意味があるのです。聖霊が「上に(upon)」臨むことは、神の永遠の御旨に関する聖霊の主権を意味します。つまり聖霊は、神の永遠の計画、永遠からの神の御旨の管理者・執行者として来臨されたのであり、そのように来臨することにより、その器の上に神の御旨を課すのです(「課す」という言葉は間違った言葉使いではないと信じます)。聖霊は主権的方法により、その器を御旨の中にもたらされます。まるで外面的方法でその器を取り囲み、その世話をして、「これは神の永遠の御旨の器である」と言われたかのようです。聖霊はその世話をして、このために「上に(upon)」臨みます。

しかし次に、聖霊は「内に(in)」も入り、彼らは満たされました。これにはさらなる意味がありました。その意味とは、器の内なる命は外側の御旨と一致していなければならないということです。これは途方もないことです。旧経綸はこうではなかったことがわかります。これこそ、預言者たちが常に扱っていた問題です。外面的形式はありました。イスラエルには宮があり、彼らはいけにえをささげ、あらゆる儀式を行っていました。しかし、彼らの内なる命はそれからかけ離れていたのです。神は預言者たちを通して、「あなたたちのいけにえを遠ざけよ――わたしはそれを望まない!」(イザヤ書一章十~十四節参照)と言わなければなりませんでした。主イエスがこれを引き受けてくださいました。「あなたはいけにえやささげ物を望まないで、わたしのために体を備えてくださいました。全焼のささげ物と罪のためのいけにえを、あなたは喜ばれませんでした。その時、わたしは言いました、『見よ、(その書の巻物の中にわたしについて書かれているように)あなたのみこころを行うために、神よ、わたしは来ました』」(ヘブル人への手紙十章五~七節)。

形式主義は決して神のみこころの役に立ちません。たんなる外面的組織は、たとえそれがどれほど文字どおりだったとしても、決して神のみこころの役に立ちません。聖霊は全くそれに関与されませんでした。聖霊が主権をもって来臨されたのは、外面的方法で多くの人を新経綸の中にもたらし、彼らに形式や規則を与えて、一定の流儀で事を行わせるためではありません。聖霊は教会の内なる命を御旨に一致するものにしようとしておられたのです。一致しないものはなんであれ、聖霊はその上にとても厳しく臨まれることが間もなくわかります。全く正しいふりをしつつ、外面的方法で進み続けることはできません。これをアナニヤとサッピラは知るでしょう。聖霊は内側に矛盾を見ておられ、それがまかり通るのを許されません。

多くの人は、聖霊が自分の「上に(upon)」臨むことを願っています。なぜなら、彼らは力を感じたいからであり、自分が召され、導かれ、動かされているのを感じたいからです。このようなことがこれまでかなりありましたが、内側はそれとは一致していませんでした。しかし、神の御旨とその御旨に召された人々の生活とが少しでも一致していない間は、主の御旨は決して完全には達成されえません。「私はあなたたちに懇願します。召されたあなたたちは、その召しにふさわしく歩みなさい」(エペソ人への手紙四章一節)。おお、私はあなたたちにお願いします。この内住の御霊の問題について、神と絶えず交わってください――奉仕や力のためだけでなく、生活のためにもです。

多くのクリスチャンや多くの神の僕たちが陥っている悲劇の一つは、彼らが明白な間違いを信じてそれを表明し、それを広め、それを広めることによって他のクリスチャンたちに害を与えていても、聖霊は彼らにその誤りを決して気づかせられないように思われることです。私は聖書を教えることについて述べているのではなく、神の他の僕たちや、神がなさっている他の働きに関して述べているのです。こうした偏見、疑い、批判、誤報などがあるのです。この厳粛な事実のゆえに、私たちは主のもとに行き、熱心にこう求めなければなりません――「おお、主よ、私があなたの働きに携わり、あなたのために多くのことを行って、人々の間で抜きん出た者となり、自分のクリスチャン奉仕のゆえに有名になったとしても、結局のところ、聖霊が私を内面的に矯正し、正し、私が何か正しくないことを言った時、私に辛い時間を過ごさせることができないなら、そんなことは何の役にも立ちません。真理と一致しないことや、私の内なる命と矛盾していることを言うことから、私を救ってください」。内なる御霊は、私たちを神の御旨に一致させてくださいます。もし私たちが御霊にしたがっていない道に常習的にいつも陥っていて、そのような類の不和のゆえに知れ渡るなら、「私たちの内でさらに深い働きをしてください」と聖霊に求めた方がいいでしょう。人々が私たちのことを、「一緒にやっていくのがきわめて難しく、人々の生活を不快にしてばかりいる」と思っている間は、神の深い事柄を知っていても何の役にも立ちません。それは役に立たないでしょう。そのような状況は内住の御霊に矛盾しています。私たちが外面的体系しか持たないことを、御霊は望んでおられません。それにふさわしい内なる命が必要なのです。

ですから、聖霊は神の御旨のために信者の「上に(upon)」臨んで占有されたこと、また、内なる命全体をその御旨に一致させるために信者の「内に(within)」到来されたことがわかります。