Ⅸ.要約

T. オースチン-スパークス

これまで見てきたように、旧約の時代、聖霊は預言の霊として働いて、すべてを預言にされました。聖霊は、神のエコノミーの中のあらゆるものが先を指し示すように、彼方のものを暗示するようにされたのです。それは当時生きていた人々や、その言動と極めて密接に関わっていた人々には明らかではありませんでした。そして、この諸々の時代にわたる聖霊のこの包括的な働きはみな、私たちが生きているこの経綸の性質・特徴・目的たるものを目指していました。この経綸には二つの際立った特徴があります―― 一つのことの二つの面です。第一に、この経綸は天で大能者の右に座しておられるキリストの経綸です。第二に聖霊の経綸であり、聖霊はその意味をこの教会の中ですべて有効化されます。この預言の働きには多くの面がありました。すなわち、預言の働きは将来の時代の様々な特徴を指し示していたのです。前の章では、これらの特徴のいくつかを見ました。

そこで今、ここから始めることにします。私たちは預言者たちの預言が霊的に成就される時代に到っており、その時代の中に生きています。しかし、預言はこの世や教会の歴史として外面的方法で客観的に成就されるだけではありません。その成就は内面的なものでもあり、キリストの各肢体に関して言うと、いっそう内面的なものなのです。それは最年少の者にも臨まなければならないものです。「これはもっと年長の人や、もっと進んだクリスチャンのためのものである」と思わないで下さい!それは私たち全員を平等に含んでいます。

霊的幻

預言者たちが携わっていた第一のこと、そして、この経綸にキリストの肢体たちの間で内面的に成就されるものは、霊的幻です。神の御旨のあらゆる点が成就されるには、また私たちがそれに達するには、第一に次のことが必要です――すなわち、聖霊が私たちに対して啓示の霊となり、神が求めておられるものの全体像を私たちに見せることが必要なのです。先に進むにつれて、詳細が示されます。

(a)見る機能

これには二つの面があります。まず第一に、見る機能です。預言者たちはこれに関して言うべきことがたくさんありました。ご存じのように、イスラエルの人々はある種の偏見を抱いていたため、神が見て欲しいと願っておられるものを見ず(これは、彼らが自分の幻や考えを持っていて、神が望んでおられるものに対して用意していなかったからです)、二重の裁きが彼らの上に下され、主は彼らの目を閉ざされました。この民のために、次のような御言葉がイザヤに与えられました。「行って、この民に言え。『聞け、だが理解するな。見よ、だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を閉ざせ』」(イザヤ書六章九、一〇節)。これは裁きであり、恐ろしい裁きでした。霊的視力の機能、視覚が無効にされたのです。それは恐ろしい裁きであり、恐ろしい結果を伴いました。というのは、すでに見たように、その究極的結果として、彼らは神が意図しておられたものをすべて失ったからです。これは小さなことではありませんでした。神が意図しておられたものが、彼らから去ったのです。それは別の国に――天的な国に――与えられました。霊的視力の機能を無効にすることは恐ろしい裁きです。そうであるからには、人々がそのような幻、そのような視力を持つことは、主の大いなる願い、恵み、慈しみであるにちがいありません。

見る機能は神のすべての子供の生得権です。「長い間クリスチャン生活を送り、多くの教えを受け、進んだ段階に達した末に、見始めるようになる」と思わないで下さい。それはあなたの新しい誕生の一部なのです。主はニコデモに言われました、「人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできません」(ヨハネによる福音書三章三節)。言外に主は、「上から生まれる時、あなたは見るでしょう」と言っておられたのです。使徒パウロへの委託は、「私はあなたを彼らに遣わす。それは彼らの目を開くためであり……」(使徒の働き二六章一七、一八節)でした。主イエスが肉体にあった時になさった、盲人の目を開くというとても象徴的な働きは、彼が天に昇り、聖霊が来臨して、人々が見る時に起きることを示していました。見ることは、あなたの新しい誕生の一部です。「一度にすべてを見るようになる」とか、「主と共に遠くまで進んだ人たちが見ているものを、すべて見るようになる」と言っているのではありません。そうではなく、「視覚があなたに与えられている」と言っているのです。あなたはそれを用いているでしょうか?見る機能は、あなたの肉体に宿っているのと同じように、あなたの霊のいのちにも宿っていること――あなたは霊の目を持っており、それを開かれたこと――をご存じでしょうか?もしご存じでないなら、このことで直ちに主のもとに行って下さい。なぜなら、何かがおかしいからです。

(b)見る対象

見る機能だけでなく、見る対象もあります。それは幻の一部です。何かを見るには、その前に見る機能がなければなりません。しかし、機能を持つだけでなく、見る対象もなければなりません。その対象とは――何でしょう?聖霊が来臨された時、人々が知覚して認識するようになったものは何だったのでしょう?彼らは何を見始めたのでしょう?彼らはイエス・キリストの意義を見始めたのです。その何たるかを示す、とても有名な句があります――「永遠の御旨」です。キリストの意義と神の永遠の御旨――この二つは一つであり、同じものです。永遠からの神の御旨は御子に関するものです――神の御心にしたがって御子がこの宇宙で占めておられる地位、キリストの途方もない包括性、キリストの存在そのものの途方もない意義、イエス・キリストと密接に関係している途方もない結果に関するものです。彼らはそれを一度に全部見たわけではありませんが、主イエスを見始めたのです。この御方はたんなる人間の一人ではないこと、ただのガリラヤ人ではないことを、彼らは見始めました。そうです、彼はそれよりも無限に偉大であり、圧倒的です。イエス・キリストの意義のこの強力な衝撃力は、あまりにも大きくて握ることができず、あまりにも偉大で把握できません。それは圧倒的であり、強力です。彼らはこれを見始めたのであり、これが彼らの幻でした。この幻から他のすべてが発しました。彼らを見て、彼らに聞きなさい。何と新しくて偉大なキリストを彼らは見いだしたのでしょう。彼は何という意義を持つキリストなのでしょう。なんとすべてがキリストと密接につながっているのでしょう。これを認識して下さい。未来はすべてキリストに焦点づけられています。すべてはただキリストに帰結するのです。

預言者たちはぼんやりと何かを見ました。あなたは預言者がこう言うのを聞きます、「その名は、素晴らしい方、助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(イザヤ書九章六節)。この預言者は何かを見始めました。他にもこのようなものがあります。それははじまりにすぎませんが、彼らが言っているのは「この御方が完全に現れるようになる」ということです。「私たちは彼を指し示しているのです」と彼らは言います。「この御方が現れて認められるようになる日を待ち望んでいます」。今がその日です。私たちは預言者たちのこの幻が成就された時代にいるのです。

これは単なる標語や大げさな考えではありません。たとえ初期の段階にすぎなくても、あなたは自分の心でイエス・キリストを理解し、途方もない圧倒的な理解に至らなければなりません。彼があなたの幻となり、彼は御自身の偉大さの感覚をあなたに与えることによって、あなたを治めて下さいます。幻がなければ、私たちは最後まで進み通せません。幻がないなら、また幻を妨げられるなら、私たちは挫折するでしょう。もし何かが私たちの幻の明確性、完全性を邪魔するなら、私たちは自分がどこにいるのかわからないまま、堂々巡りし始めるでしょう。幻が明確かつ完全に保たれているなら、幻は私たちを前進させ続けるでしょう。これを理解されたでしょうか?ペンテコステの日に聖霊が来臨された時、この途方もないことが起きました――彼らは主を見、主を見ることによって、主以外のものや主未満のものから、ことごとく解放され始めたのです。見なかった人たちは立ち去り始め、霊の領域で取るに足りないものになるか、自分の偏見のせいで見た人たちの敵になりました。ヨハネによる福音書九章の事例が、霊的な意味で成就されました。主は生まれつき目の見えない人の目を開かれました。何が起きたでしょう?他の人々は彼を追放したのです。御霊来臨の日に見た人々は、偏見を持つ多くの人たちによって除名されました。彼らは断ち切られました。見ることには代価がつきものです。

しかし、これは目下の主題ではありません。主が私たちに語ってこられたことは第一に、彼は目の開かれた民、見る機能を備えた目の見える民を得ることを願っておられるということ、彼はそのような民を得なければならず、したがって得ることができる、ということです。

(c)幻は個人的なものでなければならず、
信者全員の内に増し加わらなければならない

さて、経綸の違いは次の通りです。旧経綸では、人々にすべてを告げる必要がありました。人々はそれを他の誰かから間接的に受けなければなりませんでした。それは決して彼ら自身のものではありませんでしたし、独自のものでもありませんでした。聖霊の新経綸では、ことは彼ら自身の内にあり、ことの源は彼らの内にありました。しかし、キリスト教は大部分、旧経綸の水準まで後退した一組織になってしまいました。つまり、大多数のクリスチャンは講話や説教に基づいて生活しており、集会に出て他の人の話を聞いています。イエス・キリストの躍動的な個人的啓示の恩恵に本当にあずかって生きているクリスチャンは、今日、どれくらい見つかるでしょうか?私はこれが不適切な問いだとは思いません。今日大いに必要とされているのは、神の民が聖霊の基礎の上に再確立されることです。最初、教会はこの基礎の上に据えられました。この基礎の始まりはこうです――多くの情報をクリスチャンたちに与えることではなく、クリスチャンは霊的視力の機能を備えているべきであり、見る能力を持っているべきであり、自分自身で見ているべきなのです。あなたは、「私の目は開かれています。私は神の永遠の御旨を見ており、キリストの意義を見ています。私はますます主イエスについて見るようになっています」と言えるでしょうか?もしそう言えないなら、私たちは聖霊を置き去りにしてしまうでしょう。そして向きを変えて、聖霊を置き去りにした所まで戻り、彼を探さなければならないでしょう。なぜなら今日に至るまで、聖霊による生活は絶えず増し加わる幻の生活だからです。機能と対象の両方について、幻が絶対に必要です。

道具としての十字架

(a)死――人からのものを取り除く

さらに要点を繰り返すと、私たちは次に進んで、「見る機能を鋭敏に保ち、幻を常に成長させるために、聖霊はある道具を持っておられる」ということを見ました。聖霊は常にある道具を用いて働かれます。その道具とは十字架です。つまり、主イエスの十字架の原則です。

これが一方において意味するのは、新しい王国の中に入れないものをすべて取り除くことであり、神から見て死んでいる、除かれるべきもの――自己のいのちの総計――を取り除くことです。もしよければ、それを別の名で呼んで下さい――肉、天然のいのち、古いアダム等々というように。私はこの名称――自己の原理――を好んでいます。なぜなら、この名称はとても包括的だからです。外に向かって働く自己の原則――我の強い独断や強制――も含んでいますし、内に向かって働く自己の原則――自己への引き寄せ――も含んでいます。おお、この両方向とも、この自己のいのちには何と多くの面があるのでしょう!私たちはその中の顕著なものをいくつか知っているかもしれません。しかし、この自己がどれほど深く根ざしていて無数の繊毛を持っているのか、私たちは学んでいるところではないでしょうか?その終わりに達することは決してありません。「私」――これが私たちの全存在中にその触手を張り巡らしています。「私」が強かろうと弱かろうと、そうなのです。「私」が弱い場合でも、強い場合と同じくらいひどいのです。自己憐憫は自分に注意を引いて自己に耽る一つの方法に他ならず、自信と同じく有害です。それは自己であり、まったく同じです。その根は同じであり、同じ源から発します。それはすべて、「私は天に上ろう、私は神の星々のはるか上に私の王座を上げよう、私は会合の山にすわろう(中略)私は雲の頂に上ろう、私はいと高き方のようになろう」(イザヤ書一九章一三、一四節)と言った者のあの偽りの命から発しています。「私」――、「私」――、「私」――。たしかに、この自己の命の形態にはきりがありません。

さて、自己のいのちにはとても多くの面があり、遙か遠くまで及んでいて、とても深く根ざしています。そのため、主はそれを能動的な方法で一度に全部対処することはできません。主は御子の十字架により、自己のいのちを一度にすべて潜在的に対処されました。しかし今、それが適用され続けなければなりません。あなたや私は、自己のいのちの様々な形態に対して、絶えず十字架の原則の適用を受けなければなりません。自己のいのちは叩きのめされ、打たれ、低くされ、神の御手の下にもたらされなければなりません。その必要性とその方法の両方を、私たちは学ばなければなりません。これが「弟子」の意味であり、訓練の意味です。聖霊が自己のいのちに対して常に予防手段を取られるのは、物事のこの面においてです。遙かに進んでいて、しっかりと十字架に付けられていた使徒の場合でも、莫大な神の富を託されていたため、神は予防措置を取って、彼の肉体に焼き印を押し、彼を打つサタンの使いを送る必要がありました。それは彼が高ぶらないようにするためでした(コリント人への第二の手紙一二章七節)。これはとても実際的なことです。聖霊は繰り返し、絶えず深く、十字架の原則と法則を用いられます。それはがらくた――主御自身が所有すべき土地を占めているもの――を取り除くためです。内側に新しい霊の王国を建て上げるために、その土地を大いに清めなければならないのです。

(b)復活――主御自身の表現

さて他方において、これに対応するものはキリストの復活の力であり、それはキリストの十字架の力を知ることなしに決して知ることはできません。積極面における私たちの学びは、キリストとその復活の力を知ることにあります。おお、キリストとその復活の力を知る!あなたや私が天然の面に関して――見せかけではなく徹底的に――この恐るべき悲惨な現実を認めざるをえない所に導かれる時、キリストとその復活の力を知るのは素晴らしいことです。「これですべておしまいです。これまで多くのことを語り、多くの説教をし、多くのことを教え、多くのことを行ってきました――しかし、私はおしまいです」。これは死の宣告であり、これ以上は無理です。これは恐ろしい冷酷な現実です。その時、神は死者をよみがえらせます!あなたは前進します。そして、主からのものが前よりも多くあるようになります。神が死者を何度もよみがえらせる様を見るのは、素晴らしいことです。同じ人が再び生き、前よりも多くのものがあるようになります。なぜなら、空の部分が前よりも大きくなっているからです。主から見ると、これは大いに安全な地点なのです。

このような経験の道筋に沿って、私たちは何を学んでいるのでしょう?この道の意味は何でしょう?私たちは何を受け継いでいるのでしょう?それはこれです――私たちは主を知る過程にあるのです。これがすべてです。すべては主からであり、主からでないものは何であれ、まったく無にすぎません。私たちはこれを知る過程にあります。それは主からでなければならず、そうでなければ、もはや何の可能性も希望もありません。「もしそれが自分にかかっているなら、これ以上は無理です」と私たちは真っ先に言います。その時、主がそれを行って下さいます。主が十字架の死の面でなさっていることを、あなたは理解します。主は御自身のために土地を清め、その後その土地を所有されます。彼は復活した主として、私たちの古い自己が一掃された土地の上に、御自身を建て上げておられます。道を開けておくために、そして幻を明確に保って常に成長させるために、聖霊は十字架を用いられます。

新しい自由

さらに、ペンテコステの日に経綸が切り替わった時、その瞬間から、新しい自由への驚くべき解放があったことを私たちは指摘しました。旧経綸では、体系全体が束縛の体系であり、奴隷の体系でした。人々は宗教組織の拘束服をまとっていました。新経綸では、この拘束服はなくなりました。使徒の働きの中には、拘束服を示唆するものは何もありません。人々は外に出ていて自由です。コルネリオの家への召しを受けた際にペテロが持っていた伝統の名残などのように、除かれるべきものが依然としてあるでしょう。しかし、おおむね人々は外に出ており、解放されています。これを成就し、これを維持するよう要求されるのは、聖霊です。

当時と同じように今日、主はこのような民を望んでおられ、必要としておられます。第一に、幻を持つ民です。第二に、徹底的に十字架に付けられていて、御旨をすべて成就するための完全な行動の自由を主に与える民です――主の道の外側にどかされている民です。(これが使徒の働きの意味です――人々は主の道の外にいて、主は自由に動けます。)次に、聖霊はこの解放を執行し、それを保持するよう命令されます。前に指摘しましたが、人には再び束縛のくびきに戻って、一定の結晶化された体系の中に聖霊を閉じ込めようとする傾向が常にありますし、敵もそのために働いています。この一定の結晶化された体系――教会組織、聖職体系、人造の宗教的しきたり、形式、組織、そうした一切のものは、往々にして神の御思いをもって始まりますが、後になると、すべてを神の御思いに仕えさせるかわりに、神の御思いを引き受けてそれを自分に仕えさせるようになります。

これは危険なことであり、聖霊はそれに関与されません。進む自由がある時だけ、聖霊は進むことができます。私たちが聖霊と共に外の自由な場所にいることを、聖霊は要求されます。聖霊は自由の御霊としての御自身の権利を要求されます。聖霊はなにものにも妨げられません。もし聖霊を妨げて、鎖にかけようとするなら、私たちは聖霊の恩恵を失うでしょう。固定化された形式、経済、いかなる種類の制約の中にも私たちが落ち込まないこと、私たちが神の自由な民であることを、聖霊は要求されます。これは許可証ではありません。これは自由気ままになる権利を個人に与えるものではありませんし、「衝動の赴くままに、行って何でもすることができる」とか、「あらゆる霊的権威を気ままに軽んじてもよい」という意味でもありません。決してそうではありません。そうではなく、主の事柄を結晶化してそれを箱詰めにし、「これが限度です」と言うことを主は許されない、ということです。新しい光を受け入れてそれに応答する用意を常に整えておくことを、主は私たちに要求されます。主の新しい光が私たちに新たな調整をすることを要求するなら――時として、それは革命的な調整です――それを行えるよう、私たちは主にあって自由でなければなりません。神の自由な民として、私たちがこうであることが最も必要です。行動範囲が宇宙大に広がるのは、とてもさいわいなことです。

新経綸の特徴である聖潔

さて次の点は、聖霊の経綸と御霊のあらゆる動きの全体的性質・特徴は聖潔であるということでした――すべてが外側のものと内的に呼応します。聖霊と私たちとの間に何か論争があるなら、進歩は突然止まり、神の霊のこの動きは突然すべて阻まれ、それ以上先に進めない行き詰まりに会うおそれがあります。わからないことは何でも、ただちに聖霊と相談する必要があります。このために聖霊は私たちの内に住んでおられるのです。なぜ、主の望んでおられるものではないものが、こんなにもたくさんクリスチャンたちの間にあるのでしょう?その理由は単純です。聖霊は内住の個人教師であり、聖霊に聞く必要があることを、当事者たちが認識せず、心にとめなかったからです。この失敗のせいで、何と多くのものが失われていることか!「ああ、集会があります、私は集会に行くつもりはありません――散歩に出かけます」。こうしてあなたは出かけます。その集会で、神があなたに与えたい言葉が語られたのです!「散歩に出かけたいのですが、集会があります。集会に出ることを主が望んでおられるかどうか、主に尋ねてみましょう」とあなたが言ってさえいれば。取り返しのつかない何かが失われました。あなたが主に尋ねなかったからです。

このようなことが他にもたくさんあります。聖霊に聞いてさえいれば、私たちはもっと前進していたでしょう。聖霊はあらゆる種類の実際的な事柄について私たちに語って下さいます。たとえば、自分の楽しみについて、私たちは御霊から教わる必要があります――軽薄にならずに楽しむにはどうすればいいのでしょう。憂鬱や陰気にならずに真面目でいるにはどうすればいいのでしょう。私たちは一生笑いながら歩み続けることはないでしょう。しかし同時に、私たちが気の毒な重苦しい生き物になることを、主は望んでおられません。主は私たちに真面目な民であって欲しいのですが、「この真面目さこそ霊的生活である」とは思わないで下さい。私は朝刊で、オーストラリアのある気の毒な少女について読みました。彼女はある病気にかかっていて、その病気のせいで笑うことができませんでした。彼女はロンドンで手術を受けるために、飛行機で運ばれてきました――その手術の後、彼女は笑うことができたのです!私が思うに、多くのクリスチャンにこの手術が必要です!

しかし、この問題全体に関して、私たちは聖霊の訓練を受けなければなりません。なぜなら、霊的有用性、霊的増し加わりは、これと関係しているからです。聖潔の問題と主との論争について――これは服装の詳細や装飾品の着用といった、ごくささやかな点にまで及ぶかもしれません――注目すべきことに、多くの若いクリスチャンたちは、こうした実際問題に関して誰からも何も言われていないのに、調整を行っています。誰が彼らにそうするよう言ったのでしょう?誰も言っていません。しかし、主が自分たちにそうさせようとしておられることを、彼らは感じるようになったのです。ただそれだけです。このような人々は進み続けます。彼らは神にとって価値ある者になりはじめています。私がこのような点を挙げるのは、あなたに律法を課すためではなく、聖霊が私たちの内側で語ることができるための原則を示すためです。聖霊は、主が完全には同意しておられない問題について語られます。聖霊が語られる時に応答するなら、私たちは前進します。聖霊は次々に語って下さいます。

霊に導かれた奉仕:排他主義は全くない

さらに使徒の働きに来ると、聖霊が奉仕の霊だったことがわかります。八章に来ると、エルサレムから出た動きはまったく自然です。ピリポがサマリヤに下って行きます。サマリヤに行くべきことを、誰が彼に告げたのでしょう?「聖霊が彼をそこに導かれた」と確かに言えるでしょう。人々は聖霊の主権的支配の下で出て行きました。聖霊は奉仕の霊であり、聖霊がそれを行われたのです。一〇章に来ると、この発展の何というさいわいな面があることでしょう!それは、預言者たちが不完全ながらも見るようになったことと一致していたことがわかります。一〇章で、聖霊はイスラエルの国境を越えて異邦人に向かう動きを推進されます。預言者はこれとどう関係しているのでしょう?ヨナはどうでしょう?ヨナの短い書に記されている物語は、恐ろしい物語です。それはヨナの人生や働きのすべてではありませんが、実際上、ほとんどの人が彼について知っているのはこれがすべてです――つまり、彼は主と激しく争ったのです。「『あなたは当然のことのように怒るのか?』(中略)『私が怒るのは当然です』」(ヨナ書四章九節)。神にこのように答えている人のことを考えてごらんなさい!なぜでしょう?それは、神の寛大な恵みは事実上こう言っていたからです、「排他主義的であってはなりません。私はただイスラエルとだけ関係しているわけではありません。私の心は異教徒も同じように顧みています。全世界が私の恵みの対象なのです」。ヨナはとても排他的でした――自分の身内を越えたものは一切あってはなりませんでした。それで、彼は主と論争したのです。

主は御言葉の学課や絵図を通して、これを強調するものを随所に散らされました。ルツはどうでしょう?彼女はモアブ人、異教徒であり、イスラエルの領域外にいます。このルツのささやかな物語は、聖書の中で最も美しいロマンスです。主は何を言っておられるのでしょう?主イエスの系図を見なさい。そうすれば、そこにモアブ人のルツを見いだすでしょう。しかし、これが印象的だとするなら、遊女ラハブはどうでしょう?彼女は破滅する運命にあったエリコの住人でしたが、信仰を持っており、窓から吊した赤いひもでその信仰を表明しました。イエス・キリストの系図には遊女ラハブものっています。神は何を言っておられるのでしょう?神は、旧約における聖霊のこの預言的働きの原則を、新経綸の中に取り入れておられるのです。使徒の働き一〇章で神はこれを推進しておられます。まるでこう言っておられるようです、「すべての人のところに出て行きなさい。排他主義的であってはなりません」。聖霊によって治められている人々は、世界を思わずにはいられません――主のすべての民のために気をつかわずにはいられませんし、主の民でないすべての人のためにも気をつかわずにはいられないのです。彼はこれを推進されるでしょう。この真理に私たちを深く探ってもらいましょう。

これまで述べてきたすべてのことの要点はこうです。すなわち、聖霊が来臨して真に御自身の道を行かれる時、こうしたことはみな自然に生じるのです。これが聖霊の統治の特徴です。おお、あらゆる一定の組織的・宗教的・伝統的限界や束縛から自由な民――御霊の中にある民――を、主が回復して下さいますように!主は私たち全員をそのような者にして下さいます。