第四章 聖化の性質

T. オースチン-スパークス

聖化の問題を完全に考察することはできませんが、魂と霊の違いという光の中でこの問題を見るなら、誤った観念によって引き起こされた混乱の大部分はきっと取り除かれるでしょう。なぜなら、魂と霊の違いこそ、この問題の鍵だからです。聖化は再生の継続にほかならず、再生は聖化の始まりにほかなりません。ですから、聖化は新生と同じ領域の中にあるものとして理解されなければなりません。すでに述べたように、新生において上から生まれるもの――再び生まれるもの――は魂ではなく霊です。

魂は最後まで悪になびきやすいままです。この事実は聖化に関する教理全体の基礎です。なぜなら、新約聖書は霊の主導による霊の進歩を大いに勧めているからです。人の性質の中には聖潔に敵対するものが常にあります。私たちの聖潔は定まったものでも変わらないものでもなく、漸進的なものです。失敗する可能性やそのおそれがなければ、試練、試み、懲らしめ、苦難にはまったく意味がなくなります。拡大はこれまで戦いによりましたし、常にそうです。明白な悪や罪を性質の中に実際に持たなかった方は、ただひとりしかいません。

聖化の問題は、これまでひどく紛糾してきました。なぜなら、実は聖化を第一に扱っているわけではない特定の聖書の箇所が根拠とされてきたからです。

ローマ七章とヨハネ第一の手紙などの問題

たとえば、ローマ七章とヨハネ第一の手紙があります。全文を引用することはできませんが、目につく箇所を抜粋することにします。

「律法は霊なるものです。(中略)私は肉です(中略)私は自分のしていることがわかりません。なぜなら、私は自分の欲することを行わず、かえって自分の憎むことを行っているからです。(中略)私は自分の中に、すなわち、自分の肉の中に、善なるものが住んでいないことを知っています。なぜなら、私は善をしようと欲するのですが、善を行うことはないからです。」「私は、内なる人によれば神の律法を喜びますが、自分の肢体の中には別の法則があって、私の思いの法則に逆らって戦っており、私の肢体の中にある罪の法則の中に、私を虜にしているのを見ます。ああ、私は何と惨めな人でしょう!だれがこの死の体(または、死のこの体)から私を救い出してくれるのでしょうか?私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身、思いでは神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。キリスト・イエスの中にある者には、罪定めがありません。それは律法の要求が、肉にしたがってではなく、霊にしたがって歩く私たちにおいて、満たされるためです。(中略)霊にしたがう者は、霊の事柄を思います。(中略)霊の思いはいのちと平安です。(中略)しかし、神の霊があなたたちの中に住んでおられるなら、あなたたちは霊の中にいます。(中略)キリストがあなたたちの中におられるなら、(中略)霊は義のゆえにいのちです。霊によって体の行いを殺すなら、あなたたちは生きます。」(ローマ人への手紙七、八章)

「もし、自分には罪がないと言うなら、それは自分を欺いているのであって、真理は私たちの中にありません。」「もし、私たちが自分の罪を告白するなら、彼は信実で義であられるので、私たちの罪を赦し……」「もし、私たちが罪を犯したことがないと言うなら、彼を偽り者とするのであって、彼の言葉は私たちの中にありません。」「すべて罪を犯す者は、また不法を行います。」「すべて彼の中に住んでいる者は、罪を犯しません。すべて罪を犯す者は、彼を見たことがありませんし、彼を知ったこともありません。」「罪を犯す者は悪魔から出ています。」「すべて神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、彼の種が彼の中に住んでいるからです。」(ヨハネ第一の手紙一章八、九、十節:三章四、六、八、九節)

表面上、この後者の御言葉は重大な矛盾を呈しているように見えます。しかし、神の御言葉に矛盾はありえませんから、この御言葉がすべて成り立つ何らかの方法があるにちがいありません。

しかし、最初に繰り返し言いますが、これらの御言葉は第一に聖化との関連で書かれたわけではありません。ローマ人への手紙七章は義認と律法からの解放に関して書かれました。ヨハネ第一の手紙は真実のキリスト教と偽りのキリスト教、真実の新生、ある人々の「自分はクリスチャンである」という主張に関して書かれました。この二つの分類は、「私たちは知っています」「……と言う者は」という二つの句によって示されています。一方は生ける経験を示しており、他方は事実ではない主張を示しています。ヨハネの場合、背教が視野にありました。

しかし、両者に共通する点が一つあります。それは新生の性質と、その後の人生におけるその作用です。聖化は性質上再生と同じですが、再生の結果であり、再生の漸進的作用です。ですから、ローマ人への手紙七章は八章に至りますし、ヨハネ第一の手紙では「歩く」「住む」「行う」といった主要な言葉が記されています。これについては再び触れることにします。

ローマ七章の経験の位置

私たちはまずこの章を位置づけなければなりません。この章は人の人生、経験のどの部分に属するのでしょう?これは聖霊の内なる働きがない人の経験でしょうか?それとも、霊的に生かされている人の経験でしょうか?これは後者だと思います。この結論にはいくつか理由があります。第一に、この手紙は信者に向けて書かれました。その信者の中には、律法と訣別していないユダヤ人の回心者たちがいました。一方において、彼らは不安定で落ち着かない不確かな霊的生活の状況にあり、日々の経験に関してはどっちつかずで、失敗と悔い改めを延々と繰り返し、ほとんど勝利を諦めかけていました。他方において彼らは、「キリスト・イエスの中にある」ことの真の意味に関する光と教えをさらに必要としていました。彼らは自由ではなく、解放されていませんでした。それはキリストの死と復活に関する不適切な理解のためでした。すなわち、身代わりとしての面に加えられる、代表としての面に関する不適切な理解のためだったのです。第二に、パウロはキリストとの一体化の真の意味をすでに述べたので(六章)、さらに進んで、その結果は信者の肉と霊の間に一線を引くことであることを示し、「歩み」は霊の中においてでなければならないと要求します。これに失敗するなら、七章で述べられている状態に常に陥ります。コリント人への第一の手紙やガラテヤ人への手紙に見られるように、新約聖書の時代ですら、この状態はクリスチャンの間で一般的ではない状態ではありませんでした。この状態のために、新約聖書の大部分が書かれたのです。

霊の覚醒の効果

第三に(これはかなり強力な論拠です)、使徒は長い年月の後に書いた手紙の中で、「再生されていない頃、律法の義に関する自分の立場は『責められるところのない』ものだった」と言いました(ピリピ人への手紙三章を見よ)。彼は自分をローマ七章の中に置き、そこで「律法はひどい重荷であり、自分を打ち、自分を殺しました。自分は律法に耐えられませんでした」と言います。「責められるところのない」彼が、律法の重荷の下で「ああ、私は何と惨めな人でしょう」と叫びました。何かが起きて彼の満足を乱し、彼を荒れ狂う内乱を内側に抱える分裂した人にしたにちがいありません。再生されていない人の場合、良心は儀式や律法の遵守の影に隠れていました。律法の形式や儀式を厳格に遵守することにより、良心は「平和がないのに平和だ、平和だ」と言って、偽りのまやかしを行っていたのです。しかし霊の覚醒の時が来る時、そんなことはもはや続けられなくなります。良心はこれ以上欺くことはできません。の側で罪を弄ぶことはあるかもしれませんが、覚醒されて生かされた霊は自分の魂を憎み、忌み嫌って、ありのままを述べます――つまり、罪を罪と呼ぶのです!道徳の埋め合わせとして儀式的律法を扱う代わりに、霊は道徳こそ重要なものであり、「従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル記上十五章二二節)ことを見ます。

二つの悪の可能性――ローマ七章またはアンチノミアニズム

キリストの死と復活の意義や価値を知らず、しかも信仰による一体化の真理を知らないなら、二つの恐ろしいことの一方がそれに続くでしょう。一つは、ローマ七章に記されているような経験、奮闘と渇望と敗北の経験であり、キリストを信じる信仰が後退する恐れとクリスチャン生活に対する深い失望であり、絶望と陰惨さにますます近づいていきます。さもなければ、アンチノミアニズム(antinomianism)として知られている、良心を焼き、霊を殺す、あの恐ろしい悪が入り込むでしょう。その教理がどういうものかここで述べるのはためになるでしょう。アンチ(anti)という言葉は反対を意味し、ノモス(nomos)は律法を意味します。この語句は最初ルターによって、「道徳律はクリスチャンに対して拘束力を持たない」と信奉していたジョン・アグリコラに従う者たちの名称として用いられました。しかし、ルターの時代に名前がつけられる遙か昔に、こうした考えはすでに存在していたのです。キリスト教の初期の時代、「福音の経綸時代下でも律法は有用であり、拘束力を持つ」ということを否定する人々がいました。使徒の時代でもこの原理が働いていたことが、新約聖書の中のいくつかの節からわかります(ローマ人への手紙三章八、三一節:六章一節:エペソ人への手紙五章六節:ペテロ第二の手紙二章十八、十九節)。というのは、使徒たちはこれらの節の中で回心者たちに対して、自分たちの教えを放蕩の言い訳として誤用してはならないと警告しているからです。この教理の中心には、信仰による義の教理の誤った解釈があります。「霊的であるなら、道徳上の行いがどうだろうと、その人の性質は堕落させられることはない」「邪悪な行いをしても、選ばれている人は罪を犯したことにならない」と教えさえする人々も過去にいたのです。

さて、熟慮の上でこのような教理を支持する人はだれもいないでしょう。しかし、その原理はまったく同じように働くおそれがあります。信仰による義、キリストの内に究極的な全き完全さを持つこと、究極的堅忍すなわち一度恵みの中に入ってしまえばいつまでも恵みの中にあること、といった信条は――奇妙なことに――誤って信奉するなら、厳しい律法的な種類のキリスト教を生み出し、あからさまに邪悪なものや疑わしいもの、あるいはキリストの恵み深さにかなうものとは別のものを多く生じさせるのです。

聖化の教理

互いに相容れない二つの聖化の教理を聖書から組み立てることができます。一つは次のようなものです、「私たちの聖別はキリスト・イエスの中にあり、完璧で完全なものです。彼を私たちの聖として客観的に受け入れて、彼が私たちのために神のあらゆる要求や要請に応えてくださることをただ信じなければなりません。私たち自身は聖ではありません。個人的な聖潔の問題に熱中することは、信仰に反することにほかならず、不健全な内省や主観主義にほかなりません。私たちの状態とは関わりなく、彼の十字架は神の目によしとされることを行ったことを、私たちは信じなければなりません。『イエスを見つめること』すなわち信仰の姿勢こそ、絶望と不安からの解放の道であり、唯一の解放の道なのです」。はばからずに言いますが、このような立場は混合したあいまいな立場です。この立場は特定の輝かしい真理を用いて、同じように輝かしい他の真理をぼかしているのです。この立場に立つ人は、自分の守りを破られないよう常に警戒している必要があります。自分の立場が損なわれていないかどうか、常に見回らなければなりません。罪とその結果である恥の中に落ち込むとき、あるいは、もっと好ましい別の教えの立場やそれを持っている人と出会うとき、問題が持ち上がります。彼らは自分が代わりの立場を受け入れられないことを知っています。その立場は彼らにとって他の極端に走っているものだからです。そのため、彼らは完全には満足できない立場を貫き通さなければなりません。

もう一方の教理には様々な言葉や語句の形式があり、わずかな違いがありますが、次のようなことを意味します。「聖化はすべての罪を根こそぎにし、根絶し、清め、滅ぼすものなので、きよめられた人は罪を犯しませんし、犯すことができません。罪の性質は完全に対処されました」。この見解を保持する人にとって、聖化――ここで述べた意味の聖化――は新生と同じように一つの行為であり、ある瞬間の決定的経験であって、信仰によってそのようなものとして受け入れるべきものです。

ここでまた言わねばなりませんが、この教理には混合があり、その立場はとても多くの信者を混乱と絶望の中に陥れてきました。これらの立場は両方とも根拠として聖書を用います。聖書を見ると、表面上そのような根拠があるように思われます

ヨハネの手紙から引用した節には矛盾があるように見えます。

「もし、自分には罪がないと言うなら、それは自分を欺いているのであって、真理は私たちの中にありません。」
「罪を犯す者は悪魔から出ています。」
「すべて罪を犯す者は、彼を見たことがありませんし、彼を知ったこともありません。」
「すべて彼の中に住んでいる者は、罪を犯しません。」
「すべて神から生まれた者は、罪を犯しません。(中略)彼は罪を犯すことができません。」

これらの御言葉はすべて、クリスチャンに宛てられていると見なされなければなりません。これは一章七節によって証明されると思われます、「私たちが光の中を歩くなら(中略)御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めます(ギリシャ語では、清めます、または、清めています:現在進行形)」。

ですから、ここに立場があります。神の子供は光の中を歩み、自分の罪を告白し、罪深さを認めなければなりません。そうする時、血は清め続けます。同時にこう記されています、「罪を犯す者は悪魔から出ています」、「すべて罪を犯す者は、彼を見たことがありませんし、彼を知ったこともありません」。しかしまた同時に、「すべて神から生まれた者は、罪を犯しません。(中略)彼は罪を犯すことができません」とあります。

明らかな矛盾をやりすごす通常の方法は、翻訳を直すことです。これは確かに助けになりますが、最終的解決にはなりません。これらの節をもっと正確に逐語的に訳し直すことによって、この方法の助けを借りることにしましょう。英語読者は、特定の箇所では同じ英語の言葉に対して異なるいくつかのギリシャ語が使われていること、そして、あるギリシャ語は英訳された言葉より多くの意味を持つことを理解するでしょう。

(ヨハネ第一の手紙二章二九節)「すべて義を行う(行っている)者は、彼から生まれています。」

(ヨハネ第一の手紙三章四節)「すべて罪を犯す(犯している)者は、不法を行います。」*

* 「現在活動中の原理(poion)は習慣的行いを意味する。」(A.T.ロバートソン)

(ヨハネ第一の手紙三章六節)「すべて彼の中に住んでいる者は、正しい道から迷い出ません(正しい道を失いません)。」(「罪を犯しません」はギリシャ語ではハルマルタノ(harmartano)です。これは正しい目標、正しい道を失うことを意味します。)あるいは、「すべて彼の中に住んでいる者は、目標を失ってはいません。」

(ヨハネ第一の手紙三章七節)「義を行う(行っている)者は義です。」

(ヨハネ第一の手紙三章九節)「すべて神から生まれた者は、罪を犯していません(目標を失っていません)。なぜなら、彼の種が彼の中に住んでいるからです。彼は罪を犯していることができません。」(道徳的逸脱)

実際に使われている言葉を知ることから得られる助けはおもに、「行う」という言葉が習慣的な行いや現在の――恒常的な――行いを表すということです。

聖化に至る真の鍵

しかし、これですべての問題が解決するわけではありません。ですから私たちは、「この矛盾に対する鍵は魂と霊の違いである」と言います。すでに述べたように、再生で始まることは聖化で継続します。聖化する力である贖いの継続的働きのおかげで、再生された霊は主を求める新たな願いを持つだけでなく、聖潔を求めて努力します。霊が再び新しくされて生かされる時、何かが起きます。この霊自身は、人の中の神(霊)のかたち、神(霊)の似姿です。霊は死んでいました――つまり、霊は神の中にある自分のいのちから分離され、神聖な方法で機能することをまったくやめていました。聖霊は贖いの効力により、まず霊を洗って生かすことによりを再び新しくし、キリストの中にある神のいのち(永遠のいのち)を霊に分け与え、そうして霊を性質上神と一つにし、神との交わりにあずからせます。このように対処される時、霊は神の種になります。あるいは、神の種を持ちます。使徒によると、この神の種は罪を行うことができません――「罪を犯すことができません」。この新しい「内なる人」は罪を犯していることや、罪を行っていることができません。多くの人が抱えている矛盾は、信者の中には二つの性質、いのちの二つの泉があるということです。一方は甘い水を出し、他方は苦い水を出します。聖書は、一つの泉が甘い水と苦い水を出すことはできない、と言っています。「エチオピヤ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか?」(エレミヤ書十三章二三節)。ですから、二つの泉があるにちがいありません。

天然のいのちの泉である魂は、毒されており不純です。魂は、その中の「肉」のように、常に悪になびきやすいままです。魂は絶えず服従させられて、勝ち取られるべきものであり、最終的に救われるべきものです(ヘブル人への手紙十章三九節など)。

再び新しくされた霊には善への傾向があります。霊の行路は本来上向きです。霊の中のいのちは霊をその源――神――に引き寄せます。霊は肉から出たすべての動きを裁き、罪に定めます。霊は、内住する聖霊によって力づけられているので、その人全体を神に向かわせようと努力します。霊は神聖なパースンになることはありませんが、霊の性質は神聖です。「新創造がある」(コリント人への第二の手紙五章十七節)のはこの部分であり、「創造した方のかたちにしたがって新しくされつつある」(コロサイ人への手紙三章十節)のはこの部分です。

他の箇所で指摘したように、これは魂のいのちや動きよりもずっと深い現実であり、天然の私たち自身に対して絶えず自らを示します。霊的経験には段階があり、ある理由によって、場合によって顕著になったり、そうでなくなったりします。最初の段階は大きなあふれんばかりの喜びであり、素晴らしい解放感を伴います。この段階では、完全な解放、最終的勝利といった大袈裟なことがしばしば言われます。聖霊が内に到来することに伴って、究極的保証が与えられることもしばしばあります。聖霊はこの保証であり、人の霊の中への彼の来臨は栄光をもって祝されます。

次に、内なる葛藤をおもな特徴とする段階が訪れることもありますし、実際そうなることがしばしばです。この段階の大部分はローマ七章に属します。この段階は主の御手の下でいくつかの結果に至ります。第一に、ローマ六章にあるようなキリストとの一体化に関するいっそう豊かな知識に至ります。初めからこれを教わる人は幸いです。

聖化と教育は共に進む

次に、霊的教育の道が始まります。ヘブル人への手紙十二章一~十三節が明らかにしているように、聖化と霊的教育は一つです。この二重の行程における進歩は、霊の成長によって特徴づけられます。霊が最初生かされる時、霊はほとんど存在を示せません。魂や体に対する主導権を示せるところから、かけはなれたところにあります。聖化の進展は霊の成長によって特徴づけられます。霊は自分の優位性を示し始め、肉体の動物的いのちに自分の限界をわきまえて神に従うようにさせます。聖化が進むほど、霊的知性、力、いのちがますます顕著になり、ついには来たるべき時代の「神の子らの出現(中略)御子のかたちへの同形化」(ローマ人への手紙八章十九、二九節)に達します。この教育と聖化は、「肉にではなく、霊にしたがった」歩みの結果です。コリント人への第一の手紙三章が示すように、このような歩みは肉的性質や幼児性からかけはなれたところに至ります。

この行程では、明確な素晴らしい経験によって特徴づけられる転機があるかもしれません。しかし、そのような経験で終わりではありません。すべての人が、さらに大いなる豊かさに至る成長を遂げなければならないのです。何年も前の一度きりの転機や経験にすべてを結びつけて、そこで止まってしまうのは致命的です。ですから、魂と霊の区別は聖化に至る真の鍵なのです。なぜなら、聖化は無罪性のように消極的であってはならず、霊的理解力や責任と共に進むという意味で積極的でなければならないからです。子たる身分はまったく聖化に伴うものであり(ローマ八章を見よ)、神の家における霊的・道徳的責任の問題です。私たちは「子供(children)」に生まれ、「子(sons)」にされます。新約聖書では、「子にすること」は外の者を家族の中に入れることではなく、生まれた者が成熟に達して、「権利」を持つ責任ある父の代理人とされることです。ローマ七章は律法による罪定めと関係しています。霊的覚醒のゆえに死は恐ろしくて耐えられない現実のものになりましたが、ローマ七章ではこの死からの解放が大きな問題です。ローマ六章は、死と罪定めからのそのような解放はキリストの死と復活との結合によることを示します。ローマ八章は、律法を外側から内側に、外から課せられる義務から内に与えられる力に転換します。こうして、生ける神の霊により霊の中に新しい契約が記されます(コリント人への第二の手紙三、四章)。

パウロが思い描いていたことを再び見るなら助けになるでしょう。彼の念頭にあったのは闘技場の剣闘士でした。(この手紙はローマ人に宛てられたものであることを思い出してください。それでローマの馴染み深い光景が用いられたのです。)勝利した剣闘士に審判が「殺せ」という意味の「親指を下に向ける」合図をしたら、剣闘士は犠牲者の体を引きずって闘技場を一周しなければなりませんでした。それは観客が拍手喝采するためでした。それは恐ろしくて忌まわしいことであり、そうしなければならなかった人は出口に到着することを願ったでしょう。パウロは、そのような人が自分に向かって「ああ、私は何と惨めな人でしょう!だれがこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか?」と言い、次に出口を見つけて「神に感謝してここを通ります!」と叫ぶのを想像しました。これがクリスチャンの真理に用いられたのです。「惨めな人」のための出口は「私たちの主イエス・キリストを通して」でした。これは彼の死と葬りと復活を通してであることが、さらに詳しく説明されています。ですからキリストの死は、信仰の思慮深い同一視を通して、聖霊により信者の生活の中に適用されるべきものなのです。次にキリストの復活も同じように現在の力、解放する力であること、信者がそれにより霊によって肉の行いを死に渡す力であることが示されます。