第五章 キリスト教界が欺かれる領域

T. オースチン-スパークス

懸案の問題に関して、この重要な区別をしそこなっている最大の失敗は、おそらく、神秘主義と霊性の違いに関するものです。これについては、この世が誤解しているだけでなく、キリスト教界も欺かれています。実に、自分をクリスチャンと見なしている人々の圧倒的大多数は、一方の(美意識にこだわる)神秘主義や禁欲主義(自己否定の実行)と、他方の霊性とを区別できないのです。実際のところ、これらは二つのまったく別の領域に属しており、神の御言葉は両者を区別して明確に切り分けています。

カインと「カインの道」について話す時、私たちは嫉妬と悪意から発した彼の殺人行為をすぐに思い浮かべます。神に対する彼のいらいらした、気むずかしい、短気で不機嫌な態度や、無礼ですらある態度を思い出します。しかし、思い出すべき別の面があります。私たちはカインに対して公平でなければなりません。さもないと、要点をすべて見失ってしまいます。カインは神を排除したり、無視したりしませんでした。彼はいわゆる不敬虔な人ではありませんでした。神を認識していました。次に、彼は神に祭壇を造りました。さらに彼は間違いなく、重労働で得た最上の収穫を神にふさわしいものとして選んで持ってきました。宗教上の信心深さがそこにありました。カインは自分の美意識で礼拝しました。それなのに、弟を殺害したのです!キリストの時代、ユダヤ人も同じことをしました。キリスト教界――その建物、儀式、音楽、飾り、照明(または暗がり)、口調、雰囲気、衣服など――は大部分この美意識によって構成されています。すべて魂に属しています。しかし、カインは神に至りませんでした!ユダヤ人もです!霊的な死がこの領域をしるしづけています。決心と「高尚な」考えや願いを生み出す強烈な感情があるかもしれませんが、当事者の性質に真の変化は何もなく、心地よく感じさせる魂の自己満足をいくらかでも維持するために、何度も繰り返さなければなりません。宗教はみな、この魂的な特徴を多かれ少なかれ共通して持っています。この点で、多くの宗教的な人々が致命的な間違いを犯してきました。彼らは、「他の宗教も間違いなく信心深く誠実なものなのだから、それに干渉するべきではない。むしろ、その中の長所を認めて受け入れるべきである」と主張します。これは聖書が「霊的である」と述べているものと宗教との混同です。宗教は高い水準に上ることもできますし、恐ろしい堕落に陥るおそれもあります。どちらにせよ同じことです。しかし、宗教は決して人間の水準を超えて上ることはできませんし、決して神に至りません。サタンの最高の欺きのゆえに、宗教は神の真の御思いに対する最大の敵になりかねません。禁欲主義は唯美主義と同じく、真に霊的なものではありません。厳格さ、自制、断食、堅苦しい冷ややかさなどは、その反対のものと同じく、神に訴えるものではありません。単純さは神に機会を与えるかもしれませんが、必ずしも霊的なものではありません。それは好みの問題かもしれません。詩や音楽や芸術の中の崇高な思想や観念が、道徳的退廃や不品行を伴うおそれがしばしばあるのです!

神秘主義者の認識や解釈はどれほど真理に迫りうることか!想像力は何と素晴らしいものを見ることができ、聖書の中にさえ見ることができることか!一人の支配的な魂が聴衆や会衆全体に、何という恐れ、驚き、陶酔感を与えうることか!しかし、これはみな神聖な永遠の結果を伴わない偽りの世界かもしれません。そのようなものがこの地上の生活を構成し、地上の生活の単調さを和らげるかもしれませんが、この地上で終わります。私たちは何という人工的な世界に生きているのでしょう!音楽が流れ、ロマンチックなもの――ドレスや金ぴか物――があり、人の個性が行進している時、高ぶりや敵対心がどれほど現れるのかを、また、信じ込ませようとする力がどれほど状況の中に入り込むのかを見てください!まさに、人工的な世界です。私たちはその中におり、その後の反動を知っています。

何とうつろで空しい死海の実でしょう!この通俗劇の悲劇は、多くの人にとってこれが「実際生活」であることです。この魂の世界は悪魔の模造品です。それはどこで見つかったとしても、また宗教と関係があってもなくても、すべて偽りです。

私たちの間にいる人たちで、この世の泉から味わったことのある人たちなら、あの魂の性質に関する限り、この世にあるものと宗教の中にあるものとの類似性に気づいています。それは領域の違いの問題であって、性質の違いの問題ではありません。世の音楽や劇が一方で生み出すもの――魂の鼓舞、高揚、渇望:情熱、涙、軽蔑、憎しみ、怒り、憂鬱、喜びなど――はすべて同じものであり、後援者と舞台が違うだけです。実のところ、それは過ぎ去ってしまい、私たちはそれ以上進めません。多少ましな音楽、説教者の交代、不案内な場所、やや多めの感動は、おそらく私たちの魂を刺激するでしょう。しかし、私たちは結局どこにいるのでしょう?サタンは仮面の下でどれほど笑っていることでしょう!ああ、実際が必要です、永遠の実際が必要です!ああ、この世に関する限り、美や崇高なものに対する鋭い感覚を持つ高い教養のある魂の方が、卑しい者よりも遙かに好ましいのですが、これは必ずしも、そのような人が神――パースンとしての神――に関する個人的な生ける知識を持っており、真に新しく生まれているかどうかの基準ではないということを、人々が見ることができますように!オカルト主義――普通の人よりも深く見抜く力、大部分の人が感じないものを感じる力、深遠なものを扱う力、見えない力に触れる力――は、神聖な意味における霊性ではありません。魂の領域は複雑で危険なものであり、多くの人をどん底から引き出すことはできますが、次に彼らを道徳的、精神的、肉体的破滅の中に陥れて、一切の希望を失わせてしまうのです。

「リバイバル」のために祈る時、自分が何を求めているのか、そしてそれを促進・推進するためにどのような手段を用いているのかに、注意しましょう。

魂の機能について詳しく扱ったので、ここで霊の機能についてさらに少し踏み込まなければなりません。

人の霊の属性

魂が理性、愛情、意志の三つから成るように、霊も三つのものから成ります。霊の属性は良心、交わり(礼拝)、直覚です。

「人の霊は主のともしびです。」(箴言二〇章二七節)

「律法を持たない異邦人が、律法にある事柄を天性のままに行うときは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の働きが自分たちの心に記されていることを示しています。彼らの良心も共に証しして、彼らの思いは互いに責め合ったり、弁明し合ったりしています。」(ローマ人への手紙二章十四~十五節)

アダムが罪を犯した時、彼がそうしたのは、自分にとって健全な正しい根拠や理屈に思われた事の結果であり、また、正しく望ましい判断に思われた事の結果でした。しかし、そのように行動するやいなや、彼は自分の内側の器官が起き上がって、自分の判断、理屈、「良い(?)動機」を罪に定めるのに気づきました。その後、彼は罪定めの感覚の下で生活しました。良心は彼を責め、彼に弁明させましたが、彼を神の恩寵に回復することはできませんでした。しかし、良心は彼の意識の中にずっと神を保ちました。このように、自分の魂の中に生き、それによって完全に支配されるとき、安息も真の生活もありません。自分の意志の力で自分の理性、思い、願いに強く働きかけることにより、あるいは、自分の意志を自分の感情や愛情に屈服させることにより、内側にほとんどあるいはまったく葛藤がなくなるほど良心の声を抑えつけることも可能です。しかし、「日の涼しいころ、園」の中に神が来られる時、言い換えると、私たちが神に関する生ける知識を求める時は常に、私たちは以前のこの考え、以前の理屈、以前の情愛的な生活に関して散々な目に遭うことになります。しかし、「人の良心は無謬であり、常に正しい」と言っているわけではありません。そうでないことは確かです。完全に間違った偽りの善悪の感覚を持つおそれもあります。サタンは良心を欺くことができます。私たちはただ、霊の属性の一つである良心とは何かを指摘しているにすぎません。良心が――自分の行く手にあるものを人に気づかせるだけでなく――神によって定められた神に関する自分の目的をすべて成就するには、(霊全体と共に)神の中で再び新しくされて、聖霊に結合されなければなりません。キリストは良心に対する神の完全な基準です。キリストとの結合こそ、霊による生活の唯一の基礎です。「キリストは私たちに至る神からの知恵、義と聖と贖いとされました」(コリント人への第一の手紙一章三〇節)。キリストを信仰によって受け入れて、神の御前における私たちの立場が自分がいかなる者かではなくキリストがいかなる方かに基づくようになる時、私たちはこの「くびき」によって「自分のに安息を得ます」(マタイによる福音書十一章二九節)。なぜなら、私たちの「心は邪悪な良心からすすがれた」からです(ヘブル人への手紙十章二二節)。人の霊全体と共に、良心は上から生かされ、復活させられ、照らされ、調整され、関係づけられなければならないのです。

霊と真理による礼拝についてはすでに述べたので、続いて直覚による霊の機能を見ることができます。この点に関して、魂と霊の違いは明白であり、はっきりしています。霊は霊的知識の器官であり、霊的知識は天然的知識や魂の知識とは非常に異なっています。神はどのようにして物事を知るのでしょう?どのような方法で結論や決定に至るのでしょう?どのような知的立場に基づいて神は宇宙を運営しておられるのでしょう?帰納的、演繹的、哲学的、論理的、比較的推論によってでしょうか?間違いなく、そうした頭脳労働と神は無縁です。彼の知識や結論は直感的です。直覚は霊的知性の機能であり、それによってすべての霊的存在が働きます。御使いたちが神の御旨に仕えるのは、その御旨を直感的に識別することによるのであって、議論や理屈で確信に至ることによってではありません。この両者の違いは、霊的達成のあらゆる記念碑によって証しされています。人の理性、天然的判断、「一般常識」が支配的な法則だったなら、神から霊感を受けた偉大な働きのすべてではないにしても、そのほとんどは決してなされなかったでしょう。神と共に親密に歩み、神との生ける霊の交わりを持っていた人々は、そのような目標への導きを直感的に受けたのです。その正しさは天然的理性によっては承認されませんでした。むしろたいていの場合、そのような天然的理性は反対したのです。「気が狂っている」というのが、たいていの場合、この世の「知恵」の判決でした。天然の思いが霊の思いを支配するのを、彼らがアブラハムのように許すときはいつでも、彼らはとまどい、麻痺し、助けになる感覚的な「エジプト」の方法を求めてあたりを見回しました。こうした一切のことで、私たちは肉によってではなく「霊によって義とされ」ます。霊と魂は独立して働きます。霊の思いが天然の思いに対して完全に優位を確立するまで、両者はつねに争い、あい反します。神から出ている、したがって霊的な一切のことで、「肉の思いは死ですが、霊の思いはいのちと平安です」(ローマ人への手紙八章六節)。ですから、これが霊的知識の性質です。

私たち自身にとって霊的価値を持つ神知識、あるいは私たちの務めを通してもたらされる他の人にとって霊的価値を持つ神知識は、聖霊の啓示によって私たち自身の霊の中に与えられる神知識だけです。神は決して――最初から――人の理性に説明することはなさいません。また、人は決して――最初から――理性によって神を知ることはできません。キリスト教は啓示です。そうでなければ無です。神の新しい子供の場合も、みなそうでなければなりません。さもないと、信仰は試練の日に耐えられない根拠に基づくことになってしまいます。

宗教、哲学、真理の体系、道徳的・倫理的教義として受け入れられている「クリスチャン信仰」は、偉大な理想という一時的な刺激を与えるかもしれませんが、いのちの再生、霊の新生という結果にはなりません。今日の世界にはそのような「クリスチャン」が大勢いますが、彼らの霊的有用性はゼロです。

使徒パウロが大いに明らかにしているように、彼の生活と奉仕の一切の秘訣は、彼が自分の福音を「啓示によって」受けた事実にありました。たとえ私たちが聖書を一冊の本として完全に知っていたとしても、霊的に死んでいて役に立たないこともありえます。聖書は永遠のいのちの基礎であり、解放と活用という結果になる、神知識や真理知識について多くのことを述べています。しかし聖書は他方で、人は探求によって神を見いだすことはできないと証言しており、大事なのは霊による知識であって天然の思いによる知識ではないことをかなりはっきりとさせています。

ですから、豊富な聖書知識、クリスチャン教理の正確な専門的理解、人の天然の知恵や能力という手段によるクリスチャンの働き、聖書の内容や主題の気の利いた取り扱いや面白い説明は、人の天然のいのちを一歩も超えられませんし、依然として霊的死の領域の中にとどまります。議論、説得、魅了、関心、「感情」、意志、熱狂、感動に訴えても、人々を天の王国の中にもたらすことはできません。天の王国に入る唯一の方法は、その中に生まれることであり、霊を生かされることによります。新生はあらゆる種類の新しい能力をもたらします。その中で最も重要なのは、神聖な知識、知力、理解のための新しい別の能力です。前に述べたように、人の頭脳は排除されていませんが、第二であって第一ではありません。人の知性の機能は、霊の事柄を自分や他の人々に理解できる形にすることです。

パウロは知力によって真理の知識を得たわけではありません。真理の知識は、霊によって受け取られて、他の人に伝達されたのです。聖書の知識を学んで修得するために、彼は自分の知性も用いたかもしれません。しかし、彼の霊的理解はそのような方法で来たのではありませんでした。それは別のものだったのです。それなしでは、聖書(旧約聖書)の知識ですら、彼をひどく誤った道から守れなかったでしょう。人の霊によって、人は永遠の不可視のものに達します。ですから、直覚は霊の思いの器官です。この意味で――つまり、霊は神との合一という事柄に関して死んだ状態にあり、天然的な思いから発したものにすぎない多様な表現形態の宗教と共に進むという意味で――神は「わたしの思いはあなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なるからだ」(イザヤ書五五章八節)と仰せられます。天が地より高いように、天上のものが地上のものより高いように、その違いは大きいのです。

私たちが学ぶべき主要な学課、そして神が苦労して私たちに教えてくださる学課は、霊的な目的には霊的な手段が必要だということです。神の事柄に関する限り、実際に霊的な実を結ぶうえでの無力さ、失敗、効率の悪さ、行き詰まりによる苦い失望によって、天然のいのち、思い、力を打ち壊すことは、一生の働きです。しかし、先に述べた真理こそ、この問題の理由であり鍵なのです。

神のための新しい企てはすべて、そのために選ばれた人々のもとに啓示によって臨まなければなりません。これは何と重要でしょう。神は選ばれた僕たちに語って、啓示をお与えになりました。そして、真に霊的な働きが成し遂げられました。そのため、他の人々がそれを型として取り上げて、他の場所でそれを真似しようとしました。その結果、彼らはその責任を負うよう要求されました――彼らは働き人、基金、全面的支援という資源を得ます。その代わり、邪悪でこの世的ではないものの、悲しい哀れな多くの方法や手段が用いられることになり、当事者たちは自分が誤った立場にあることに気づくことになります。受胎と新たな再生が、神聖な複製の法則です。人の選びではなく油塗りが神聖な継承の法則です。実のところ、神の働きはかなり多くの天然の要素がその中で表現されて満足を得る領域になってしまいました。人は何かを行い、何かを見、何かを得ずにはいられないのです。野心、獲得欲、達成欲などがクリスチャンの事業の中にもぐり込んでいます。そして非常に多くの場合(かなり率直に言わせてください)、物事は「私たちのもの」になってしまったのです――「私たちの働き」、「私たちの使命」、「私たちの領域」、「私たちの顧客」というように。そして、嫉妬、敵対心、苦々しさ、肉に属する他の多くのものがはびこっています。

天然の人にとって、何もせず、何も持たず、特に何もらないことは、とても難しいことであり、まさに十字架です。しかし、最も用いられた僕たちの場合、神はこれについて彼らを実際に訓練して整えられたのです。自分の力をまったく空にすることが、「神に属する(神から出ている)すべてのもの」(コリント人への第二の手紙五章十八節)を得る唯一の道です。キリストですら、この基礎に基づいて生きることを選ばれました。モーセの「私は雄弁ではありません」(出エジプト記四章十節)、エレミヤの「私は子供です」(エレミヤ書一章六節)、パウロの「それは私たちが自分に信頼するのではなく」(コリント人への第二の手紙一章九節)という言葉を思い出してもらうまでもないでしょう。この人たちは、天然と霊の違いという大いなる学課を経験的に教わる学校を出ていたのです。

神の格別な関心

これは、神の格別な関心が信者の霊にあることを見る助けになるでしょう。

第一に、神は霊の子らを求めておられることを、私たちは悟らなければなりません。放蕩息子のたとえ話と呼ばれるようになった話の根底に横たわっている、すべてを包括する真理は、律法の立場に基づく子たる身分から恵みの立場に基づく子たる身分への移行、肉から霊への移行です。創造による、律法に基づく、神の子としての身分があります。この意味で、すべての人は神の子孫であり、パウロはこの句をごく一般的な方法でアテネ人に対して用いました(使徒の働き十七章二八、二九節)。しかし堕落により――人は「さまよい」、「逸れてしまい」(創世記六章三節)――この関係に関する神の御旨や可能性はすべて潰えました。この関係にもはや価値はありません。「人は肉である」。ですから、人は神から分離されています――「遠く離れ」(エペソ人への手紙四章十八節)、「遠い国」で、「失われ」、「死んで」います。ここに恵みが到来します。そして、恵みを通して御霊が到来されます。御霊はこの死と遠方の領域の中で働き始め、「天に対する」(ルカによる福音書十五章二一節)罪を認めさせ(これだけが適切な認罪です)、絶望と破壊によって肉の働きを終わらせ、束縛し、確信させ、悔悟と告白を生み出し、ついには赦しと受容の場所にもたらされます。死からいのちにもたらされます。しかし、以前と同じいのちではありません。「霊から生まれる者はです」(ヨハネによる福音書三章六節)。この人は御霊の苦しみと力づけの産物です。その後の関係はすべて新しい関係です。「衣」は神の義の衣、「靴」は御霊による歩みと道(ローマ人への手紙八章二、四節)、「指輪」は権威の象徴、子の権利・管轄権の象徴(ヨハネによる福音書一章十二、十三節)、「肥えた子牛」は前には自分のものではなかったような食物、父の家の最上の食物です。聖書にあるこれらの点はみな、教えの体系を成すものです。

人の霊は新生の場であり、この唯一の真の子たる身分(ガラテヤ人への手紙四章五、六節)の座です。ですから、霊は「新しい人」でもあります。なぜなら、私たちが生きるのは「霊の新しさによって」だからです(ローマ人への手紙七章六節など)。神が私たちを教育し、私たちと交わり、私たちと共に働かれるのは、すべて霊に基づきます。

「新生後に放蕩息子が得た父に関する知識」は、以前知らなかった知識でした。恵みが到来するまで、彼は自分の父のことをわかっていませんでした。彼の霊は死、暗闇、隔離、荒廃、混沌から連れ出されました。次に彼は、自分が「お父さん」と呼んでいた方に関する客観的な知識だけでなく、彼に関する主観的で経験的な理解と認識を得ました。なぜなら、子たる身分の霊が彼の内側に生まれたからです。あるいは、子たる身分の霊が彼に与えられたからです。子たる身分の霊により、彼は「アバ、父よ」と叫びました。恵みを通してでなければ、そして新生によらなければ、救いをもたらす神との関係も、神を知る知識もありません。

ですから、新しく生まれることによって「小さな子供」になった人(マタイによる福音書)、あるいは霊の事柄の「赤子」になった人は(コリント人への第一の手紙三章一節)――小さな子供や赤子であることは、その状態にとどまり続けるのでない限り、悪いことではありません――すべてを新しく学ばなければなりません。なぜなら、「すべてが新しくなった」(コリント人への第二の手紙五章十七、十八節)からです。そのような人は、新しい種類のいのち、「いのちの新しさ」(ローマ人への手紙六章四節)によって生きるために、新しい種類の知識を学ばなければなりません。パウロは、私たちは「死人の中から生きている」者として行動しなければならない、と述べています(ローマ人への手紙六章十三節)。私たちのいのち、私たちの天然のいのちは、神の御旨を行うことも、神の要求どおりに生きることも、神の働きを行うこともできません。私たちはこれを学ばなければなりません。これは彼の復活のいのちによってのみ可能です。この真理のつまずきの要素は、弱さの自覚や認識が必要な点です。また、私たち自身は神の御旨に関してまったく無力で価値がないこと、そして私たちは自分からは何もできないことを告白する必要がある点です。力、効率、適応性、能力に対する天然の人の礼賛は、血肉よりも力強い天使群に対するキリストの宇宙的勝利は「彼が弱さを通して十字架につけられたためである」(コリント人への第二の手紙十三章四節)という宣言に直面する時、恐ろしい反対に遭うことになります。神が無力になられたのです!「神は強い者を困惑させるために、弱い者を選ばれました」(コリント人への第一の手紙一章二五~二七節)。キリストの力が自分にとどまるために弱さを誇ることは、もともとのタルソのサウロには縁遠いことでした。しかし、何と驚くべき心境の変化でしょう!しかし、神は常に天然の「能力」や「力」と「わが霊」(ゼカリヤ書四章六節)とを明確に区別してこられました。この区別は永遠に残ります。この「新しく生まれた赤子」は、天然的な歩みとは異なる御霊による歩みを、いま学ばなければなりません。多くの過ちを犯すかもしれませんし、おそらく転ぶこともあるでしょう。しかしそういったことは、肉的な不従順や恐れにずっととどまっているのではなく、信仰によって一歩踏み出したことの印であるなら、まったく悪いものではありません。すでに示したように、この歩みの性質は、理性、感覚、天然的な選択は、もはや霊の人の指導原理や基準ではないということです。このような人は魂と霊の衝突や齟齬をしばしば経験します。理性はある道を指示し、情愛はある方向に促し、意志はそれらの判断や欲求を満たそうとします。しかし、内側のどこかに引き止めるものがあります――私たちの中心に何か重苦しい活気に欠ける麻痺したものがあります。それがすべてを覆し、私たちに反対し、事実上絶えず否と言うのです!あるいは、逆かもしれません。内側の促しや束縛は、私たちの天然的な判断や理性から助けを受けません。私たちの天然的な欲求、性向、好み、情愛とは正反対です。この同じ天然の領域では、私たちはそのような道をまったく進みたくないのです。この場合、だれもが生活の中でしばしば経験するように、判断が欲求に反対しているわけではありません。判断、欲求、意志が一緒になって直覚に反対しているのです。これは危機です!今、だれが生活を支配するのか、見極めなければなりません!今、「天然の」人すなわち外なる感覚の人と「内なる」人とが問題を片づけなければなりません。

御霊によって歩むことを学ぶのは、新しい人の一生の学課です。新しい人の正しさが示されるにつれて――長い目で見れば、新しい人の正しさが常に示されるでしょう――新しい人が「天然の」人やその精神に対して絶対的優位に立つようになるでしょう。そして、新しい人の霊の中の聖霊の力づけにより、十字架が働いて肉の思い(霊の事柄においては常に死に終わります)を無に帰し、「いのちと平安」(ローマ人への手紙八章六節)である霊の思いを王座に着かせます。

ですから、これが御霊による歩みの性質であり、その適用は多くの面にわたります。しかし、私たちはこの歩みの法則を思い出さなければなりません。その法則とは信仰です。私たちは御霊によって歩みますが、「信仰によって歩む」のです(コリント人への第二の手紙五章七節)。

信仰によって歩むには、事の性質上、外なる感覚の人が安全保証として固執、要求、渇望するものを、すべて剥ぎ取られなければなりません。

神の民の霊的生活が優勢な時、彼らは人の力の不足や反対者の圧倒的優位によって圧倒されたりしません。

これは聖書に記されている神の民の歴史から明らかです。しかしまた、霊的生活が低調で、未発達で、衰退している時、神の民は何かすがることのできる目に見える確かな手段を求めてあたりを見回すようになることも真実です。霊的生活が低調な時はいつでも、また、霊的生活が低調な所はどこでも、エジプトが神の代わりになります。私たちの霊の中の聖霊の直感的判断を信じ、それに信頼することが霊的歩みの法則です。たとえすべてが人の道とかけはなれていたとしても、また、それが私たちをカナンに導いたとしてもです。しばらくの間、そこは偶像崇拝に満ち、飢饉に見舞われるかもしれません。また、私たちの外なる人が「神の導きや約束にかなっているにちがいない」と思い込んでいるものとは、すべてが正反対かもしれません。しかし、これのために「この世」の古い生活領域を離れ、親族や父の家を離れること、次に、天然の人を構成している手段、方法、習慣、判断が絶えず剥ぎ取られつつある間、待ち続けるべきこと――これが霊的歩みの法則であり、神が選び定められた最も強力な立証の道です。霊の子孫、豊かさ、豊穣さ、奉仕、永続性、神の友愛は、このような信仰のアブラハムたちのためであり、霊におけるアブラハムの子供たちのためです。神は、霊の栄光という上部構造のために、信仰という基礎を据えられました。このような基礎の上に建造されるものだけが、霊的な目的に役立てます。これを私たちの個人の歩み、家庭での歩み、仕事での歩み、教会での歩みの試金石にしましょう。これもまた、もし適用されていれば革命的な原則だったでしょうし、私たちの能力や方法における肉的で天然的でこの世的なものをかなり捨てることを要求していたでしょう。「行いのない信仰は死んでいます」(ヤコブの手紙二章二六節)。これは真実ですが、信仰の行い――霊の行い――は肉の行いではありません。この二つの領域は比較できません。肉による歩みと御霊による歩みはまったく異なります。御霊に属する事柄は肉にとって愚かです。信仰の人は他の人が見ないものを見、それにしたがって行動します。これは正気を失った人もそうであり、両者はしばしば混同されます。肉の子供たちは霊の子供たちのことを、気が狂っていて正気ではないと思います。彼らは人の狂気と「人よりも賢い」「神の愚かさ」(コリント人への第一の手紙一章二五節)とを区別することすらできないのです。

アブラハムは信仰によって強くされました。信仰による彼の歩みは、肉による歩みとはだいぶ異なっていましたが、かなり実際的でした。ある著者が述べているように、信仰は肉によって歩んでいる人々や信仰によって踏み出さない人々が経験したことのない困難の中に私たちをもたらします。しかし、そのような困難は肉の力が助けにならないところに私たちを置き、神の特別な啓示を必要とならせます。神はそのような機会を常に用いて、このように必要な霊の教育を施されます。こうして霊の人は教えを受け、他の人が知らないような仕方で神を知るようになります。このように、信仰は新しい人――内なる人――の歩みの法則です。信仰は連続的な段階により新しい人をまさに神の御心の中に導きます。神はこの進歩に栄冠を授けて、「わたしの友」(イザヤ書四一章八節)という比類ない名称をお与えになります!

もう一つ一般的なことを述べなければなりません。新しい霊の人は新しい言葉を学ばなければなりません。霊の言葉があります。新しい霊の人は、「人の知恵の魅惑的な言葉」やいわゆる「雄弁さ」(コリント人への第一の手紙二章一、四節)による話は霊の奉仕の役に立たないことを、ますますよく理解しなければなりません。もし一週間のうちになされる福音に関する宗教的な講演、説教、会話がすべて聖霊の発言だったなら、この世にどれほど凄まじい神の影響が及んでいたことでしょう!しかし、そうでないことは明らかであり、その衝撃力は感じられません。聖霊の中で聖霊によって語るなら、永遠と関係あることが必ず起きます。しかし、この能力は「霊から生まれた」人々にのみ属します。彼らの霊は主に結合されていますが、その彼らですら、自分の言葉を話すのをやめて聖霊によって促される時に語る方法を学ばなければなりません。言葉に関して自分の外なる人を屠られること、そして「私は話すことができません。私は子供だからです」(エレミヤ書一章六節)というエレミヤが導かれた状態に導かれることが、内なる人の教育の一部です。私たちは罪人としてキリストと共に十字架につけられなければならないだけでなく、説教者、講演者、話し手としても十字架につけられなければなりません。パウロが言うには、キリストの割礼は肉の体をすべを断ち切ることであり、私たちの唇にも適用されなければなりません。神に栄光を帰せないことはまったく「話すことができない」ほど、私たちの霊が支配しなければなりません。話をする天然の能力それ自体は、霊の務めにとって力ではありません。それどころか、全くの脅威かもしれません。「聖霊が教えてくださる」言葉(コリント人への第一の手紙二章十三節)でなければ話すのが本当に恐ろしいというのが、実際の霊の成長の一つの段階です。他方、話をする天然的な能力の欠如は、必ずしも不利な条件ではありません。「弱さと恐れとおののき」の中にあることは(コリント人への第一の手紙二章三節)、使徒的な務め、いな、聖霊の務めにふさわしい状態かもしれないのです。神の発言は人の発言とはあらゆる面で大いに異なっています。「会話」、「舌」、「言葉」などに関して、どれほど多くのことが聖書に述べられていることでしょう!しかも、それらは霊の支配下になければならず、魂の器官のたんなる表現であってはならないことが、常に強調されているのです!

生き返らされた霊だけが神の啓示を受けられることが真実である以上、そのような啓示はその霊的な目的を実現するために神聖な発言の賜物を必要とすることもまた同じく真実です。霊的な理解を持っていなくても、つまりたんなる知的理解から、真理を説教することも可能です。その説教は天然の能力にすぎないかもしれません。悲しいことに、説教者も聴衆もその真理の生ける実効的価値の恩恵にあずからないかもしれません。その霊的な結果は、ほとんどその努力や支出に見合うものではありません。神に栄光を帰す、いつまでも残る実という結果になる話の価値は、その話が説教、教え、会話、祈りのいずれであっても、明瞭さ、雄弁さ、精巧さ、賢さ、機知、思慮深さ、情熱、熱心さ、力強さ、情念などにあるのではなく、それが聖霊の発言である点にあるのです。

「あなたの言葉があなたを暴露した」という句が、多くの形であてはまるかもしれません。なぜなら、私たちが生きているのが肉によるのかそれとも霊によるのか、天然の人によるのかそれとも霊の人によるのかは、私たちの話し方や私たちの唇の実の霊的効果によって常に明らかにされるからです。

ああ、神の民の唇が十字架につけられますように!また、神の預言者たちの唇が、カルバリの大いなる祭壇からの血塗られた燃える炭によって触れられますように!