第八章 十字架と新しい人

神の観点と人の観点から見た人の歴史

T. オースチン-スパークス

ここに挿入した単純なは(巻末参照)、神の観点と人の観点から見た人の内的歴史を示すためのものです。

第一に、「神が創造した日の」人です(創世記五章一節)。人の三重の性質を定義しています。

1)霊:良心、交わり、直覚の三つの機能を持ち、そのおもな意義は霊的理解です。
2)魂:理性、感情、意志または決意を有し、その機能は人間生活のために解釈することです。
3)体:肉、血、骨から成り、霊と魂の用事を執行し処理します。

次に、霊による神との関係です。これは五重です:

1.似姿(基礎、「霊」)
2.交わり
3.知識(霊的知覚)
4.協力
5.統治

第二に「堕落」です。

その結果と影響は:

1.人の霊は魂に従属するようになった。
2.魂はサタンの攻撃と勝利の座になり、悪の勢力の力の下にある。
3.魂の道具である体は、サタンの影響下で、人自身の姿に似せて、人のかたちにしたがって、繁殖することをその格別な目的とするようになった(創世記五章三節)。

次に、霊が神から分離されることにより――これが霊的死の意味です――この五重の関係は引き裂かれました。似姿は傷つけられ、交わりは破られ、知識は曇らされ、協力は不可能にされ、統治は失われました。ですから、人は神から分離され、締め出され、暗くされ、霊的に麻痺し、「虚無に服して」います(ローマ人への手紙八章二〇節)。

この時から人は肉と呼ばれています――「人はさまよってしまい、肉だからだ」(創世記六章三節)――これは死ぬべき運命を意味するだけでなく、霊や神に敵対する活発な原理の存在をも意味することを、私たちは新約聖書から知っています。さらに、人はそれ以来、「天然の人」(魂的)です。しかしとりわけ、人は――自分の意志で――神よりもサタンを信じることを選んだため、「この世の神」によって動かされています。

この時から二重の歴史が始まります。それは図中の二組の線で示されています。一方の組の線は狭まっていき、他方は広がっていきます。狭まっていく線は、それ以降の、神の御思いによる人の歴史を示しています。人は神の創造の働きの一部でしたが、神は人を不信仰のゆえに罪の下に「閉じ込め」られました(ローマ人への手紙十一章三二節)。そして、神は型や象徴を用いてキリストの十字架の原則を導入されます。この線では、人自身から出たものはまったく神に受け入れられません。ある事柄――おもに三つの事柄です――が常にはっきりと視野にあります:

1.裁きの下にある、人の罪深い状態という事実。
2.死。死は天然の人の最期であり、すべての人の運命であり、受け入れられるべきものです。
3.キリストの完全性。キリストの完全性は神との関係、神とのさらなる関係の唯一の基礎です。

これがカインとアベルの事例の内在的意義です。これが神のエコノミーで死がこれほど大きな地位を占めている理由です。そして――なんという神の知恵、力、驚異でしょう!――ここで神はまさに蛇の尻尾、死のとげ、悪魔の働きを捉えて、死を新しいいのちへの道、御旨への小径としておられることがわかります。それはキリストの復活と彼による信者の霊的復活とによります。これが、人を神のみそばにもたらすささげものを神に受け入れてもらうには、それに傷があってはならない理由です。徹底的な検査の後、祭司の鋭い目から見て、「これは完全である」と言えなければなりません。(これこそまさに、あらゆる試みや火のような試練の結果について、キリストが十字架上で叫ばれたことです――決着がついた、完了したということだけでなく、「完全である」ということです。)

それ以来ずっと、不変不動の確かさで、神の御思いはキリストの十字架に至ります。個人や人々が神の永遠の御旨との関連で神の直接的統治下に来る時はいつでも、彼らはあることをはっきりと自覚します。それは、自分の中には「善なるものが宿っていない」(ローマ人への手紙七章十八節)ということであり、自分のものではない義の根拠のみに基づいて、行いからではなく信仰によって受け入れられているということです――それは別の方の美徳によるのです。この理解は天然の人を容赦なく打ち砕くので、その中から主の目に留まりうるものが現れます。「わたしが目を留める者は、貧しくて霊(または心)の砕かれている者です」。

ですから、キリストの十字架は天然の人に関する神の御旨であることがわかります。なぜなら、人の子は十字架で私たちの罪を負っただけでなく、代表者たる彼のパースンによって私たち自身をも負い、私たちの代わりに、あるいは私たちとして、神の裁きの下で死なれたからです(ローマ人への手紙六章二~十節、コロサイ人への手紙二章十二節、コリント人への第二の手紙五章十四、十五節など)。この十字架は、アダムが罪を犯した時点にまで、その光を反射します。こんなにも多くのクリスチャンが「肉的」であって、自分自身で神のために生きようとしているのは、十字架の意味に関する適切な全き理解に欠けているからです。これが、霊のいのちの恒常的な弱さと貧しさの根幹です。「リバイバル」のために多くの祈りがなされ、「霊のいのちを深める」ために多くの努力がなされています。これに対する唯一の答えは、十字架を新たに知ることです。罪(複数)それらに対する勝利の生活についてだけでなく、天然の人に取って代わるキリストについて、十字架を新たに知ることです。

パウロはコリントの状況のゆえに、「私はあなたたちに、霊の人に対するようには話せませんでした。むしろ肉の人に対するように、幼子に対するように話しました」と書かなければなりませんでした。それは彼らが魂の(「天然の」)人の立場に基づいて多く生きていたからであることが、彼の第一の手紙の最初の数章で説明されています。彼の唯一の治療法は「十字架につけられたイエス・キリスト」でした。信者たち、「召された聖徒たち」(コリント人への第一の手紙一章二節)でも、魂に基づいて生きるおそれがあります。そして霊の賜物を、魂的に評価・活用される領域に持ち込むおそれすらあります。これを認識するなら、私たちはとても冷静になりますし、堅実になります。「異言」や他の「賜物」が続くいわゆる聖霊の「バプテスマ」は、霊的生活の主要な事柄に関する知識を必ずしももたらしません。ですからパウロは、このような経験をしている人々に、バプテスマ、十字架、主の食卓、キリストのからだ、子たる身分の真の意味について教えなければならなかったのです。啓示は賜物や経験に優ります。賜物の現れは霊的成熟のしるしではなく、しばしばその逆です。ここにサタンの最高に狡猾な罠があります。このような経験を深い実際の霊性と取り違えるなら、最も誠実な神の子供たちさえも偽りの経験に導くためにサタンが願ってやまない最高の機会を彼に与えることになります。魂的な人に対して深く適用される十字架こそ、霊的なものの驚異的な偽物である、魂的なものの顕現に対する唯一の守りなのです。

図の続きを見ると、他の面もあります。人は自分に関する神の判決を認めて受け入れることを、これまで常に拒絶してきました。ですから、人は自己表現と自己実現の道を追い求めます。人は最初から、アベルのささげものによって神の道がはっきりと明らかにされた時ですら、自分自身の道を追い求めました。人は出て行ってこの世を建設し、文明を創造し、王国を構成しました。バベルまたはバビロンがその名前です。それは人の力、能力、栄光の表現であり、記念碑です。「さあ、われわれは名をあげよう」(創世記十一章四節)。「このバビロンは、私が建てたものではないか?」(ダニエル書四章三〇節)。このように人は得意になり、自己を増長させ、主張します。人が造り出したのは確かに素晴らしい世界ですが、それはまったく人の手に負えません。人はそれを管理できません。確かに驚異に満ちています――しかし悲劇に満ちているのです!それはたちまち人の破滅に至るでしょう。そして、人の造り出したものが、人の文明を一掃するでしょう。人は物事を始動させますが、それは自らの慣性で人の手を離れます。神はこの終末の時代を短くするために介入しなければならないでしょう。さもないと、一人として救われる人はいないでしょう(マタイによる福音書二四章二二節)。これが直ちに水平線上に現れるでしょう。この線について、何とたくさん書けることか!しかし、そうするのは差し控えます。愚か者、盲目な愚か者、サタンに騙されている人だけが、「この今の世の進路を行けば、おのずと理想郷が生じる」と考えます。文明はこれまで魂の感覚、感受性を強めてきたにすぎません。私たちはすでに、「人々は恐ろしさのあまり気を失います」(ルカによる福音書二一章二六節)という御言葉の意味を幾分知っています。

しかし、依然として神の立場は変わりません。人は自分の王国を建設し、それを雲にまで届かせるかもしれません。しかし、天は人に対して閉ざされています。キリストの十字架は、神はそのすべてをずっと昔に終わらされたことを宣言します。ですから「カルバリ」はゼロです!神の永遠の御旨に関する限り、死によらずに、信仰によってキリストと一体化されることによらずに、十字架を通り過ぎる道はありません。この立場を取り、その意味をすべて受け入れる時、キリストとの復活による合一により、新しい人が生じます。「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です」(コリント人への第二の手紙五章十七節)。

その時から別の二重の過程が始まります。神の意図を完全に理解するかどうかとは関係なく、それをすべて受け入れる決定的な転機がなければなりません。この転機はすべてを含み、潜在的にすべてを伴います。

その二重の過程とは、一方において新しい人、霊の人が優位に立つことであり、他方において天然の人、古い人を従わせることです。これは生涯にわたる学課です。理解することが必要です。もし神が古い人を実際に消し去って「根絶」しておられたなら、霊的教育の基盤は全くなくなっていたでしょう。新しい霊的能力を用いて別世界ですべてを新たに学ぶことに関して、この「いのちの新しさ」が何を意味するのかは、すでに他の箇所で指摘しました。この新しい人は「心の中の隠れた人」(ペテロ第一の手紙三章四節)であり、「私たちの霊の父」(ヘブル人への手紙十二章九節)によるその訓練は、この同じ手紙の前の箇所で述べられている「魂と霊を分けること」(ヘブル人への手紙四章十二節)と一致します。図の残りの部分を学ぶなら、この意味が明らかになります。なぜなら、ここには新しい全く別の法則、「いのちの霊の法則」があるからです。このいのちにはそれ自身の法則があり、それを学ばなければならないのです。

これは信仰の生活です。「私がいま生きているそのいのちを、信仰の中で生きます」(ガラテヤ人への手紙二章二〇節)。ですから、知識は信仰の実です。これ以上先に進む必要はないでしょう。しかし前に戻って、十字架の転機について最後に強調することにします。十字架以外の場所では、神は人に対して何も言うことはありません。神の子供のいのちの新たな成長はみな、何らかの方法で、十字架の意義が新たに示されることによります。深い死は豊かないのちに至ります。神は揺るぎない御手でバランスを保たれます。そして最終的に、地上で自分を空にする最後の局面は、天でキリストと共に王座に着く結果になります。