第二章

T. オースチン-スパークス

「おまえは私をクリスチャンにしようとしている」(使徒の働き二六章二八節)
「私は一つの声が私に言うのを聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?』。」(使徒の働き二六章十四節)

上の言葉は同じ人――タルソのサウロ、後の使徒パウロ――に向かって語られたものであり、最初の言葉はローマ帝国の支配者によって、二番目はナザレのイエスによって語られました。これらの言葉は、真のクリスチャン経験の本質を含んでいます。このパウロは真に典型的なクリスチャンでした。クリスチャンになった方法についても、クリスチャンとしての生活についてもそうでした。同じで回心し、その時に同じ出来事を経験した人は、多くないかもしれません。私たちは旅の途中、目の眩むような光によって地に打ち倒されることも、名指しで自分を呼ぶ天からの声を聞くこともなかったかもしれません。しかし、原則は常に同じです。これらの御言葉を調べて、その原則を見ることにしましょう。

Ⅰ.全く個人的なことである

「私は一つの声が私に言うのを聞きました、『サウロ、サウロ……』」。その日、サウロと一緒に旅をしている他の人たちがいました。何人だったのかはわかりません。パウロは彼らのことを「一同」と言っています――「私たち一同が地に倒れた時」。多くの人がいたと思われます。しかし、サウロだけが選び出されました。その出来事は個人に直接関わるものだったため、まるで地上には彼しかいないようでした。彼は後に、自分の経験を何かきわめて個人的なものとして話しています。驚いたことに、キリストは彼のことを名指しで知っておられ、彼の内側で起きていることをすべてご存じだったのです。

神は私たちに個人的な直接的関心を抱いておられ、私たちを個人的にとても気遣っておられます。これは事実です。私たちが理解すべき事実です。筆者には軍事病院を訪問している友人がいました。彼は、神の御言葉をいくらか必要としている人のために、自分のポケットの中に御言葉をいくつか持ち運んでいました。彼は出かける前に、「適切な人に適切な御言葉を与えることができるよう導いてください」とよく祈っていました。

ある訪問の際、彼は病室に入ってあたりを見回しました。すると、向こうの隅に包帯に包まれた人のいるベッドがありました。その人は全身を包帯で包まれており、鼻と口と耳だけが覆われていませんでした。そのベッドに彼が近づこうとすると、「無駄です」と看護婦が言いました――その人の症状は、話しかけられないほどひどかったのです。彼は一瞬立ち止まり、包帯で巻かれた手に御言葉を一節残すことにしました。その御言葉がどんな御言葉か見ずに、彼はそうしました。そのベッドから立ち去ろうとした時、弱々しい声がありました。

「これは何ですか?」

私の友人は言いました、「神の御言葉のほんの一節です」

死にかけている人は言いました、「何と書いてありますか?」

「ええと、そうですね、箴言二三章二六節です。

わが子よ(My son)、あなたの心をわたしに与えよ』と書いてあります」

「誰がそう言っているのですか?」と兵士は尋ねました。

「これは神の御言葉である聖書からです!」

「もう一度読んでください」と傷病兵は頼みました。

「『わが子よ(My son)、あなたの心をわたしに与えよ』」

一瞬の沈黙の後――

「それが聖書に書いてあるとおっしゃいましたよね?」

「はい、神があなたにそう言っておられるのです」

兵士はため息をつきました。しかし、そのため息は不思議そうなため息でした。私の友人は一瞬待ってから、「何をとまどい驚いているのですか?」と尋ねました。

「私のベッドの札を見てください」と兵士は言いました。

私の友人はそうしました。すると驚いたことに、軍隊での詳細な情報を記してあるその札には、

ジャック マイソン(Jack MYSON)

という名が記されていたのです。

「偶然の一致だ!」と言うのでしょうか!?その人は今まさに永眠しようとしていたのであり、神が名指しで彼に語られたのです。常にこうだとは限りませんが、神は私たち一人一人に対して個人的関心を抱いておられる、という事実は残ります。真のクリスチャンとは、神と個人的関係を持つようになって、パウロのようにこう言えるようになった人のことです。

「彼は私を愛して、のためにご自身を与えてくださいました。」(ガラテヤ人への手紙二章二〇節)

「私は一つの声がに言うのを聞きました、『サウロ、サウロ……』。」

その時、自分の内的歴史はすべてキリストに知られていることを、サウロは理解するに至りました。他の人々は外側で起きていることは理解できました。彼は大急ぎでダマスコに向かっていました。彼は、クリスチャンたちを捕縛してエルサレムに引いて行くための公文書を持っていました。彼は自分の意志で自分の仕事を遂行していました。これは彼の宗教的熱心さのためである、と他の人々は思っていたことでしょう。しかし、別の理由をご存じの方が天におられました。彼はその知識を開示して、

「とげのある棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」(使徒の働き二六章十四節)

と言われたのです。

ですから、実を言うと、彼は耕作のためにつながれている牛のようだったのです。彼はある方向に行くのを嫌がっており、とげのある棒で追い立てられて、自分の望みを邪魔されていました。それで彼は逆らって出て行き、その棒を蹴っていたのです。この光景は他の人々が思っていたものと何と異なっていたことでしょう!彼が他の人々に思い込ませようとしてきたものと何と異なっていたことでしょう!しかし、認める用意や受け入れる用意が私たちにできていないことでも、天におられる方はご存じです。彼は私たちのことをお見通しです。私たちの見せかけ、自己欺瞞、抵抗を、すべてお見通しなのです。

サウロは必死になって、キリストとキリスト教の誤りを確立しようとしていました。しかし、実を言うと、彼は確かな自信を持つことを願っていたのですが、それほどの自信はなかったのです。何かが彼に触れました。その何かに機会を与えるなら、彼の立場は危うくなっていたでしょう。ですから、彼は守りを固めて、力の限り抵抗しなければなりませんでした。内側で彼は蹴り、「私はキリストを欲しません!キリストを受け入れません!自分はクリスチャンにはなりません!」と実質的に言っていたのです。

キリストは現実です。遅かれ早かれ、私たちは彼を受け入れなければなりません。そうする時や方法には色々あります。

私たちはキリストを、私たちの主、私たちの救い主として受け入れることができます。そしてパウロのように、キリストとの素晴らしい交わりと、キリストのための有益な奉仕の生活を享受することができます。

あるいは、私たちは遅かれ早かれ、自分の人生の最後にキリストを受け入れることもできます。しかし、キリストの足下にささげる奉仕の生活がまったくないのは、言いようのないほど悔いが残る悲しいことです――キリストがいま携わっておられる大いなる御旨に関して、キリストとの交わりの生活を永遠に失うことなのです。

あるいは、ああ、この人生が過ぎ去った後、私たちはキリストを受け入れなければならないでしょう――ただし、私たちの弁護者や友人としてではなく、私たちの裁き主としてです。

御子に対して最終的に「すべての膝がかがむようになる」ことを神は決定しておられます。しかし、神の願いはそれがサウロの事例のようであることです。「主よ、あなたは私に何をさせようとしておられるのですか?」。これがクリスチャンになることの意味です。しかし、この章の冒頭で引用した言葉には、さらなる意味があります。

Ⅱ.キリスト教――宗教ではなく、ひとりの御方である

「なぜわたしを迫害するのか?」と栄光を受けたキリストはお尋ねになりました。何という思想でしょう!ここに、宗教的熱心さを帯びて「出て」行く一人の人がいました。その理由に関する限り(たとえ悩ましい疑問が彼の心中にあったとしても)、宗教的権益のためにこれをなさなければならないことを彼は確信していました。彼の内側は確かに分裂していましたが、伝統的宗教のために、そして彼の論拠によれば神のために、彼はすべての疑問をおさえつけて情け容赦なく進み続けていました。しかしその間ずっと、彼は神に逆らって、神の御子に逆らって、天に逆らって、働いていたのです!なんと混乱した状態でしょう!

宗教的であることと真のクリスチャンであることとは異なります。また、神から出ている――あるいは神のためである――と信じるもののために熱心に身をささげたとしても、その熱心さによってかえって神の真の権益を妨げることがありえます。そういったことについて、多く述べることができるでしょう。しかし、私たちはこれをみな、一つの総括的な問題に帰さなければなりません。

クリスチャンとは多かれ少なかれ宗教的な人のことではありません。クリスチャンとは、「……をしなければならない」「……をしてはならない」という多くの規則を受け入れている人のことでもありません。神はこうした根拠に基づいて私たちを取り扱うことはなさいませんし、犯した罪の数やその性質に基づいて人々を裁くこともなさいません。神の裁きの根拠は一つだけです。それ以外のどんな根拠も不公平でしょう。なぜなら、出生、育ち、長所、気質などによって、有利になることもあれば不利になることもあるからです。この裁きの唯一の根拠は、現在だけでなく将来においても、神の御子イエス・キリストに対してどう振る舞っているのか、ということなのです。

神は御子を遣わしてくださいました。御子によって私たちはみな共通の立場に立たされます。すべての人のために、御子が神の定めた主また救い主として与えられています。神は裁きの時、「あなたはいくつ罪を犯したのか?」「あなたはどんな罪を犯したのか?」とは決して仰せにならないでしょう――そうではなく、「あなたはわたしの御子をどうしたのか?」と仰せになるでしょう。サウロがしたように荒々しく拒否したり、キリストに対して積極的に激しく戦う必要はありません。ただキリストを拒否するだけで、私たちは同じ永遠の損失を被りうるのです。キリストに「否」と言って自分を閉ざすなら、あるいはキリストを無視するだけでも、そうなりうるのです。まったく同じように私たちは失われます。滅びるには、救いを与える薬を地に投げつける必要はありません。薬をそのままにしておいて飲まないでいるだけでも滅びるのです。しかし、薬がそこにあることを知りながらそれを飲まないでいるなら、その責任は重大です。

ですから、生と死、罪と義、天と地獄、時間と永遠といったあらゆる問題は――「宗教」「教会」「信条」にではなく――神の御子との生ける関係と密接につながっていることがわかります。また、こうした一切の問題に対する答えは主イエス・キリストのパースンと御業の中にあることがわかります。

あなたは主に聞き、主を見、主を知っているでしょうか?
あなたの心は虜にされているでしょうか?
多くのものの中から主を第一に自分のものとし、
喜んでまさった分を選びなさい。
かつては偶像があなたに打ち勝ち、あなたを魅了していました――
時間や感覚に属する素晴らしいものが。
あなたが偶像から去らないよう、
罪はこのようなメッキであなたをなだめ、そそのかしました。
何がこの地上の偶像から
見せかけの美しさを剥ぎ取ったのでしょう?
権利や義務の感覚ではありません。
このうえなく価値ある方を見たことです。
苦々しい空しさと苦悩をもって
偶像を打ち砕くことによるのではありません。
主のうるわしさの輝きと
主の御心の啓示によります。
日の出を喜び迎えなければ
だれが灯心を消せるでしょう。
夏が始まらなければ
だれが冬装束を脱ぎ捨てられるでしょう。
ペテロを溶かしたあのまなざし、
ステパノが見たあの御顔、
マリヤと共に泣いたあの御心、
それだけが偶像から引き寄せうるのです。
引き寄せ、打ち勝ち、完全に満たしてください
杯の縁を溢れ流れるまで。
私たちは偶像と何の関わりがあるでしょう、
私たちには主との交わりがあるのです。