第3章 主を見ることと自分自身を見ること

T. オースチン-スパークス

ユダの民はみな、十六歳だったウジヤを立てて、その父アマツヤの代わりに王とした。彼は、王がその父祖と共に眠った後、エラテを建設し、それをユダに復帰させた。統治を始めた時、ウジヤは十六歳であった。彼はエルサレムで五十二年間治めた。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレムの出であった。彼はすべて父アマツヤが行ったとおりに、エホバの目にかなうことを行った。彼は神の幻を理解していたゼカリヤの存命中は、神を求めるように努めた。彼がエホバを求めている間、神は彼を栄えさせた。(歴代誌下二六・一~五)

しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、堕落したことを行った。彼は彼の神、エホバに対して違反を犯した。彼はエホバの神殿に入り、香の祭壇で香をたこうとした。祭司アザルヤはエホバの勇敢な祭司八十人と共に後から入り、ウジヤ王の前に立ちはだかって言った、「ウジヤよ、エホバに香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子孫たちです。聖所から出てください。あなたは違反を犯したからです。神であるエホバの誉れはあなたには与えられません」。ウジヤは怒り、手に香炉を取って香をたこうとした。彼が祭司たちに対して怒っているとき、その祭司たちの前、エホバの家の中、香の祭壇のかたわらで、彼のひたいにらい病が現れた。祭司長アザルヤと祭司たち全員が彼の方を見ると、見よ、彼のひたいはらい病に冒されていた。彼らは急いで彼をそこから追い出した。彼も自分から急いで出て行った。エホバが彼を打たれたからである。ウジヤ王は死ぬ日までらい病に冒されていたので、らいを病む者として隔離された家に住んだ。彼はエホバの家から断たれたからである。その子ヨタムが王宮を治め、国の民を裁いた。(歴代誌下二六・十六~二一)

ウジヤが彼の先祖たちと共に眠ったとき、人々は、彼はらい病に冒されていたからと言って、彼を王たちの所有していた野の墓地に先祖たちと一緒に葬った。その子ヨタムが彼の代わりに治めた。(歴代誌下二六・二三)

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼び交わして言っていた、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍のエホバ。その栄光は全地に満つ」。その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆらぎ、宮は煙で満たされた。そこで私は言った、「私はわざわいだ。私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍のエホバである王をこの目で見たのだから」。すると、セラフィムのひとりが私のもとに飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は私の口にそれを触れさせて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの咎は取り去られ、あなたの罪は赦された」。私は、「だれを遣わそう、だれがわれわれのために行くだろう?」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください」。すると彼は言われた、「行って、この民に言え。『聞け、しかし理解するな。見よ、しかし理解するな。この民の心を肥えさせ、その耳を鈍くし、その目を閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で理解し、立ち返って、いやされることのないために』」。(イザヤ六・一~十)

これはとても印象的な心を打つ物語であり、霊的視力という今回私たちの前にある問題の周辺を巡るものです。「私は主を見た」。「私の目は見たのだから……」。すべてはこれに集中しています。

この出来事から言えるのは、ウジヤ王は霊的にも道徳的にもイスラエルを代表していたということ、そして、イスラエルの預言者たちをも大方代表していたということです。これが、「私はくちびるの汚れた者なのに、あなたたちの預言者なのです。私はくちびるの汚れた民の間に住んでいます」という預言者イザヤの二重の発言の意味です。そしてこれは、はっきりとわかるように、ウジヤと関係しています。ご存じのように、らい病に冒されている者は衣を上くちびるにあてて、「汚れています!」と叫びながら行き巡らなければなりませんでした。「私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」という言葉の意味は、私たちは皆らい病に冒されているということにほかなりません。イザヤは事実上こう言います、「ウジヤに言えることは、私たち預言者や民にも全員言えます。あなたはこれを理解していませんし、私も主を見るまでは理解していませんでした。私たちはみな、ウジヤの件で起きたことに、とても深く印象づけられています。私たちはこの件に対する恐れに満ちた雰囲気の中で生活してきましたし、このことを声をひそめて話してきました。『これはなんと恐ろしいことだろう。ウジヤはなんと邪悪なことをしたことか。私たちの王がこんなことになって、こんな最後を迎えるとは、なんと恐ろしいことだろう。らい病はなんと恐ろしい病だろう』と私たちは言っていました。私たちはウジヤを非難し、『彼の一件はなんと悲惨なことか』と多くの感想を抱いていましたが、私たちもみな同じであることを私は見るようになりました。私はこれまであなたたちに説いてきました(五つの預言の章がこのイザヤ書六章の前にあることを忘れないでください。これは宣教生活開始時のことではなく、彼が自分の人生で新たな啓示に目覚めた時のことです)。私はこれまで宣教や預言をしてきました。その私が、自分はウジヤに優る者ではないことを見るようになったのです。民よ、あなたたちは宗教的儀式や式典を巡り行き、神殿に詣で、いけにえをささげ、礼拝で自分のくちびるを用いていますが、そのあなたたちもウジヤと同じです。私たちはみな、らい病に冒されているのです。あなたたちはこれを理解しないかもしれませんが、私は見るようになりました。どうやって見るようになったのでしょう?主を見たことによります!『万軍のエホバである王をこの目で見たのだから』。『私は、高くあげられた(中略)主を見た』」。これについて考えるなら、これはとても印象的なことだと言えます。

さて、これをどうしましょう?おそらく少しの間、これについて沈思黙考するのがいいでしょう。

一つの見解を直ちに却下しましょう。「イザヤを預言者、宣教者にしたのは、この幻である」というのが一般的見解になっています。この見解はどういうわけか生じたものであり、私たちの大半はこの見解に捕らわれています。私たちはこの見解を聞いたことがありますし、おそらく口にしたこともあるでしょう。ああ、そうではありません!聖書は神によって息吹かれており、支配されている以上、さんざん預言したずっと後でどうしてそんなことが起きるはずがあるでしょう?預言の五つの章を見てください。これらの章には何と凄いことが書かれていることか。彼を預言者、宣教者にしたのは、この幻ではなかったのです。神が取り扱っておられたのは人であって預言者ではありません。神が取り扱っておられたのは民であって儀式ではありません。私たちが神の目にどのような者なのか、これを神は取り扱っておられるのです。ですから私たちは、預言者や宣教者と称される部類の人々にこれを転嫁することはできませんし、「自分たちの中にはこれと関係ない人たちもいます。自分たちはこの部類には属していませんし、預言者や宣教者になることを心から願っているわけではない、ごく普通の素朴な群れなのですから」と思うことも許されません。そうではありません。主は地上の人々を取り扱っておられるのです。そして主は、人々をどう見ているのかを、彼らに対してはっきりさせようとしておられるのです。たとえその人々が大いに宣べ伝えてきたとしてもです。結局のところ彼ら自身が主の目にいかなる者なのかを、主ははっきりさせようとしておられます。遅かれ早かれ、万事を守り、彼の御旨を確保するために、この現実は私たちの上に臨まなければなりません。

神が求めておられること

神は何を求めておられるのでしょう?もしあなたの目が見えるなら、もし神の求めておられるものが見えるよう、あなたの目が開かれるなら、あなたは神の方法と、なぜ神がこの方法を使われるのかを理解するでしょう。第五章は神が求めておられるものを明らかにします。神は御心を満たす民を求めておられます。その民はレムナントと呼ばれています。そう呼ばれているのは、そのような民がレムナントにほかならないからです。民全体が御思いに従うことはないことを、神はとてもよくご存じです。神は、御子の来臨の時代にまで至るこの民の歴史と、この民が御子に行うことを予見しておられました。神は民の心をご存じです。「この民の心を肥えさせ、その耳と目を閉ざす」という恐るべきことを行うよう、神がイザヤに命じられるのはこのためです。神はご存じなのです。

しかしそれにもかかわらず、応じる者たちがいるでしょう。彼らはレムナントにほかなりません。このレムナントは六章の終わりで特に次のような言葉で述べられています――

そこになお、十分の一が残されても、それもまた、食い尽くされる。テレビンの木や樫の木が倒される時、その切り株が残るように、聖なるすえは、その切り株である。

倒された木の切り株――これに先立つのは木が倒れることであることがわかります。イスラエルを切り倒すために、また裁きの道具として用いるために、神によって召される国々によって、イスラエルは倒されるでしょう。その国々はイスラエルというこの木を倒しますが、その切り株が残ります――木全体が対処される時、この切り株の中に十分の一、レムナント、聖なるすえが残されるでしょう。神は、ご自身の民の一般的群れ全体の中から、御心を満たす一つの群れを求めておられます。そして、このレムナントを確保するために、神はイザヤをとらえ、このような方法で彼を取り扱い、彼にこの幻をお与えになったのです。愛する人たち、神が御旨を達成されるには、私たちは徹底的に迷いから覚めなければなりません。そして、神の目に自分自身がいかなる者なのかが、とてもはっきりと見えるようになるために、私たちの目を開いてもらわなければなりません。これは恐ろしい啓示です!自己満足、安心感、達成感、現状に対する満足感――このような疑いのあるものや、それを示唆するものは何でも、レムナントになる資格を失わせますし、神の目的、神の御旨に役立つ者となる資格を失わせます。

ですから、イザヤ書の最初の五つの章でこの人が広範に及ぶ神の主権的裁きについて語り始めたあと、突然神が彼を捕らえられたように思われます。彼自身の生涯と彼自身の務めに転機が訪れます。神の目に彼がいかなる者なのか、また民がいかなる者なのかについて、神はきわみまでも彼の目を開かれます。ウジヤに起きた恐ろしい出来事について裁き、非難し、息を殺してあのような言葉を話していた彼や人々は、自分たちも同じくらい悪いこと、何の違いもないことを示されました。神の目に、彼らはみな衣を上くちびるにあてて、「汚れている、汚れている!」と呼ばわっていたのです。

自己の命というらい病

このらい病とは何だったのでしょう?「ああ、もちろん、それは罪のことです」と私たちは言います。たしかに罪のことです。しかし罪とは何でしょう?ウジヤを見ることにしましょう。そしてウジヤの場合、らい病が何を意味していたのか、らい病が何を示し、表していたのかを見ることにしましょう。「彼はすべて父アマツヤが行ったとおりに、エホバの目にかなうことを行った」。そして彼が主の道を歩んでいる間、神は彼を栄えさせられました。主に祝福され、主の光の中を歩み、主の恩恵を受けている人でも、それと同時に、万人の心の中に深く根を張っている例のものが、立ち上がって神の恵みを自分の功績にしようと常に待ちかまえています。自分のために名を上げ、自分のために地位を獲得し、栄達、栄誉、力、影響力、満足をわがものとし、名声や地位を得ようと常に待ちかまえています。そういうことです。らい病とは何でしょう?神にとって忌むべきこのものは何でしょう?これはあの自己の命にほかなりません。自己の命は私たち全員の中にあります。それは神の事柄の中にも絶えず入り込みつつあり、それを個人の利点や功績にしようとしています。主が祝福されると、私たちは主が祝福してくださったがゆえに、「自分はひとかどの者になった」と心の中でひそかに思うようになります。自分に臨んだ祝福は神の恵みとあわれみを通して来たことを忘れ、私たちは「自分の内には祝福にふさわしい何かがあるにちがいない」とひそかに思い始めてしまいます。その何かとは自分の能力、自分の賢さ、自分の内にあるものです。ああ、高ぶりや霊的高ぶりさえも生み出して、自己のエネルギー、自己の力、自己主張、自己十全性により、私たちをウジヤのように聖なる事柄の中に押し入らせるもの――これは奥深くにあるものであり、私たち全員の内にあるらい病菌であり、多種多様な道を取る自己の命です。そうです、らい病とは、それがどう表現されようとも、自己、自我の根源なのです。

ここに――これは別の問題であり今は時間がありません――祝福と繁栄の危険性があります。ああ、祝福のさなかに十字架につけられることを、私たちはなんと必要としていることでしょう!祝福を安全なものにすることを、神はなんと必要としておられることでしょう。祝福を安全なものにすることは、神が私たち自身について、そして、すべては恵みから出ていることを、絶えず私たちに示し続けることによります。また、神が私たちにどんな祝福、成功、繁栄を与えられようとも、それは彼の目に私たちがそれにふさわしいからではないことを、たとえ人がどう思おうとも、神が絶えず私たちに示し続けることによります。たとえ私たちが人々の間でどのような者でも、神の目に私たちはらい病人にすぎません。大事なのは、どのように人々の間で成功するかではなく、どのように神と共に進んで行くかです。私たちはこの世で非常な高位に達するかもしれませんが、神と共に達するかどうかが大事なのです。

さて、この話は私たちの多くを素通りしているかもしれません。なぜなら、私たちは祝福と繁栄を授かった覚えがあまりなく、誇れるものもあまり多くないからです。私たちの多くは逆のこと、すなわち空にされることや低くされることを相当経験しています。しかし核心を突きましょう。たとえどん底にあっても、私たちの内には渇望があり、その渇望は自己の渇望なのです。また反発があり、その反発は自己の命の反発なのです。

さて、人々や預言者の内にあるものを示すために、ここではウジヤが白日の下にさらされています。それは御旨に達することを神にできなくさせるものであり、対処されて暴露されなければなりません。それを見過ごすことはできません。引きずり出して、それを私たちは見なければなりません。

神の目的の達成――主を見る結果

ですから私は直ちにまっすぐこの点にやってきます。その点とは、神は心に定めた目的を達成しなければならないということです。その目的とは一つの民であり、たとえ十分の一、レムナントにすぎなくても、彼ご自身の心の願いに応えて、彼の御旨の全き目的を満たす民です。神がその民を獲得されるには、視力がなければなりません。そして見るべき唯一のものは主であり、主さえ見ていればあとのことは大丈夫です。そして主を見ることは聖潔を見ることです。なぜなら、主を見ることはこれを明確にするからです。そして私たちが聖潔を見るとき、私たちは自分の内や他の人々の内の思いがけないところにらい病を見ます。私たちが主を見るとき、私たちは自分や自分の周りの人々の真の状況を見ます。主の民の真の状況をも見ます。主は御旨の方向に進んでおられ、私たちがその御旨の道の中に居続けるには、主を見ることが必要です。

「私は主を見た」。「私の目は見たのだから」。その結果は何でしょう?その結果は私たちに私たち自身を啓示することであり、私たちの周囲の霊的状況を啓示することです。私たちが主を見るとき、私たちは「私はもうだめだ!」と叫びます。この「もうだめだ」という言葉を見ると、それはまさに「私は死に値する」という意味であることがわかります。死に値すること、私は死に値すること――これがまさにここのヘブル語の意味です!私たちの目が開いて主を見るとき、あなたと私は死におけるキリストとの結合の必要性を見るでしょう。それを見るにはこれ以外の道はなく、これが唯一の道です。

さて、これはたんなるお話しではありませんし、たんなる言葉でも、思いつきでもありません。見ていただきたいのは、一つには次のことです。すなわち、神の霊の働きによって私たちの目は開かれて主を見るようになるわけですが、この神の霊の働きの結果、「自分たちにできる唯一のことは死ぬことである」「自分たちにとって最善のことは死ぬことであり、終局に至ることである」と私たちは感じるようになるのです。あなたはそこに達したでしょうか?もちろん、サタンはこの領域でも働くでしょう。サタンはかつて多くの人々に対して実際そうしてきたように、人々を追い込んですべてを終わらせようとします。また、神の霊がなさっていることに取り組ませて、それを自分の功績にさせ、そうして悲劇を生じさせようとします。霊の領域の中にとどまりましょう。そして、主はご自身の栄光と輝かしい可能性のために私たちの内に働いてくださることを認識しましょう。この主の働きは、「自分たちにとって最善のことは死ぬことである」と私たちが深く痛切に感じるようになる地点に、主が私たちを連れて行かれることによります。そのとき、主は私たちに関するご自身の御心に私たちが同意するようにされます。「私はもうだめだ!」――すると主は言われるでしょう、「たしかにあなたはもうだめです。わたしにはそれが最初からわかっていました。わたしはそれをあなたにわからせるために苦労しました。あなたはもうだめです」。

さて、あなたがその地点に達するとき、あなたは着手できる地点に達します。私たちがありのまま、自分自身で、せわしく活発に、ひっきりなしに押し入って、ウジヤのように場所をふさぎ、神殿、宮、聖所に来ている間は、主は何もすることができません。私たちが神殿を占めている間は、主は何もすることができません。主は言われます、「さあ、あなたは出て行かなければなりません。あなたは自分がらい病人であることを見たので、自ら進んで急いで出て行こうとしています。あなたは自分が行こうとしているところに行かなければなりません」。ウジヤについてこう述べられています。「彼も自分から急いで出て行った」。ここは自分のいるべき場所ではないことを、ついに彼は理解します。「私はもうだめだ、ここは自分のいるべき場所ではありません」――この地点に主が私たちを至らせるとき、主は積極面を開始することができ、道を開かれます。この見ることは恐ろしいことですが、大いに必要であり、その結果は大いに栄光です。その時、使命が与えられたのです。

これを経験する必要がある理由

もう一点だけ追加しましょう。このようなことがイザヤに起きることがどれほど必要とされていたのか、あなたは理解しておられるでしょうか?彼は何をしようとしていたのでしょう?彼は大いなるリバイバルを説こうとしていたのでしょうか?彼は出て行って、「すべては順調であり、主は大いなることをしようとしておられます。元気を出しなさい、大いなる時代がまさに始まろうとしているのです」と民に告げようとしていたのでしょうか?いいえ!「行け、この民の心を肥えさせ、その耳を鈍くし、その目を閉ざせ!」。これはあまり楽しい類の働きではありません。それはどういう結果になるのでしょう。ご存じのように、主は民の心の状態を知っておられました。彼らは実際は見ることを望んでいないことを、主はご存じです。彼らは実際は見ることを望んでいません。もし彼らが見ることを望んでいたなら、ああ、彼らは全く違う態度を取っていたでしょう。彼らには何の偏見も疑いも批判もなかったでしょうし、接触を持って尋ね求めていたでしょう。また、飢え乾きと切望のしるしを示していたでしょうし、詳しく調べて、他の人々の判断や批判ですぐにくじけることもなかったでしょう。しかし、彼らがなんと言おうと、彼らの本心は見ることを望んでおらず、聞くことも実際は望んでいないことを、主はご存じでした。後にこの預言者は、「誰が私たちの知らせを信じたのか?」(イザヤ五三・一)と言います。主はご存じでした。そして、裁きは常に人々の心にしたがって下されます。もしあなたが望まないなら、あなたは望む能力を失います。もしあなたが見ることを望まないなら、あなたは見る能力を失います。もしあなたが聞くことを望まないなら、あなたは聞く能力を失います。裁きは有機的であって、機械的ではありません。裁きは私たちの生活にしたがって下されます。好き嫌いという種を蒔くなら、不能という収穫を刈り取ります。啓示の務めの一つの効力は、人々の好き嫌いを発達させて裁きへと至らせることです。啓示と命の務めはある人々をいっそう頑なにするだけであることに、あなたは気がつくでしょう。それがそこにあることを主はご存じなのです。

さて、このような務めと共に進むのは、あまり心地よくありません。そうするには、あなたは十字架につけられている人でなければなりませんし、個人的関心を持つことも許されません。もし名声、人気、成功、支持を得たいなら、最善の道はこの道を行かないこと、あまりたくさん見ないこと、洞察力を持たないことです。目隠しをして、徹底的な楽天家でいるといいでしょう。もしあなたが主の御旨の道、主の御心に真に応じる民の道を行こうとするなら、その道は大衆から――その道を取らない大衆から、そしてその道を取らないことをあなたに表明する大衆から――きっぱりと分かれた道になるでしょう。あなたは孤独な道を行くことになります。彼らは自分が正しいと思うかもしれません。しかし実際のところ、彼らは飢え乾いておらず、必死でもないので、自分で調べて尋ね求めることすらしないのです。彼らはあなたや、あなたの地位や、あなたの務めに関するごく些細な批判によって、たやすく逸らされてしまいます。そこであなたは、前進する少数の一握りの人たちと共に進まなければなりません。これが幻の代価であり、見ることの代価です。そのような務めを果たすために、イザヤは十字架につけられた人でなければなりませんでした。そして、あなたや私が神と共にある地位を占めるには、私たちはウジヤの内にあったもの、すなわち地位への欲求に対して十字架につけられなければなりません。ウジヤは王職で満足せず、祭司職をも得ずにはいられませんでした。いいえ、それ以上です。彼は神の祝福で満足せず、まさに神の地位をも得ずにはいられなかったのです。一方にはウジヤ王、他方には「私の目はエホバである王を見た」――これは何という対比でしょう!

あなたはこれを理解できるでしょうか?これは心を探るものであり、途方もないことです。しかし愛する人よ、これは主の全き願いと御思いの道です。これは代価を要する孤独な道であり、ご自身の民の心の中に神がご覧になっているものを実際に明らかにする効力があります。それには――これは私たちが啓示、幻、視力のために苦しむことを意味し、私たちはそのために大きな代価を払わなければなりません――私たちはよく十字架につけられていなければなりません。それは私たちが次のように言う地点に達するためです。「私はもうだめだ、私は死に値します。私は出て行くしかありません!」。主は言われます、「そのとおりです。あなたが出て行くこと、それがわたしの望んでいることです。わたしはウジヤが出て行くことを望んでいました。その後、わたしは宮を満たすことができたのです!」。ウジヤは自己であり、ありのままの人です。神はご自身の宮を人と共に占めたりはされません。神が宮を満たさなければならないのです。