親愛なる友よ、私たちの主イエスには、私たちより優先するものは何もありません。これを理解するのは素晴らしいことではないでしょうか?私たちは主の唯一の関心事なのです。主は他の思惑によって縛られたりされません。ご自身の花嫁を得るという関心事によって、個人的関心はすべて完全に消え去りました。主は自由です。これがピリピ人への手紙二章四~八節に記されていることではないでしょうか?そうです、すべてはなくなりました。御父がおられる天での栄光すら、なくなりました。なぜなら、主の目と心は単一だからです。主には一つの関心しかありません。主は今、他のいかなる思惑にも縛られていません。あなたと私は主の顧みの対象であり、他のいっさいのものから主は自由なのです。
主が代わりのものを持たれなかったことを、私はとてもうれしく思います。あなたもそうではないでしょうか?主は代わりのものを持たれませんでした。全く持たれなかったのです。他の人は代わりのものを持っていました。キリストは持たれませんでした。
さて、この基礎に基づいて状況が確立され、ボアズが唯一の贖う者となって、贖いが成就された時、嗣業はすべてルツのものになりました――それはボアズによってでした。贖いはすべて、彼によって彼女のものでした。嗣業はすべて、彼によって彼女のものでした。それはキリスト・イエスによる贖いでした。私たちはそれをみなキリストにあって得ます。「ご自身の御子を私たち全員のために渡された方が、どうして御子と共にすべてを無代価で与えてくださらないことがあるでしょう」。私たちはそれをみなキリストにあって得ます。
これがいかに単純であるかは承知しています。しかし、この本は素晴らしく美しい福音の解き明かしではないでしょうか?嗣業について見ることにしましょう。
さて第一に、嗣業はもちろん契約の地の一部でした。再びヨシュア記に戻らなければなりません。ヨシュアはその地を取り、最終的にそれを鎮圧して征服しました。次に、その地は部族ごとに分けられ、部族を通して家族ごとに分けられました。彼らはその地の中に自分の分、自分の嗣業を得ました。エリメレクもどうにか契約の地の中に分を持つようになりました。さて、この旧約聖書の型が何を意味するのか、私たちは知っています。ですからこの午後、それに触れるためにエペソ人への手紙に来たのです。なぜなら、ヨシュア記に対応するのがエペソ人への手紙だからです。キリストの中にある素晴らしい嗣業、ご自身の民の中にあるキリストの素晴らしい嗣業。これは広大な土地ではないでしょうか?これが嗣業です。エペソ書を見てください。遠大なことに、永遠の過去に遡り、来たるべき永遠に至ります。素晴らしいです!とても肥沃な地です。とても豊かな地です。ルツについて見ると、この嗣業は第一に契約の地の一部でした。その中に自分の分け前を持つことは、小さなことではありません。
しかし、これで終わりではありません。ナオミとの合一、そしてナオミによるエリメレクとの合一のゆえにルツは分を得ましたが、その分は失われてしまいました。しかし、贖いによる回復によって、失ったものよりも遙かに多くのものを与えられました。彼女のわずかな分は、彼の大きな分に加えられたのです。これはなんと偉大な真理でしょう!キリスト・イエスによる贖いによって、自分が失ったものよりも遙かに多くのもの、アダムが持っていたものよりも遙かに多くのもの、したがって、アダムが失ったものよりも遙かに多くのものを、私たちは得るのです。これは大いに広がった嗣業であり、私たちはキリストにあってその中に入ります。私たちのものはわずかですが、キリストのすべてを得るのです。
私はこの御言葉が好きです、「こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの国から帰って来て、ベツレヘムに着いた。ナオミには夫の親戚で、裕福な有力者がいた」。
この眼鏡を通して、ルツを通して、後の時代を見てください。裕福な有力者である方を見てください。ルツは、失ったカナンの地のわずかな土地よりも、もっと大きな嗣業の中に入ったのではないでしょうか?ああ、彼女を通して来臨したキリストを見てください。キリストはルツを通して来られました。なんという嗣業でしょう!ボアズよりも大いなる方がここにおられます。
次に、さしあたって最後になりますが、この贖いの動機と原則についてです。それは、「死んだ者の名をその嗣業の上に起こすため」というボアズの言葉の中に述べられています。「死んだ者の名をその嗣業の上に起こすため」という言葉の意味がわからなければ、多少とまどうかもしれません。エリメレクの名をその嗣業の上に起こす。どうやってでしょう?子孫によってです。復活の中でいつまでも残る子孫によってです。エリメレクとはどういう意味でしょう?「神は王である」です。まさに最初の部分が神を意味します。この名は「神は王である」を意味します。「主の御名をその嗣業の上に起こすため!」。
士師記の最後の言葉はこうです、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」。なんという混沌!なんという悲劇!中心となる至高の権威がない所では、常にそうです。あらゆる問題の原因はこれです。さばきつかさたちの四百年は、恐ろしい状態であり、究極的悲劇でした。
これは今日の世界全体にもあてはまります。ある意味、これはキリスト教にもあてはまります。現存するあらゆる分裂、混乱、不幸な出来事は、イエスが頭首権の地位にないためです。イエスは主であり、王であると言われています。また名目上、イエスは主であり、王であると告白されています。しかし実際には、イエスはその地位にないのです。他の君主たちが支配しています。私たちにはたくさんの君主がいるかもしれません。クリスチャン生活や教会の諸事さえも支配する数々のものがあります。主イエスの絶対的な至高の頭首権を邪魔する数々のものがあります。キリストのからだの一体性、統一性、あの有機的交わりはキリストの頭首権から発することを、パウロは完全に明らかにしているのではないでしょうか?このかしらにより、からだ全体は適切に組み合わされ、互いに結ばれます。
さて、私たちはこれをとてもよく知っています。その状況はまさにこのような状況でした。今日の状況も同様です。
必要なのは権威、統治、頭首権、王です。主が真に実際に主となられることです。最近、私はアメリカのクリスチャンたちを訪問しましたが、至るところで同じ事を聞かされました。私はそれを話さなかったのに、至るところでそれを聞かされたのです。「私たちの問題は指導権がないことです。私たちの問題は権威に欠けていることです。すべての人が自分の思うことや自分の好きなことをしています。中心的権威はなく、指導権もありません」。
ですから、何があるのでしょう?飢饉でしょうか?飢え、不足、霊的飢饉、貧困、これがみなあります。士師記の状況がそうでしたし、今日の状況もそうです。主が彼らを訪れるまでそうだったのです。「死んだ者の名をその嗣業の上に起こすため」。これはたしかに、主の絶対的主権の回復と復権を意味します。
エリメレク――「神は王である」。この名前を起こすためです。神が王である時、とても幸いな状況です。
主を絶対的な主とすることによって、失うものは何もありません。「主のところに行って、彼を主とするなら、何かを失ってしまう」と人々は考えているようです。
さて、これについて欺かれてはなりません。もう一度士師記を見てください。今、ルツ記を「取るに足りない本」と言えるでしょうか?たしかに言えません!――このルツ記が包括的かつ決定的に述べていることは、かしらと主が確立されるなら、豊かさ、繁栄、祝福、いのち、すべてがある、ということです。かしらと主が確立されないなら、何もありません。「死んだ者の名をその嗣業の上に起こすため」。
別の見方をすると、「あなたは人に支配権を持たせられた」ということです。人は死により、罪を通して、嗣業を失いました。しかし、神の目に罪を犯して死んだ人のために、その名を起こさなければなりません。この人のために、贖いを通して、その支配権と王権を起こさなければなりません。それは、私たちの主と共に、私たちが治めるためです。
今晩のこのメッセージは、これだけで完結したものとなるように、できるだけまとめてあります。
ルツ記は、ルツのあの崇高な宣言の中にすべて集約されます。一章十六~十八節のルツの宣言は、全聖書中もっとも麗しいものの一つです。「ルツは言った。『あなたを離れ、あなたから別れて帰ることを、私に勧めないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださいますように』」。
「ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上何も言わなかった」。
究極的豊かさに至る信仰の小径
このために、ルツは途方もない信仰の決断をしなければなりませんでした。二章十一節を見てください。「ボアズは彼女に答えて言った。『あなたの夫が亡くなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民の所に来たことについて、私は話をすべて聞いています』」。
偉大な信仰の冒険でした。崇高なる放棄でした。捨てねばならないものがモアブにはたくさんあったと、あなたは思わないかもしれません。なぜなら、それは悲しみと失望と悲劇の地を離れることだったからです。しかし、事の真相、彼女が行おうとしていたこと――それはすべて彼女にとって未知のことでした――、事の成り行きを真に考慮するなら、あなたは別の角度からこの光景を見ることになると思います。少なくとも、彼女は自分の国でくつろいでいました――人々は彼女を認知していましたし、彼女はそこに自分の居場所を持っていました。父母がそこにおり、家もそこにありました。彼女は外国へ行こうとしています。やもめのしゅうとめと一緒に行こうとしています。しゅうとめは大きな悲しみの中にありました。彼女の人生に大きな悲劇がありました。そして、彼女は大きな失望の雲の下にありました――自分の人生に失望していただけでなく、主ご自身にも失望していました。「主は私に反対して証しされました」。本当に霊的に落胆し、困惑していたのです。
しかも、ルツはモアブ人でした。自分の国に対するイスラエルの禁令について、彼女は知っていたにちがいありません。モアブの上には呪いが下されていました――「アモン人とモアブ人は永遠に主の会衆に加わってはならない」――彼女はこれを知っていたにちがいありません。また、イスラエルの地で受け入れてもらえるかどうか、歓迎してもらえるかどうか、かなり疑わしいことを彼女は知っていたにちがいありません。むしろ、全く受け入れてもらえず、歓迎されないかもしれません。疑いをかけられ、追放されるかもしれません。ご存じのように、「彼女に不親切にしてはいけません。彼女の邪魔をしてはいけません」と、ボアズは若者たちや女中たちに特別な指示を与えなければなりませんでした。「彼女に親切にしなさい」と繰り返し彼らに言わなければならなかったのです。彼女は彼らの間では日陰者です。彼女はそれについて、またその意味について、何か知っていたにちがいありません。先のことは全くわからず、きわめて怪しかったのです。それを考えると、彼女は気が遠くなっても仕方がありませんでした。
しかし――ルツには十分な信仰がありました。「あなたの神は私の神です」。ナオミが自分の神について嫁に話していたことは明らかです。それでルツは、「どちらにせよ、モアブのこの場所にいるよりは、この神が認められ、敬われている場所に行った方がいい」と感じたのです。彼女の心の中には、ナオミの神、イスラエルの神を信じる信仰がありました。これは一面において、安全な場所である自分の家から彼女を離れさせるのに十分でした。自分の家を離れるのはルツにとって大変だったことを、ボアズは理解しました。「あなたがしてきたことについて、私は話をすべて聞いています」。他方において、ルツは実際に何が起きるかわからないのに、その結果を何でも受け入れることができました。それは信仰の冒険、信仰による放棄であり、うまくいくかどうか、やがて明るい展望が開けるのかどうか、全くわかりませんでした。
これが、この大いなる豊かさに至る道の第一歩でした。それは信仰の冒険だったのです。
ああ、この道を行くのに、私たちはなんと多くの誘いを必要とすることか。なんと多くの約束や保証を必要とすることか。主に従うなら得られるであろう祝福について、なんと多く人々に示さなければならないことか。
私たちは応答するのがあまりにも遅いのではないでしょうか?私たちは多くの賄賂をもらわなければなりません。「クリスチャンになったら、何が得られるのか」というところにまで、福音の訴えの水準が下がっているのではないかと、私は心配です。
主が見いだすことを待っておられる真の信仰は、見いだすのがとても困難です。ですから、命が制限されても、別に驚くにはあたらないのではないでしょうか?私たちは豊かさに至る信仰の小径について話しています。私はよくこう感じずにはいられません。主を知る知識に関して、また、私たちがキリストにあって真に召されているいっさいのことに関して、私たちは霊的に制限を受けており、霊のいのちもちっぽけなままです――この制限は、「これは自分にどんな影響を及ぼすのでしょう?良い影響でしょうか、それとも悪い影響でしょうか?自分は何をもらえるのでしょう?」と私たちが考えてばかりいるためです。主と一緒にいた弟子たちですら、「主よ、私たちはあなたのためにすべてを捨てました。私たちは何をいただけるのでしょう?」と言ったのです。
「私たちは何をいただけるのでしょう?私たちは何を得るのでしょう?何を失うのでしょう?」――これが動機になることがあまりにも多いのです。霊のいのちがこんなに貧しいのも、不思議ではありません。ルツが持っていたような信仰を私たちも持ってさえいれば。この信仰は、代価が高くつきそうなことを自覚しています。現実に直面して、困難な目に遭うでしょう。それにもかかわらず、「あなたの神はそれだけの価値があります。あなたの神は私の神です」。行動の動機は、「自分自身のためではなく、神のために」でなければなりません。主のためでなければならないのです。
最初の時だけでなくずっと、私たちは主のためでなければなりません。なぜなら、この道で私たちは多くの代価を払うよう導かれるからです。しかし、主のためにそうするなら、私たちはいっそうよく前進するでしょうし、速やかに神の御旨の成就に至るでしょう。信仰の動機は大きな違いを生じさせます。自分のことや自分への影響ばかり考えているなら、私たちは大して進歩しません。これは全く明らかではないでしょうか?
主は私たちの前に褒美をぶら下げて、私たちを買収したり、だましたり、誘惑したりされません。主はごく率直に言われます――「自分の十字架を負ってわたしに従わない人は、わたしの弟子になることはできません」。信仰はすべてを見越して言わなければなりません、「主を持たずに主以外のすべてのものを持つよりも、主を持つことの方がまさっています」。主を持っていて、苦しみ、逆境、試練、障害、迫害に遭う方が、主を持たないでそうした目に遭わずにいるより、まさっているのです。
信仰の冒険と信仰による放棄。次は信仰の決意と決断です。私は十八節の句が好きです――「ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上何も言わなかった」。この人と議論しても無駄です。彼女に話しても無駄です。彼女は決心しており、この件は決着済みです。堅く決心しています。決意と決心を固めています。「無駄です。そうしないよう私を説得することはできません。こうしないよう私を説き伏せることはできません。私は決心しました」と彼女は言えたでしょう。ナオミはこれを見ました。「彼女はもうそれ以上何も言わなかった」。
信仰の決意と決断。これを得るなら、主は何でもすることができます。
これまで見てきたように、主のなさったことは全く素晴らしいです。あなたは間もなくこれを再び見ることになるでしょう。このような信仰は、主が素晴らしいことを行うための道を開きます。そして、直ちに主の最大の豊かさにあずかるのです。
私たちがぐずぐずしているのは、決意に乏しいからではないでしょうか?私たちの決断がとても弱いから、私たちの霊的成長は遅々として進まないのではないでしょうか?依然として二つの意見の間で板挟みになっていて、身動きがとれないのでしょうか?一貫しているものについて、依然として全く確信がないのでしょうか?直進するかどうか、依然として全く確信がないのでしょうか?そんなことだから、何年も過ぎて長い時がたっているのに、私たちは全く元と同じ霊的状態のままなのです。
これはとても単純な言葉です。しかし、親愛なる友よ、これは特別集会を締めくくるのにふさわしい良い言葉です。主には願いがあり、主はその願いのために私たちを召されました。この完全な願いを前にして、私たちは心から感動・感激してこの問題に向かい、ルツと共に言わなければなりません、「あなたを離れ、あなたから別れて帰ることを、私に勧めないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださいますように」。「ナオミはルツが堅く決心しているのを見ると」。これはなんという堅い決意のこもった言葉でしょう!ですから、私は再び言いますが、あなたはその結果に驚かないでしょう。
信仰の包括性
たったいま再び引用した十六節と十七節のこの言葉は、とても総括的で包括的な言葉ではないでしょうか?この言葉はこの立場全体を網羅します。あらゆる可能性、物事のあらゆる面を網羅します。この献身的な凝縮された言葉は、すべてを完全に一望し、網羅し、言い尽くします。「私はすべてのこと――この問題のすべての面――を十分に考慮しました。これは私を素晴らしい取り引きに導いてくれることがわかります。これはとても困難な長期にわたる仕事になるかもしれません。しかし、たとえそれが死という結果になったとしても、私は今から死ぬ時までのことをすべて計算済みなのです」。
これは信仰の包括的宣言です。次に、これはそのようなものだったがゆえに――冒険的な信仰、放棄する信仰、確定的・決定的・包括的・総括的な信仰でした。このような種類の信仰は、最も素晴らしい形で神の恵みへの扉を開きます。神の恵みです!
これは神の恵みのなんという物語でしょう!今日、ルツが負っていた困難、この愛すべき魂がその下で耐えていた困難を、先ほど指摘しました!それは出生による困難でした。祖先から受け継いだ汚名でした。それは近親相姦の汚名であり、呪いの困難でした。「モアブ人は永遠に主の会衆に加わってはならない」という禁令がありました。彼女は、この恐ろしい禁令や困難に立ち向かって、主の会衆の中に行こうとしています。「彼女はモアブ人です」。これには多くの意味が込められていました。
しかし、彼女の信仰は神の恵みへの道を開き、困難をすべて取り除きました。これは素晴らしいと思います。
これに側面から光を当てましょう。新約聖書の中にその光があります。ご存じのようにレビ記十一章に、イスラエル人が食べてはならない汚れた被造物の一覧があります。彼らはこれらの汚れた被造物を食べることを禁じられていました。さて、間違いなく、これには健康のための衛生上の理由、保健上の理由がありました。
これには別の意味もありました。これらの汚れた被造物は異教の異邦の国々を象徴しており、イスラエルはそれらの国々と交流、接触、婚姻関係を持ってはなりませんでした。イスラエルの外のこれらの国々は、汚れたものと見なされていました。ユダヤ人はこれを知っていました。
さて、新約聖書に来ます。ある日、使徒ペテロは幻を見ました。その幻の中で、天が開かれて、四隅を吊された敷物が降りてくるのを彼は見ました。その敷物の中には、レビ記十一章に記されている汚れた動物がいっぱいいました。あらゆる種類の汚れた動物がいました。彼はユダヤ人だったので、それが何を意味するのかを知っていました。すると声がありました、「ペテロよ、起きて、それをほふって食べなさい」。ペテロは言いました、「主よ、それはできません。私はこれまで汚れたものを口にしたことがないのです」。このようなことが三回あった後、敷物は天に引き上げられました。すると――扉を叩く音がしました。「ここから離れた所にいるカイザリヤのコルネリオが、あなたを自分の家に招くため、私たちを遣わされました。彼はイタリヤ人です。どうか来て、彼に神のことを話してください」。
ああ、コルネリオ。聖書はあなたと関わること、このようなことをすることを、私に禁じています。「主よ、それはできません」。
主は何と言われたでしょう?「神が清めたものを、汚れていると言ってはならない」。説得されてペテロは出かけました。私たちはその結果を知っています。何が起きたのでしょう?
カルバリの出来事があって、大いなる親類―贖う者である主イエスがこの呪いを担ってくださいました。主はこの呪いを担って、道から取り除いてくださいました。そして、恵みが汚れたもののために扉を開きました。事実上、カルバリがすべてを清めたのです。カルバリには、汚れたものをすべて清める効力があります。
これに関する側面からの光です。「モアブ人は会衆に加わってはならない」。呪いの下にあります。ああ、そうです、しかし、信仰が呪いを取り除きます。信仰は神の恵みへの扉を開きます。ここで信仰が勝利します。ルツは立って、自分の身をもってこれを宣言します。「律法は『絶対ダメ』と言いましたが、恵みは『いつでも大丈夫』と言います」。律法は扉を閉じ、恵みは扉を開きます。
贖いによる神の恵みと、神の恵みを握る信仰は、扉を開き、あらゆる困難を取り除きます。なんというメッセージでしょう!
あなたは自分の困難を嘆いておられるのでしょうか?あなたが信じさえするなら、神の恵みはあなたの困難をすべて取り除くことができます。信仰は恵みへの扉を開き、恵みはすべての禁令を取り除いて、「信仰の全き確信をもって近づこうではありませんか」と言います。「大胆に恵みの御座に行こうではありませんか」。信仰です。
次に、信仰と恵みを通して扉が開かれた後、祝福がルツの所に流れてきはじめたことがわかります。これらについては今朝すべて話しました。最初に、祝福が直ちにやってきました。素晴らしい神意により、彼女の生活の中に主権が働き始めました。
前に述べた「偶然」の出来事がありました。「ルツは偶然、ボアズの畑のうちを選んだ」。偶然のように見える何気ない行動により、彼女は知らず知らずのうちに――神はご自身のしていることをご存じでした――その畑にやって来ました。神の主権と神の御旨がこのように素晴らしい形で働き始めました。それはとても単純かつ容易で、天からの示威的な力の行使もありませんでした。時にはたんなる「偶然」のように見えることを行うこと、そして、「いつ起きたのか?」とあなたが不思議に思うようなことを行うことは、神の主権にとってはいとも容易です。神のこの平静さにあずかることは、いとも容易なのです。
数々の祝福。私はそれを数え上げることはしません。この本が示しているように、直ちに祝福がありました。ボアズの畑を選んだのは「偶然」でした。一歩一歩前進して結婚に至り、さらに進みます。これは私たちを信仰の豊かな報いに導きます。彼女の人生を遙かに超えるものがあったのです。すでに指摘したように、この本の最後の言葉はこうです:
「ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである」。
次に福音書までひとっ飛びすると、ダビデ――イエスを見いだします。
素晴らしいことです。彼女はモアブ人であり、禁令と呪いの暗い影の下にいました。それなのに、主キリストの祖先になったのです!イエスの直系の祖先であり、この世に到来したいっさいのものの直系の祖先なのです。
ああ、ルツの信仰を通して、なんと途方もないものがこの世に到来したことか。なんという報いでしょう。彼女が今これを知っているのかどうか、私にはわかりません。「彼女はこれをみな知っており、意識している」と私は思いたいです。確かにこれは報いではなかったでしょうか?もしルツが今、あのおどおどとした恐れや不安の頃、にもかかわらず堅く決意していた頃を思い返すなら、どう思うでしょう。到来したものをすべて見るなら、「なんということでしょう、そうする値打ちがありました。自分の貧弱な弱々しい信仰の努力がこのような結果になるとは、全く思いもよりませんでした」と言うのではないでしょうか。
これはどんなに強調しても強調しきれないのではないでしょうか?主イエスを通して、受肉を通して到来したものをすべて考えてみてください。これについてどんなに強調しても強調しすぎることはありません。これはこの女性の単純で熱心な信仰と共に始まったのです。断固たる信仰でした。
この信仰の効力は遙か遠くまで及び、この偉大な目標に到達しました。
主に可能なこと、主が将来なさること、永遠になって明らかになることは、決してわかりません。私たちの知るかぎり、彼女は生きている間、オベデまでしか見ませんでした。彼女の人生は自分の息子の人生で終わりました。彼女は見ませんでした。
おそらく今、彼女は見ているでしょう。今見ていなくても、将来見るでしょう。
主がルツの信仰のような信仰を私たちの間で獲得される時、主は現在と将来にわたって何をなせるのか、あなたも私も自分の時代に知ることはできません。この信仰は冒険します。この信仰は放棄します。この信仰は断固たるものです。この信仰は関係するものをすべて受け入れて、結果に動じることがありません。この信仰はそれをすべて受け入れて、「私は信じます、私は信じます、私は信じます」と言います。
これをあなたに、そして私たち自身に託さなければなりません。さて、次のことを述べて、終えることにします。
自分自身の益のために、自分自身の祝福のために、自分自身の豊かさ、優位性、勝利のために、主の民が何よりも必要としていたもの(これについてはこの午後話しました)、イスラエルが何よりも必要としていたものは、王でした。すでに見たように、士師記の中のあらゆる悲劇は、イスラエルに王がいなかったためでした。権威によるまとまりがなかったのです。
ルツの信仰を通して王が到来しました。親愛なる友よ、私たちが信仰によって取る、代価を要する困難な暗い道を通して、主イエスが主として、王として、ご自身の地位につかれるなら、それは価値あることではないでしょうか?この大いなる包括的な一歩を踏み出す時、それが何を意味するのかを私たちは知りません。わかるのはただ、とても大きな実際の困難に巻き込まれるかもしれない、ということだけです。それでも、私たちはその道を取ります。それは、この線に沿って、主イエスがご自身の地位につくためです。これにはそうする価値があるのではないでしょうか?
もしこの散らされている者たちが羊飼いなる方を見いだすようになるのなら、もしこの敗北している者たちが自分たちの王、自分たちの勝利を見いだすようになるのなら、これにはそうする価値があります。あなたや私はそうするよう召されています。主イエスにご自身の地位についていただくためです。これは容易なことではなく、代価が必要です。これを遂行するには真の信仰が必要です。なぜなら、主の王権と主権に敵対する要素がこんなにもたくさんあるからです。しかし、私たちの奉仕を通して主がその地位につかれるのなら、すべてはそうする価値がありますし、正当化されるのです。
あなたはルツのこの偉大な宣言を再び読まなければなりません。そして、自分をそれに従わせなければなりません。
クリスチャンの方々、今晩あらたにこう言う覚悟はあるでしょうか?今晩ここにおられる救われていない方々、こう言う覚悟はあるでしょうか?静まって、この言葉に私たちの心を試してもらいましょう。そうしましょう。いいでしょうか?こう言いましょう、「あなたを離れ、あなたから別れて帰ることを、私に勧めないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださいますように」。
これが主イエスとの関係において何を意味したとしても、主は私たちに恵みを与えてくださいます。この恵みにより、私たちはこれを言い、これを志すようになります、そして、議論や論争はすべてやみます。「ナオミは、ルツが堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上何も言わなかった」。どうか主が私たちをこのような民にしてくださいますように。