主・御座・祭壇・人

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:イザヤ六・一~八

宮を占有される主

よく見ると、これらの節の際立った点は、第一に、主、すなわち高く上げられてその裾が宮を満たしている主ご自身であることがわかります。そして、愛する人よ、私たちの心はこれに大いに同意・賛同して、「そうです、そこからすべてが始まるのです」と言います。すべては、高く上げられてその裾が宮を満たしている主ご自身と共に、そこから始まります。そうでない限り、私たちは何も持つことができません。私たちは、最初からずっと、これを主要な要素として視野の中に保たなければなりません。まず、主ご自身を見なければなりません。私たち全員が愛している詩歌に照らして、「喜びではなく、平安ではなく、祝福でさえなく、主ご自身……」と述べることが、今やほとんど当たり前になっています。

主ご自身、高く上げられてその裾が宮を満たしている主ご自身。主が主の宮を満たしておられ、そこには主ご自身以外のもののための余地はありません。主が占有しておられ、その裾が宮を満たしています。主ご自身――そこから私たちは始め、そこで私たちは終えなければなりません。確かに近頃、何ものにもまして私たちが叫び求めているのは、私たちが追い求めている主、高く上げられた主、その地位を与えられた主です。

私たちは主を高く上げることはできません。私たちは主を高く据えることはできません。私たちは主の裾を宮に満たすことはできません。しかし、それが主の地位であることを承認することはできます。そして、私たちに対して啓示されるあらゆる方法で、それに自分を明け渡して、「そうです、そうなりますように」と言うことはできます――主にその地位が与えられますように、と言うことはできます。そして、主にその地位が与えられる時、主がすべてを満たされます。そして、他の物や者のための余地はなくなります。ああ!主がそれを霊的生活の中で、今日の生活のあらゆる点やあらゆる関わりの中で、私たちに真に経験させてくださるなら、この黙想には価値があったことになります。あまりにも多くの他の事柄、関心、配慮、要素、個性等々があって、主の地位を侵害し、主の前に割り込んでいます。あの高ぶった心が、あまりにも多くの形で姿を見せます。それは本質的・原則的に、常に自分を高く上げて主の地位を占めようとします。それは、「私は天に昇ろう」……「私は私の座を雲の上に上げよう」……「私はいと高き方と等しくなろう」と言った者の心の中で生じました。それは自己実現の高ぶりの原則にほかなりません。高ぶった心は常に神の前に割り込みます。そして、神にその地位を決して与えません。主は私たちの心を探らなければなりません。それはまさに、主にその地位を与えないもの、主の栄光の邪魔をするものを啓示するためです。

愛する人よ、これはそこで始まり、そこで終わります。「主がその地位を得られますように」が私たちの祈りでしょうか?諸々の行状――主がその地位を得ておられなかったとは、到底思いも想像もしていなかった諸々の行状――を私たちが見るようになる時、私たちに関する限り、主がその地位を持つようになられるでしょう。ああ、この欺きに満ちた心。私たちの心は欺きに満ちています。それに疑いの余地はありません。私たちの心がまさに欺きに満ちていることは次の事実からわかります。すなわち、「自分は主に徹底的に明け渡した」と私たちが考える時、そこに自分の明け渡しを誇る思いがあるのです。私たちの謙遜は誇りや自負を帯びています。多くの事例でこれはいかに真実であったことか。彼らは良い始まりをし、大きな代価を払いました。主のために堅く立ち、それから神に用いられるようになりました。そのため、無自覚・無意識のうちに、神の祝福のゆえに高ぶってしまいました。そして、真の霊の務めは裏口からそっと出て行ってしまいました。彼らは別の意味で「有能」になったからです。それでも、「自分は前と全く同じである」と彼らは主張しようとします。私たちをこの光景の外に保つには主の強力な啓示が必要です。それはこういうことになります。高く上げられてその裾が宮を満たしている主を、聖霊が炎の中で真に私たちに示される時はじめて、私たちは救われます。神のどの御旨・権益についても、このような主の啓示が必要です。主は御霊の啓示によって私たちに臨まなければなりません。人の言葉や、彼についての大そうな物言い――それは神についての教理に関しては完全に正しいものかもしれません――によってではなく、聖霊のあの御業によってです。聖霊の御業は、私たちの前に神を生ける者とするので、私たちはひれ伏します。高く上げられて、その裾が宮を満たしている主。これが第一の、すべてを含む点です。

御座

これと関係する第二の点は御座です。「御座に座しておられる」。「私は御座に座しておられる、高く上げられた主を見た」。これは、ご自身の民の使命に関する神の絶対的主権です。これがこの個所の要点だと思います。この個所が示しているのは大能者である主だけではありません――私たちは皆これを理解・認識しています――それだけでなく、ここのこれらの御言葉により、ある偉大な使命が今や水平線上に現れるのがわかります。主の御業を目の当たりにするのです。

ここでは、この人が神の家の中で任務と使命を受けます。彼は、高く上げられてその裾が家全体を満たしている主を見る必要があります。しかし、神の主権がそれに関与しなければなりません。この御座の主権がこの人の務めの背後でどう機能するのかがわかります。彼は諸々の支配や国々をバラバラに引き裂き始めます。章に次ぐ章で、国々や諸々の王国に対して戦い始めます。全世界が裁かれます。そして、ここで御座がこの務めと関係するようになります。愛する人よ、私たちもこの御座との関係の中に入らなければなりません。また、この御座が私たちの生活や務めの中に入って来て、それに効果を持たせなければなりません。主権者たち、権力者たち、暗闇の世の支配者たちが、新たな形で、この御座の衝撃力を感じるようにならなければなりません。どうか主がご自身を私たちに啓示してくださり、次に、私たちをこの御座との関係の中にもたらしてくださいますように。それは神聖なすべての御旨――主ご自身と御座――のためです。

次に人です!この御座を前にして彼に目を向けるのは、ほとんど恐れ多いことです。彼はしり込みしているように思われます。この対比はあまりにも著しいため、だれもあえてこの人に言及しようとしないでしょう。それでも彼はそこにいます。主の啓示・除幕の前に、この御座の前にいます。この人はひれ伏しており、滅びるばかりです。愛する人よ、この人に関する次の点に注意してください。この点は恵みの働きのまさに本質です。すなわち、この人は、自分が間違っている事柄について非難し始めずに、滅びるばかりなのは自分自身であることを理解し始めたのです。もし私たちが数々の点を顧みて「確かに、私は自分がこの事柄やあの事柄で間違ったことを知っています」と言うだけなら、神の啓示の働きはそれらの事柄に関して十分だったとは言えません。このような主にふさわしい唯一の反応は、自分自身が滅びるばかりであること、滅びるばかりなのは人であることを、私たちが認めることです。主ご自身からの啓示を心から真に主に求めているなら、また、主の主権とのこの御座の交わりを真に求めているなら、「どうか私たちがこの光景の中から消え去りますように」と熱心に求めようではありませんか。この問題全体が意味するのは、主が入って来られるので、私たちは排除されて無に帰される、ということです。また、それがすべて「私はわざわいだ」という結末になるのを受け入れる覚悟をする、ということです。

ヨブ!神と啓示を前にして、あの素晴らしいドラマの大きな山場で、「私の目が主を見たからです。それゆえ、私は塵と灰の中で自分自身を忌み嫌います」とヨブが述べたのを、あなたは覚えておられるでしょう。

ペテロは主を見て、「私から離れてください、ああ、主よ、私は罪深い人です」と叫びました。

主の御用や奉仕のどの部分についても、これは欠くべからざる前奏曲です。ああ!これは一時の事柄、過ぎ去って行く啓示に関する事柄ではありません。それは内側深くに打ち込まれるので、「自分は無であり、主がすべてである」という状態が永続的なものになります。私たちは無であり、主がすべてである――どうかこれがこのメッセージの結果でありますように。私たちは全員、今、こう言えるのではないでしょうか?ここにいる私たちの中には、こう言えない人は一人もいないと思います。私たちはみな、心から、深い誠実さをもって、「私たちは無であり、主はすべてです」と言うことができます。

祭壇

このビジョンはまだ完結していません。そこに十字架、祭壇があります。そして祭壇の上に二つのものがあります。清めのための血があり、また火があります。ここでは血と御霊が共に働いています。何のためでしょう?神の栄光に対する妨げをすべて取り除くためにほかなりません。三節の句がこの問題全体への鍵であることを、あなたはご存じだと思います。私たちの翻訳では「全地は彼の栄光に満つ」と述べています。しかし、これはヘブル語の完全な翻訳ではありません。ヘブル語のさらに正確な訳は「全地に満ち満つは彼の栄光」となります。さて、時間を費やしてこれを説明したり、その違いを指摘するつもりはありません。しかし、ここに私は鍵を見ます。目標は彼の栄光です。彼の栄光が問題であり、全地は彼の栄光で満ちます。これが目標であり、したがって、十字架、尊い血が入って来て、この栄光の道の中にある邪魔ものをすべて取り除かなければなりません。神に栄光を帰しえないものを取り除かなければなりません。十字架は神の栄光に対して中心的地位を占めています。強力な火は、それに近づくとき、この血を有効化するだけでなく、神の召しに応じることを可能にし、強化します。これは彼をこの次の点へと導きます。主ご自身、御座、人、十字架、御霊の炎を持つとき、あなたは次に御声を持ちます。

御声

御声はこれから生じるものです。それは宮の中の御声、神の家の中の御声であることがわかります。十字架と血が御霊の力の中で清めの働きをなす時、神は彼の家の中で語られます。主がご自身の地位と権利を得られる時、その御声を聞いて任務を受けられるようになります。これこそ私たちがそうなるよう願っていることであり、近頃の大問題の一つです。十字架の働きの適用を受けて、主がご自身の地位を得られた時、私たちは御声がその家の中で、「誰が私たちのために行くでしょう?」と言うのを聞きます。この問いは宙に浮いていました。それは「あなたは行きますか?」という問いではなく、イザヤに対する問いかけではありませんでした。主はご自身の召しに対する自発的な無条件の応答を望んでおられました。だから、「誰が?」と仰せられたのです。

愛する人よ、心に刻もうではありませんか。以下の他の問題にすべて決着がつかないかぎり、主は私たちの応答を受け入れて「この民のところに行きなさい」とは決して仰せになりません。その問題とは――主ご自身、その至高の御旨、御座との関係の確立、人は全く砕かれて空にされるべきこと、自己の自負心・自信・関心は全く空にされるべきこと、人は空にされるべきこと、十字架の働き、栄光を妨げるものはすべて排除されるべきこと、活力を与える御霊の御業です――その時はじめて、主はご自身の召しに対する応答に耳を傾けられるようになります。

さて、これは祈るべきことではないでしょうか?これはみな、全体の背景であり、輝かしい結末に至ります。私たちがなすべきは、「どうかこれが私たちにも実現しますように」と日毎に求めることです。ケルビムやセラフィムでさえ御前で顔を伏せるからには、私たちはなおさらそうしてしかるべきです。

「証し人と証し」誌、一九二九年九~十月号、七―五巻 初出