使徒の働き第一章の上の部屋はベタニヤ、「いちじくの家」に相当し、ベタニヤは上の部屋に相当します。この思想を取り上げて、主の助けにより、さらに大いなる豊かさに至るまで追うことにします。ここに主の願いがあります。主の願いは、主が初めに持っていたものを最後に得ること――主が最初にご自身の臨在によって設けたものを、ご自身の民の中に霊的に得ることです。主の御旨だと感じることを一言で表すよう求められるなら、象徴的に言って、それは「ベタニヤ(複数形)」である、と私は言います。なぜなら、ベタニヤはもっともよく主の御思いにかなっていると思うからです。主はベタニヤの基礎の上に諸事を据え、ベタニヤにしたがって諸事を構成し、ご自身の普遍的教会を各地の「ベタニヤ」によって表現させるでしょう。さて、ベタニヤについて述べられている七つの箇所を見ていただきたいと思います。
尊重され、受け入れられた主
ルカによる福音書十章三八節「さて一行が進んで行った時、彼はある村に入られた(村は各地の会衆を表していることを忘れないでください)。するとマルタという女が、彼を家に受け入れた(この家が誰のものだったのか、誰がこの家の家主だったのかは、ご存じでしょう)。彼女にはマリヤという妹がいたが、マリヤはイエスの足もとに座って、御言葉を聞いていた。ところがマルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、彼のところに来て言った……」
さて、このベタニヤに関する最初の言及の中に、原則的に教会、会衆、家を表しているもの、主が心を寄せておられるものが、一、二点あります。直ちに押さえるべきは次の言葉です、「するとマルタという女が、彼を家に受け入れた」。「受け入れた」という言葉が全体の鍵となる言葉です。この言葉は大きな違いを意味します。これは区別する言葉であり、違いを生じさせる言葉です。
憶えている方もおられるでしょうが、主が栄光を去ってこの地上に来られたことに関して、「彼はご自身のものの所に来られたのに、ご自身のものである人たちは彼を受け入れなかった」(ヨハネによる福音書一章十一節)と記されています。また、主がご自身について、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(ルカによる福音書九章五八節)と言われたのは憶えておられるでしょう。その真の意味が私たちに対して実際に明らかになるとき、また最初の御言葉が誰について述べられたものであり、二番目の御言葉を話したのが誰だったのかをよくよく考えるとき、私たちは驚かざるをえないでしょう。ここで述べられているのは、万物の創造者、万物の所有者、天と地の主であり、万物万有に対して他のだれよりも大いなる権利を持っておられる主のことなのです。この御方のために、この御方を通して、万物は創造されました――それなのに、この御方がご自身の被造物の世界、ご自身が完全な主権を有している領域に来られた時、枕するところもなかったのです。彼は受け入れてもらえませんでした。それどころか、彼の身内の者の態度をありのままに描写して、彼は言われました、「これは跡取りだ。さあ、彼を殺して、その財産を手に入れよう。彼らは彼をつかまえて、追い出した……」(マタイによる福音書二一章三八~三九節)。
しかし、ここではこう記されています、「するとマルタという女が、彼を受け入れた……」。「わたしの教会」――「わたしの教会」――主の会衆、主の霊の家は、主が喜んで受け入れられる所であり、主が安息を見いだされる所です。それは主の居場所であり、主を拒む世にあって主の居場所です。それは主が尊重される場所です。会衆が地の面に散らされる時、一つの会衆の始まりが常にこれであることに、気づいておられるでしょうか?彼らは御言葉を「受け入れる」のです。ペンテコステもそうでした。「そこで彼の言葉を受け入れた人たちは……」(使徒の働き二章四一節)。ピリピでは、「ルデヤという婦人がいた。主は彼女の心を開いて、パウロの語る言葉に注意を払わせた。そして、彼女とその家族がバプテスマされた時、彼女は私たちに懇願して、『もしあなたたちが、私を主に対して忠実な者と思われるのでしたら、私の家に来て、お泊まりください』と言った」(使徒の働き十六章十四~十五節)。これが会衆の始まりです――どこでもそうです。霊的に尊重することは、心を開いて受け入れる結果になります。「受け入れる」ことが、主の教会の第一の特徴です。それは主に地位を与えること、栄誉の地位を与えることです。
さて、これはとても単純ですが、主にとって多くのことを意味します。それは私たちを導いて長い道のりを行かせます。なぜならそれには、主が到来して一時的に滞在する以上の意味があるからです。それは主が足場、足台を得ること、宇宙的に全権を確保するのに必要な場所を得ることを意味するのです。
サムエル記下十五章に記されている、アブサロムが王位を強奪してダビデを排斥した出来事は憶えておられるでしょう。それは悲しい物語です――ダビデは地位を追われ、領地を去り、そこを出て行きます。一、二の人が彼に付き従い、祭司のザドクが神の箱を持ってきます。しかし、ダビデはザドクに向かって、「神の箱を町に戻しなさい。もし私が主の御心にかなっているならば、主は私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださるでしょう」(二五節)と言います。その意味するところはこうです、「私が戻って来る時、町の中に、私を拒絶した場所の中に、私に心を寄せている人がいるでしょう。その人のところに私は戻って来ることができます。私はよそ者として戻って来るわけではありません。戻る所がないわけではありません。戻ってきたけれども居場所がなく、ホームがどこにも見あたらない、というわけではありません。私は私と一つである者の所に戻ってくるのです。ザドクよ、あなたは私と一つです。あなたは私と共に行くことを望みました――これは純粋な思いやりです。今、町に戻りなさい。私が戻って来る時、私は私と共にある者の所に戻って来ます」。
この原則は地上にもあてはまります。地上の会衆は、主の今の居場所を、主の霊により、主に与えます。主はご自身を拒む世の中に足場を持っておられ、主はそこに戻って来られます。これを会衆は示すのです。主には戻って来る所、ご自身の側に立つ所があります。それは主の側に立っているので、ザドクがダビデに対してしたように、主の宇宙的権利を再確立するための地歩を主に与えます。
これが、地上の諸教会、各地の会衆を、主が地の面に持たれる理由です。主の権利に反対してそれを認めない世にあって、各地の会衆は主の権利の証しです。各地の会衆はそこに立って言います、「主の権利はこの世界で最高の権利です。強奪者の権利が最高なのではありません」。そして、各地の会衆はこの証しを維持します。主が戻って来られる時、各地の会衆は主の権利――それは反対を受けており、主はそれから追いやられています――を回復するための主の方法、手段となります。多くのことが、主を受け入れることと結びついています。主はご自身の者の所に戻って来られます。なぜなら、主はすでにその場所を得ておられるからです。
教会の各地の表現、主との天的合一と天的交わりの中に生きる主の小さな群れを、悪魔は可能なかぎり常に破壊しようとしますが、その理由がおわかりになるでしょう。それは彼らが彼の権利――主の権利――を代表しており、自らの存在によって強奪者の権利に絶えず反対しているからです。証しの箱がそこにあります。そして、証しの箱が主の側にあるかぎり、強奪者に宇宙的支配力はありません。悪魔の王国は打ち破られており、脅かされていることを、各地の会衆は示します。悪魔はそれを知っています。各地の会衆は悪魔の脇腹に常に刺さっている棘です。ですから、悪魔はできることなら、それを消し去り、破壊し、分裂させ、キリストにしたがっている各地の表現を除くために、ありとあらゆることをするのです。教会の各地の表現、この地上のすべての信者は、この地上における主の足場であるべきであり、主の至高の主権と権利に対する証しであるべきです。主を受け入れることは、このような足場、このような証しを主に与えます。
ですから、ベタニヤに関する最初の段階には重大な意味があることがわかります。それは途方もなく重要な原則を示しています。教会は第一に、「キリストが居場所を見いだされた」という単純な原則の上に構成されます。あらゆる拒絶のまっただ中で、主は居場所を見いだされました。
主の御心の満足
さて、さらに続けましょう。「……彼を家に受け入れた。彼女にはマリヤという妹がいたが、マリヤはイエスの足もとに座って、御言葉を聞いていた」。文字どおりには、「マリヤはイエスの足もとに座って、御言葉を聞き続けていた」です。「彼の足もとに座って、聞き続けていた」。マリヤが聞き続けていたので、マルタは苛立ちました。マルタが主に話した言葉も同じ時制であり、未完了時制です。彼女は主の所に来た時、「主よ、私の妹が私一人にもてなしをさせ続けているのを、何とも思われないのでしょうか?」と言いました。「私一人にもてなしをさせ続けている」――これはマリヤが「聞き続けていた」からです。
これは何でしょう?これは主が最も望んでおられるものを主に与えることです。これが意味するのは主の御心の満足です。マリヤが行ったことのゆえに、主の御心は満足しました。ここで私たちはベタニヤの意味を理解します。マタイによる福音書二一章を見ると、いちじくの木の物語があります。イエスはエルサレムとベタニヤの間を行き来しておられます。彼はエルサレムに入って、宮の状況をご覧になりました。そして、彼の心は痛みを覚え、失望の苦しみで射抜かれました。彼はすべてのものを見てまわり、何も言わずにベタニヤに戻られました。朝、途上で、彼は空腹になり、一本のいちじくの木をご覧になりました。彼はそこに行かれましたが、何も見つかりません。彼は言われました、「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」。彼らが戻って来ると、弟子たちはそのいちじくの木がしおれて枯れているのに気づきます。彼らは事実を指摘します。
さてご存じのように、このいちじくの木はエルサレムと関係しており、当時のユダヤ教の型でした。主が神殿の中で味わった失望は、腹をすかせていちじくの木の所に来たものの、何の実も見つからなかった時の失望と一つでした。この二つは一つです。そこで、その体系は主の関心外になります。ユダヤ教は、この時代の残りの期間、没落します――「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」(ギリシャ語、「この時代の終わりまで」)。それは主を満足させられず、没落します。それは主に何も与えないしおれたいちじくの木です。
しかし、失望を痛感する時、主はベタニヤへ行かれました。ベタニヤは「いちじくの家」を意味します。神殿やエルサレムにではなく、ベタニヤに主は満足されます。これが、主が常にそこに行かれた理由です。主の御心の満足は今や、当時の冷たい命のない形式的宗教体系の中にではなく、ベタニヤのホームの生き生きとした躍動的な暖かい雰囲気の中にありました。主の御言葉はエルサレムでは拒絶されるけれども、ベタニヤでは受け入れられて熱心に耳を傾けてもらえること、そこには常に「聞き続ける」人がいることを、主は常にご存じだったのです。
使徒の働き第二章は印象的です。それは、ペンテコステの後、信じた者たちは「使徒たちの教えの中にしっかりとどまり続けた」(四二節)と述べています。そこに教会ができたことがわかります。そしてその特徴は、「彼らは使徒たちの教えの中にしっかりとどまり続けた」ことでした。私たちはこの御言葉に慣れきっているため、それはあまり多くのことを私たちに伝えていないかのようです。これを単純な実際的方法で適用する覚悟が、あなたにはあるでしょうか?
この本では幾つかのことを述べています。今、あなたはそれらを読み、自分の道を行き、おそらくある一定の期間、それらを憶えているでしょう。おそらく、あなたは長い間ベタニヤを憶えているでしょう。ベタニヤについて述べられるたびに、あなたは何かを――あなたが読んだことを――思い出します。あなたはこのメッセージを、幾分良いもの、興味深いメッセージ、何かそのようなものとして話すかもしれません。このようなことと、あなたが行って「その教えの中にしっかりとどまり続ける」こととの間には、なんという違いがあることでしょう!あなたはこれを自分で解釈して、「今、その中にしっかりとどまり続けることは、私にとって何を意味するのでしょう?」と自問しなければなりません。
この言葉は実際には、「いつまでもとどまり続ける(persisting)」です。教えの中にいつまでもとどまり続けることと、出て行って、「まあ、とても良いメッセージでした」と言うこととは、全く別のことです。「いつまでもとどまり続けること」は、真理に対して実際的、積極的に心を傾けることを意味します。そして、これが主の教会を構成します。教会は、主から来るものを受け入れて、心と生涯をことごとくそれにささげる所です。そこには、それに対する明け渡しがあります。
おそらく、これがマルタの好まなかったことです。マリヤはそれに専念して没頭しました。これが主が求めておられることです。もし私たちが自分に臨む一つ一つの神の真理の言葉に対してこのような態度を取っていたなら、その結果、どうなっていたでしょう。建て上げられてきた真理の山々を思う時、「聞く人の側で、その真理は何パーセントくらい実際に適用されているのだろうか?」と私は問わずにはいられません。真理の効力が現されたのは、人々が自分の聞いたことに対してこのような実際的態度を最初に取り、その中にいつまでもとどまり続けたからです。彼らは出て行って、「今日のペテロの説教はなんと素晴らしかったのでしょう」とは言いませんでした。そうではなく、彼らは使徒たちの教えの中にいつまでもとどまり続けたのです。
これが主が欲しておられることです。これが主の御心を満足させるものです。マリヤは主の足もとにすわり、主の御言葉を聞き続けました。そしてこれが、他のあらゆるものが主を失望させていた時に、主の御心を満足させたのです。御心の満足が、主の民の生活の一つの特徴でなければなりません。主の御心を満足させるものは、私たちが主の御言葉にすがること、それを正しく認識すること、それを最高のものとみなすことです。会衆は主に対して「いちじくの家」でなければなりません。
調整された奉仕
次にマルタを見ましょう。「ところがマルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、彼のところに来て言った……」。このギリシャ語はとても強い言葉です。それは、「彼女は彼に詰め寄って、彼をこの件に引きずり込んだ」を意味します。これは、彼女が彼を責任者と見なしていたことを暗示します。心の中にあるものを何もかも話していたなら、彼女はこう言っていたでしょう、「あなたはこの件に責任があり、この件と関係があります。これを正すのはあなたの義務です」。これが原文の意味です――彼はこの件の関係者であり、これを正そうと思えば正せますし、またそうすべきです。これは彼女が怒りをぶちまけたことを意味します。彼女はこれをこらえていましたが、ついにこれ以上我慢できなくなり、彼に詰め寄って、「主よ、私の妹が私一人にもてなしをさせているのを、何とも思われないのでしょうか?彼女に私を手伝うよう命じてください」と怒りをぶちまけました。
さて、この状況の大変さを理解していただきたいと思います。そうすれば、マルタについて助けになるでしょう。私たちはマルタの気持ちや立場を理解しなければなりません。「いろいろともてなしのために気が落ち着かず」は、この状況の真相を私たちに伝えていません。状況が実際いかなるものだったのか、全く不十分な印象しか訳からは得られません。ここのギリシャ語の言葉は、「混乱させられる」「四方八方に引っ張られる」を意味する言葉です。おそらく、彼女の心配が顔に浮かんでいたでしょう。それは何に対する心配だったのでしょう?いろいろな家事、おそらくは様々な料理、いろいろな仕事に対する心配でした。主はマルタに言われました、「マルタよ、あなたはいろいろと二次的なことで思い煩い、自分に扱える以上のことを抱えています。しかし、真に必要なものは一つしかありません――」。
今、あなたはこの状況を理解しかけているのではないでしょうか?最も重要なものがその地位を占めるよう、マルタの側で調整が必要だったのです。主はマルタのもてなしに対して思いやりに欠けておられたわけではありません。彼女がこの料理の仕事をあまりにも手の込んだ盛大なものにしていたこと、そしてもっと大切なものをそうでないものよりも低い地位に置いていたことを、主はご覧になったのです。
確かに料理は大切かもしれません。しかし、おお、適切にバランスを取りましょう。現世的なものが霊的なものを圧迫しないよう注意しましょう。霊的なものが眩まされてしまうほど、過ぎ去って行くもののことを心配したり、それに惑わされたりしないようにしましょう。他のものをすべてあるべき場所――そこでは全く問題はありません――に保つ唯一のものは、主の口から出る御言葉です。
これはバランスの問題であり、どこに最も重点を置くかの問題であることがわかります。これは、あなたが今生の事柄に夢中になり、没頭し、思い煩うあまり、より大切なものに少しの余地も与えなくなるかどうかの問題です。このように見る時、今や私たちはマリヤのことでもはや主と争わないことに同意します。必要なのは諸事を調整することでした。それにより、他の事柄は適切な地位を得、それ自身の分に応じてその地位を占めるようになります。また、最高のものが首位を占めるようになり、結局のところ永続しない劣ったものの中に埋没しなくなります。
さて、これが全体の状況でした。神の家の中で、私たちのいかなる仕事にもまして大切なもの、またキリスト教の多くの働きをしようとする私たちのいかなる熱狂的活動にもまして大切なもの――大切な唯一のものは、主を知ることであり、主にご自身を知らせる機会を与えることです。いわゆる「教会」の中で、熱狂的活動はしばしば主の御声を締め出し、主を追い出してしまいます。私たちはそのようなことばかりしており、主が語る機会を得ることはほとんどありません。主を満足させる場所は、最も大切なもののために調整がなされる所です。
さて、これがマルタです。
注ぎ出された高価な香油
さて、四番目のマタイによる福音書二六章六~十三節に向かいます。場所は同じ村であり、今度は「たいへん高価な香油の入った石膏の壺」を持った女が登場します。この出来事は、主イエスのありがたさが初めて認められた例です。主イエスのありがたさが初めて認められました。それを見ていた人はみな、「彼はそれに値しません」とでも言いたげでした。つまりはそういうことでした。「彼はそれに値しません」。もちろん、彼らはこのような言い方はしなかったでしょう。彼女は彼のありがたさ――彼が「たいへん高価」なものにふさわしいこと――を認識しました。この箇所の主眼は、認識されたキリストのたいへんな尊さです。これがおもな特徴だと思います。それはベタニヤの特徴であり、上の部屋の特徴であり、「わたしの教会」の特徴であり、主の会衆の特徴であり、主ご自身の御心にかなう民の特徴です。その特徴とは、主のたいへんな尊さ、主のたいへんなありがたさを認識することであり、何ものも惜しまずに主の足もとに置くことです。「信じるあなたたちには、彼は尊い(尊いもの)です」(ペテロ第一の手紙二章七節)
さて、これはとても単純です。しかし、これもまた主イエスが深く評価されるものです。これもまた大いに愛されている村を特徴づけるものです。言い換えると、これは主の会衆を主にとって大いに価値あるものとするものなのです。そこでは、主のありがたさが認められ、主が尊重され、主の真のありがたさのゆえに主がほめたたえられます。これが主の家の特徴でなければなりません。これはますます発達させられるべき特徴です。主イエスの尊さやありがたさの認識が絶えず増し加わるよう、私たちは注意しなければなりません。おお、これはたんなる形式的教会組織とはなんとかけ離れていることでしょう!「形式的教会組織の際立った特徴は、主イエスの尊さやありがたさを心から真に尊重していることです」とは到底言えません。主イエスの尊さやありがたさが尊重されているところに主の会衆があります。それが尊重されていないところには、たとえ手の込んだきらびやかな外観があったとしても、主の会衆はありませんし、それは主が喜ばれる場所でもありません。
ここには何か他の点も見られると思います。壺が砕かれることにより、香油の尊さが現されます。キリストの栄光の顕現と表現を可能にするのは、砕かれた「もろい土の器」です。この壺自体は無傷で、頑丈で、しっかりしており、あなたが眺めて高く評価するものです。それは何か、「これは美しい壺です。素晴らしい石膏の一品です」とあなたに言わしめるものです――あなたは秘訣をつかんでいません。私たちは人々のことを輝かしい知性の持ち主、輝かしい人々、素晴らしい説教者などと高く評価するかもしれません――私たちは瓶や壺に夢中になるかもしれません――そして、他のものは封印されて、隠されてしまうかもしれません。しかし、壺が砕かれて粉々にされる時、あなたはキリストの栄光の幕屋の秘訣を握るのです。
これはパウロに見られます。タルソのサウロは、知的、道徳的、宗教的に、素晴らしい石膏の一品だったことでしょう。彼が言うには、彼は確かにそうでした。彼は自分がどのような者だったのか、何を誉れにしていたのかを語り、人々が自分を見てまぎれもなく誉めていたことを語ります。しかし、彼は砕かれました。もはやサウロではなく、もはやパウロでもなく、キリストの美と栄光です。壺が砕かれる時、キリストの香りがあらわれます。
愛する人たち、私たちの経験もまさにこのとおりです。教会、真の教会は、何度も砕かれてきました。そして、個々の信者も頻繁に何度も砕かれます。しかし、教会についても、個人についても、その砕き、その粉砕、その破砕によって、素晴らしい形でキリストの栄光が現されます。これは歴史を通して証明されてきたことではないでしょうか?それはまさに次のとおりです。私たちは砕かれる新たな経験をくぐります――私たちは時々別の言い方をして、「自分はキリストの死の中にいっそう深く導かれつつあり、十字架の新鮮な経験に至りつつあります」と言います。たとえこのような表現をしたとしても、それは砕きを意味し、壺を砕くことを意味します――しかし、私を信じてください、愛する人たち、それはキリストの栄光のいっそう豊かな現れと知識を意味し、私たちを新たなキリスト認識に導くのです。砕かれる時、私たちは彼を見いだします。同じように、教会も十字架の道を通りますが、その砕きを通して主イエスのありがたさに至ります。
キリストの復活の力
ヨハネによる福音書の有名な十一章に行きます。ここの光景は再びベタニヤであり、今回はラザロの復活を見ます。物語全体を辿ってその詳細を扱うのではなく、最後の結論に直ちに来ることにします。この例では、ベタニヤは復活の力、復活のいのちの現れの場面、領域になります。ここには他にも多くのものがあります。この章には愛の素晴らしい表れがあり、交わりの素晴らしい表れがあります。ベタニヤから遠く離れた所で、主は弟子たちに「私たちの友ラザロは眠っています」と言われました。「私たちの友」です。「わたしの友」ではなく、「私たちの友」です。これは交わりであることがわかります。「さて、イエスはマルタとその妹とラザロとを愛しておられた」。これは愛です。これらはみなベタニヤの特徴です。しかし、ここの際立った特徴は、キリストの復活、キリストの復活の力、復活のいのちの現れです。
ここでもまた、ベタニヤは主が建造しておられる教会の絵図です。「教会書簡」と呼ばれているエペソ人への手紙から、それがわかります。私たちは直ちに、「キリストと共に生かし」(二章五節)という箇所に来ます。教会は、キリストの復活の力がその中で展覧される器です。ここでもまた、私たちはこの事実、この教理の証しをするだけでなく、「主の御思いにしたがっている会衆は、キリストの復活の力といのちがその中で展覧される所である」というこの試金石を適用しなければなりません。
さて、このようなことが語られる時、しばしば虚ろな感覚が残ることを私は承知しています。「確かに、キリストと共に十字架につけられなければならないのと同じように、それがそうでなければならないことを私たちは承知しています。キリストと共に復活させられなければならないことを私たちは承知しています。キリストの復活の力、キリストの復活のいのちを知るべきであるというのは全くそのとおりです」。このようなことが何度も語られるのですが、私たちはそこを離れてしまいます。問題は、「それはいかに実現されるのか」ということです。
さて、主がご自身の教会を生み出されたのは、ご自身の復活の力を展覧するという特別な目的のためだったことを、私たちは悟らなければなりません。まさにこの目的のために、私たちは自分自身を主にささげるべきです。私たちがからだである教会の中にある目的は、主が私たちの間でキリストの復活の力といのちを展覧するためであることを悟ること――これが道です。これを悟るとき、自分は主にささげられていることを、私たちは主と共に明確に理解します。それが心からのものなら、今ここで私たちの責任は終わり、主が御業を開始してくださいます。
私たちは、自分を十字架につけられないのと同じように、自分を復活させることもできません。しかし、私たちに対する主の取り扱いの目標がこれであることを、私たちは悟らなければなりません。キリストの復活の力を展覧するために、主は私たちに対してよく次のような姿勢を取られます。すなわち、人の力では解決することも救うこともできない状況が生じるのを、主は許されるのです。状況を何とか解決できる力が全宇宙で他に何も無くなるほど事態が進むのを、主は許されます。主は死や滅びが働くのを許されます。それは、キリストの復活の力以外の宇宙の何ものも役に立たなくなるためです。
私たちはアブラハムが達した所に達するでしょう。アブラハムは、直ちに復活の中に入る信仰の偉大な型になりました。「彼は自分の肉体が死んだも同然であることを認め」(ローマ人への手紙四章十九節)。「死んだも同然」という句を使徒はアブラハムに関して用いています。さらにパウロは、「私たちは自分の内に死という判決を持ちました。それは、私たちが自分自身に信頼するのではなく、死人をよみがえらせてくださる神に信頼するためでした」(コリント人への第二の手紙一章九節)という状況に至りました。被造物の領域では、人々は他のことなら何でもできるかもしれませんが、死が実際に生じる時、何もできません。人々はそれ以上何もできません。復活は神の御業であり、神だけがなしえます。いのちを得る時、人々はとても多くのことを行えます。しかし、いのちが無い時、事を行えるのはただ神だけです。主の教会とその構成員が人の助けの全く及ばない状況にしばしば陥ることを、神は許されます。それは、神がご自身の復活の力を展覧するためです。それは神ご自身の展覧であり、いかなる人も栄光を受ける余地はありません。
ですから、主イエスは言われました、「この病は死に至るものではなく、神の栄光のためです。それは、神の子がそれによって栄光を受けるためです」。栄光を受ける!私たちは状況を成り行きに任せました――すなわち、人間的な絶望の流れに身を委ねました。しかし、私たちはその成就を受け入れるのがなんと遅いのでしょう。事態が絶望的状況に至る時、私たちは大いに文句を言い、「すべて台無しになってしまった」と思います。主にとっては、まさに順調なのかもしれないのにです!おお、確かに状況は絶望的です。そのような考えは、状況の絶望的様相、状況の恐ろしさを取り除いてはくれません。しかし、もしその状況が卓越した証しを打ち立てる最高の機会を主に与えるものなら、それはよいものなのです――すなわち、その結果はよいものなのです。
永遠において最終的に、キリストのからだである教会の物語を読み、実際にくぐり抜けてきたいっさいのものを見る時、「聖徒たちがくぐり抜けてきたものを、人の組織や人の造ったものは乗り切れず、くぐり抜けられませんでした」と私たちは告白しなければならないでしょう。永遠の光の中でこれを理解し、真に霊的な基準で評価する時、私たちは言うでしょう、「全能の神だけがこれを成し遂げることができ、教会を切り抜けさせることができました。教会は確かに、『神の力の卓越した偉大さ』(エペソ人への手紙一章十九節)を示す手段になりました。これは実に意義深いことです」。「神の力の卓越した偉大さ」がこれに必要だということは、私たちの陥る状況が相当たいへんなものだということではないでしょうか?「神の弱さは人よりも強い」(コリント人への第一の手紙一章二五節)のだとすると、「神の力の卓越した偉大さ」は何を意味するのでしょう?
さて、「神の力の卓越した偉大さ」は復活の中にあります。ご存じのように、この御言葉はこうつながっています。「神の大能の力の働きにしたがって、信じる私たちに対して働く、神の力の卓越した偉大さ。神はそれをキリストの内に働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ」(エペソ人への手紙一章十九~二〇節)。それは「信じる私たちに対して」です。今、教会、ベタニヤの証しは、キリストの復活の力に対する証しでなければなりません。私たちを取り扱う主の方法がキリストの復活の力を必要とならせるものであるとき、こうして私たちは主が教会に望んでおられるものの真の表現になるという事実から、励ましと慰めを受けようではありませんか。
キリストの勝利を祝う
ヨハネによる福音書の十一章から十二章に進みます。「過越の六日前に、イエスはベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中から復活させたラザロがいた。そこの人々は、彼のために晩餐を設けた。マルタは給仕していた」(以前、彼女は主の御言葉に集中せず、その奉仕は正しくありませんでした。彼女は依然として給仕しています――今、それは全く問題ありません)。「ラザロは、彼と共に食卓に着いていた者の一人であった。その時マリヤは、非常に高価なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、自分の髪の毛で彼の足をぬぐった。するとその家は、香油の香りで満たされた」。
ここに饗宴があります。この饗宴にはいくつかの要素があります。マリヤとその行動が示しているのは礼拝です。もう一度言うと、主眼はキリストを尊重することです。これが礼拝です。礼拝は常に――神の御思いでは――主イエスを尊重することにほかなりません。それは神の御前に、御子への心からの感謝という甘い香りを立ち上らせます。これは単純に聞こえるかもしれません。しかし、最も純粋な礼拝の要素は、主イエスをどう思うかを御父に表明することなのです。これが礼拝です。会衆はこのためにあります。ベタニヤはこれについて物語っています。
マルタ――確かにマルタは給仕していました。しかし、それは調整された奉仕です。彼女は依然として給仕していますが、全く問題ありません。今や非難はありません。今や、彼女は心配に翻弄されることなく、気苦労に振り回されることもありません。彼女は復活の家の中で給仕します。ここにあるのは調整された奉仕です。主の家の奉仕は、その奉仕が礼拝と関係していて、礼拝と正しい関係にある時、主の御心によく適っています。二人の姉妹は調整されていることがわかります。以前、彼女たちは離れていました。なぜなら、物事のバランスが崩れており、あるべき場所になかったからです。今や調整がなされ、彼女たちは常に円満です。それは調整された奉仕です。
ラザロは食卓に着いていました。もちろん、彼はいのちの原則、復活のいのちの原則です。これもまた、主の霊の家の一つのしるしです。ですから、礼拝、調整された奉仕、復活のいのちがあります。
そうなのですが、遠からぬ所に常に何か邪悪なものがいます。「なぜこの香油を三百デナリで売って、貧しい人たちに与えなかったのか?」。あなたが主の望みどおりの会衆を得る時、悪魔がすぐ近くに潜んでいるのをあなたは常に見いだすでしょう。これはその会衆に対する賛辞なのかもしれません。というのは、悪魔が妬みの目を向けないものは、主の御心を満足させるものであるはずがないからです。しかし、常にそうです。あなたが主の御心にかなうものを獲得し始めるやいなや、邪悪なものがあたりをうろつき始めるのを見かけるようになるのです。この邪悪な者の狙いは、その礼拝を破壊し、主に対する尊重の念を逸らすことです。主が獲得されつつあるものに悪魔が妬みの目を向けて、それを自分のものにしようとすること――これがまさにその会衆の特徴の一つになります。
教会は主イエスが得るべきものを主に与えるものであることがわかります。そして永遠の過去から、悪魔は主イエスからそれを奪おうとしています。もし可能なら、悪魔はこの会衆の中でそれを行うでしょう。なぜなら、この会衆は主がその中で意中のものを獲得される所だからです。
外向きと上向き
さて、最後のルカによる福音書二四章五〇~五二節に注目して終わることにします。
「それから、彼は彼らをベタニヤまで連れ出し、両手を挙げて彼らを祝福された。彼は祝福しておられる間に、彼らを離れて天に上げられた。彼らは彼を礼拝し、大きな喜びをもってエルサレムに戻った。」
三つの言葉、「連れ出し」「祝福し」「上げられた」があります。主と共に「連れ出」され、離れて主の場所に「上げられ」、主の祝福の下で「祝福」されます。そして、天におられる主に結ばれます。パウロの言葉を用いると、「キリストと共に天上に座らされた」ということです。
これがベタニヤであり、教会であり、主が今日ご自身の民の間に持つことを願っておられるものです。
再びベタニヤに戻って、以上の点を思いめぐらしてください。御旨にかなうこれらの特徴を、主があなたの内に獲得されるよう、よくよく求めてください。そして、私たちが個人的にしていることを、私たちがつながっている交わりや会衆の中でもするようにしましょう。それは、それらが真のベタニヤ(複数形)となるためであり、神の大いなる都、天のエルサレムの村表現となるためです。