戦いで得た分捕り物

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:歴代誌上二六章二七節

聖書のこの節から、主の家は私たちの戦いから建てられることがわかります。主は戦いの戦果から建造されます。戦いの戦果はダビデを通してソロモンに与えられ、宮の内にありました。宮が完成した時、宮は宇宙的勝利の記念碑として立ちました。まさに宮の構成要素自体が、周囲に勝利を宣言したのです。宮を構成していた銀や金、すべての貴重品は、戦いの中で獲得され、神の家の中に造り込まれました。旧約で絵図として示されていることは、新約の実際の中で真実となります。ソロモンよりも大いなる者であるダビデの子、「ここにいる」方は、ご自身の戦いの分捕り物から、そしてご自身の聖徒たちの戦いの分捕り物から、神の家を建造されます。

歴代誌上十七章九節を読んだ時、私は感銘を受けました。主はダビデに語っておられます。主が言われたことの一つはこうでした、「わたしは、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、彼らを住みつかせる。彼らは自分たちの場所に住んで、もはや移されることはない。また初めの頃のように、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさたちを任命した頃のように、もはや邪悪な子らが彼らを荒らすことはない。わたしはあなたのすべての敵を屈服させる」。主はイスラエルの上に任命したさばきつかさたちに触れておられることがわかります。主がさばきつかさたちを起こされたのは、イスラエルがヨシュアの下でまっとうできなかったことを行わせるためだったことは、憶えておられるでしょう。主の御旨は、イスラエルがヨシュアの下でその土地のすべての国々を完全に滅ぼし、すべての敵を完全に屈服させることでした。彼らはこれを行うことに失敗しました。彼らは敵を残し、妥協しました。そこで、主はさばきつかさたちを起こして、敵を滅ぼし尽くす働きをまっとうしなかった恐るべき結果から、彼らを救われたのです。しかし、さばきつかさたちも失敗しました。士師記は依然として不完全な働きの悲しい物語です。主は成就されなかったことを行わせるためにさばきつかさたちを起こされましたが、さばきつかさたちは働きを完成しませんでした。ですから、歴代誌上の二八章と二九章は実に興味深いですし、啓発的でもあります。ここで、主はダビデに神の家について話されました。また、さばきつかさたちが倒さなかった他のすべての国々を、どのように彼が決定的かつ積極的に処理して倒すのかを話されました。この二つの章の中で、他の国々のことが述べられています。これを読むなら、士師記で述べられている国や民の一覧を見いだすでしょう。ダビデは神の家の幻を通し、神の霊に直感的に動かされて、これらの敵が屈服させられないかぎり、敵が完全に征服されないかぎり、神の家は決して実現されえないことを見たようです。主はすべての敵を屈服させるという御言葉を成就されました。そして、これらの国は処理され、対処されました。主が周囲の至るところでダビデに勝利を賜わった時、ダビデはソロモンに神の家の建造を成し遂げる計画を委ねました。そして、これらの戦いで得られた分捕り物は、神の家のための材料になりました。敵が神の家のための資材を持っていたので、神の家が建造されるには、その敵が滅ぼされなければならなかったのです。これは私たちを導いて長い道のりを行かせることができますし、とても啓発的です。私はそれを二、三語に短縮して、ささやかな指針にしたいと思います。しかしそれはあなたに、将来の助けや黙想のためになるものを大いに与えるでしょう。

二重の建造

神の家の建造には二つの面があります。私たちは一方を他方より重視しがちです。まず数の面があります。神の家の建造について考える時、私たちは人々を集めること、人々を救って真理にもたらすことにより、魂を加えることを考えます。このとき私たちは、神の家の建造をペテロが述べた意味でまさに考えているのです。ペテロは言いました、「あなたたちも生ける石として霊の家に建造されて……」。私たちは数の面、すなわち、個々の石を集めることや、その石を霊の建物の中のしかるべき場所に収めることについて考えます。これは主の家の建造の真の側面ですが、一つの面にすぎず、真理の半分にすぎません。同じように重要なもう一つの側面があります。それがなければ、主の家の建造は全くもって不十分でしょう。そのもう一つの側面とは、神の家の建造の霊的・道徳的側面です。あなたは救われた個々の人をたくさん持つかもしれませんが、それでも神の家の真の意義には届かないかもしれません。あなたは会衆を持つかもしれませんが、教会を持たないかもしれません。あなたは数を持つかもしれませんが、霊的に神の家を持たないかもしれません。神の家は数に関するものであるだけでなく、霊的・道徳的なものでもあります。つまり、神の家には一つの特徴があるのです。その特徴が神の家を本質的に神の家たらしめます。神の家はその特徴をそのかしらから得ます。そしてついにそれが完成する時、神の家は救われた魂からなる大群衆としてだけでなく、かしらである主イエスの特徴を帯びたものとして認知されるでしょう。主が御名をご自身の者たちの上に記す時が来つつあります。私たちは白い石を受けるでしょう。その白い石には新しい名が記されています。私たちは新しい名を持ち、主の御名で呼ばれるでしょう。主の御名が私たちの額にあるでしょう。これはみな象徴的表現であり、次のことを意味します。すなわち、主イエスがご自身の者たちの間で完全に現されるため、あなたは彼らを見る時、「主イエスを現している」と言うのです。あなたは主イエスを大いに認めます。また、主イエスがとてもはっきりと現されます。そのためあなたはただただ、「これがキリストの御性質です」と言わざるをえません。あなたは彼らの間でキリストに出会い、彼らに会う時、キリストに会います。このようにして、ご自身のものたちを通して、キリストが普遍的に啓示されるでしょう。彼の御名は彼の特徴です。彼の御名が霊的・道徳的に現しているものが彼らの上にあります。彼らは自分たちの特徴を彼から得ます。こうして、主イエスの特徴・性質が宇宙的に展覧されるでしょう。彼ご自身の個人的存在がなくてもすむようになるわけではありません。そうではなく、彼らは彼ご自身を宇宙的に表現する一つの経路となるのです。

戦いを通して獲得される特徴

ですから、主の家の建造は人々を集めることだけでなく、霊的・道徳的な建造でもあり、ただ戦いによってのみなしえます。神のエコノミーはこのように定められています。ですから、主イエスはご自身ですべての敵に対する宇宙的勝利を得ておられますが、私たちの対処すべき敵がまだ残されています。敵は打ち破られていますが、聖徒たちがこれを対処するようまだ残されているのです。主はご自身で勝利を得ておられますが、私たちの敵を宇宙から追放されませんでした。主が敵を残しておかれたのは、私たちが主の勝利の中で敵を対処するためです。こうして、あなたや私は霊的・道徳的に成長します。私たちの勝利のかしらの美徳が私たちの内にもたらされるのは、争いによって、戦いによって、厳しくて恐ろしい霊的な戦争によってです。私たちは主の勝利の中で勝利します。しかし、信仰は争いの中で試され、戦いの中で深く試みられるため、それはキリストの何かを客観的に把握して信じる以上のことです。信仰を活用することにより、主の勝利の力が主から私たち自身の魂の中にもたらされます。信仰の試みにより、私たちは主の勝利の中で主と道徳的に一つとされます。信仰の試みはとても厳しく、とても恐ろしいため、私たちの内におられる主からでないものは私たちを切り抜けさせるのに十分ではありません。それは私たちの存在中に造り込まれなければならないのです。これは戦いを通してなされます。戦いの中で信仰が発達させられます。このように戦いを通して、逆境を通して、私たちの生活に対する神の主権的案配の中で、私たちは霊的・道徳的に建造するのです。

事の道徳的側面は、カルバリの勝利の価値を信じる信仰を活用することによって現れます。カルバリの勝利を理論的に認識し、非常時に「私はカルバリの勝利を取ります」と言うのは、一つのことにすぎません。こう言っても何も起きないことがしばしばです。そして、あなたはそのような立場を取っているのですが、ただひたすらすがり続けるよう求められます。すがるよう主に求められている間、信仰が試されます。カルバリの勝利は、客観的に把握すべきものではなくなり、内側に確立されます。そしてついに、その勝利が主の内にあるように、私たちの内にもあるようになります。カルバリの勝利が私たちの存在中の道徳的資質となるのです。次の試みの時、それは何かにすがる試みではありません。カルバリの勝利は私たちの内に根をおろしています。私たちの内に何かがなされました。カルバリの勝利は私たちの一部になったのです。

啓示に関する戦い

さて、これは多くの形、多くの方面や関連で働きます。あなたは啓示、真理に関する主からの啓示を得ます。天が開かれ、あなたはかつて見たことがない神聖な真理を見ます。それはおそらく新しいもの、全く新しいものでしょう。あるいは、古いものに関する新しい光でしょう。いずれにせよ、それは新しい啓示であり、全き新鮮さ、全き喜び、全き霊感、天が開かれる全き高揚感を伴って、あなたのところに臨みます。しばらくの間、あなたはそれを喜び、それに栄光を帰し、それに浸り、自分に臨んだ新しい啓示以外に何も話すことがありません。その後、その啓示に関する恐ろしい戦いの中に突入する時が来ます。その啓示の最初の栄光は去ってしまったかのようです。あなたは取り残されて、それに関するあらゆる種類の疑問を抱え込みます。あなたは冷たくなり、死んでしまい、暗くなります。その啓示は支配力を失います。この経験の観点からその啓示を見る時、結局それは正しかったのだろうかとあなたはいぶかります。私たちはなんと奇妙な生き物でしょう!経験上もっとも力強いものとして私たちに臨んだ事でさえ、特定の状況下では、「それは本当に真実なのだろうか?」「自分はあることを取り上げて、しばらくの間それを追いかけていただけなのではないだろうか?」と疑いをかけられるものになりうるのです。それには新鮮さがあり、その新鮮さは私たちを進ませる原動力でした。今、それはみな非現実的なものになり、私たちは主によって与えられた真理に関する戦いの時の中に入ります。この戦いの時の間、私たちは探られ、心を調べられ、試されます。ヨセフを思い出してください。「彼の言葉が実現する時まで、エホバの言葉が彼を試した」。主の御言葉がヨセフを試しました。私たちは自分が語り、信じてきたことを吟味し、それに関してあらゆる種類の問いを自分に問わなければなりません。

主の御言葉が私たちを試します。しかし、霊的・道徳的要素が育まれ、その特徴が現されるのは、この戦いによってなのです。戦いはさらなる建造のための分捕り物をもたらします。私たちは真理認識の最初の立場に再び戻るだけでなく、遙かに高い真理認識、遙かに深くて強い真理認識に至ります。そのため、その真理は私たちにとって以前より意義深いものになります。なぜなら、私たちはその真理と共に戦いの中に入り、建造のための分捕り物を携えて出てきたからです。新鮮な天的要素がそれに加えられました。戦いを通して最初のものの中に何かが加えられ、価値を増し加えました。それは復活の力です。このように、神に属する事柄は、そのすべての神聖な栄光、美、力と共に、神からのものとして到来します。私たちはしばらくの間その光の中で喜びます。次に、私たちはその光と共に死の中に入ります。しかしこの戦いの中で、この争い、死の中で、私たちは探られ、試みられ、試され、暴露されます。そして、その真理は私たちのいのちなので、もしその真理が逝くなら私たちも逝くという所に私たちは追い込まれます。その時、復活の力が働き始め、私たちは以前よりも強くなった真理と、それに加えて建造のための分捕り物とを携えて戻ってきます。私たちはかつて経験したことのないその真理の価値を知ります。以前、私たちはその真理と共に戦いの中に入ったことがなく、その鎧を試したことも、その剣を試したこともありませんでした。しかし今は、その真理と共に戦いの中に入るまでは知らなかった価値ある何かがそれに加えられています。啓示に関して、それはこのように働きます。多くの人が啓示に飛びつくのを私たちは見てきました。彼らはそれを抱きしめ、自分に臨んだ新しい啓示以外に何も話せませんでした。人々がこうする時、私たちはとても嬉しいですし、喜ばしく思います。しかし、私たちは言います、「今に彼らはこのことで試されます。この啓示が彼らを試します。恐ろしい苦しみと暗闇の時の中に、『結局それは真実で正しいものなのだろうか?』という疑問に満ちた時の中に、彼らは入ります。今、主はその真理を内側にもたらそうとしておられます。その真理の大部分は周辺にありました。ある意味で、その真理は幾分客観的でした。しかし今、主はその真理を彼らの内に、そして彼らをその真理の内に植えつけておられます。彼らは出て来て言うでしょう、『以前、その真理が私に与えられましたが、それは他のだれかのものでした。今、それは私のものです』と。こうして、彼らは戦いから得た分捕り物で建造を始めるのです」。

召命に関する戦い

同じことが御旨に関する幻の件にも言えます。主はご自身の目的や御旨に関する幻を与えてくださいます。主は僕である私たちをその目的や御旨に召しておられます。その幻が私たちを捕らえ、その御旨が私たちを握ります。しばらくの間、私たちは自分が召された御旨以外に何も考えたり話したりすることがありません。召命と奉仕の感覚が私たちを支配します。私たちは幻を持ちます。しばらくの間、私たちはその幻の勢いでこのように進み続けます。しかし後になると、その幻は衰えてしまったかのようです。また、私たちはその幻に関する戦いの領域の中に、荒れ狂う戦いの中に入るため、その幻は死の中に入ってしまったかのようです。私たちはどん底の暗い経験を通ります。その経験の中で再びあらゆる疑問が湧いてきます。「結局、その幻に何か意味があったのだろうか?」「私たちは間違いを犯したのではないだろうか?」「これは主が私たちを召されたことなのだろうか?」「これは私たちが飛びついたものであって、結局のところ、主はそれを私たちのために定めておられなかったのではないだろうか?」「私たちは間違っていたのだろうか?」。私たちの多くはこの戦いの経験、幻に関するこの戦いの経験を持っていると思います。しかし、この経験の結果、私たちは神の御旨に関して、以前よりも堅固な立場に達するのです。

私たちの歴史はまさにこのとおりです。私たちは幻を携えて何度も死と戦いの中に入りました。この経験のとき、その幻は全く消え失せてしまったかのようでした。そして、それに関して多くの疑問がわき起こりました。しかし、私たちはくぐり抜けて、自分が以前よりもしっかりと神の御旨に結ばれているのを見いだしました。私たちは戦いの中に入りました。そして、その戦いにより、霊的・道徳的要素が現れました。その要素により、試みの結果として、建造がなされるのです。

取った立場に関する戦い

私たちはある立場を取り、宣言します。集会中や大会中に立場を取ること、主の民の交わりの中で「私たちはある方向に進みます」「私たちは永遠にこの道を歩みます」「私は決して決して彼から離れません」と宣言するのはなんと容易でしょう!私たちは賛美歌でこのようなことをまことしやかに歌うことができます。しかし、翌日になると、すっかり思い直して、裏口がないかどうか捜しているかもしれません。私たちの心はしょせん無節操である、というのは真実です。私たちは自分の態度を決め、自分の立場を取り、宣言します。しばらくの間、私たちはその力で進み続けます。その後、私たちは自分の立場に関して攻撃されます。イスラエルの子らの歴史の中に、これがどう示されているか見てください。「そしてモーセとイスラエルの子らは歌った……」。彼らは海の向こう岸に着きました。そして、全イスラエルが歌いました。彼らはどんな歌を歌ったのでしょう?絶対的勝利の歌です。「彼らはすでに約束の地にいる」とあなたは思ったかもしれませんが、彼らは間もなく主とモーセに対してつぶやいたのです。彼らは自分たちが取った立場によって試され、攻撃を受け、試みられました。そして、彼らは暗い時を通過しました。ですから、私たちが宣言する時はいつでも、私たちは遅かれ早かれその宣言によって試されます。(私がこう言ったからといって、「私は二度と宣言しません」などと言わないよう望みます。もしそんな態度を取るなら、それはただ主の御旨を妨げるだけです。)分捕り物を得るには、私たちがこの道を行くことが必要です。ただこの道によってのみ、資質が発達させられます。自分の献身の程度に応じて宣言し、立場を取ることは、至極まっとうなことです。主は私たちにそうするよう求めておられます。これは主に私たちを試し尽くすための根拠を与えます。何らかの理由により、主は多くの事をなす前に宣言を必要とされるようです。もしあなたが宣言したことがなく、いつも保留ばかりしていて、とても注意深いなら、主はあなたに関して何もできません。私たちがどん底から踏み出して深みに飛び込み、「主と共に飛び出そう」と言う時、主は事をなせるようになります。私たちは自分の取った立場によって試みられ、自分の言質によって試されます。そして、建造のための資質、戦いの分捕り物がもたらされます。

私は次のような読み物を読みました:

「多くの人は力を欲しています。では、力はどうやって生み出されるのでしょう?先日、私たちは大きな工場を通りました。そこでは複数のトロリー・エンジンに電気が供給されていました。私たちは無数の車輪のうなりや轟音を聞き、『これはどうやって力を生み出しているのですか?』と友人に尋ねました。友人は言いました、『これらの車輪が回転することによって摩擦が生じます。その摩擦で電流が生じるのです』。」

「このように、神があなたの人生にいっそう多くの力を与えることを望まれる時、神はいっそう多くの圧力を加えられます。神は強い摩擦によって霊的な力を生み出されます。その力を得て苦痛の原因を克服する代わりに、これを快く思わず、その圧力から逃がれようとする人もいます。」

「力を実際に釣り合わせるには、反対が不可欠です。互いに反対に働く求心力と遠心力が私たちの星をその軌道に保ちます。一方は加速し、他方は反発します。この作用と反作用により、地球は宇宙をどこまでも突き進んで荒廃の道を行く代わりに、太陽系の中心を巡る同じ軌道上を進みます。」

「神はこのように私たちの人生を導かれます。推進力を持つだけでは不十分です。私たちは同じ強さの反発力を必要とします。ですから神は、人生の試練、誘惑や試みの圧迫、私たちに反対しているかのように見える物事によって、私たちを抑制されます。しかし実は、これらのものが私たちの道を促し、私たちの歩みを確立しているのです。」

「この二つのもののゆえに神に感謝しましょう。翼だけでなく、重しも取りましょう。このように神に促されて、私たちの高い天的な召しの中を信仰と忍耐をもって進み続けましょう。」(「荒野の泉」より)

これは事実を述べる別の方法にほかなりません。光と力は戦いから来ます。主はこのように戦いの分捕り物をもってご自身の家を建造されます。主は私たちに征服させるため、敵――内敵と外敵――が残るのを許されます。それはご自身の家のために、主が美と栄光を得られるようになるためです。

主はこの言葉の上に御指を置いて、私たちに次のことを示しておられます。すなわち、主が幻、啓示、召命を与えてくださる時、そして私たちが応答して、次に反対が来る時、困難や反対は神の啓示や召しと決して矛盾するものではないのです。困難や反対は、真理と奉仕に関して、たんなる感情の領域よりも高いものの中に私たちを導くよう定められているのです。困難や反対は私たちを力の場所に導かなければなりません。その場所で、私たちは信頼に足る者となります。主イエスは言われます、「わたしはわたしの教会を建造します。ハデスの門もそれに勝つことはできません」。これは教会の道徳的資質によります。教会の美徳のゆえに、教会は永遠に確立されるのです。