聖書朗読:黙示録二一、二二章
神のカレンダーにおける次の大きな出来事は、御子イエス・キリストが栄光のうちに戻って来られることです。「天から出て神から下って来る」この天の都の形で私たちに示されているのは、この来臨の成就とキリストの栄光の最終的啓示です。この花嫁の都は、諸々の時代にわたる神の御業の総計を表しています。その多くの象徴が示しているのは、御名のために諸国民の間から召し出された民の中に造り込まれた御子の諸々の特徴と、キリストとその教会――教会は永遠にわたって宇宙に命を供給する役割を果たします――の素晴らしい合一です。諸国民はその光の中を歩み、その木の葉によって健康を保ちます。王たちは自分の宝をこの都にもたらし、神の栄光がその輝きを供給します。
ヨハネは、この都が神によって自分に示されたことを、「彼は私に示された……」と二回確証しています。おそらく、へりくだって読み、黙想するなら、神は私たちにその意義や重要性を示してくださるでしょう。また、その諸々の象徴によって、目に見えない永遠の事柄に関するいっそう明確な観念を私たちに与えてくださるでしょう。私たちはそれを常に視野に入れておかなければなりません。それは、「私たちの軽い艱難」が私たちのために働いて、「ますます卓越した永遠の重い栄光」をもたらすようになるためです。
通り
欽定訳では黙示録二二章の最初の二つの節の間に区切りを入れていますが、これは誤解を招きます。改訂訳では、川がこの聖なる都の通りの中央にあることを示しています。一本の通りが中心であり、一つの川がその通りの中央を流れ下り、命の木が川の両岸に成長しています。複数形のものは何もありません。この木は川の両岸にありますが、それでも単数形です。この時点に至るまでは複数形でした。エゼキエルの川の多くの木々が示しているように(エゼキエル四七・四)、命には多くの表現方法があります。しかし最終的に、すべてが絶対的一つの中にまとめ上げられます。一つの都、一つの通り、一つの川、一つの木。これは、最終的にすべてが完全な一つ、キリストの一つの中へと集約されることを、象徴的に思い起こさせるものです。
このような一つは御霊の交わりの中でのみ実現されえます。しかし、これは将来のためだけでなく、今日のためでもあるにちがいありません。この都はいま霊的に形成されつつあります。そして、やがて明らかになる大いなる究極的完成に備えて、その働きはいま進行しつつあります。教会は宇宙の中心で永遠の使命を帯びた神の首都となります。そうである以上、教会は今ここで、キリストとの一つ、キリストにある一つを学ばなければなりません。一つの通りです!教会のまさに核心であるこの一つは、永遠の使命の基礎であるだけでなく、現在の証しの基礎でもあります。この一つの通りには一つの川があります。これは、キリストとの交わりの内なる領域から命が流れ出ることを意味します。もちろん、この都は聖霊が向かっておられる究極的目標ですが、この同じ法則が常に成り立ちます。この地上における今の私たちの使命は第一に、多くの良い働きに携わることではなく、キリストの命が他の人々に流れ出る道を用意することです。もしこれがいま始まっていないなら、どうして最終的に起こりうるでしょう?もし今ここで御霊の一つを保つことに私たちが勤勉でないなら、どうして究極的一つに携われるでしょう?
こういうわけですから、指摘するまでもなく、教会による神の御旨に反対する敵の策動は、教会を分裂したままにしておくこと、根本的に分裂したままにしておくことです。敵は口先だけの一つは気にしませんし、一つに関する外面的幻想にもたいして煩わされません。しかし敵が反対するのは、神の大いなる命の川を解き放って貧しい世へ流れ出させる、内側深くに造り込まれた一つです。「私は小羊の妻である花嫁を見せよう」。この言葉が、栄光の一つの中にある大いなる天の聖なるエルサレムを見るよう、ヨハネを導いた案内の言葉でした。花婿に対する花嫁の愛のように、キリストに対する二心なき愛だけが、サタンの策略に対する唯一確実な対抗手段であり、真の一つの唯一の基礎なのです。
金の葦
この都は金の葦で測られ、その中にあるものはみな神の寸法に合うことがわかりました。この概念は全く神聖なものであり、神聖な尺度によってのみ測ることができます。なぜなら、この都は神聖な御旨を表現すべきものだからです。キリストによる私たちの召しは、私たちに多くのことを要求します。しかし、それらの要求を永遠なるものの光の中で見ることができさえすれば、それらに直面することがとても容易になるでしょう。私たちの人間的性質を神聖な尺度であるこの金の葦にしたがって取り扱うことは常に容易である、ということではありません。神の目的を視野に入れておくなら、その代価をもっと容易に耐えられる、ということです。この都の顕著な特徴は、その絶対的透明さです。これは、その命の道にも言えます。その川の水は水晶のように透明だからです。これは、その素材にも言えます。その素材は透明なガラスのような純金からできています。これは、その光にも言えます。その光は「水晶のように透明な碧玉のよう」であると描写されています。この碧玉は「最も尊い」とも述べられています。これは、そのように透明な状態は主にとってとても尊いものであることを示唆しています。
これはまた、その性質を得るには代価が必要であることを、主の民である私たちは知るであろうことを暗示します。そのような性質を経験できるのは、神の御手の下で訓練を受け入れて、洗練されたキリストのような者とされる霊的教育を施される時だけです。この透明さは、しみのない状態という消極面だけではありません。影のない曇りなき光でもあるのです。神は光です。キリストは世の光であり、教会の務めはその光を受け入れることと伝えることの両方です。この都は神の栄光で輝いています。栄光の反対は何でしょう?暗闇、曇り、ほの暗さです。透明ではなく、影があって混合している、この領域全体です。あなたがある人と取引をしなければならなくなったとしましょう。その人には隠し事があるので、あなたはその人を信頼できません。その隠し事は、実際のところ欺きというわけではないものの、どうやら澄んだ透明さに欠けています。あなたはこれが不愉快な経験であること、栄光の正反対であることがわかるでしょう。神の栄光がすべての場所を満たすとき、そのような疑惑や影は全くなく、公然たる完全な確信しかありません。「神の中には少しの暗闇もありません」(一ヨハネ一・五)。この栄光は恵みにより私たちのものであり、私たちのすべての道を支配しなければなりません。
この都の門は、どれも真珠でできています。真珠は苦難から生じる尊さの比喩です。なぜなら真珠は、宿主である生き物の苦しみの結果、形成されるからです。この都の中に入る道は、苦しむ愛以外にありません。なぜなら、キリストと共に治めることになる選びの民は、まず彼の苦難にあずかった人々だからです。この種の交わりの中に入るために、楽なやさしい道を選んでも無駄です。キリストの愛は神にとって尊いものであり、あらゆる不純物から清められていますが、この愛は神への明け渡しを要求するからです。たとえその代価が厳しい試みや深い苦しみだったとしても、この愛は神への明け渡しを要求します。それは神の至高の御旨が成就されるためです。代価に妨げられることなく、「神の栄光を持っていた」というその結末に目を留め続けましょう。これが私たちの運命なのです。
城壁
この神の思想のさらなる特徴は、この都には「大きな高い」城壁があったという事実です。その土台、寸法、強度は繰り返し述べられており、この城壁について多くのことが述べられています。城壁はこの都の示差性を描写しているように思われます。城壁がしばしば防衛の目的のために使用されるのは事実ですが、そのような必要はこの天の都にはありえません。ですから私たちは、この城壁は特別な方法で区別されることを神が願っておられるものの境界である、と結論します。今日のキリスト教は証しや命の示差性に欠けているせいで多くの弱さを抱えていることに、あなたは同意されるのではないでしょうか?霊的欺瞞やうぬぼれにひたることを神は許される、ということではありません。贖われた民の生活を常に支配しているべき、「自分には特定の目的があり、そのために取り分けられている」というあの意識を、決して失わないことが重要であるということです。
この城壁は麗しいです。それは高くて頑丈です。城壁は神にとって特別な意味を持つものを明確に区別します。
飾られている
「飾られて(中略)天から出て神から下って来る」。この都は永遠に価値あるものの化身であり、物ではなく民です。そうである以上、このような状態が可能となるために、民を形造って整えるための何かが起きているにちがいありません。都の城壁が飾られていること、そしてまた、この都の飾りは花婿にふさわしいと述べられていることがわかります。城壁は醜い境界ではなく、その土台はあらゆる宝石で飾られています。この高価な宝石は多くの面にわたるキリストの尊さにほかなりません。「ですから信じるあなたたちには尊いものです」(一ペテロ二・七)。キリストご自身の尊さそのものなのです。
また、花嫁も飾られています。彼女の飾りは、着たり脱いだりできる外面的壮麗さ以上のものです。彼女の美は、天の花婿の心を喜ばせる諸々の内なる性質から成っています。「王の娘の内側は全く栄光で満ちている。その衣には黄金が縫い込まれている」(詩篇四五・十三)。私たちは霊的な事柄ですら、外側のものに注意を払いがちです。しかし神の目標は、キリストの愛らしさという純金によって、美しい内なる生活を営む民です。キリストは「聖徒たちにおいて栄光を受け、信じるすべての者たちにおいてあがめられる」(二テサロニケ一・十)ために到来されるからです。
もしこれらの飾りが天から下って来るのだとすると、それらは最初どうやって天に到達したのでしょう?これらの飾りは、この地上における神と共なる私たちの歩みの産物です。私たちはこの地上に生活しており、しばしば落胆しますが、神の恵みの新たな経験の中に入り、ますます御子について学ぶようになります。御言葉が私たちに教えているように、私たちの地上生活と関連して常に何かが起きています。それは私たちの前に先だって行き、私たちが到着するのを待っている宝に相当します。私たちが自分の道を主と共に進み続けるとき、天的に価値のあるものが将来のために積まれていきます。主イエスは、「自分のために天に宝を積みなさい」(マタイ六・二〇)と私たちに言われなかったでしょうか?ですから現世の生活の一方で、その都を飾ることになるキリストの特徴という宝が天に積まれつつあるのです。いわば、私たちの霊的成長、霊的特徴が、私たちに先立っているのです。それらは永遠であり、時間には属しません。このような備えがすべて進行中であり、それゆえ、「私たちは目には見えないけれども永遠のものに目をとめます」と述べられています。
「花婿のために花嫁として飾られている」。私たちは恵みと謙遜の新しい学課を日毎に学んでいますが、その日、主がいま私たちの内でなさっていることが現されます。これは私たちに満足を与え、他の人々に喜びを与えますが、第一にキリストの喜びのためです。教会の霊的飾りは、キリストの忍耐と苦しむ愛に対する、私たちの花婿-贖い主への褒賞なのです。
この都は天から下ります。すなわち、天に同形化されています。天にふさわしくないので天から追い出されるのではなく、天の宝を神の宇宙の残りの部分にもたらすために下って来るのです。私たちは地上のあらゆるものを、天的な霊的価値によって測らなければなりません。これは私たちを神の尺度である金の葦に連れ戻します。この葦は、神の御旨の光の中ですべてを測ります。神の御旨は、驚嘆する宇宙に御子の偉大さを示すことであり、彼との生ける愛の交わりの中にある教会によります。これが万物の目的です。聖書はここで閉じます。そして、これがキリストにある私たちの使命なのです。