第1章 第一部:キリストの偉大さ

T. オースチン-スパークス

さて、第一の項目――キリストの偉大さ――から始めることにします。ソロモンは予表としてキリストを示しています。ご存じのとおり、ソロモンの別名はエデデアであり、「神に愛される者」という意味です(サムエル下十二・二五)。ソロモンが選ばれた方法は、大いに注目に値するとても素晴らしいものです。さしあたって、これについて何か述べることにしましょう。しかし、ソロモンの誕生の時に語られた言葉を思い出してください、「ダビデは妻バテシバを慰め(中略)彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。そして預言者ナタンをつかわして、彼は主のためにその子の名をエデデアと呼んだ」(サムエル下十二・二四、二五: アメリカ標準訳)。しばしの間、これを覚えておいてください。

キリストの子たる身分

しかし、ソロモンを通してキリストに近づく時、一般的な指針がいくつかあります。ソロモンは、第一に、神の御心にしたがった王職の全き思想が、原則と型において示されている人です。ソロモンの統治がイスラエル史の頂点だったことを私たちは知っています。イスラエル最大の王はダビデであると常に述べられており、確かにそうなのですが、ソロモンがダビデの栄光をすべて現したのです。ソロモンはダビデの王職が十分に成熟した結果であり、ソロモンはある霊的原則に基づいてイスラエル史上最高の王位の地位につきます。その原則とは子たる身分です。子たる身分は、神聖な思想が十分に成熟した結果です。神聖な意味における子たる身分よりも崇高な神の御心はなく、だれにとってもこれより偉大で高貴な可能性はありません。子たる身分への召しは、神がだれにでも差し出しておられる最大のものです。キリストにある子たる身分は完全であり、ソロモンは子たる身分というこの真理・原則を示しています。「ソロモンはわたしの子となり、わたしは彼の父となる」(歴代誌上二二・十)。「(主は私に多くの子を賜り)そのすべての子らのうちからソロモンを選び」(歴代誌上二八・五)。これは子たる身分を全く完全に彼に集約するものであり、キリストを指し示すものです。これは、神の御心によると王職とは何なのかを、十分に示しています。それは子たる身分です。

ソロモンに言えること、また彼について記されていることはみな、キリストが霊的にどのような御方なのかを示す影にすぎません。きわめて豊かな意味を持つ頂石、神の完全な決定的啓示、神の語りかけから始めましょう。「神は、昔は、預言者たちにより、様々な部分に分けて、様々な方法で、先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」(ヘブル一・一、二)。あるいは文字どおりには「御子によって語られました」です。これより先には進めません。神はすべての部分の終わりに到達し、御子の中に包括性と最終性を見いだされました。ですから、これがソロモンが王職の最盛期に王位についた理由です。これは王職の原理の現れです。ですから、彼は神の思想――王職――の成熟した結果であり、完全な表現です。なぜなら、王職は神聖な観念であり、神の御心の中にある思想だからです。

キリストの道徳的で霊的な王職

さて、しかし、子たる身分について今しがた述べたことに関係することですが、王職に関するこの神聖な思想はたんなる役職や地位の問題ではありません。神の御心によると、王職はある種のパースンの問題であり――どんなパースンでもいいわけではありません。神はだれでも王にされるわけではありません。ある種のパースンの問題なのです。それは道徳的・霊的な問題です。道徳的で霊的な数々の要素が神の御座を支えており、神の王は道徳的で霊的な数々の特徴を完全に体現しなければなりません。神にとって、王が王たりうるのは、王的性格を持つ時だけです。王位継承者だったから王になるのではありませんし、他の選択方法で王に選ばれるのでもありません。神にとって、王職とは王的性格です。ソロモンは、驚くべきことに、神の主権によって、この地位につきました。予型に関するかぎり、この地位は王職の最高峰でした。とはいえ、予型は常にその実体に及びません。

ソロモンからキリストに移ると、まさに卓越した形でこれを見ます。「わたしはわたしの王をわたしの聖なる山に立てた」(詩篇二・六)。なぜでしょう?キリストは王にふさわしいからです。完全な最も完璧な意味で、キリストは道徳的にも霊的にも、神のあらゆる崇高な御思いの化身です。イエス・キリストは主であると言う時、また、王権、主権、支配権、御国との関連でキリストについて考える時、私たちは一時的な事柄について考えているのではありません。霊的な事柄について考えているのです。キリストがその地位を保っておられるのは、性格のゆえであり、人格のゆえです。キリストのような御方はだれもいません。

サタンの偽物

しかし次に、別の点に注意する必要があります。王職に関するこの神聖な思想・観念はソロモンによって完全に示されていますが、神が御思いによって神聖な御旨を遂行しておられるところではどこでも、常に別の思惑も働いています。この別の思惑が神聖な思想に取って代わろうとしているのです。ですから、この王職の問題について、イスラエルの歴史を振り返らなければなりません。そうするなら、この神聖な思想が妨げられていることがわかります。実際に現世で王になった最初の人はサウルでしたが、サウルは神の意中の人ではなく、人の考えの化身でした。イスラエルの霊的生活が非常に低調で、霊的な事柄が支配的ではなかった時に、サタンが好機を得たのです――霊的生活が低調になる時はいつもそうです。サタンが押し入って、この霊的状態を利用し、低調で貧弱な霊性しかない人々に、この王職の思想を提案しました。これは次のことを意味します。すなわち、人々は神の御思いや神の御心を知らずに(この人々は御霊の人ではなかったからです)、この提案を受け入れて、自分たちの思いに従って王を見つけたのです。こうして人々はこの問題を性急に推し進め、神の御思いを後回しにして、サウルを王位につけました。これが何度も何度も起きたことがおわかりでしょうか――神が御思いによって神聖な御旨を遂行しようとすると、敵がその機先を制して、同じ原則に基づいてはいるものの種類の異なるものを持ち込もうとするのです。ソロモン自身についても、これがまさに起きそうになりました。ソロモンは選ばれ、ダビデはソロモンについて言葉を発しました。すると、その兄弟であるアドニヤが奸計を働いて、自分の周りに指導者たちを集結させたのです。彼は宴席を設けて、王として宣言されました。それは王座をソロモンから遠ざけるためでした。神に感謝します。この企みは成功しませんでした。しかし、何が起きたのかはわかりますし、この事件が通常の出来事といかに符号するのかもわかります。これが究極的形で起ころうとしています。神は決定的かつ完全にご自身の王――御子――をもたらそうとしておられます。そしてサタンは、王職に関する人の思想全般の化身である反キリストを前面に押し立てて、神を試み、神を出し抜こうとしています。

次のことに注意しようではありませんか。こうした重大事だけでなく、あらゆる事柄で、低調な霊的生活は常にサタンに絶好の機会を提供するものなのです。サタンはその機会を利用して、神の原則に則ってはいるものの、それ自身は誤謬であるものを持ち込もうとします。霊の命が満ち満ちている時だけ安全です。これがソロモンの時に明らかになりました――イスラエルは満ち満ちていたので安全だったのです。他のものが入り込む余地は一切ありませんでした。犬のように異端をくまなく警戒し、健全な状況かどうか見張って、疑いの目を向けても、そのような方法で安全は実現されません。安全はイエス・キリストの絶対的主権と、それが意味する一切の意義によります。神の民がそこに到達するとき、他のことがうまくいくかどうか、心配する必要は全くありません。最初に述べたように、あらゆる種類の疾病が教会を苦しめていますが、それは霊の命の乏しさのせいです。そして、教会を苦しめている疾病とは、疑い、偏見、恐れです。こうしたあらゆるものが横行していて、教会の命を損ない、麻痺させているのです。霊の命の大洪水に浸り、御座のキリストから発するあらゆる恩恵にあずかりさえすれば、私たちはこうしたものから完全に解放されるでしょう。そして、神の家を建てる働きに取り組めるでしょう。「これは安全だろうか、大丈夫だろうか?」という疑問に終始かかりっきりになる必要はありません。サウルは人の考えの化身であり、神の御思いの化身ではなく、反キリストのようにこの神聖な思想を二の次にさせようとする者でした。しかし、この企ては失敗しました。人の考えは、神の道に割り込むなら、必ず失敗します。最後には失敗するのです。

主権的恵み

ソロモンについてもう一点述べましょう。ソロモンが王位について、それを保持したのは、神の主権によりました。なぜなら、彼は神に愛されている者だったからです。この二つは常に共に進みます。確かに主権のおかげなのですが、これは彼が神に愛されている者だったからです。ソロモンの誕生には秘密がありました。バテシバが何者か、何が起きたのか、私たちは知っています。ソロモンの誕生には悲劇と失敗が関係していました。しかし、色々質問しだすなら、私たちは困難に陥るでしょう。しかし、この出来事の背後に働いている主権を、私たちは見なければなりません。私たちはこの出来事を主イエスに結びつけたりはしませんが、他方、主イエスの場合についても一つの系譜があって、この素晴らしい原則が働いています。それは主権的恵みです。ああ、主権的恵みをソロモンほど完全に体現した人はいません。主イエスの系図を覚えておられるでしょうか?その系図は福音書の冒頭に記されており、何人かの人について述べています。遊女ラハブ――キリストはこの人の子孫でした。それからモアブ人のルツもいます。この人たちはキリストに至る暗い行程である、と言う人もいます。しかし、そうでしょうか?それは見方によります。この人たちを通して主権的恵みの化身である御方が生まれました。これについてはこう言えば十分です。ラハブに対する恵み!彼女は神聖な系図にふさわしいでしょうか?ルツはどうでしょうか?ルツはモアブ人の女性でしたが、モアブの民と国について御言葉はこう述べています、「モアブ人は主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない」(申命記二三・三)!何が問題だったのでしょう?恵みが律法に打ち勝ちました――これがすべてです!「罪が満ち溢れたところには、さらに豊かに恵みが満ち溢れました」(ローマ五・二〇)。そして、これはキリストの内に集約されています。よく注意してください。キリストが予型としての死と葬りと復活により、私たちのために恵みの御業をすべて成就されたのは、ヨルダン川においてでした。ヨルダン川で天が開け、「これはわたしの愛する子である」という御声が聞こえました(マタイ三・十七)――キリストは神の愛する者です。他方、愛されることは完全に恵みに基づきます。「神は御子にあって私たちを受け入れてくださいました」(エペソ一・六)。「神は私たちを暗闇の力から解放して、愛する御子の王国に移してくださいました」(コロサイ一・十三)。ですから、ソロモンが主権により王座に着いたのは、彼が主の愛する者だったからにほかなりません。もちろん、私が述べているのは、神と等しい御方である主イエスの神聖な権利のことではありませんし、その統治権や主たる権利のことでもありません。というのは、私が見るところ、聖書が第一に述べているのは、この宇宙の外にいて私たちから遠く離れている神やキリストについてではないからです。聖書が特に述べているのは、どのように神とキリストが私たちの生活の中に、私たちの世界の中にやって来られたのかということであり、いかなる根拠に基づいてこの世、この被造物を受け入れてくださったのかということです――その根拠とは恵みです。そして、子たる身分は、新約聖書に関するかぎり、常に神聖な恵みとつながっています。子たる身分は贖い、和解、義認にあります。子たる身分は霊的なものであって役職ではなく、神の恵みによるのです。

どうして神はソロモンのために、これほど気前よく無制限に働かれたのでしょう?この問いに答えるにはサムエル記、列王記、歴代誌の多くの箇所が必要です。説明すべき背景だけでもたくさんあり、できるだけ説明したとしても、全く不十分です。しかし、読むと分かるように、ソロモンのいるところでは、主はできるだけ彼に良いものを与えようとしておられたように思われます――主は与えに与えられたのです!主はソロモンに富と栄誉をお与えになりました(歴代誌下一・十二)。ソロモンに何かを与える時はいつも、神には何の制限もなかったかのように思われます。なぜでしょう?主はソロモンを通して一人の御方をご覧になっていたからです。神の意図は、他の何者にもましてソロモンが主イエスを十分に表現することでした。神は実質的にこう言われました、「この実体を表そうとするからには、本物を表す必要があり、徹底的にやる必要があります」。神は可能なかぎり一人の人と共に進まれましたが、その人はこの霊的な意味においては実際の御子ではありませんでした。神は常に別の御子をご覧になっていたからです。

親愛なる友よ、これから次のことがわかるのではないでしょうか?すなわち、主イエスを真に理解して認識することこそ、神の御顔に至る道なのです。あなたは霊的豊かさを願っておられるでしょうか?ソロモンが受けて持っていた、この富をことごとく経験することを願っておられるでしょうか?神の微笑みが自分の上にとどまって、神が無制限に自分を霊的に拡大してくださることを、あなたは願っておられるでしょうか?どうすればこれは実現するのでしょう?努力や探求によってではありませんし、内なる内省、奮闘、努力の類によってでもありません。そうではなく、御子をよく認識すること、キリストによって占有されること、聖霊によって実際に神の御子を見て理解することによります。神は御顔の光により、あなたに賜物を与え、あなたに導きと教えを与え、あなたを富ませて広げることができますが、この神の御顔の光の中を歩む道は主イエスをよく理解することです。キリストに満たされなさい。そうするなら、圧迫は去ります。ソロモンが王座に着いていた当時、周囲に安息があったことがわかります(列王記上四・二四)。国土には安息があり、民も安息していました――彼らは自分の魂に安息を得ました。主イエスが王座に着いて、私たちが御霊によって彼を見る時、まさにこのとおりです。圧迫は去り、安息が内側に訪れて、内なる内戦はやみます。そうです、これはみな、神の御子が全き地位につかれること、私たちが御子に占有されて御霊によって御子を見ることにかかっているのです。

これは、キリストの偉大さを垣間見る、断片的なものにすぎません。しかし、ああ!次のことは確実です。すなわち、教会の霊的状態が再びソロモンの時代のイスラエルのようになるには、私たちは偏狭な真理理解から離れて、心を大いに広くされなければなりません。どうか主が私たちに、私たちの思いを超えた大いなるキリスト、大いなる十字架、大いなる教会、大いなる神の御言葉を見る目を与えてくださいますように!