第2章 キリストが持っておられるものの偉大さ

T. オースチン-スパークス

聖書朗読 列王記上十章

この章で、ソロモンはキリストの偉大さの三つの面を示しています――キリストの豊かさ、食物、知恵です。再び私たちは次の疑問を感じずにはいられません。「どうしてこんなに詳細に述べているのでしょう?この三つの書――サムエル記、列王記、歴代誌――はどうしてこんなにも紙数を費やして、ソロモンの偉大さを仔細かつ徹底的に示しているのでしょう?特に、この三つの方面でそうしているのはなぜでしょう?」。これには二重の答えがあります。第一の答えは、すでに示したことです。すなわち、ソロモンは主権によって選ばれて、ダビデの偉大な子孫に関する神の御思いと、神の御心に適う子たる身分の真の意味を示しているからです。第二の答えは第一とは別のものではなく、その一部にすぎません。すなわち、その目的は神の栄光を見せること、言い換えると、神に栄光を帰すことだったからです。

キリストの豊かさ

(a)神の栄光を示すため

ダビデがこのためにどのように用意したかは覚えておられるでしょう。彼は富を掻き集めました。金製品のために金を、銀製品のために銀を、また金属と宝石を掻き集め、さらに自分の莫大な宝――それは何と莫大な宝だったことか!――を加えて、それを主の家のために主にささげたのです(歴代誌上二八章と二九章)。これは壮大な描写であり、非常に豊かで圧倒的なほどです。しかし、ダビデは それらを前にして突如として沈み込んでしまったかのようです。その箇所を読むと、何だか落胆している感じがします。立ち上がって雄弁に、主にすべてをささげることとそうすることの喜びについて述べたのに、突然別の声がして、穏やかに、静かに、制止して言います、「しかし、結局のところ、私たちは何をしたというのでしょう?私たちはあなたのものをあなたにささげたにすぎません。それはみなあなたのものです。私たちの富ではなく、あなたのものなのです」。「ああ、主よ、偉大さ、力、栄光、勝利、尊厳はあなたのものです。天と地にあるものはみな、あなたのものだからです」。結局のところ、それは主の栄光であって、私たちの栄光ではありません。ダビデはそれをすべて息子のソロモンに譲りました。そして、息子がそれをすべて受け取って、神のこの栄光、神のこの富を、神の家という具体的な形で表して、神に栄光を帰したのです。なぜならこの家は「人のためではなく、主なる神のため」であり、「きわめて壮大でなければならない」からです(歴代誌上二九・一、二二・五)。

この描写全体を貫いている支配的要素、そして隅々まで詳しく述べている理由は、神の栄光です。ですから、この豊かさはキリストの栄光の豊かさなのです。ソロモンの富と栄光は過ぎ去っていきました。しかし、偉大な御子、御父のひとり子の場合、その真の富――それは尽きない富であり、決して過ぎ去りません――は教会の中に貯えられており、教会に委ねられています。後で見ますが、それは教会によってその富を示すためです。しかし、さしあたって、「その富はまずキリストの中に集約された」と述べておくことにしましょう。

ですから、冒頭の問いに対する最終的な決定的答えはこうなります。すなわち、ソロモンの富に関するこの壮大な詳しい描写は、私たちを導いて神に栄光を帰させるためであり、私たちを礼拝する民とならせるためなのです。なぜなら、まさにこれが現実に起きたからです――神の栄光がひとりの人(しかし、何という人でしょう!)によって表された時、それは礼拝する民を生み出す結果になったのです。

(b)御民を豊かにするため

シバの女王が来て見学したのは、主の御名のゆえでした(列王記上十・一)。主の御名は次のことと関わりがあります。すなわち、主の御名はキリストの豊かさと関係しているのであり、神の栄光は人々がキリストをどう見るのか、キリストを神の豊満なる御方としてどう経験するのかにかかっているのです。その結果はこうでなければなりません――私たちはこれから逃れられません――神の家の中でキリストによって神の真の豊かさが実際的に啓示される時、ただ主だけが栄光をお受けになるのです。第一のすべてを支配する要因は、神に栄光を帰すことです――これはみな神に遡ります、なぜなら、神がソロモンに富と力と知恵をお与えになったからです――これから直ちに生じる結果は、神の民が豊かになることです。神の気前よさは、決してソロモン個人に限られていません。一人の人が自分の王国の中を孤高の存在として独自に歩んで、自分の富をすべて自分のために費やすようではいけません。孔雀の一羽のように自分の栄光でふんぞり返って、ネブカデネザルのように、「この偉大なるバビロンは私が建てたものではないか……」(ダニエル四・三〇)とうそぶいたりしてはならないのです。ここではそのようなことはありません!直ちにわかるように、それは神の民という結果になります。それは神の民のためであり、神の民を豊かにするためです。個人の自己中心的な利益のためではなく、イエスラエルのためです。シバの女王はこれを指摘しました、「主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王にされたのです」(列王記上十・九)。

エペソ人への手紙を見ると、パウロはキリストを知る知識と、知恵と啓示の霊とを求めて祈っていますが、その祈りの中で注目すべき不思議な短い句を用いています。「それはあなたたちが、聖徒たちの間にある彼の嗣業の栄光の豊かさを知るためです」(エペソ一・十八)。これはどういう意味でしょう?神の奥義によると、これは次のことを意味するのかもしれません。すなわち、キリストは聖徒たちの間に何かご自身の嗣業となるものを持っておられるのです。それはキリストにとって得る価値のあるものであり――どうしてそうなのかはキリストだけがご存じです――ご自身の満足のためであり、それによってキリストご自身も豊かになります。どうしてそんなことがありえるのか私にはわかりませんが、次のことはわかります。すなわち、キリストは嗣業を御父からお受けになったのであり、神の全豊満はキリストの上に豊かに注がれてキリストの内に蓄えられていますが、キリストはそれを教会の中にもたらされたのです――キリストの嗣業は聖徒たちの間にもたらされたのです。これが本当に正しい解釈かどうか私にはわかりません。しかし、私は信じていますが、次のことには真理が含まれています。すなわち、キリストは御子として受け継いだ富を教会の中にもたらされたのです。ソロモンが神の家とイスラエルの中に神から与えられた莫大な富をもたらしたのとまさに同じです。それは聖徒たちの間にあるキリストの嗣業であって、ご自身のためではありませんでした。キリストは地上に来るまでもなくそれを持っておられました。「世が造られる前に、わたしがあなたと共に持っていた栄光」(ヨハネ十七・五)。キリストはすべてを持っておられました。彼が万物を創造されたからです。しかし今、キリストはご自身の豊かさを地上にもたらされました。「私たちはみな、彼の満ち満ちた豊かさの中から受けて、恵みに恵みを加えられました」(ヨハネ一・十六)。「キリストにあって、あなたたちは満ち満ちているのです」(コロサイ二・十)。これは彼の民のための富です。ですから、神の栄光はこの道によって働きます。

親愛なる友よ、神の子供が霊的貧困に陥ること、教会が霊的富に欠けることは、神にとって栄光ではありません。神の御思い、神がそうしたいと願っておられることは、教会が夢想だにしなかったほど、教会をキリストの富によって豊かにすることです。パウロはこれを幾らか見て知っていました。「ああ、深いかな、その富は……」(ローマ十一・三三)。「神の恵みの豊かさ」(エペソ一・七)。キリストの富を一つ一つ熟考して、恵みの豊かさを完全に熟考するには、長い時間がかかるでしょう。ただこう言えるだけです。私にとって困難なのは、これらを別々に保つことです。私が見るところ、教会の偉大さは単独で取り扱うべきものです。しかし、ここでは同時に取り扱うことにします。キリストの豊かさ、富、気前よさ、キリストの内に蓄えられているものはみな、教会に対してであり、個人に対してではありません。それは団体的・集団的なものです。キリストの豊かさを入れるのにふさしい器には、からだ全体が必要でしょう。こう述べておいて、元に戻ることにしましょう。神の栄光を宿す民は、キリストの豊かさの恩恵にあずかるようになった民、そして日々、それによって生きる民です。

(c)御民によって分配するため

この富は彼の民が分与・分配するためのものです――与えるのに十分な多くのものを彼の民が持つようになるためです。あなたは与えるに足る富を持っているでしょうか?あなたの執事職*はどんな具合でしょうか?必要を満たすのに十分な量を集めるのは、とても辛い重労働でしょうか?それとも、他の人々のためのゆとりがあるでしょうか?今はエペソ人への手紙の文脈で考えています――「この奥義の執事職」。この執事職は私たちに委ねられているものです。しかし、私たちは見なければなりません。「私たちの心の目が照らされて、神の召しの望みと、聖徒たちの間にある神の嗣業の栄光の富と、私たち信じる者たちに対して働く御力の卓越した偉大さを、知ることができますように」(エペソ一・十八、十九)。私たちは見て、知る必要があります。なぜなら、執事職を果たすには、それは内側から生じなければならないからです。これはみなソロモンの中にあり、彼の家族のため、国民のためでした。キリストの豊かさは、執事であるその民のため、教会のためです。これはあなたにとって奇妙な理解できないことではない、と私は信じています。しかし、そうだったとしても、大いに強調して言わせてください。これは私たちに対する神の御思いであり、御旨なのです。私たちはキリストの富の執事職を果たさなければなりません。これが私たちの召命であり、私たちの存在理由であり、私たちの務めに対する神の証明書なのです。他に根拠はありません。ものは持ったでしょうか?霊的必要に応じられるでしょうか?私たちが持っているものは、霊的弱さや制約といった問題を解決できるでしょうか?私たちの執事職が試されるのは、人々が絶望している時、人々が自分の必要に気づいた時です。その時こそ、私たちの主張の正しさがすべて立証される時です。私たちは必要なものを持っているでしょうか?これが私たちに関する神の御旨です。なぜなら、これはみな、ソロモンよりも偉大なキリストにある私たちのためのものだからです。

* ここで「執事職」と訳した言葉は原文では"stewardship"であり、分け与える職務を意味します。文脈から判断すると、キリストの豊かさを分け与える職務を意味します。(訳注)

キリストの食物

(a)御民の満足

この食物の問題――ソロモンが用意した一日あたりの食料――に触れることにします。キリストの満ち満ちた豊かさを認識し、意識し、理解して、日々生活すること――このような生活に神の栄光が宿ります。これは事実を述べたものであるだけでなく、神の御思い・御旨でもあります。神によって定められた地位にキリストがつかれる域に真に到達した人たちは――個人的に到達しただけでなく、他の信者たちとの関わりにおいても到達した人たちは――自分たちが霊的制約から解放されたことが、とてもよくわかります。多くのもの、富、豊かさ、開かれた天があって、主は制限されておられません。主は与えに与えてくださいます。キリストに属するこれらのものはみな一つながりであって、実際のところ切り離せません。キリストの富を知るには、大いなる十字架が必要です。キリストの富を表すには、大いなる教会が必要です。しかし、十字架が客観的にも主観的にも十分な地位を得るとき、天が開かれます。ヨルダン川の出来事が成就されて、神の愛する方の上に天が開かれます。この御方は大いなるエデデアであり、「主に愛される者」です。そして、「わたしの愛する者……」(マタイ三・十七)という証しがなされます。「神は愛する方にあって私たちを受け入れてくださいました」(エペソ一・六)。これはみな一つながりです。ヨルダン川、十字架が大いに必要です。しかし、それさえあれば、あなたに対する主の御思い、すべての人に対する主の御思いは、あなたが豊かな地で暮らすことなのです。霊的必要を満たすために奮闘する必要はありませんし、次の食物はどこから来るのかと心配する必要もありません。主が私たちに教えてくださる一つのことは、私たちは主の供給に信頼できるということです。これは素晴らしいことです!万事休すのように思われることがたびたびあるかもしれませんが、それは私たちを教えるための主の方法です。つまり、それは新たな始まりであって、まだまだ備えがあることを、主は私たちに教えてくださるのです。これはたんなるお題目ではなく、事実です。あなたがこれをどれくらい真に知っているのか、私にはわかりません。相当奉仕してきた人たちなら、これについて確かに何かしら知っています。何もなくなってしまったかのように思われるのですが、その次に新たな要求と新たな豊かさが臨んで、進み続けるのです。主は教会の中でこうされます。ああ、霊的飢饉!行き巡ってこう言う人々がいます、「霊的食物が全く見つかりません。食肉がなくて、何もかも貧相です!」と。ああ、これは主にとってどれほど不名誉なことであり、どれほど主の御心に反することでしょう!これはどれほどキリストを無きに等しい者とすることでしょう!それは何とちっぽけなキリストを意味することでしょう!いいえ!神が栄光をお受けになるのは、イスラエルがソロモンの富を経験したのと同じように、神の民がキリストの豊かさを経験する時なのです。

食物の目的は、民が満足することです。ソロモンの食物はこの満足のためでした。ソロモン自身の満足のためだけでなく、ソロモンに頼っていた人々の満足のためでもありました。そして、キリストのこの富、キリストのこの豊かさ、キリストにあるこの食物は、第一に、私たちを満足した民とするためです。私の推測ですが、ソロモンの栄光の時代、その土地を行き来するなら、民が大いに満足している光景を目にしたでしょう。神が栄光をお受けになるのは、神ご自身と御子に満足している民を神が獲得される時です。これは私たちに当てはまるでしょうか?もし当てはまらないなら、何かが間違っています。これが成就しないかぎり、私たちには何の証しも訴求力もありません。何の力も権威もありません。人々がクリスチャンである私たちの顔を見る時、何を見るでしょう?飢えでしょうか?それとも、満足している民でしょうか?私たちが人々に語りかけるとき、教理や聖書から語っているのでしょうか?それとも、自分の心で感じたことや経験から語っているのでしょうか?親愛なる友よ、神の御言葉は私たちに次の問いを突き付けます。あなたは自分の心の奥深くで主に満足しているでしょうか?あなたは満足しているでしょうか?主はあなたの欲するすべて、それ以上の御方でしょうか?これは単純な問いですが、試金石です。神の栄光は私たちが満足を得ることと関係しているのです。

(b)御民を成熟させるため

第二に、食物は成長して成熟に至るためです。あなたは成長しているでしょうか?成長の証拠は次のとおりです。すなわち、あなたに対するこの豊かさは何か尽きることのないものであり、現在の差し迫った必要を超えたものなのです。この豊かさにあなたはここで出くわしますが、それを遥かに超えた何かがあることをあなたは理解します。あなたがその中に入った領域では、あなたは他の畑に行って落ち穂拾いをする必要はありません。なぜなら、あなたは欲しいものをすべてここに持っており、それを自分のものとして、それによって成長しているからです。これが当てはまるでしょうか?成長している民は、神に栄光を帰す民です。なぜなら、彼らはキリストにあるひとりの人の全豊満と身の丈に到達するからです。

キリストの知恵

(a)神聖な諸原則の開示

ソロモンの知恵について述べている節がいくつかあります。ある節はこう述べています、「彼は草木のことを論じてレバノンの香柏から石垣にはえるヒソプにまで及んだ」(列王記上四・三三)。彼は草木についてどのように論じたのでしょう?彼はたんなる植物学者であって、木や花やその美しさ等について述べたのでしょうか?いいえ、草木は象徴であることを彼は示したのです。たんなる植物学ではありませんでした。教育者の中にはそのような知恵をだれにでも授けられる人がいますが、ソロモンのような知恵は授けられません。神がソロモンに知恵を授けられたのであり、ソロモンは草木を通して神の数々の原則を見たのです。レバノンの香柏とは何でしょう?それはまさに高貴さ、霊的偉大さの象徴です。旧約では草木は人を表す型であり、この節では草木という型の中にある特徴が秘められていて、神の御思いを表しています。ソロモンは外部構造の背後にある内的意義を透視して、被造物の中に見られる神の知恵を明らかにしました。一言で言うと、ソロモンは次のことを示したのです。すなわち、神が創造されたものにはみな、被造物としての意義やそれ自身の意義を超えた意義があって、神の御思いを表しているのです。天の法則、天体、自然の姿はみな、何らかの神の御思いや原則を表しています。ソロモンの知恵とは、自然における神の数々の原則を明らかにするものだったのです。

(b)神聖な奥義の理解

「彼は三千の箴言を説いた。またその歌は一千五首あった」(列王記上四・三二)。箴言とは何でしょう?箴言とは隠れた意味を持つ発言です。同じ言葉が主イエスの話にも用いられています。私たちが使っている「たとえ」という言葉は、「箴言」を表す別の言葉にほかなりません。「彼はたとえによって語られた」(マタイ十三・三他)。すなわち、隠れた意味を持つ話をされたのです。ソロモンの知恵は、隠れた意味を明らかにするものでした。また、歌は――神を礼拝して崇める手段です。使徒が主イエスについて何と述べているか覚えておられるでしょう。「この方の内に……隠されています」(コロサイ二・三)。主イエスが私たちにたとえによって語られたことは、たんなる草木や自然についてではありません。彼は言われました、「あなたたちには、王国の奥義を知ることが許されています」(マタイ十三・十一)。主イエスにより、神の奥義が聖霊によって明らかにされます。それにより、被造物は自らの定めを理解するようになります。神の永遠の御旨を理解する道は主の秘密を見いだす道であることが、おわかりになるでしょうか?例えば、包括的なものである教会について取り上げましょう。「奥義」という言葉は教会と関係しています(エペソ三・三他)。教会は神の奥義、秘密です。この世が造られる前に、神は教会を御心に思い描いて、教会の永遠の使命を計画されました。その使命とは、代々の時代にわたって、教会が高貴な目的をもって神に仕えることです。これは深遠な神の秘密です。ではどのようにして、あなたや私は自分の運命を神の永遠の選びと召命にしたがって理解すればいいのでしょう?聖霊が私たちに神の秘密を啓示する以外にありません。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を愛する者たちのために用意してくださいました。神はそれを私たちに御霊によって啓示してくださったのです」(一コリント二・九、十)。私が述べているのは、聖書を読んで、その字面を額面どおりに受け入れるだけでは不十分である、ということです。聖霊が神の隠れた意義を私たちに明らかにしてくださらなければなりません。なぜなら、神の隠れた意義はキリストの内に集約されているからです。キリストは神の知恵、神聖な知識の豊満、化身です。この化身によって、私たちはこの偉大な定めと御旨を理解するようになります。この定めと御旨のために、私たちはキリストにあって選ばれました。しかし、キリストのうちに何があるのかを私たちの心に明らかに示す聖霊の働きが必要です。御霊が何かをキリストにあって私たちに示されるのは、この道に沿って、またこのような方法によってでなければなりません。その時、「このようなものは見たことがありません!」と私たちは言うでしょう。それは啓示の力をもって臨み、その時から私たちを一変させて、大変化を生じさせます。これは聖書の一節を読む以上のことです。あなたはある節を数千回読んで、それを心で知っているかもしれません。しかし、御霊が語って、この馴染み深いものを照らされる時、その結果、あなたは新たな所に導かれるのです。

しかし、覚えておいてください。こうしたことはみな、実際のものにならなければなりません。シバの女王はソロモンの知恵を聞きました。また、主イエスは、「シバの女王はソロモンの知恵を聞くために来た」と言われました。御言葉がそう述べているのは承知していますが、御言葉はまた、「彼女はソロモンの知恵を見た」とも述べています。「シバの女王はソロモンのもろもろの知恵と、ソロモンが建てた宮殿、その食卓の食物と、列座の家来たちと、その侍臣たちの伺候ぶり、彼らの服装と、彼の給仕たち、および彼が主の宮でささげる燔祭を見た……」(列王記上十・四、五)。これは聞くべき知恵であっただけでなく、見るべき知恵でもありました。キリストの偉大さは耳を傾けるべきものであるだけではありません。それはキリストを取り囲む者たちの間に見られるべきものであり、現されるべきものです。教会は、あなたたちを暗闇から驚くべき光に招き入れてくださった方の卓越性を示すべきものです(一ペテロ二・九)。教会はこの知恵を示すべきものであり、この富を見えるようにするべきものです。すでに述べたように、キリストにあって得ている満足を私たちは示す必要があります。また、次のことにも注意しましょう。神の御思いを私たちが理解する時、それは私たちの理解の範疇のみにとどまりません。私たちはこれまでキリストの偉大さについて述べてきましたが、実際のところ、あなたはその意義を理解したわけではなく、「キリストは自分が思っていたよりも遥かに偉大です」という印象を持っただけかもしれません。たとえそうだったとしても、最初はそれで十分です。しかし、それ以上のものを求めてください。それがあなたの人生で内なる現実となり、効力を表すものとなるよう、求めてください。「ああ、何というキリストを私は持っているのでしょう!」。